153本の聖ヨゼフの百合
(C)箱舟の聖母社




【 献 辞 】

この本をリトル・ペブルさんに献呈します。




【 序 文 】

 この本は、天からの奇跡の助けを受けて書きましたので、リトル・ペブルさんに識別をお願いしました。2003年4月11日にリトル・ペブルさんはこの本に承認と祝福を与えてくださいました。この本をあなたに読ませる天使は聖アレンドゥスです。

 聖シャーベル修道会とその共同体と共同体生活を正しく理解する日本人はいまだに一人もいません。また日本での、リトル・ペブルさんと一致したマリア様のこのミッションの20年間の歴史の中で、このミッションと神秘的教会について正しく理解した日本人はただの一人も出てきませんでした。それで、聖シャーベル修道会とその共同体と共同体生活、このミッション、神秘的教会を理解するための教科書を書きました。それがこの「153本の聖ヨゼフの百合」です。キリスト教を何も知らない人もこれを読んで会則会憲を読めば、これらを正しく理解できます。私の経験上、これを読まないかぎり誰一人、日本人はこれらのことを理解できないとあえて言います。なぜ私がこう断言するかは、読んでいくうちに必ずわかります。

 1995年5月13日のメッセージで、リトル・ペブルさんによって聖ヨゼフのいと清き御心の信心が世界にうちたてられ、それによって偉大な恵みが注がれるようになることと、聖ヨゼフのいと清き御心に信心業をするのではなく、まことの信心を持つ人に対する聖ヨゼフの約束は、煉獄に行くことなく、天国にまっすぐ行けることであることが啓示されました。聖ヨゼフのいと清き御心にまことの信心を持つとは、あなたが聖ヨゼフの霊性と聖徳と内的生活にならうことと、このミッションであらわされる天の御旨に、聖ヨゼフの行ないの最大の特徴である「すみやかに従う」という行いにならって、あなたも「すみやかに従う」ことです。「153本の聖ヨゼフの百合」は、あなたに聖ヨゼフのいと清き御心に対する「まことの信心」を教える唯一の本です。さらにこの本は、天がすべての人に今与えておられる共同体への召命に応える人の霊的養成のための教科書でもあります。

 本の最後には、このミッションに選ばれた皆さんが落ちないための秘訣を書きました。落ちないことは最低限の必要です。落ちずに、しかもリトル・ペブルさんへの完全な忠実と正しい従順によって、彼を通しての天からの恵みのラインの中央にとどまっている日本人は、今、一人もいません。これが可能になるための秘訣でもあります。

 この本は、既にリトル・ペブルさんを支持している人にも、修徳を一からやり直さなければならないことを教え、新たに真理を受け入れる人には、最初から正しいレールの上に乗って進むように導きます。そのためには、あなたの方から謙遜にへりくだり、かたくなさを捨て、学ぼうという心構えを持ってお読みください。





【 第1章 】

 あなたが自分をかえりみれば、マリア様とのギャップが大きいことがわかるでしょう。だったら、原罪の汚れの中から、諸徳の百合を咲き誇らせた聖ヨゼフのいと清き御心に、そのギャップを埋めるためのヒント・答えがありますから、その御心を見つめてごらんなさい。

 聖ヨゼフは、イエズスが十字架によって、人類を贖って下さる以前に生きました。贖い以前の人類は、原罪の汚れによって、贖いの後の人類よりもずっと悪に傾いていました。にもかかわらず聖ヨゼフは、どの時代のどんな聖人よりも高い聖徳に達しました。なぜでしょう?

 イエズスが聖ヨゼフに、マリア様の胎内から最初になさったことは、聖ヨゼフの「希望の徳」を強めたことです。律法の時代の正しい人であった聖ヨゼフの全ての徳は、この「希望の徳」の土台の上に新たに成長し、完成されたのです。

 この「希望の徳」に反することとは、神様の全き善さを疑うことです。ヘビに化けたルシフェルが、清くて強いものであったエヴァを倒すのに、最初に用いた武器が「悪魔的悲観主義」でした。エヴァは、神様が最高最善のものを下さっていないとルシフェルにふきこまれ、神様の全き善さを疑いました。

 今に至るまでサタンは、この「悪魔的悲観主義」を最強の武器として用いて霊魂を滅ぼし、地獄に連れていっています。「神様は私を助けてくれないのではないか」という考えは、最期の時には「神様は私を救ってくれないに決まっている」という絶望にまで至り、自ら神のあわれみを拒否することをさせているのです。地獄に落ちる人は全員例外なく、神様の全き善さを否定する「誤断」という罪を最後に犯し、「悪魔的悲観主義」にこりかたまり、神様を永遠に逆恨みするのです。

 聖ヨゼフは希望の徳を強められるというイエズスからの恵みを受け入れ、マリア様からも導かれ、自分自身もそれらに全力で協力することで、まずこの「悪魔的悲観主義」を自分の霊魂から追い出しました。これを完全に追い出すことにより、超楽観主義者になりました。それから、この超楽観主義をすべての徳の土台として徳の修練をつみ、成功し、完徳の極みにまで至ったのです。



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【 第2章 】

 聖ヨゼフと同じ道を通って偉大な聖人になったのは、幼きイエズスの聖テレジアという、わずか24才で亡くなった乙女・教会博士です。彼女は学者ではありません。しかし誰も気がつかなかった完徳への秘訣を、身をもって世界に提示しました。その秘訣が、聖ヨゼフと同様に、希望の徳を強めてそれをすべての徳の土台とすることでした。1886年のクリスマスイブの夜、イエズスは瞬時に彼女の希望の徳を強め、悪魔的悲観主義から解放しました。彼女自身、次のように書いています。「あの祝福された夜から、どんな戦いにおいても倒れたことなく、むしろ勝利に勝利を重ねて、巨人のように走り続けました」(1)と。

 希望の徳を強められて以後の聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアはそっくりです。霊魂は大胆になり、何ものにも動じず、恐れることがまったくなくなりました。「愛には恐れがない」(2) これは使徒聖ヨハネの言葉ですが、愛と恐れは共存しません。マリア・ワルトルタに与えられた啓示の中で、聖ヨゼフは「私たちはすべてを失っても、イエズスを持っているから、いつもすべてを持っている」(3) また、「私にイエズスが残るならば、すべてが残る」(4)と言います。イエズスとマリアが全てで唯一の愛である聖ヨゼフの、最高度の愛に生きた生涯を、幼きイエズスの聖テレジアもそっくりに生きました。

 また、聖ヨゼフは信頼の人です。幼きイエズスの聖テレジアも信頼の人です。希望の徳を強められた二人は超楽観主義者になり、恐れることなく人を信じ、恐れることなく、徹底的に神の全き善さを信じました。あなたが「信頼」という言葉について考える時、信頼の土台は希望の徳であることを理解し、忘れないことが肝要です。

(1)「ある人生のものがたり」聖母の騎士社 G・ゴッシェ P102
(2)ヨハネ前 4・18
(3)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P334
(4)  同本 P334



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【 第3章 】

 神を信じている多くの人が、自分以外の人に対して、神様が奇跡をもって助けを与えてくださった話を聞いたことがあるので、他人には「神様がきっと助けて下さるから信じなさい」と勧めます。ところが自分が苦境に陥ると、神様がきっと助けて下さると信じることができず、苦悩します。また神は全知・全能で、しかも全善、つまり全てをご存知で、どんなことでもおできになり、全く善いお方であるという信仰の知識を持っている人のほとんどの人が、神様が自分に絶え間なく各瞬間ごとに最も善いものを、また出来事を奇跡をもってでも与えて下さっており、これからも与えて下さるとはちっとも信じてはいません。これらの事実は、キリスト教信者にからし種ひとつぶほどのわずかな信仰さえないことを証明しています。

 信仰が知識だけのものではなく、本物になり、信頼を生むには、希望の徳が必要なのです。さらに、信頼しない人は愛してもいない人なのです。これは神に対しても、人に対しても同様です。愛するどころか、むしろ侮辱しているのです。誰かがあなたに「あなたを愛します。でもあなたを信頼しません」と言ったなら、あなたは「それは本当の愛ではありません」と言い返すはずです。信頼してくれないならあなたの心は傷つくでしょう? 愛は人を傷つけるものではないことは誰にでもわかる道理です。たしかにそれは本当の愛ではなく、侮辱にちがいありません。愛が言葉だけのものではなく、本物になり、信頼をともなうには、希望の徳によって恐れることなく人を信じるようになることが必要です。つまり、愛を本物にするためにも、信仰を本物にするためにも希望の徳を強めなければなりません。そして強められた希望の徳によって本物になった愛と信仰によって、人は信頼の人、聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアのような信頼の人となるのです。



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【 第4章 】

 聖ヨゼフは、イエズスがお生まれになる夜、これ以上ないほどの最悪の状況の中で、「明日はもっとうまくいくでしょう」(1)と言いました。これは、イエズスからの恵みとマリア様の導きで希望の徳を急速に強められ、とうとう悪魔的悲観主義をすべて追い払いきった聖ヨゼフの「超楽観主義者」としての誕生の瞬間です。幼きイエズスの聖テレジアが瞬時に希望の徳を強められ、「超楽観主義者」に生まれ変わったのもクリスマスイブの夜だったのは、2人の霊性が等しいことを象徴するような不思議な符合ですね。聖ヨゼフの聖徳、及び霊性と幼きイエズスの聖テレジアの聖徳、および霊性はまったく一致しています。同一の聖徳、同一の霊性なのです。

 皆さんのうちに、幼きイエズスの聖テレジアにひかれ、その霊性を身につけたいと、以前から思っている人がいるかもしれません。けれどもそれが日本人には、まずできないのです。それも当然です。彼女の霊性の土台は希望の徳による超楽観主義なのに、皆さん日本人の共通の欠点は、悪魔的悲観主義が多分世界一根深く、恐れにとらわれやすいことなのですから。

 明治以後、日本に来た宣教師たちも、邦人司祭たちも、この重大な日本人の欠点を見抜くことができませんでした。だから、それを指摘して、ため直させることができませんでした。希望の徳による超楽観主義の土台なくして「信頼の道」と呼ばれる幼きイエズスの聖テレジアの霊性を獲得することは絶対不可能なのですから、特に日本人の皆さんは彼女と聖ヨゼフの霊性と聖徳に習うためには、この欠点を克服する努力が必要です。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P193

【 第5章 】

 日本人である皆さんは、特に、人を信じません。「人を見れば泥棒と思え」という言葉の通り、猜疑心に満ちています。それは恐れからくるもので、相手が自分に損害を与えるのではないか、迷惑をこうむるのではないかという考えを持っているのです。

 また、皆さんは、同様に神の全き善さを信じません。「さわらぬ神にたたりなし」という言葉があることに、それがよく表れています。「神様が与えてくださるあらゆる瞬間のすべての出来事は、私の益となる最高のもの、最善のものである」という真理をだれも信じていません。一日に数回、月に数回、またはたまに助けて下さる神というのが、日本のキリスト教信者のイメージしている神であり、また、何らかの信仰を神仏に対して持っている日本人の信仰の実態です。これでは信じているというより、信じていないのです。疑っているのです。

 もしあなたが謂われも無く誰かに疑われたなら、どういう気持ちになりますか? あなたはそれを、侮辱と感じるはずです。人を信じないということは相手を侮辱することです。日本人は皆、悪魔的悲観主義に非常に毒されています。無意識のうちに互いに疑いあうことで、互いに侮辱しあっています。侮辱しあいながらでは、愛しあうことはできません。一致することもできません。

 夫婦の間の関係を例にとって考えたならよく分かるでしょう。「お前を信じないよ」と言われるか、言わないにしても、そういう本心を見せられることがあったなら、心の一致は不可能になりますよね。それは大変な侮辱なので、一緒に暮らすことが耐えがたくなってしまうはずです。そんな夫婦は何と不幸なことでしょう。

 あなた自身も超楽観主義者にならないかぎり、人を疑い、相手を侮辱し続けます。人に損害を与えられる恐れ、信じれば裏切られるという恐れにとらわれているからです。そして、そういう人はまた、神に対しても全く同じことをしてしまいます。今まで見てきたように、希望の徳による超楽観主義は、愛と信仰の土台でもあるため、すべての徳の土台なのです。聖ヨゼフや幼きイエズスの聖テレジアのように、ここから始めない限り、徳を築きあげようと努力しても、砂の上に建てた家のように、大水や、大風や、地震で、つまり試練にあうと、あなたが築いたと思っている徳の建物は、いとも簡単に崩れ去ってしまいます。反対に、ここから始める人は、固い岩盤を土台として家を建てる人であり、どんな試練にも耐え抜く建物を作ることができます。



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【 第6章 】

 それでは、すべての徳の土台となる「希望の徳による超楽観主義」者になるための修練の方法を説明しましょう。以下に書くことは、全くの真理です。受け入れ、心から信じてください。

「神様は全き善でいらっしゃいます。そのうえ、全知・全能なのです。あなたに各瞬間起こることのすべてを、あなたの聖化と救霊のためになるように、完全にコントロールしてくださっています。あなたには各瞬間、最高、最善のものが与えられています。神様は、何一つあなたの損害になるようなことが起こるのをお許しになりません。それほどに神様は全く善いお方なのです」

 この真理を受け入れることから修練は始まります。悪魔的悲観主義の本質は、この神様の全き善さを疑わせることなのです。悪いことが起こるのではないか?と思ったら、直ちに心の中で「悪いことはひとつも起こるはずがありません」と何度も唱えてください。いつも、ひんぱんに「すべてうまくいってます」と心の中で繰り返してください。特に、出来事や、回りの人に不満を感じるときには、必ずそうしてください。不安な気持ちが起こるなら「すべてうまくいきます」と心の中で繰り返してください。こうしてあらゆる思い煩いと不安、身勝手な望みと計画を、イエズスとマリア様の御心に投げ入れて、そこから脱却してください。捨て去ってください。この3つの言葉は、マリア様と聖ヨゼフの口からたびたび出た素晴らしい言葉です。これらの言葉を用いるならば、悪魔的悲観主義の毒を消してゆくことができ、同時に希望の徳が強められ、神様の全き善さを心から信頼する超楽観主義者になることができます。皆さんはすべて、ここから始めなければなりません。自分が、もうかなり徳に進歩していると思い込んでいる人も皆、ここからやり直さなければなりません。日本人である皆さんは、ここから始めない限り、本物の徳は身につかないのですから。



部分.2 自然徳の土台 ?= 動物徳




【 第7章 】

 全ての徳は心に平和を生み、心の平和は人々の間に一致を生みます。まことの徳、つまり徳が本物であれば、「一致」という実が必ずもたらされます。時の終わりにおける、リトル・ペブルさんを中心としたこのマリア様のミッションでは、一致が大変に重要で、特に強調され求められています。ですから徳を、一致という観点から見ていきましょう。

 イエズスは、猿の群れの中にすらある一致が、今の人々の間にはないと嘆いていらっしゃいます。これはマリア様を愛する人々の中でも、残念ながら現実であり、本当に嘆かわしいことです。マリア様が20年以上にわたり、繰り返し「愛しあい、一致するように」とおっしゃってきたのに、いまだにこのミッションに参加している日本人は、それが全くできないでいます。このことは、悪魔的悲観主義を捨てる努力には手をつけずに、徳の家を心に建てようとする日本人の、修徳の方法の誤りの明らかな証拠です。

 例として、下北半島の日本猿の群れを取り上げてみましょう。厳寒、強風、乏しい食料という過酷な環境の中で、彼らがいかに助け合い、互いを思いやっていることか! 彼らは自然も、敵も、明日をも恐れずに生きています。群れの仲間を信じています。仲間に心を閉ざしたり、反感を抱いたりは決してしません。これらの点が、確かにイエズスが嘆かれる通り、猿たちの方が優れていますので、それらを動物徳と呼ぶことにします。人間としての自然徳を身につけるための土台がここに、この動物徳にあります。もちろんそれも、人間の場合、すべての徳の土台である「超楽観主義者であること」を土台としています。実は、キリスト教の信仰によって修める超自然徳を身につけるには、まず自然徳を絶対に身につけなければなりません。その自然徳を身につけるには、人間としての自然徳の土台となる動物徳を身につけることが絶対に必要です。すなわち、あなたは、あの猿たちすらやっているように、何者をも、何事をも恐れてはいけません。人を信じなくてはいけません。まわりの人に心をいつも開いていなければなりません。決してだれに対しても反感を抱いてはいけません。動物徳をどうやって獲得するかを説明しましょう。
部分.3 自然徳


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【 第8章 】

 あなたが「超楽観主義者」になりたいならば、神の全き善さのおかげで「すべてうまくいっていること」、「今後もすべてうまくいくこと」、「悪いことは何ひとつ起こらないこと」を、真理として受け入れますね。ということは、起こることは、あなたにとってすべてよいことなのですから、もう誰も、何をも恐れてはいけません。恐れるなら、まだ、神の全き善さを疑っていることになります。

 人を、そして人がもたらすものを恐れるとは、例えば、相手が悪い人かも……、敵かも……、いやな人間かも……、損害や迷惑をかける人かも……、相手にだまされるかも……、裏切られるかも……、傷つけられるかも……、利用されるかも……、悪口を言われるかも……、笑いものにされるかも……、軽蔑されるかも……、などなど、という恐れです。この恐れのせいで、特に日本人である皆さんは、人を信じることができないし、心を開くことができないし、すぐに、しかも、しょっちゅう人に反感を抱くのです。しかし、超楽観主義者になるべきあなたは、人を信じようという意志でもって、人を疑おうという今までの意志を追い出してください。今までのあなたの行動が人に対して閉鎖的なので、あなたは、あなたの内面に持っているものを人に見せることも、与えることもしていません。あなたは心を開くという行為をし、あなたがいつも人に心を開いている状態になるまで、それを行い続けてください。あなたの感覚が、人に対する反感をほんの少しでも抱くなら、直ちにその不必要ないわれのない反感を自分で否定し、自分の感覚性を抑えるようにその都度戦ってください。誰に対しても反感を抱かなくなるまで戦い続けてください。こうしてあなたは理性、意志、行為、感覚を同時に変化させてゆきます。これが全人格的な変化となるのです。動物徳においても、徳は繰り返し実践し、習慣になるまで続けることで定着するのです。

 ところで、マリア様が望んでおられる「一致」の基礎になっているものは、実は自然徳のレベルの徳で、それは、友情と話し合いと公平な愛の3つです。自然徳の土台である動物徳の「人を信じる」、「人に心を開いている」、「人に反感を決して抱かない」という3つは、この順でそれぞれ「友情」、「話し合い」、「公平な愛」に直結していくのです。それを説明しましょう。





【 第9章 】

「いつまでも絶えることなく、友達でいよう」という歌詞で始まる歌を知っていますか? 2番は「信じあう喜びを、大切にしよう」という歌詞です。旧約聖書なら、ダビデとヨナタン(ジョナサン)の固く信じあった友情が有名です。日本人には「走れメロス」という小説がよく知られていますね。この小説が描くのも、メロスと彼の親友とが固く信じあった姿です。マリア様の望んでおられる一致の基礎としての友情は、気が合うとか、共通点が多いとか、趣味が同じとか、互いにひかれるとか、そういったことに立脚したものとはまったく違います。それは信じあうことに立脚します。ですから信じようという意志が、友情という自然徳の第一歩なのです。

 また、マリア様の望んでおられる一致の基礎としての「話し合い」は、表面的なものではありません。相手に自分の真の姿、本心、正直な考えを見せ、伝えること、いわば自分自身を与える行為としての話し合いです。あなたの心が閉じているなら、これは不可能です。あなたが心を開くという行為をすることが、本当の話し合いができるという自然徳の第一歩です。

 そしてまた、マリア様の望んでおられる一致の基礎としての「公平な愛」は、博愛主義のような思想的なものに立脚するのではありません。あなたが感覚による判断に支配されないように、自分の感覚性を抑制する、内面での努力に立脚します。誰かを敵視したり、嫌悪感を持ったり、危険視したりさせる自分の感覚性を抑制し、誰に対しても反感を抱かないようになることが、公平な愛という自然徳の第一歩です。

 これらに第一歩という言葉を使うのは、これらがなければ始まらないことを示すとともに、一足飛びでは目的の自然徳は身につかないことを示しています。なぜならあなたのうちには友情、話し合い、公平な愛を身につけることを妨げてしまう多くの悪徳が存在しているからです。次に、それを説明しましょう。



【 第10章 】

 今から列挙する悪徳の数々は、多い少ないは別として、だれもが持っているものです。ですからみなさんは、思い当たることがあるはずですし、もし思いあたらないなら、傲慢による盲目のせいで、自分自身の本当の姿がまだ見えていないに違いありません。

友情という自然徳を身につけるのを妨げる悪徳の主なもの。
■功利主義
 これは自分の利益や個人的善のために、他人を利用する主義です。愛とは正反対です。他人の利益や善のために自分を用いるのが愛ですから。

■自己愛
 自分だけを愛する人は、隣人を愛することも、神を愛することもできません。たとえ自分を愛したとしても、せめてそれ以上に隣人を愛し、神を愛すべきです。

■ゆきすぎた独立独歩
 自分だけで何でもできる。人の助けなどいらないと考える傲慢さです。本当に、今まで何でも、自分だけでやってきましたか? 人に助けられたことがないのですか? 友の存在は不必要だというのですね。

■告げ口
 たったひとつの告げ口でも、友情をこっぱみじんに破壊してしまいます。告げ口は策略家や、ずるい人間が多用する手段ですし、それ自体が罪です。また、恐怖の相互監視システムの社会や共同体も、告げ口を基礎として成り立っています。

■不誠実
 不誠実な友、それはもう友ではありません。不誠実は正直さのなさによるものです。また約束を平気で破る人は、信用したくても信用できません。


■うらおもて
 本音と建て前といえばよく聞こえますが、口で話すことと考えていることがまったく違うのは恥ずべき事で、悪徳のひとつです。聖人たちの中には、このような人はひとりもいません。

■ふたごころ、二枚舌
 ある人にはこう言い、別の人にはああ言う。コウモリの物語りを知っていますね。これは罪です。コウモリは、すべての友を失ったではありませんか。



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【 第11章 】

 話し合い(本当の話し合いができる)という自然徳を身につけるのを妨げる悪徳の主なものを、次に列挙します。

■隠れた傲慢
 謙遜な人と見られたいので意見を言わないあなたは、ほんとうは人を欺き、自分を飾り立てる傲慢・虚栄を隠し持っています。

■無責任
 「命令してください。従います」と言い、話し合いに乗ってこないあなたは、実は無責任な人間です。その言葉の続きは「失敗したら、あなたの責任です。私は従っただけなのですから責任はありません」です。

■うぬぼれ
 自分はいつも正しいと考えている人は、話し合いができません。討論では、自分の意見や考えを批判され、否定されるのは普通です。自分のうぬぼれを、打ち砕かれたくない人は、本当の話し合いをすることを避けます。

■けち
 皆のために良い、益になることを、自分だけにとっておきたい人は、良い意見を隠して言いません。ただで与えるのが惜しいのです。なんと情けない行ないなのでしょう!

■憶病
 話し合いの時に意見を述べずにいて、陰でこそこそ自分の意見を言う人は、堂々と生き、行ない、話すことを知らない、またはできない臆病者です。話し合いの時に堂々と、相手が目上であっても、強い立場の人でも恐れずに意見を述べることができないのは、仕返しを恐れるからなのでしょうか?

■卑怯(ひきょう)
 話し合いの場、つまり相手が弁明できる場で、批判すべきことがあれば、指摘してよいのです。相手に弁明の機会を与えない場、つまり当人がいないところで批判的なことを言う人は、全くの卑怯者です。その場にいない人の話しをしてはいけません。



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【 第12章 】

 公平な愛という自然徳を身につけるのを妨げる悪徳の主なものを、次に列挙します。

■感覚性
 皆さんは、これを意外に思うはずです。しかし実際に、自分の感覚性を野放しにしている人ほど、皆の間にあるべき平和をぶち壊し、一致を妨げています。何でもない意味のないことを侮辱と受けとったり、そういう人はしょっちゅう勝手に誤解し、気分を害し、腹を立て、不和をまき散らします。さらに悪いことには、この自分の感覚性を良いものと思いこんでいます。感性の豊かさ?とか芸術的センス?とか、第6感が働く(よく当たる)?とか、自分の直感に非常にうぬぼれています。

■差別
 ひとつの例として、肌の色が白いほど高尚な人に見え、黒いほど野蛮で不潔な人に見えるのでしょうね。外国にいると悲しい体験をしばしばします。ただ、違いがあるというだけなのに……。差別は公平さも、愛も破壊します。しかし人間は、その違いを乗り越えて愛そうとはしないものです。

■偏見
 一度も会ったことがない人について、誰かに「彼が悪い人だ」と吹き込まれたら、それが固定観念となってしまい、初対面のときから相手を悪い人とみなすに違いありません。人間は偏見を持ちやすく、他人にも持たせやすいのです。その両方ともが罪です。

■えこひいき
 愛におけるランク付けです。何らかの見返りが期待できる相手や身内には、特上の愛、そうでない人には並の愛、やっかいな人は無視。そういう人が上司や先生、または親だったら、職場、学級の仲間たちや、兄弟たちは一致していられるでしょうか? 賢明で分別のある人だったら、細心の注意を払って、えこひいきを避けるよう努めるものです。

■日本人の縦社会の悪習
 これを何と名づけていいのかわかりませんが、ほとんどの日本人は、目上や、立場の強い人にはへいこらして、目下や立場の弱い人には横柄にふるまいます。これは、キリスト教の福音的平等という価値観によるふるまいとは正反対であり、実に醜い行動です。



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【 第13章 】

 友情、話しあい、公平な愛という、マリア様の望まれる一致の基礎となる自然徳を、あなたが身につけるのを妨げる悪徳、つまり、この三つの自然徳に対立する悪徳は、主なものだけですら、すぐにこれだけ挙げることができ、すべてを列挙すれば、大変な数になるに違いありません。徳とは、繰り返して実践することではじめて身につくものなので、時間をかけて、日々戦い続けることが必要ではありますが、聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアのように、あなたが、まず、神の全き善さを限りなく信頼する超楽観主義者になり、誰をも何をも恐れずに、人を信じ、心を開き、反感を決して抱かぬよう理性と意志と行為と感覚を変え、友情、話し合い、公平な愛の三つを重んじ、その獲得に力を注げば、この3つの徳は必ず強くなってゆきます。この3つの徳が強くなってゆくということは、実は反対に、列挙した悪徳が弱まってゆくことなのです。なぜならば、徳と、それを身につけるのを妨げる悪徳、つまり対立する悪徳とは、一方が強くなってゆけば、他方は弱くなってゆき、一方が弱くなってゆけば、他方が強くなってゆくという関係にあるからです。

 聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアが成功したのですから、二人のやり方で、あなたも「信頼の道」「幼な子の道」を通って完徳に至り、聖人になれないはずはありません。その可能性は誰にでも開かれていて、神様も全ての人を完徳に呼んでいらっしゃいます。呼びかけに応える人には必ずその助けを与えてくださいます。しかし、日本人でマリア様のミッションに参加している人の間では、最初から今に至るまで友情、話し合い、公平な愛という3つの徳は無視され、軽んぜられてきています。否定されているといってもよいでしょう。その結果、日本のミッション全体としては、まったく一致することができず、各個人のレベルでは、徳の道に進むことができずにいます。マリア様からのメッセージを長年にわたり大量に読みながらも、こういったありさまなのは、各自が土台として持っている「悪魔的悲観主義」に、まず治療のメスを入れなくてはならないことに気がついていないのが一番の理由です。二番目の理由は、一致の基礎である友情、話し合い、公平な愛という自然徳を強めようとは決してしてこなかったために、この三つの自然徳に対立する大変な数の諸悪徳が、先に説明した通り弱まることなく存在し続けているからです。

 各自は確かに、自分の目についた悪徳を、一つ一つ消してゆこうと努力はしているのですが、結果であるこの日本のミッションのありさまが証明するように、その方法では誰も成功できないのです。その方法と、聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの方法の二つには、決定的な違いがあります。それを今までとは別の観点から少し説明しましょう。
【 第14章 】

 一般に私たちは、人に対してや、出来事に対しての恐れをもっています。しかし、この他に、もっと根元的な恐れをもっています。それは罰せられることに対しての恐れ、つまりキリスト教的に言うと、神の正義に対しての恐怖です。

 私たちは、自分自身の悪さ、弱さ、不完全さを意識すると、それらが自分の上に、神の罰を招くのではないかという恐れを、無意識のうちに持ってしまいます。自分の目についた自分自身の悪徳をしらみつぶしにひとつひとつなくしてゆこうとする、そういう方法をとる人の心の底には、意識できなくても、ほとんどの場合、神に罰せられるのではないかという恐れが巣くっていて、良い人間にならなければ神に愛してはもらえないという考え方をしています。良い子にならないと親に愛してはもらえないのではないかという恐れを多くの子供たちが持っていますが、それと共通の心理です。そういう子供たちが、良い子を演じ続ける過度のプレッシャーにさらされて、親と安らかにくつろぐことができない、つまり本当の愛着と信頼が親との間に決して育たないのと似たことが、神様と、こういった霊魂たちとの間に起こっています。

 しかし、聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの場合はまったく逆です。この二人にとっては、自分自身の弱さ、悪さ、不完全さは何の恐れも生じさせないばかりか、逆に、ますます勇気を与えるものでした。二人にとって神とは、弱く、悪く、不完全であればあるほど厳しく罰するお方ではなく、弱く、悪く、不完全であればあるほど優しく身をかがめ、あわれみと恵みで満たして下さるお方だからです。神の、この真の認識が、自分自身が弱く、悪く、不完全なものだという認識と常に共存しているのが二人の特徴で、自分自身が弱く、悪く、不完全だという認識は持てても、二人のような神のまことの認識が伴わないのが、ほとんどの日本人の特徴です。ここが決定的に違うのです。希望の徳による超楽観主義者は、神の全き善さを決して疑わないと説明してきましたが、これはとりもなおなおさず、あわれみ深いものである神のまことの認識を持っているということなのです。

 日本人の選んでいる方法は、「神の前の自分の弱さ、悪さ、不完全さを恐れる」方法で、いつまでもそのままの自分に絶望してやめてしまうか、ファリサイ人のように自分を完全視し、安心を得るかわりに傲慢になるかのどちらかが結果として待っています。聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの方法は、「神の前の自分の弱さ、悪さ、不完全さを好む」やり方で、日本人の方法とはここが決定的に違います。自分の至らなさを思い知るのが喜びとなっているのですから、大胆に、地獄の底までへりくだることをいといません。この徹底的にへりくだって自分を認識することが、真の痛悔へとつながります。日本人の方法では、真の痛悔に至ることができず、自分の弱さ、悪さ、不完全さの認識は、表面的なままにとどまります。このことが自然徳から超自然徳への移行に重大にかかわってくることを説明しましょう。



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【 第15章 】

 原罪の汚れの中から、諸徳の百合を咲き誇らせた聖ヨゼフのいと清き御心から、完徳に至るためのヒントを得つつ、自然徳のレベルまでを見てきました。超自然徳を身につける修練は、この自然徳を身につけたことを土台として始めることができます。

 では自然徳の域を出て、超自然徳を身につけるためには、何が加わるべきなのでしょうか。それは「痛悔」です。自分が神殺しの下手人にすぎないこと、恩人である神様に対して反逆者、裏切り者、恩知らず、冷血漢であること、すなわち、自分が悪党であることを自覚し、愛ゆえの心の痛みを持つことです。

 すべての徳の土台である「超楽観主義者であること」を目指した人は、あわれみ深く、まったく善いお方である神の、まことの認識を深めに深めてゆきます。そして獲得した神の全き善さの認識と、恐れなく大胆にへりくだった内省による、自分自身のひどい悪さの認識を、同時にあわせ持つことによって、超自然徳は、はじめて身につけることが可能になります。どちらが欠けてもダメなのです。自分自身の謙遜な認識が欠けていれば、傲慢と僭越(せんえつ)に陥ります。神の全き善さと、あわれみの認識が欠けていれば、恐怖と絶望の内に混乱してしまいます。

 聖ヨゼフの、そして幼きイエズスの聖テレジアの霊性において、この点は非常に重要なポイントなので、どうか忘れないでいてください。



部分.4 超自然徳の土台 = 痛悔


【 第16章 】

 超自然徳に話を進める前に、ここでもう一度、聖ヨゼフの霊性の全体像を眺めてみましょう。

 マリア・ワルトルタに与えられた啓示によると、聖ヨゼフが地上でのご生涯を終わろうとしておられるとき、死につつある養父・聖ヨゼフに、イエズスはおっしゃっています。「あなたは、主に希望したので、父よ、神はあなたを解放し、保護してくださる」(1)と。そうです。聖ヨゼフは主である神に対する希望の徳から始めました! このとき、イエズスが聖ヨゼフを力づけるためにお唱えになり、聖ヨゼフにお聞かせになった詩篇は次の通りです。
「彼は私を狩人の罠から、悪意ある言葉から解放した」(a)
「主はご自分の羽根であなたを覆い、その翼の下にあなたは逃れる」(b)
「主のまことはあなたを楯のように取り囲み、あなたは夜の恐怖を感じない」(c)
「あなたに悪は近寄らない……あなたのすべての道にあなたを守るようにご自分の使いたちに命じられたから」(d)
「彼らは掌であなたを運び、足が石につまずかぬように支える」(e)
「あなたは獅子とマムシを踏んで歩き、若獅子と竜を踏みにじる」(f)(2)

 これらの詩篇のセンテンスは、聖ヨゼフの完徳への道程の描写のように聞こえます。
(a)は、悪魔の罠、そのささやきである「悪魔的悲観主義」からの解放。
(b)は、神の全き善さへの信頼。
(c)は、誰をも、何をも恐れなくなったこと。
(d)、(e)は、「悪いことは何ひとつ起きない」「すべてうまくいっている」「すべてうまくゆく」という「超楽観主義者」になったこと。
(f)は、霊魂が大胆になり、何ものにも動じず、恐れることが全くなくなり、完徳への道程を、勝利に勝利を重ねて、巨人のように走り続けたこと。

 これらの符合が偶然であっても構いません。聖ヨゼフの霊性の要点を皆さんが思い出し、心に刻みつける助けになるようにと、おさらいのために取り上げました。

(1)(2)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P318



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【 第17章 】

 超自然徳の説明を、マリア様が望んでおられる「一致」という観点からしていきましょう。

 超自然徳の土台である「痛悔」は、自分が悪党であることを自覚させます。すなわち、自分が神殺しの下手人、反逆者、裏切り者、恩知らず、冷血漢であり、大いなる罪人だと認めさせます。このことは、同じ罪人たちへの思いやりを、その心と霊魂に生じさせます。これは、その人の愛を「自然的な愛」から「超自然的な愛」へと変化させます。つまり、許しの愛、あらゆる霊魂への愛、自分の敵、および神の敵への愛へと変化させます。この愛は特に聖ヨゼフのいと清き御心においては二重に豊かに満ち満ちています。まず、贖い主イエズスと、彼とともに贖う者であるマリア様の御心と完全に一致した聖ヨゼフのいと清き御心は、お二人のみ心に燃えさかっている罪人への愛熱の炎と同じ炎に燃えさかっています。それに加えて、贖いが成し遂げられる以前、贖いの後よりも原罪の結果が深刻だったときに、他のいかなる人も及ばない苦労をして戦い続け、あらゆる聖人の中で最も高いところにまで登った聖ヨゼフは、同じ罪人である私たちの「体験的理解者」だからです。ですから聖ヨゼフのいと清き御心の私たち罪人への愛は独特で、特別でもあり、聖化のために修徳の戦いを戦っている私たちへの聖ヨゼフの思いやりは、本当の父のように愛情にあふれるもの、そしてこまやかなものなのです。そして神から離れている人、敵である人に対してもそうなのです。聖ヨゼフと同じ聖徳、同じ霊性に生きた幼きイエズスの聖テレジアも、罪人との一致を強く意識し、自分を罪人の代表者として、神に取り次ぎの祈りと苦しみをささげる方でした。その罪人との一致という独特な霊性を、幼きイエズスの聖テレジアは「罪人の食卓からパンを食べる」という彼女しか使わない表現で言い表しています。これも、まことの痛悔によって得た、自分の罪深さの認識が、同じ罪人たちへの思いやりを生じ、許しの愛、あらゆる霊魂への愛、敵への愛へ彼女を押し進め、その超自然的な愛が愛するものとの、すなわち罪人との一致の感覚を持つに至るまでに完全になったのです。この聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの愛の発展が、私たちの超自然的徳のレベルでの進歩のモデルです。



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【 第18章 】

 聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの霊性にならって超自然徳を修練し、愛においても自然的愛から超自然的愛へと移行し、許しの愛、すべての霊魂への愛、敵への愛を持つようになるならば、実際の行ないも、それに伴い一致に向かうものとなるはずです。すなわち、マリア様のミッションにおいては、恵みと使命を失ってしまったすべての人、裏切った人、離れた人、一致しようとしない人に、手を差し伸べ、帰ってくるように促し、帰ってきたならば喜んで受け入れます。これを完全に行なっているのがリトル・ペブルさんですし、彼の創立した聖シャーベル修道会は「一致」を実現させる、神から賜った特別な才能(カリスマ)を持っています。この行ないが、もしも伴わないとしたら、超自然徳の土台である「痛悔」によるへりくだりができていないのと、その土台がないので超自然的愛が身についていないことを、それは示しているのです。

 悲しいことに日本では、マリア様のミッションに参加している人たちは、誰かが一度でも倒れ、このミッションから離れたら、二度とその人を受け入れないという原則を持っています。これは驚くべきことです。聖福音でイエズスは何を教えてくださいましたか? 「7の70倍まで許しなさい」ではありませんか? 帰って来た放蕩息子を父親はあんなに喜んで迎えたではありませんか? 聖パウロは、もとは迫害の先頭に立っていた人ではありませんか? 最初の宣教旅行でくじけてしまったマルコを聖バルナバは見捨てず、福音記者聖マルコに育てあげたではありませんか? ローマ帝国の大迫害が中休みしたとき、迫害によって信仰を捨てた人を、再び受け入れるように主張した聖チプリアーノ司教は聖人になり、二度と受け入れないと主張した人々は異端者になったではないですか? 天草四郎は、一度は信仰を捨てた天草・島原のころびキリシタンたちを信仰に立ち返らせ、彼らを導き、天において偉大な殉教者の群れにしたではありませんか?

 一度、離れた人を二度と受け入れないという、異常な、これほどのあわれみの欠如を日本人が示し、それを世界の常識のように思い、何の疑問も持たないのは、他の国の人々にとっては全く理解できないことです。イエズスの教えに反し、マリア様の望んでおられる一致と逆行する、この行いと考え方を疑問にも思わないのは、彼らが修徳上、誤った方法で修練してきた結果に違いありません。



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【 第19章 】

 超自然徳のレベルで徳を身につけようと励んでいる人であっても、修徳上の欠陥があらわれ、それに自分で気がつくか、人に指摘されたなら、その部分だけを修正しようとしても、うまく行きはしません。やはり、すべての徳の土台である「希望の徳による超楽観主義者」になるところ、つまり基本にもう一度立ち返ってやり直さなければ、その問題は決して解決しません。

 ところで悪魔的悲観主義は、「すべてが神様の御手のうちにあり、私たちの善になるよう、出来事すべてはコントロールされている」という真理に反し、「何か悪いことが起こるに違いない」と考えさせ、恐れさせます。ですから悲観主義者はまた、臆病者でもあるのです。長崎の原子爆弾で放射能を浴びた人々が、外傷がなくても、その後次々に髪の毛が抜け、おう吐し、原爆症特有の症状を示し、死に始めました。この症状が伝染していくように見えたので、人々は自分に伝染するのが怖くなり、症状が出た父、母、子、兄弟という肉親を山に運んで行き、「置いて行かないで!」と願う声にも耳
部分.5 超自然徳





をかさず、置き去りにし、死なせてしまいました。原爆自体よりもむごいことでした。それをした人々は先祖代々のカトリック信者で、善い信者、信仰深い人々でした。このあわれみの欠如は、憶病からのものでした。このマリア様のミッションに参加している日本人が、一度離れた人を、戻ってきても二度と受け入れないのも、「伝染する」、つまり悪い影響を受けると考え、怖がっているからではないでしょうか。このあわれみの欠如も臆病からに思えます。そして、多分世界一悲観主義が根深く、恐れにとらわれやすい日本人は、皆が皆そうなので、これがイエズスやマリア様や聖人たちの教えや手本に反していることにさえ気がつかないのでしょう。

 こういう日本人ですから、たとえこのマリア様のミッションに長く参加している人でも、洗礼を受けて長い人でも、人生を長く生きてきた人でも、もう一度基本から、聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの霊性に沿って修徳をやり直すべきです。



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【 第20章 】

 超自然のレベルでの目標はなんでしょうか? それは「マリア様の御心との一致」です。私たちは聖ヨゼフがなさった方法で「マリア様の御心との一致」を目指します。それは聖ヨゼフが、家族という共同体の中で、また、親戚、村人、地域、社会、国という、より大きな共同体のいろいろな人々との交わりの中で徳を修練し、試され、絶えざる実践によって身につけていったようにです。徳は隣人とのかかわりを通して試され、練り鍛えられます。そして繰り返し、長期間実行し続けることによって、霊魂の習慣として定着します。

 マリア・ワルトルタに与えられた啓示の中で、次のような場面があります。聖ヨゼフの兄、アルフェオが、イエズスを学校へ入れるべきだと主張します。マリア様が反対し、聖ヨゼフも反対します。アルフェオが言います。「どうせマリアが決めたのだろう。そしてお前は……」 それを遮って聖ヨゼフが話します。「そうだったら悪いというのか。相愛している二人が同じ心、同じ望みを抱くのは良いことではないか。愛があれば、一人が望んだら、もう一人もそれに同意する。マリアが愚かなことを望んだら、私は"いや、それはだめだ"という。しかし彼女は知恵にあふれることばかり望んでいるので、私はそれに賛成し、私はそれを自分のものとする。私たちは最初の日と同じように相愛し、命ある限りそうするに違いない。そうでしょう、マリア!」(1)と。同じ啓示の本の中でイエズスも確認していらっしゃいます。「母は、彼のやさしい助言者であった。彼女はその深い謙遜のために浄配の婢と考えていたにしても、聖ヨゼフは聖寵に満ち溢れる彼女の知恵から、すべてを行うための光と指導とを汲んでいたのであった」(2)と。

 聖ヨゼフは十数年間、マリア様とともに生活し、いつも目の前にマリア様の手本があり、そして優しい助言があり、マリア様の御心を深く知ることができ、それに自分の心、望み、言葉と行いを一致させようと熱心に努め、実にマリア様の御心との一致を、ご生涯中に完成させることができたのです。原罪をもって生まれる人間の中で、ただ一人、完全にマリア様の御心との、心の一致を実現させた聖ヨゼフにこそ、私たちは超自然徳の修練を習い、同じ方法、同じ道をたどるべきなのです。なぜなら彼以上の先生はいないのですから。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P284
(2) 同本 P275



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【 第21章 】

 徳は絶えず繰り返し実践することと、試されることで、はじめて身につきます。実際的な徳の実践を、人々とのかかわりを通して……、つまり試されながら、特に「マリア様の御心との一致」を目標として、積み重ねてゆくのが聖ヨゼフの霊性なのですが、中でも特に重要な実践があります。マリア様を考えてみてください。

・ マリア様の「心」は、反感をいかなる人に対しても抱きません。
・ マリア様の「頭」は、批判をいかなる人についても考えません。
・ マリア様の「口」は、その場にいない人の話をしません。

 私たちの心と頭と口は、起きている間中、人に反感を抱き、批判し、陰口をしているのは驚くほどです。この点が私たちとマリア様の御心との最も大きな違いで、行為の頻度も、他の悪徳に比べて格段に多いのです。しかもこの三つは、自分が修徳の道をかなり進んでいると思い込んでいる人が、ファリサイ人的になるとき、逆に増える罪なので、ほうっておくと徳を身につけるどころか、傲慢と偽善の中に深く落ち込んでゆく結果になります。その上、この三つは、マリア様の望んでおられる一致を最も妨げる罪・悪徳です。





部分.6 完徳の土台



 ですから、特に重要な実践とは、

・ 「心」は、反感をいかなる人に対しても抱かない。
・ 「頭」は、批判をいかなる人についても考えない。
・ 「口」は、その場にない人の話をしない。

という修練をすることです。これを行うのは「マリア様の御心との一致」ですから、私たちに恵みをもたらし、超自然徳の建物のレンガを一つ一つ積むことです。逆にこれを行なわないのは、マリア様の御心との不一致であり、恵みの喪失です。レンガを崩し、建物を破壊することです。



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【 第22章 】

 皆さんが、多種多様な超自然徳のレンガを積んで行けるように、後でひとつひとつの徳を取り上げて行きますが、それらの徳は聖ヨゼフがご生涯の間中なさったように、共同体の中で、人々とのかかわりを通して修練することで最もよく身につきます。ですから共同体における徳という観点で説明してゆきます。今は、先に、聖ヨゼフの霊性にならって完徳を目指す方法の最後の部分である、「完徳のレベル」を説明し、このプログラムを一枚の設計図として完成させておきましょう。

 超自然徳のレベルでは「マリア様の御心との一致」を目標とすることを説明しましたが、完徳のレベルでは何を目標とするのでしょうか。このレベルでの目標は、やはり、マリア様の御心との、しかし「完全な」一致です。では「マリア様の御心との完全な一致」を目標とする完徳のレベルに移行するには、超自然徳のレベルに何を加えなければならないのでしょうか。

 それは「あらゆる苦しみを苦しみたいと望むこと」です。この望みが、完徳の土台です。そして完徳のレベルとは、まさに英雄性のレベルなのです。今は死ぬ人の90%が地獄に行っています。地獄に行った人は、地獄に永遠にとどまるのです。なんと悲惨なことでしょう。地獄行きの道を行きつつある人々のために、誰かが代わりに償ってあげないなら、彼らを救うことはできません。しかし、誰かが、代わりに償ってあげるなら、彼らの多くは救われて地獄行きを避けることができるのです。この事実は、マリア様の御心との一致を深め、罪人への思いやりにあふれた霊魂に、彼らの救いのために、愛による苦しみを何よりも、他のどんなものよりも望ませます。それでその人は、できる限りあらゆる苦しみを苦しみたいと願うようになるのです。



部分.7 完徳





【 第23章 】

 幼きイエズスの聖テレジアが、あらゆる時代のすべての殉教者の殉教と、その苦しみを受けたいと望んだのを、彼女が好きな人ならよく知っていると思います。そして彼女が、全く霊的に慰めのない状態に置かれ、神の存在さえ疑わせる信仰の試練に会い、自分のまわりに毒を置かないように願ったほど、つまり自殺に心ひかれるほどの霊肉ともの苦しみの病床を過ごし、最期には窒息の苦しみに神を呪いそうになるほど極限まで苦しみぬいたことも知っているでしょう。

 完徳の土台は、あらゆる苦しみを苦しみたいと望むことです。そして神様は、実際にその人が英雄的に徳を実践できるように、その人の上に試練が下るのをお許しになります。聖人たちは皆、英雄的に徳を実践した人であると同時に、大きな試練を英雄的に苦しんだ人でもあります。

 完徳のレベルとは、英雄的な徳の実践を長い期間、それが霊魂の習慣として定着するまで繰り返すレベルであるのです。一度や二度の英雄的行為は、完徳のレベルに達していなくてもできる人がいます。しかし長い間、絶えず繰り返し行なうのは、このレベルに達した人でなければできはしません。この超人的な根気は一体どういうわけなのでしょう。なぜイヤにならないのでしょう。聖ヨゼフにおいては、特にこの根気強さが、その咲き誇る諸徳の中でも際立っています。彼の内的生活は、堕落へと引きずりおろそうとする原罪の汚れの影響力に反して、高く登ろうと自分を絶えず持ち上げる不断の戦いでした。どんなに聖なる人でも、日に七度は罪を犯すというのに、彼は罪を全く犯さない、あたかも天使のような霊魂の清さに至り、それを長年、死ぬまで保ち、成長させたのです。人目には分からない、隠れた家庭生活の中で、悪や誘惑に負けないための、意志の絶えざる緊張と戦いを、誰よりも完全にやり続け、最後までやり抜いたのです。なぜそんなことが、人間に可能なのでしょう。




【 第24章 】

 聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの霊性に基づいて、完徳に至るための方法を説明し、徳の家の建て方の設計図を描いてきました。これを書き上げるための最後のひとふでは、またも基本であり、全ての徳の土台である「超楽観主義者」であることの必要性に戻ることになりました。というのは、ほとんどの人が「あらゆる苦しみを苦しませてください」と神に懇願するのを恐れているからです。また、戦いと試練の激しさに恐れをなして逆戻りするからです。「誰をも、何をも恐れてはいけない」 それを思いだしてください。「どしゃ降りの雨も、いつかは必ずやみます」 これは幼きイエズスの聖テレジアの言葉です。この言葉は、地上のどんな苦しみも有限であることを説明しています。彼女は死がなかなか来ないとき、「まだ苦しめるのを喜んでいます」と言いました。この言葉は、苦しみたいという望みは無限に大きくできることを説明しています。全き善である神様は、有限の試練を私たちの上にお許しになりますが、その試練ごとに、その戦いの苦しみを上回る、「苦しみに対する望み」を私たちに起こさせます。苦しみたいという望みは完徳の土台で、私たちが起こすべきものですが、それを無限に増大させるのは神様の恵みで、そのために神様は、私たちのその意向だけで十分なのです。試練のたびに神様は、その望みを大きくして、望みというよりは、苦しみに対する愛にかえてくださいます。聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアに特に際立つ超人的な根気のわけは、神様の助けが必ずあることを、これぽっちも疑わない、二人の特に強い希望の徳です。神様は、ご自分に希望する人を裏切ることは決してないので、二人は苦しむために尽きることのない根気のたまものをいただき、苦しみを望みつづけ、愛し続けました。それで、どうか日本人の皆さん、徹頭徹尾、土台から完成に至るまで、希望の徳を強めることで超楽観主義者であり続けてください。そして修徳上でつまずいた時、困難にぶち当たって進めなくなったとき、何らかの恐れを抱いたとき、常に「超楽観主義者であること」という基本に立ち返り、自分の徳の建物が設計図通りに建てられてきたかを点検し、修正してください。

 聖ヨゼフも、幼きイエズスの聖テレジアも、ともにわずか十数年間で、希望の徳を強められるという恵みを受けてから完徳に至り、永遠の冠を受けるまでの道のりを巨人のように走りました。私たちに残された時は短いのですが、二人に習えば時は十分にあると言えます。希望強めて、そして希望の徳を強めて、さあ! とりかかりましょう!



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【 第25章 】

 「神の国は実にあなたたちの中にある」(ルカ17−21)とイエズスがおっしゃったように、神の国は、まず私たちの心の中に建てなければなりません。それと全く同じことですが、共同体もまず私たちの心の中に建てなければなりません。それは、共同体の徳というものを、まず身につけなさい、そうすれば共同体ができます、ということです。

 神様はすべての人に共同体に入いる召命を与えています。そうなのですよ。今、生きているすべての人が呼ばれていて、応えるならば、この召命の恵みを受けることができます。終わりの時である今、リトル・ペブルさんを中心としたマリア様のこのミッションでは、彼と一致している世界中の幻視者が、平和の統治・ニューエラに関する啓示を受けてきており、その神秘が徐々に明らかにされてきています。平和の統治では、すべての人が共同体内で生きるということがすでによく知られています。それに備え、私たちの心の中にまず共同体を建てるため、これから共同体の徳をひとつひとつ取り上げて行きましょう。

 それから、すべての共同体の保護者は聖ヨゼフであると天が啓示してくださったことを知ってください。聖ヨゼフの内的生活は、共同体に生きるすべての人にとって模範です。彼の内的生活に習い、彼の霊性と聖徳を身につけることは、各自の召命を保ち、守ります。外的な保護を任されているだけではなく、むしろ本質的な聖ヨゼフのつとめは、共同体に生きる人の霊魂の保護です。聖ヨゼフの聖徳が、ご生涯の間、常に共同体(それは家族、村、国、難民のコロニーですが)の中で、練り鍛えられたことを思いだしてください。贖い以前、原罪の影響で、霊魂は贖い後よりもずっと強く悪に傾いていたこと。神を殺すまでに至った聖ヨゼフの時代のあの社会の腐敗。ダビド王家の直系だったために加えられた政治的弾圧による貧しさ。無原罪ではないという点で、彼は私たちと同じと言えますが、むしろ私たちより彼の方がはるかに不利でした。その不利な低い地点から、天でマリア様に次ぐ最高の地点までの長い修徳の道のりを、常に何重に共同体に属しながら歩いた聖ヨゼフの内的生活の中に、その聖徳、その霊性に私たちが必要な模範のすべてを見つけることができます。聖ヨゼフのいと清き御心は、なんと魅力に満ちていることか! あなたは特別にその御心を愛してください。すでに聖ヨゼフはあなたを愛し、守ってきて、あなたの父親役をずっと果たしてきているのです。あなたは彼を「お父さん」と呼んでいいのですよ。では、これから彼のいと清き御心を通して、共同体の徳を見ていきましょう。



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【 第26章 】

 聖ヨゼフは自分の召命を突然に悟ることになりました。神ご自身が彼の分の枯れた枝に花を咲かせ、マリア様との結婚相手であることをお示しになったのです。私たちにとって本当に驚きですが、彼は直ちに心から承諾し、それを自分自身の望みとしました。神の意志を自分の意志とすることにおける、この速さと完全さは、聖ヨゼフがそれまでも、神に仕えたいという熱望を持っていて、自分に出来る限りのことを実践して生きてきたことをあらわしています。聖ヨゼフが、まだマリア様に引き会わされないうちに、大祭司に言った言葉を聞いてみましょう。「私はすべての力を尽くして彼女に奉仕します。彼女のためにどんな犠牲も重くはないでしょう。それだけは安心してください」(1)(マリア・ワルトルタへの啓示による) これは聖ヨゼフが召命(マリア様との結婚)を自発的に自分の意志としたことの表明であり、その上、神に仕えるために、すべての力を尽くして人(マリア様)に仕えるという決意の表明です。

 共同体に入いることは、修道会に入いることですから、入会を望む人には完徳を目指すためという動機が欠けてはいけません。修道会は完徳を目指す修練の場なのですから。忘れてはならないのは、それに加えて神に使えたいという熱望と、人に仕えたいという熱望が、両方ともなければならないということです。完徳への道では、神に仕えることと、人に仕えることとはひとつになります。神に仕える意欲は満々で、人には仕えず、冷淡で、不親切で、奉仕するより奉仕されるなら、人に仕えることを通してご自分に仕えてほしい神様に仕えないことになるからです。

 あなたが神に仕えたいという望みを持つとき、それは隣人に、またすべての人に仕えたいという望みとひとつになっているでしょうか? 人に仕えることを通して神に仕えたいと望んでいるでしょうか? 共同体では、全人類にゆるしとあわれみを取り次ぐため、自分をいけにえにし、イエズスのいけにえに合わせることで全人類に仕え、隣人には実際の奉仕をもって仕え、仕え尽くす、与え尽くす生き方を自分の生き方にします。これが共同体に入いりたい人が持つべき基本的徳です。神と人への奉仕に燃える熱心が与えられるよう聖ヨゼフに祈ってください。聖ヨゼフはあなたに共同体に入いるという召命に応える正しい動機を心の中に準備してくださいます。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P82



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【 第27章 】

 共同体では世間のレベルをはるかに超えて親切にしあいます。世間一般ではそこまでやらないというところまでつくしあうのです。聖ヨゼフの親切の徳を見てみましょう。初めて聖ヨゼフとマリア様が会話をしたとき、話しは荒れ果ててしまったマリア様の家と庭にも及びます。
「……もし許してくださるなら、私はさっそく手をつけるつもりです」
「ヨゼフ、ありがとう。けれどあなたには他の仕事があるでしょう」
「あなたの菜園のために、毎日の最初の時間と最後の時間を使うつもりです。今は日がますます長くなるし、あなたを喜ばせるために、すべてが整えられるようにしたい。……」(1)

そしてまた、聖ヨゼフは
「大祭司は、……また、私があなたに親切であるようにとだけ言われました。……あなたのどんな望みにも応じて、あなたを幸せにしたい。……」(2)と言います。

次はマリア様がエリザベトやファヌエルのアンナに言った言葉です。
「……彼は私に何も拒まなかったばかりか、私が何か頼むことさえも待っていない。……『マリア、あなたは、あなたのお父さんの家に住むのを望んでいるのではないか、……私があなたの家へ行こう……』 ヨゼフは、こんなに優しいのです。自分には、私の気に入る家さえもない、という人々のうわささえも気にしないで……。」(3)

 ここにはっきりと表れているのは、聖ヨゼフの親切の徳を支えるのは、優しさと強さだということです。親切の徳のための優しさとは、気弱な優しさではなく、人が負っている重荷に敏感であることです。共同体では、子供を育てている最中の夫婦は、特に仕事が多いものです。また、責任ある役割上、寝る暇もないくらい忙しい人がいれば、時間がたっぷりある人もいるものです。よその家庭のことだから、他人のことだからと無関心でいるなら、何のための共同体でしょうか? 他人の重荷を引き受け、支えあうために一緒にいるのではないのですか? そのためには強さが必要です。特に克己心の強さです。自分の時間と体力・知力を人のために消耗させるのですから。また、自分のことは後回しにしても、愛徳を最優先で実践し、神の祝福を得た方が、結果的には自分のことも神の助けによってもっとうまく進むという信仰と信念の強さも必要です。そして、もうひとつ大切なのは、人の目を気にしない強さです。人からどう思われるかを気にさせて、親切を思いとどまらせることに悪魔はいつも成功しているのです。この戦いに勝つ強さです。

 これらの優しさと強さがあれば、あなたは頼まれる前に、命じられる前に、自発的に親切を行なうことができます。この自発的な親切は、あなたと相手の両方に大きな喜びをもたらします。共同体の中で生きる楽しさと喜びの多くがこれによって生まれると言えるでしょう。これはあなたが共同体で幸福に生きる鍵でもありますが、共同体に満ちあふれる親切の徳と、その自発的な実践による喜びの雰囲気は、外部の人に対しての最も大きな証しでもあります。ちょうど初代教会の信者たちが、これによって大きな感化力を持っていたようにです。

 私たちも聖ヨゼフの親切の徳、そして彼の格別な優しさと強さに習い、初代教会の熱心さと証しの力を共同体にもたらしましょう。幸いなことに、新しい奉献生活の様式である聖シャーベル修道会の共同体は、既存の修道生活よりも、はるかに多く自発的な親切を実行できるチャンスに恵まれているのですよ。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P84
(2) 同本 P85
(3) 同本 P89、90



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【 第28章 】

 聖ヨゼフは、マリア様の「一生涯純潔を守る」という神にたてた誓願を、彼女から打ち明けられたとき、ただちに自分も一生涯純潔を守ることに同意しました。この行動は普通、あり得ないことです。全く驚嘆に値いします。彼の貞潔の徳は、ほめたたえるべきものです。生涯の純潔を守ることは女性の方がたやすく、男性には非常に難しいことなのです。男性には、10代半ばから20代を通じて、生理的に肉の欲求が非常に強い期間が続きます。30代の聖ヨゼフの清さは、子供時代の無邪気な清さではなく、肉の欲求と戦い抜いて身につけた聖徳なのです。聖なる王ダビデやサムソンら、旧約の英雄が肉欲の誘惑には勝つことができなかったのに、聖ヨゼフはなぜ完全な勝利をおさめたのでしょう。聖ヨゼフの言葉にその理由があらわれています。マリア様から彼女の誓願を知らされる寸前に、「ごらん、これはあなたの家のアーモンドの枝です。……マリア、これをお取りなさい。これと一緒に私の心もささげる。私の心もこの枝と同じように、主のためだけに花咲き、そして今からは私の嫁である、あなたのために咲く」(1)と聖ヨゼフは言います。私の心は主のためだけに花咲いてきたと言える人は、男性、女性にかかわらず「花嫁の心」を持った人で、神を自分の唯一の配偶者として認識することができた人だけなのです。ですからこの言葉は、聖ヨゼフの内的生活が、特に聖ヨゼフの祈りが神との親密さにまで達していたこと、そのため聖霊の非常に活発な導きにより、神が一番お喜びになるささげものは、貞潔の徳であるという理解を持っていたことを示します。

 純潔は、唯一人の配偶者に清いままに保ってささげるべき贈り物です。価のつけられない貴重な宝物です。腐敗した今の時代に生きる皆さんに、この理解があるでしょうか? その唯一の配偶者とは、一般には婚姻によって生涯をささげる相手である夫、または妻ですが、修道者にとっては神です。共同体の中で生きる人は、皆が例外なくこの貴重な宝物を持っているのです。聖ヨゼフは唯一の配偶者である神に清いままお捧げするために純潔を守り、試練との戦いで磨いてきたので、最高度の貞潔の徳をもっていました。それは体だけではなく、思いにおいても、霊魂においても神のために磨いてきたものでした。すべてを見通される神への霊的な捧げものとして、すべてにおいて清い贈り物でなければならないと聖霊の導きにより理解していたからです。ですから今度は神から、マリア様という新たな配偶者を与えられ、彼女から一生涯の純潔を願われても、直ちに同意できたのです。

 聖ヨゼフが自分自身の貞潔の徳を貴重な宝として守ると同時に、隣人の貞潔(もちろんマリア様が第一の隣人ですが)をもまた、貴重な宝として守ったことは、共同体の中で生きる人が見習うべき模範です。聖ヨゼフのように行なえば、男性は女性の貞潔を、女性は男性の貞潔を、慎み深さによって高めることができるからです。既存の修道生活では、異性がいない環境の中で貞潔を守るのですか、体においては清く保てても、思いと霊魂が清く保てるとは限りません。悪魔はイメージや空想を用いて誘惑をかけるからです。新しい奉献生活の様式である聖シャーベル修道会の共同体では、祈り、労働、食事、リクリエーションなどで、身近に異性がいる生活です。聖ヨゼフの生きた環境と同じです。聖ヨゼフはその中で高度な貞潔の徳を一人の努力で身につけ、そしてマリア様とひとつ屋根の下での生活で、さらに完璧な貞潔の徳に磨きあげました。ですから共同体の中に生きる人は、聖ヨゼフに貞潔の徳を願い、誘惑との戦いでは彼によりすがって戦いましょう。思いと霊魂を清く保つには、清くないイメージや考え、空想を頭から一秒もたたぬうちに追い出すように戦うのです。戦えば、その戦い自体が功徳となります。あなたの戦いの功徳で、肉欲に染まった人が清く生きる恵みを神から受けるのですから、あなたの戦いが激しくても悲しまずに、逆に喜んでくださいね。聖ヨゼフはより頼む人に必ず貞潔の徳を与えてくださいますから。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P84



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【 第29章 】

 聖ヨゼフは、マリア様の夫に指名されたとき、ナジルという身分で、一定期間女性と交際しない誓願を守っている最中でした。彼がダビド族の独身者への召集に対して、自分はナジルだから関係ないと判断して従わなかったら、どうなっていたでしょうね。聖福音に書かれた聖ヨゼフの姿で、彼らしさといえる特徴は、何といっても彼の「従いやすさ」です。神様は、聖ヨゼフにはくどくど説明する必要はまったくありません。ご自身が語る必要もありません。彼の夢の中に天使を使わして、一言指示しさえすれば、彼は直ちに従うのです。マリア・ワルトルタに与えられた啓示でも、その彼らしさはよくあらわれています。

 初めての会話のとき、マリア様に聖ヨゼフはこう言います。
「……私はナジルだからそんなことを希望してはいなかったが、結婚を望んだのではなく、祭司の命令に従っただけです……」(1)

 この、希望してはいなかったが従っただけですという言葉が、彼の「従いやすさ」という徳を、実によく浮き立たせています。聖ヨゼフが、天使や祭司のような、神ご自身ではなく、その代理者からの、自分の希望ではない、自分の判断ではない、自分の好みではない、しかもだしぬけに与えられる指示に、いつもこれほど速やかに従うことには驚かざるを得ません。彼はなぜこんなことが可能なのでしょう。

 聖ヨゼフが常人にはとても真似のできない「従いやすさ」を示すのは、彼が従うこと自体を愛する人だからなのです。共同体では皆、神様の代理者であるそれぞれの長上に従いますが、人間は元来従うこと自体を愛しはしないものなので、これは大きな犠牲となります。なぜ従うこと自体を愛さないかというと、命令や指示とは高い位の人が低い位の人に下すものなので、従うという行為は、自分の位の低さを示すからです。人は自分が低められるのを好みません。つまり従うこと自体を愛する人は、自分で自分を喜んで低くする人で、従うこと自体を愛さない人は、自分で自分を高くする人なのです。どんな指示にもことごとく、直ちに従う身分とは、貧しい奴隷ですよね。主人のただの持ち物にすぎない身分です。自分から自分を喜んでこの貧しい身分にまで低める人が、イエズスがおっしゃった「心の貧しい人は幸いである」(2)という御言葉にある「心の貧しい人」で、謙遜であると同時に「従いやすさ」という徳を持つ人たちです。日本人が使う「心の貧しさ」という表現とは、全然違う意味ですから気をつけてください。

 あなたが「心の貧しい人は幸いである」とイエズスがおっしゃった、そういう人になりたければ、あなたは聖ヨゼフを見習ってください。聖ヨゼフこそ「心の貧しい人」の典型で、最高の模範です。イエズスは続けておっしゃってくださいました。「天国は彼らのものである」と。共同体の中で生きる特権もまた、聖ヨゼフにならって「心の貧しい人」になろうと務める「幸いな人」たちのものとなるでしょう。聖ヨゼフに彼の「従いやすさ」の徳とともに、彼の謙遜をくださるようにお願いしましょうね。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P84
(2)マテオ5・3




【 第30章 】

 聖ヨゼフにとって純潔は、唯一の配偶者である神へのささげものでした。彼は体と心と霊魂の純潔を、肉の欲望と根気強く戦いぬくことで最高度に高めていました。その聖ヨゼフの純潔の徳は、マリア様と出会い、彼女の言葉を聞くことによって、別の新たな価値と意味をおびることになりました。それは彼の純潔の徳が、神への愛のささげものだけではなく、全人類への愛のささげものともなったことです。初めての会話のとき、マリア様は聖ヨゼフに次のようにご自分の「一生涯純潔を守る」誓願を説明します。「私は幼いときから、自分のことを主にささげました。このようなことはイスラエルでは行われていないと知っていますが、メシアの到来のために愛の生贄(いけにえ)として、私の処女性を望んでいる声を、私の中に感じていたのです。……」(1)

 その後、このマリア様の言葉について黙想し続けた聖ヨゼフは、聖霊の照らしによって、ソロモンの雅歌の預言的象徴がマリア様をあらわすことを悟りました。そして結婚式の日、彼は次のようにマリア様に言います。「……私は最も貴重な果物のある香り高い庭園の番人となります。その庭園からやさしく生きる水がほとばしる。これは……女としてのあなたのささげものによって、救い主を与えたいと願う世界のための愛です。……」(2)

 聖ヨゼフが純潔の徳の生涯にわたる完全な実践によって、マリア様に一致し、ともに協力して救い主を全人類に与えようとすることは、全人類を救う救い主の協力者に、マリア様とともになることでした。そしてその救い主が、人間が不従順によって神から奪ったものをご自分の従順によって神に与え、神への負債を払い、全人類を贖うことにも協力することだったのです。彼はその純潔の生贄を、全人類への愛のために贖い主イエズスと、ともに贖うものであるマリア様の生贄にあわせて捧げたのです。イエズスも、それを確認して次のようにおっしゃっています。「……節制によって肉欲に打ち勝った。その肉欲は、この世の始まりに、人間に対しての神の権利を汚して打ち勝ったが、今度は神に、人間に対しての権利を戻し、人間に再び聖寵を与えるためにヨゼフは、永久のその純潔をもって、すべての人間的感情に勝ったのである。ゴルゴダにヨゼフはいなかったので、贖いの協力者ではないと思うのか。まことに言うが、ヨゼフこそは神の最初の協力者であり、そのために神のみ前に偉大である。その犠牲、忍耐、根気と信仰とのために偉大なものである。メシアの奇跡を見ないで信じた。これ以上の大きな信仰があろうか。私の養父をたたえたい。彼こそ、あなたたちに最も不足しているもの、純潔、忠実、完全な愛の模範である。上智に聖寵の奥義を理解することを教えられ、封印の書を読むことができたあの素晴らしい読者、またすべての敵の罠に対して、世界の『救い』を守るために選ばれたヨゼフは賛美してよい」(3)

 共同体の中に生きる人は、修道者は貞潔の誓願を、信徒は貞潔の修道信徒誓願を立てるのですが、それをイエズスとマリア様の救いと贖いの目的に一致させるなら、私たちも聖ヨゼフと同様、純潔の徳に、神と全人類への愛としての価値と意味を持たせることができます。そして私たちもイエズスとマリア様と聖ヨゼフに一致して、全人類の救いと贖いに協力できるのです。これはなんと素晴らしいことでしょう。このことを喜びましょう。純潔の徳と貞潔の誓願・修道信徒誓願に、これほどの価値があることを心に刻み、この徳の実践に励みましょう。そして聖ヨゼフには、私たち皆のために救いと贖いの生贄になってくださったことを感謝しましょう。なぜならばこのことは2千年間誰からも気づかれず、感謝されないままになっているのですから。せめて共同体の中に生きる人は恩知らずになることなく、聖ヨゼフに感謝すべきです。感謝する人には、また、新たな恵みが与えられます。その恵みがさらに私たちを聖ヨゼフに似た純潔なものにしてくれるのです。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P84
(2) 同本 P91
(3) 同本 P95、96








【 第31章 】

 聖ヨゼフがマリア様の妊娠に気づいてからの3日間の苦しみの激しさに、世界は今までほとんど注意を払ってきませんでした。しかも、この苦しみを黙想の対象としたわずかの人にも全く知られていない苦しみが、この3日間の苦しみには含まれていたのです。2千年もの間、全く知られなかったその苦しみとは、聖ヨゼフの「忠実さ」という徳の偉大さが原因となったものです。彼は聖霊の照らしによって、マリア様の純潔の守り手としての自分の義務をはっきりと理解していました。神から特にゆだねられたこの義務を、忠実なものである聖ヨゼフは自分のすべてをかけて果たそうと努めていたのです。たとえ千人の武器を持った男が相手でも、マリア様の純潔を守るためなら彼は立ち向かってゆくでしょう。はっきりしたマリア様の妊娠が、暴行されたことによるものだったらと考えた聖ヨゼフは、神の僕として己の義務に不忠実であったかもしれない……神のご期待を裏切ってしまったのだとしたら……という考えに、どんな人間も感じたことのないほどの苦しみを味わいました。「忠実さ」の徳は、聖ヨゼフの苦しみによくあらわれているように、責任感の強さとしてあらわれます。この責任感の強さは、大切なもの、つまらないもの、大きなこと、小さなことの区別なく、神から、または人からゆだねられたことを完全に果たさせます。ですから、ある人間が本当に忠実であるかどうか分かるのは、むしろつまらないもの、小さなことを任せられたときです。イエズスも「小事に忠実な者は、大事にも忠実な者であり、小事に不忠実な者は、大事にも不忠実である」(ルカ16・10)と教えてくださっています。

 共同体の中に生きる人にとっては、人間的に見て大切なつとめ、重要でないつとめが日常混ざり合っているのですが、愛という観点からは、神への愛のためにそれらを同じように忠実に果たせば、神のみ前には同じ尊い価値を持つものにすることができます。愛による忠実さは、日常の最もつまらないことさえ、神の御前に偉大な価値をもたせる力を持ちます。これを用いて私たちは、共同体に生きる一日を、神のため、そして全人類のために偉大な価値ある一日とするようにしましょう。聖ヨゼフに願うなら、彼の「愛による忠実さ」を必ず私たちにも譲ってくださいます。彼の知られざる苦しみを崇敬する人にこの恵みを与えようと聖ヨゼフが待ち構えているのですから。



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【 第32章 】

 結婚式を終え神殿を去ったマリア様がナザレトの家に着いたとき、聖ヨゼフは次のように言います。「今、この入口で、一つの約束をしてほしい。どんなことが起こっても、何かが必要になっても、他の人ではなく、必ずヨゼフに相談し、また、どんな理由でも一人で悩むということがないように。……」(1) 彼の言葉には、共同体の中に生きるにおいて、知っていなくてはならない非常に大切な良識が含まれています。それが何か、あなたはわかりますか?

 共同体の中には、ひとりで悩んで誰にも言わない人、共同体の中に共に生きる人に相談しないで何でもひとり決めする人、共同体の中に共に生きる人に相談しないで外の人に相談して決める人、そういう人もいます。それらの行為は、共同体において生きる意義をかなりの部分無にしてしまう良くないことだという良識がこの言葉には示されているのです。

 詩篇に「兄弟のように共に生きるのは美しく楽しいこと」という言葉があり、聖務日課でこれを唱える修道士や修道女は、修道家族の中で兄弟愛をますます盛んにするようにと、そのたびに励まされるのです。兄弟のようにとはどういうことなのでしょうか。それは互いに助け合うだけではなく、必要なものを互いに求めあう関係を言います。必要なものとは、悩みのときの支え、迷うときの導き、弱った時の励まし、困難な時の助力など、第一に精神的なものです。物質的なものは第二です。それらを共に生きる仲間から求めずに、外の人に求めるか、全く求めようとしないなら、それは兄弟のように生きないことです。その人にとって共同生活は美しく楽しいことにはなりません。

 聖ヨゼフのこの言葉には、彼が兄弟愛とは何であるかを理解し、大切にしていたことがよくあらわれています。それは彼が今まで兄弟愛の徳に生きてきたことを示しています。聖ヨゼフとマリア様の結婚生活は完全な純潔を生きるのですから、その意味でも兄弟のような生活です。二人の共同体ではお互いが共に生きる相手ですから、どんなことでも外の人にではなく相手に相談するのは、まさに良識にのっとったことで、兄弟愛の実践です。

 私たちは聖ヨゼフのように兄弟愛とは何かを理解し、大切にし、徳として身につけましょう。この理解がないために兄弟愛が栄えない共同体になってしまったら悲しいではありませんか。醜いではありませんか。そして、ただ理解がないためであれば、だれかに教わればいいのですが、兄弟愛の徳が身につかない原因が心の閉鎖性だったり、互いの不信であるならば、事は重大です。心が閉じているために、自分が考えていること、直面している問題などを人に見せない人は、その心の閉鎖性に悪魔がつけ込んで、いともたやすく間違った考えに凝り固まらせます。心の閉鎖性はとても危険です。そして人を信じない人は、相手が信じるに値いしない人だと考えてはいけません。それは高ぶった考え方です。どちらの性向を持つ人も、まず聖ヨゼフにならって希望の徳を強め、超楽観主義者になるところからやり直してください。そうすれば恐れなく誰に対しても心を開くことができます。安心して人を信じることができるようになります。聖ヨゼフの霊性に沿って自分の霊性の土台をすえなおしましょうね。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P99、100



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【 第33章 】

 マリア・ワルトルタに与えられた啓示の中で、マリア様は聖ヨゼフの祈りの生活について語ってくださっています。「……どんな時でも、まず祈りを第一にすることに、あなたと読む人の注意を促したいのです。……ヨゼフも祈る時に、神との一致を感じていました。私たちの祈りは礼拝によって全身を溶かし、抱擁する全霊の礼拝だったからです。……サタンの武器である世間の悪意、肉欲と傲慢も、祈りにぶつかると、その激しさを失います。祈りの武器を絶対に手離さないで。これによって天が開かれ、多くの恵みと祝福が天下るのです。神の罰を招くもろもろの罪の清めのために、この世は祈りに浸される必要があります。しかし祈る人々は少ないので、この少数の人は、祈らない多くの人々の分も祈るべきです。"生きた祈り"を、恵みを得るに必要なだけ続けるべきです。生きた祈りとは、本当の愛と犠牲を伴うものであります。……」(1)

 共同体の中に生きる人は皆、このようにすべきです。そして特に私たちが祈りによりすがらなければいけないのは、共同体の中で、隣人の欠点を指摘する場合です。どうかその前に何年も何十年もその人のために祈ってからそうして下さい。または、その人に指摘した後で、何年も何十年も必ずその人のために祈ってください。何事も祈ってから始めるべきですし、祈りは原爆よりも強力なので、どんなに固い岩のような悪習でも砕くことができます。ただ、すぐにそうなるのではないのです。自分の身に置き換えて考えてみれば分かるでしょう? 根深い欠点を数年で直せますか? 何十年かの単位で直していくのではありませんか? だからあなたが他人の欠点に気がついたらすぐに、その人のために、その人がその欠点を克服できるようにと祈り始めてください。何年も何十年も祈り続けてください。それが本当の愛と犠牲であり、完徳を目指しているはずの共同体の中に生きる人皆が行なって当たり前のことなのです。その時、祈りは生きた祈りとなり、このような生きた祈りを続ける人の祈りの生活は、神との一致に高められてゆき、やがて聖ヨゼフのように礼拝によって全身を溶かし、抱擁する全霊の礼拝の祈りをするようになります。

 あなたの嘆かわしい、誰の目にも明らかな欠点のために、もし共同体の多くの人が、黙って長期間祈ってくれているなら……、そして同様の祈りあいが、共同体の皆の間で沈黙のうちに盛んに行なわれているなら、あなたも共同体の皆も、どれほど聖徳の道に進むことができるでしょうか! ぜひそのような共同体にしてくださいね。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P134


【 第34章 】

 聖書の記述では「イエズス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨゼフのいいなずけであったが、同居する前に、聖霊によって身ごもっているのが分かった。夫のヨゼフは正しい人だったので、彼女を公に辱めようとせず、ひそかに離別しようと決心した」(マテオ1の18・19)となっています。これを読んだ人たちのうち、この中に聖ヨゼフの完全な愛徳の強烈な輝きを見ることができた人はいませんでした。そのためマリアさまご自身がマリア・ワルトルタに与えた啓示の中で、こう教えてくださっています。「……彼の聖徳は、ここに私よりも高く輝いています。私は妻の愛をもって、これを証しします」(1)と。

 人類の歴史の中で、たぶんかなりの数の男性が、妻に裏切られたがために、その妻を殺したことでしょう。男性にとって妻は自分の分身のような存在で、最も心を許せる人です。だからこそ妻に裏切られることは、男性にとって最大の心の痛手となるのです。聖ヨゼフはこの試練を受けました。しかも聖ヨゼフはマリア様をいい加減な愛で愛していたのではなく、神のためにも、全人類のためにも、彼女自身のためにも全身全霊で愛していたので、彼のこの試練の苦しみは、なおさら激しいものでした。しかし聖ヨゼフはマリア様と、彼女のおなかの子の命はもちろん、マリア様の名誉に関してすら、少しも傷つけまいとしたのです。彼の名誉はすでに損なわれ、しかもある意味では一生回復しないままになるというのにです。それは彼が、夫婦が同居するまでの少しの期間の純潔も守れなかったふしだらな男というレッテルに甘んじ続けることです。あなたは自分を裏切り、辱め、窮地に追い込んだ相手に全力を尽くして最善のことをしてあげられますか? 相手に対してまったくこれっぽっちも復讐せず、復讐の考えすら抱くことなくおられますか? その相手の名誉を傷つけぬために、自分の名誉を一生泥まみれにさせて平気ですか? 自分の身に置き換えて考えれば、聖ヨゼフの愛徳が完全性において、超人的なものだということに気がつきます。愛徳はすべての聖徳の要(かなめ)です。ですから聖ヨゼフの他のすべての徳も、完全性において超人的であったことがわかるのです。実際、彼の「賢明」の徳もここに高く輝いています。律法の厳格な遵守の規定のもとに生きながら、彼は律法の本源である隣人愛の本質をはずさずに判断するほど賢明でした。それは外面的には律法を破ることですが、律法の字句に従えば、マリア様は石殺しです。イエズスも彼女のおなかの中で死んでいたでしょう。しかし彼は字句ではなく本質的精神に従って判断できたのです。彼の「忍耐」の徳もここに高く輝いています。ひそかに離別しようと決心したとは、マリア様とおなかの子をナザレトに残し、自分は誰も探し出せないところに行って、死ぬまで留まる決心なのです。この激しい苦しみを抱えたまま、しかも誰にも漏らさず一人で抱えたまま、長い年月を知らない土地で生きる、それほどの忍耐をする決意なのです。これほどの聖徳の高さに、原罪の汚れを持ちながら達した聖ヨゼフを、マリア様は、彼の聖徳は私よりも高く輝いていると証しなさるのです。

 聖ヨゼフは完全な愛徳を持ち、すでに30年後のイエズスの汝の敵を愛せよという教えを実行していたといえます。共同体の中に生きる人は、聖ヨゼフのような完全な愛徳を身につけるために、汝の敵を愛せよという教えを文字通り実行しなくてはいけません。あなたは「敵を愛する愛」を実践すべき最高の目標にしてください。そうでなければ全人類を愛するといってもウソになります。全人類の90%以上は現在、神の敵にまわっているのですから。そして、その敵である彼らを救おうと愛に燃えているイエズスとマリア様と聖ヨゼフをも愛さないことになります。彼らが愛する者を愛さないということは、彼らを悲しませ傷つけるからです。ですから、どうしてもあなたは「敵を愛する愛」を実行しなければならないのです。そして聖ヨゼフのように、相手の名誉までも大切にしてあげることをぜひ見習いましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P174



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【 第35章 】

 神は人類の贖いと救いのために、聖ヨゼフを必要としました。聖ヨゼフの命、聖徳、苦しみを必要としました。聖ヨゼフという方の存在の理由について、皆さんにはっきりとわかってほしいのです。聖ヨゼフは永遠の昔から神のご計画のうちに、イエズスとマリア様にひとつに結ばれた方で、贖いと救いが彼の協力を持って始まるよう定められた方です。幼年を過ぎ、理性の働きがしっかりと確立し、聖ヨゼフの修徳の努力の自発的な歩みが始まったとき、人類は、贖い主の協力者を持ったのです。その時から、イエズスとマリア様のために自らを使い果たして亡くなるまで、聖ヨゼフのすべてが、贖いと救いの協力の業として神に受けおさめられました。ですから聖ヨゼフは実に特別な存在で、イエズスとマリア様とは切り離すことができません。イエズス・マリア・ヨゼフの一致は天の三位一体を映す、地上の三位一体です。それは御父への一体となった生贄で、この三人だけが御父の聖心にかなう天的清さを地上でもったのです。聖ヨゼフは誰も味わったことのない大きな苦しみで人類の負債を代わって払い、誰も達しえない完全な聖徳で御父をなだめ、救い主を二度も救うことで人類の救いを救ったのです。マリア様の言葉を聞いてみましょう。「……彼は贖いの奥義と関係がないと思ってはいけません。彼こそは、自分の命と聖徳にかけて皆のために救い主を助け、その贖いのために非常に苦しんだ人です。……ヨゼフは聖人でした。彼の清い心は、神に生き、彼の中に愛は強く燃えていました。その愛徳のために、彼が私を長老たちに訴えなかった時、また、イエズスをエジプトに避難させた時と、二度もあなたたちの救いを助けたのです。ヨゼフの受難の三日は、日数としては少ないが、濃さとしては恐ろしいものでした。……」(1)

 人類の歴史の中で最も重要な出来事の協力者として聖ヨゼフは存在させられました。共同体の中に生きる人の存在の理由は、聖ヨゼフと同じだといえます。初代教会の信者が生き生きとした信仰のうちに、あれほど強く願い、待ちわびた主の再臨が今、間近に迫っています。再臨とはイエズスが再び来られ、人類に罪も、苦しみもない世界を与えてくださることです。再び人類は、非常に重要な時を迎えようとしています。全人類のために、今度も神様は、わずかな人々を協力者として用いられているのです。そして、その私たちへのご要求も、命、聖徳、苦しみです。そしてまた、私たちも聖ヨゼフのようにイエズスとマリア様とひとつに結ばれるように、天が選んだ共同体に入いるのです。そして、これも聖ヨゼフと同様、私たちも、全人類が罪から解放されるためなら、この身を使い果たしたいと願うのです。共同体の中に生きる人には、「生贄」の意識が絶対に必要です。それを聖ヨゼフがくださるよう彼にお願いしましょう。そして彼のように清い生贄になれるように励みましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P174



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【 第36章 】

 聖ヨゼフがマリア様を守ることと、養うことを神から期待され、義務としてゆだねられたのとちょうど同じに、共同体の中に生きる私たちは、ともに生きる人々の召命を祈りと良い模範によって守ることと、養うことを神から期待され、義務としてゆだねられています。このことを全員がよく知っていなければなりません。この義務は神に対して負っているだけでなく、互いに負ってもいるのです。特に新しく入いった人は、以前からいる人々によって祈りと良い模範を与えられなければ、召命を保つことが難しいのです。

 もし誰かが共同体を去っていったなら、聖ヨゼフが英雄的な「忠実」の徳をもっていたがために、マリア様の妊娠に気づいたとき、神の僕としてゆだねられた義務を自分は果たさなかったと考え、非常に苦しんだように、私たちも神の僕としてゆだねられた祈りと良い模範を与える義務を果たさなかったと考え、苦しむのが当然です。もし苦しまないとしたら、あなたはその義務を忠実に果たす意思がなかったのか、その義務を知らなかったのかどちらかですが、両方ともよくないことです。去っていった人に責任があると考えてはいけません。たとえ幾分そうであってもです。なぜなら修道会で召命が失われる第一の原因は、その修道会内につまずかせるものがあることだからです。

 あなたも共同体の生活は素人同然で、回りの人の祈りと良い模範を期待しているのでしょうが、回りの人も同様にそれをあなたに期待しているのです。ですから私たちは支えあわなくてはいけません。皆で召命を貴重でもろい宝として守りあい、養いあわなくてはいけません。受けることを望むのではなく、与えることに力を注ぐことが非常に大切な心構えです。そしてもうひとつ、皆さんに注意を促したいのは、長上の役割についているメンバーも、皆さんから祈りと良い模範をもって支えられる大きな必要を持っているということです。彼らは与える人、私たちは受ける人と考えるのは大間違いです。どうか、「互いに」ということを自分勝手に限定せずに、例外をもうけずこの義務をに忠実であってください。



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【 第37章 】

 聖ヨゼフがマリア様の妊娠に気がついたのち3日間、恐ろしい試練に会いました。疑いが心に入いり、裏切られた思いにズタズタになりそうでした。悪魔が全力で聖ヨゼフを倒そうとしたのです。しかし聖ヨゼフはこの試みに打ち勝つことができました。なぜでしょうか?

 共同体のなかでも悪魔は隣人を疑わせよう、誤解させようと、全力を尽くして働きますから、聖ヨゼフを襲った恐ろしい試みほどではなくとも、皆がこの誘惑に試されます。この誘惑に負けないために、聖ヨゼフの徳を見習いましょう。

 聖ヨゼフは隣人を愛したい、許したい、信じたいという高いモチベーションを絶えず保っていました。ですから悪魔に足をすくわれることがなかったのです。共同体の中で、あなたは隣人を愛したい、許したい、信じたいという積極的な望みに常に満ちていることができますか。もしそうでなければ悪魔はあなたを通し、共同体を愛の不足した状態にしてしまうことができます。誰かを心の中ででも批判してしまえば、それはもうマリア様の御心との不一致で、すなわち恵みの喪失です。共同体全体の祝福と恵みの量も減ってしまいます。神様にとっても大損害ですね。あなたは常に、隣人を見るとき、信じたい、許したい、愛したいと望む目で見るように努めて下さい。朝からそのモチベーションを高め、一日に備え、悪魔に不意打ちをくらわないよう、寝るまでそれを高いままに保ってください。聖ヨゼフがあなたの努力を祝し、ご自分の徳を真似させ、試みに勝たしてくださいます。



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【 第38章 】

 聖ヨゼフのいと清き御心の中に、あなたは最も繊細な良心を見ることができます。

 聖ヨゼフがマリア様に対する疑い、裁く思いを次のようにマリア様に告白したのを聞いてください。これはマリア・ワルトルタに示されたものです。
「マリア、許してください。私はあなたのことを信用しなかった。……私の愛は足りなかった。あなたに真相を聞かないで、心の中で不正に、あなたを訴えました。……疑心の侮辱をもって、あなたに対して罪を犯しました。マリア、疑い一つでも、もう侮辱です。疑う人はよく知らない人です。私は、そうすべきであったのに、あなたを知ろうとしませんでした。……」(1)

 「疑い一つでも、もう侮辱です。」 何という澄んだ、こまやかな、敏感な良心でしょうか!

 共同体の日常において、人は隣人に対して非常にしばしばこの罪を犯しています。しかし、良心があまりに鈍いせいで、自分が罪を犯していることに全く気がつきません。

 いったい何のために人は共同体に入いったのでしょうか? それは完徳、つまり聖徳の高みに至るためです。良心が鈍い人は、そのままでは心を清めてゆくことができませんから、聖ヨゼフの良心の繊細さを見習いましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P177



【 第39章 】

 共同体の日常は、絶えず隣人を許しながら送るものなのです。隣人の、目につきやすい欠点、弱点、悪い癖、罪や悪に対してでさえ、あなたは自分の心を苦々しくしたり、とげとげしくしたりしてはいけません。隣人たちがそのような状態にあることは、神様がそれを良しとしてゆるしているからなのです。あなたもそれを良しとしてゆるしましょう。隣人の弱さや悪さは、あなたに許しを伴う愛を実践する機会を与えてくれるものなのです。それらを利用して、各自が許しを伴う愛を毎日増やして行けば、不完全な人の集まりでしかない共同体なのですが、それでも逆に愛に満ち溢れた共同体となり、祝福に満たされることができます。隣人が弱ければ弱いほど、悪ければ悪いほど喜んでください。あなたは愛、許し、忍耐を余計に多く実践して、愛徳に大いに進歩できるのですから。

 また、相手の身になることを忘れないでください。情状酌量という許しの心が身につくようにです。弱さや悪さの多い、その隣人を見て、あなたがその人だったらと考えるのです。自分の弱さや悪さはなかなか直せないと、体験上知っていますね。まわりの人には忍耐と優しさを持って長い目で見て接してほしいでしょう? でしたら、あなたは相手にそうしてあげるべきです。

 隣人たちに弱さや悪さがあっても、そのこと自体が共同体を弱くしたり、悪くしたりしていると考えないでください。各自がその状況を利用して、許しと愛をたくさん増やせるようにという神様のご配慮なのですから。

 聖ヨゼフは、ご自分に徳においてはるかに劣る、不徳の人々の中に混じって暮らし、しかもイエズスとマリア様のことで不当な非難を彼らから受けながら、何の苦々しさも、とげとげしさも心に持ちませんでした。逆に許しと愛を完全なレベルに成長させました。ですから私たちも聖ヨゼフのように行いましょう。




【 第40章 】

 聖ヨゼフはマリア様をわずかでも疑ったことを、マリア様にうちあけ、おわびしました。あなたなら聖ヨゼフのようにうちあけ、おわびしますか?

 共同体では謙遜にゆるしを求めるという行為が、互いに、そして特に長上に対して行なわれるものなのです。世間ではこのようなことをしません。家庭でも、学校でも、職場でも、まわりが気づかぬ過ちをわざわざ報告して、ゆるしを願い、しかられて、おまけに自分の評価を下げるのは、世間では損になることです。しかし完徳を追求する修道者的精神では、これは利益となるので、共同体においてはそうするのです。この行為は、傲慢な自我を打ち砕いて、謙遜の徳に進むのに非常に有効なのです。

 まず、率直なへりくだりが必要です。自分に言い訳したり、言い訳しに長上のもとに行っても、謙遜の徳の進歩は望めません。次に謝らなければなりません。ごめんなさいと。これもまた、人間性にとってつらいことです。人々は死んで裁きのために救い主イエズスの前に出るときでさえ、罪のゆるしを求めるよりは永遠に神を離れる方を選ぶほどなのですから。しかし天国には謙遜にゆるしを願った人しか行かないので、あなたも今から謙遜にゆるしを求めることを習慣にしていた方がいいですよ。これをつらいと感じるかぎり、あなたの本性はまだ傲慢だという判断ができます。聖ヨゼフはマリア様に謝ること自体は何もつらがってはいません。それは謙遜がすでに彼の第二の本性となっているからです。

 共同体において、この行為が皆に愛され、当然なこととして実行されるようにしましょう。そして共同体の保護者、聖ヨゼフに「率直なへりくだり」の徳が、一人一人と共同体に栄えるように祈り求めていきましょう。





【 第41章 】

 日本の子供たちの会話には「先生に言ってやろ!」「お母さんに言いつけてやる!」というような言葉がよく出ます。言われた方の子は黙ってしまい、言い返せません。「言わないで!」と頼むしかできないでいます。「告げ口は罪だぞ!」「卑怯者!」「フェアじゃないぞ!」と言い返す子はいません。つまり日本人は告げ口を悪いことと考えない文化を持っているのです。だからもちろん大人になっても告げ口をし続けます。日本の組織はリーダーの回りに取り巻きができやすいです。日本の社会は相互監視によって個人の良い自由さが奪われている社会です。告げ口がもたらす結果といえるでしょう。あなたは、この日本の文化を共同体の中に決して持ち込んではいけません。

 はっきりと言います。告げ口は大変悪いことであり、罪です。卑怯な行ないです。誰かに取り入るための道具です。トラの威をかるための策略です。競争相手の足を引っ張り、蹴落とす陰謀です。ずるい人間のすることです。フェアじゃないのです。正しい人が決してしないことです。正しい人と呼ばれる聖ヨゼフを見てください。聖ヨゼフが長老たちにマリア様のことを姦通者だと告げ口しましたか。もししていたら、どれほど悪い結果になったことでしょう。マリア様は石打ちの刑で殺され、おなかの中のイエズスも死んでしまったでしょうから。これほど告げ口という罪は、致命的な害をいつももたらします。

 共同体ではたった一つの告げ口が、一致と愛をこっぱみじんにすることができます。友情のない共同体に、つまり愛のない地獄のような共同体にするのです。外観の一致は、ただ誰かの告げ口を恐れての対応でしかない相互不信、相互監視の共同体に変えてしまうのです。ですからあなたは共同体の皆のためにも絶対フェアでなければなりません。絶対にです!

 告げ口をしに来た子を、日本では先生も親もしかりません。告げ口はしてはいけないとたしなめません。かえって秘密の情報を喜ぶようです。この点において日本人皆がフェアじゃありません。ですから、この告げ口の罪を決して犯さないために、日本人である皆さんは特に、正しい人である聖ヨゼフによりすがって真剣に戦って下さい。「フェアである」という徳があることを彼から学び、その初めて知った徳を彼の助けで今からは重んじ、実践し、身につけてください。

 大きな森をマッチ一本で燃やすことができるように、共同体の中に相互不信、人間不信という致命的な病気が広まるには、あなたの一回の告げ口で本当に十分なのです。取り巻きによって長上が盲目になった共同体、相互監視システムの恐怖政治の共同体、そんな共同体にしないために、あなたには告げ口の罪と習慣を捨て、二度と犯さない重大な責任があります。

 聖ヨゼフが彼の完全な愛徳のゆえに、マリア様の妊娠を長老たちに告げ口しなかったことを忘れてはいけません。私は善意で、愛の動機で告げ口するのだなどと、自分に言い訳してはいけません。賢明の徳は愛徳とひとつになっています。その賢明の徳は、たった一つの罪で世界を救えるように思える場合でも、その罪を犯さないという判断をさせる徳です。罪を犯すことは常に不賢明であり、不賢明な愛というのは、偽りの愛徳なのです。

 ひとたび行なわれてしまったら、取り返しがつかないのが、この告げ口の罪の結果の特徴ですから、口を酸っぱくして繰り返し言います。共同体に入いり、まだ一度もこの罪を犯さないうちに、この罪への激しい憎しみを持ってください。嫌悪してください。そうすればきっと予防できるはずです。どうかお願いします。日本にはまだ実現できない一致と友情と愛をもたらすためにです! 信じあう喜びと幸福に生きるためにです!



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【 第42章 】

 特権的恵みを受けた人は、その瞬間から傲慢になる誘惑に厳しく試されます。これに耐えるための特殊な謙遜があります。それは自己顕示欲を徹底的に捨て去った謙遜です。イエズスは治した病人たちに黙っているようにと言ったのに、彼らは黙っていることができませんでした。大恩人の命令なのになぜ従えなかったのでしょう。それは喜びのあまり……だけでしょうか。偉大な恵みを受けたことは、自身の誉れでもあります。(本当は神のあわれみであって、そうではないのですが……) 人間は自分を価値あるものと考えたいものですが、それだけにとどまらず、自分を価値あるものと、人に見てもらいたいものなのです。誰にでもあるいわば自然な心理です。しかし、この心理を自然のままに放っておいている人は、まだ謙遜の深い部分には至っていない人で、試されると傲慢になる人です。

 聖ヨゼフは自分が神の養父になったという特権的恵みを受けたことを知ったとき、へりくだってマリア様に謝罪した後で、彼女とともに喜びのあまり泣きました。しかし喜びのあまり人に言うことは決してしませんでした。彼は自己顕示欲という欲望を克服ずみだったのです。

 この特殊な謙遜は、隣人をねたみの罪に陥ることから守ります。隣人が劣等感をだくことも防ぎます。そして何と言っても神の御計画を壊しません。神が特権的恵みを与える人は、ますます謙遜になってゆくことを条件にそれを与えられるのです。それで傲慢になる誘惑に厳しく試されるのです。その人が自分の自己顕示欲を、試されることで認識し、ますますへりくだって試みに勝ち、謙遜を深めるのが神の第一のご計画です。この神の第一の御計画に沿うことで、神の第二、第三の御計画も壊されずに実現するのです。

 聖ヨゼフが影と沈黙の中に自分を置き続けたことで、探りを入れていたサタンたちには、贖いの瞬間までイエズスが贖い主であると確信できず、神の御計画をぶちこわしたかったのにそれができませんでした。メシアの事をダビデ王のような現世的王、イスラエルの国に全世界を支配させる征服者として考えていた人々の目からも、メシアを隠すことで、彼らが自分勝手なことをメシアに押しつけることを防ぎました。本当に聖ヨゼフのこの特殊な謙遜は、神の御計画の実現に不可欠だったのです。

 共同体の中に生きる人で、神秘的体験をする人は、過去の神秘家の修道者たちが、何十年もまわりの人からそれを気づかれず、死後はじめてあらわれた真実に仲間たちが仰天するほどに「自分を目立たせない徳」を行ないぬいたものだということを知ってください。あなたが特権的恵みを受けるかどうかにかかわらず、ただ謙遜の深い部分に達するために、あなたも聖ヨゼフからこの特殊な謙遜と「自分を目立たせない徳」を習いましょう。



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【 第43章 】

 聖ヨゼフは人口調査の命令により、身重のマリア様を連れてベトレヘムに行かなければならないと知り、大きな心配にとらわれました。しかし彼はすぐマリア様に、その心配を打ち明けます。マリア様に約束させたように、自分も心配、悩みを何でもマリア様に打ち明けるのです。彼はマリア様をどんなに信頼し、マリア様に対して心を開いていたことか! 私たちも聖ヨゼフにならってそうすべきです。

 すべての恵みの仲介者・マリア様に自分を結びつけることとは、聖ヨゼフがなさっていたようにマリア様に聞き、マリア様に導かれることです。希望の徳を強める恵みをマリア様の胎内にいるイエズスから注がれ、超楽観主義者になる道を歩み始めた聖ヨゼフは、マリア様に聞き、マリア様に導かれて悪魔的悲観主義を捨て、完成に向かって進んでいきます。二人の会話を聞いてください。

ヨゼフ: 「しかし、旅に出るには……、多くの混雑が? ……よい宿が見つかるか? 間に合うように帰れるか? それとも……、そこで母となったら、どうしよう? そこには、私たちの家もなく、もう誰も知っている人がいない……」

マリア: 「心配しないで。すべてうまく運ぶでしょう。神は、子を産む動物にも避難所を見つけさせてくださる。ご自分のメシアのために、それを見つけさせないことがあるでしょうか? 私たちは神を信頼しています。そうでしょう? 試練が大きいほど、私たちは信頼し、二人の子供のように、私たちの手を父の御手のうちにおけば、神は、私たちを導いてくださる。今までどれほどの愛をもって、私たちをここまで導いたかをごらんなさい。一番よい父でも、これ以上の思いやりはできなかったでしょう。私たちは主の子供であり僕です。私たちがその思し召しを行うかぎり、何の悪いことも起こるはずはありません。……おお、恐れないで、ヨゼフ。道が安全でなく、群衆で混雑して旅が困難でも、天使たちが私たちを守ってくれるでしょう。私たちのためではなく、自分たちの王に避難所が見つからないなら、彼らの翼は私たちの幕屋となるでしょう。悪いことは何も起こらないでしょう。神が、私たちとともにおられるから……」

ヨゼフ: 「私の心の太陽、祝されよ! あなたを満たしている聖寵を通して、すべてが見られる、あなたは祝されよ!」(1)

 ところで共同体の中に生きながら、つまり、すべての恵みの仲介者であるマリア様とともにいながら、彼女に自分を結びつけることができない人が大多数です。その原因は、祈りの質にあります。その人たちの祈りは、打ち明けない祈り、相談しない祈り、独り言のような祈り、自己完結してしまう祈りであって、マリア様に聞いていません。導かせていません。祈りの基礎は、子供のように自分の言葉でマリア様とお話しすることができるようになることです。マリア様の言葉はインスピレーションの形で心の奥底に置かれるのですが、ちゃんと答えてくださっています。それは何らかのかたちで後でわかります。ですから会話なのです。その人たちは会話をしていません。良くない、間違った基礎の置き方をしてしまったのです。決まり文句を唱え、言いたいこと、願い事だけを述べ、心には生き生きとした愛情を起こさない、そんなやり方で最初から始めてしまった人です。これが大多数の人なのですから、皆さんは自分の祈り方を反省し、聖ヨゼフのようにマリア様に聞き、マリア様に導かせ、マリア様にひとつに結ばれるように、基礎づくりからどうかやり直してください。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P184、185



【 第44章 】

 夫が妻の話に真剣に耳をかし、喜んでよい意見をそこから汲み取るという姿を日本では見かけません。「お前は黙っていろ!」とか「何を言っているんだ」と言わんばかりの妻をばかにした様子を見せるのを見かけはしますが……。妻の話しを夫がきかないために会話がなくなってしまった夫婦もたくさんいますね。

 聖ヨゼフが自分の半分の年しかいかない、15歳以上も年下の妻のマリア様を、どんなに信頼しているかに注目してください。それは、ベトレヘムへの旅の前のように、マリア様にいつも心配と悩みを打ち明けることにもあらわれていますが、また、その時のようにいつもマリア様の言葉に注意深く耳を傾け、その考えを取り入れることにいっそうよくあらわれています。聖ヨゼフは信頼を、人に対しても神に対してと同様に実行したのです。なぜなら彼はあらゆる面で謙遜だったからです。

 人を信頼しないのは傲慢な人の特徴です。人を信頼しないのは、人を見下しての上の判断だからです。「隣人は自分よりも劣る、無能な、悪い人間ばかりだ」という判断です。人を信頼しない人は、自己評価において思いあがった判断をしています。「自分だけで正しい判断ができる、自分だけで何でもやれる」というふうに。

 共同体においては、人に対する信頼は特別な重要性を持っています。それは、人に対する信頼は、謙遜の徳の程度のバロメーターにもなるので、互いの信頼が深まることは、それぞれの謙遜が深まることでもあるからということもありますが、もっと重大なのは、人を信頼しないということは、相手に「自分だけでいい、お前はいらない」というのと同じメッセージを送ることになることだからです。こんなメッセージを送りあえば、共同体は一つの体として成り立たなくなってしまいます。コリント人へ送った聖パウロの言葉を知っていますか? 「肢体は多いが体は一つである。だから目は手に向かって『お前はいらぬ』とは言えないし、頭は足に向かって『お前はいらぬ』とはいえない。体の中で最も弱く見える肢体はかえって必要である」(コリント人への第一の手紙12・20−22)

 人を信頼しない人は、共同体の中にいても自ら異分子で留まります。そういう人が多い共同体は、ひとつの体とはいえないしろものです。自分のやっていることには最高の価値があり、隣人のやっていることは無駄な暇つぶしだと互いに考えている集まりに過ぎません。あなたは「神は信頼するが、人間は信頼しない」と言っていませんか? 聖ヨゼフがそんなことを言ったでしょうか。謙遜な彼が言うはずがありません。

 共同体にとって人を信頼することの大切さがわかりましたか? 聖パウロの言葉をもう少し聞いて納得してくださいね。「神は劣ったところに、ことに尊さを与えるように人の体をつくり上げられた。体のうちに切れ目がなく、肢体が互いに相助けるためである。一つの肢体が苦しめばすべての肢体はともに苦しみ、一つの肢体が尊ばれれば、すべての肢体が共に喜ぶ。さて、あなたたちはキリストの体であって、各人はその一つの肢体である」(コリント人への第一の手紙12・24−27)



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【 第45章 】

 教会の各聖堂では、聖なるものに対して一番不敬な態度をとるのは、往々にして香部屋係です。若者の中で、聖なるものに対して一番不敬な態度をとるのは、往々にして神学生です。聖なるものにいつも接していると、聖なるものへの畏敬の感覚を失うのですね。これは「すれてしまう」という現象です。慣れっこになり、何でもなくなってしまうのです。

 共同体の中に生きる人にも、この危険は確かにあります。心しておかねばなりません。受けている特権にも、聖なるもの、ミサ、聖体、祈りなどにも、残念ながら感謝、敬まいの心をなくしていくのが自然のなりゆきであるということを知っていてください。ですからその反対を心がければよいのです。ますます感謝と敬まいの心を日々大きくするのです。

 聖なるものに「すれてしまう」と、外的なことにもはっきりと現れます。それは初心者や神経質な人を非常につまずかせます。外的なことの例としてひとつ挙げましょう。皆さんは父も子も聖霊も、そして救いの象徴である聖なる十字架も、愛し敬っていないことを宣言するかのような十字のきり方をしています。聖なる十字架のしるしを天の方々が、非常にゆっくりと丁寧になさるのを知っていますか。公的ご出現で、祝福をくださるとき、一位一位のペルソナに対して深い愛をこめてゆかれるのがよくわかります。私は皆さんにぜひお願いします。天の方々と全く同じようにしてください。そして加えてほしいのは、「御名によって」と言いつつ右肩に触れるとき、心の中でマリア様に深い愛を起こして、「アーメン」と言って両手のひらを合わせるとき、心の中で聖ヨゼフに深い愛を起こしてください。天の三位一体(父と子と聖霊)と地上の三位一体(イエズス・マリア・ヨゼフ)とを愛することが私たちの永遠の定めではありませんか? 究極の使命ではありませんか? ではこの世においてもそれを実行するのはふさわしく正しい務めです。実態はどうでしょう。特に父、聖霊、聖ヨゼフは地上の人から愛を受けることのいかに少ないことか! 祈りのたび、その前後に、この愛の直接の行ないを実行してください。そうすれば、あなたの愛は見違えるほど深まりますよ。

 内的な例をひとつ。愛を心に起こさずに祈りはじめ、愛のかけらも捧げないまま祈り終わるというのが皆さんの祈りの実態です。祈りの間、心に愛をかき起こし、心を愛で満たしてください。祈りはそれによってはじめて聖となるのです。神様は言葉ではなく、こめられた愛をご覧になるのですから。

 聖ヨゼフに聖なるものへの畏敬のたまものを願いましょう。イエズスがお生まれになったときの彼の姿を見てください。マリア様からイエズスを抱くように頼まれると、「私? 私に? おお、そんなこと! 私は不肖で、主を抱くに耐えない!」(1)と言いました。畏敬の心を保つためには、自分の無価値さを意識してへりくだることを神の御前で行ない続けることが必要なのです。これも聖ヨゼフに見習いましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P198
【 第46章 】

 マリア・ワルトルタに天から与えられた啓示によると、御降誕後、聖ヨゼフが最初に行なったことは、お生まれになったイエズスを御父にささげ、その御子とともに自分をも御父に捧げることでした。マリア様が彼を導き、そうさせました。いただいたばかりのものを、直ちにお返しする、それはアダムとエバが、御父からいただかなかったものを自分のものにしてしまったことを逆に行なうことでの贖いの業でした。マリア様はこのように聖ヨゼフを贖いの業により深く結び、彼をより高い聖徳へ連れてゆきました。聖書には書かれていないこのことは、聖ヨゼフの天使のような清い御心は、マリア様の最高傑作であることを教えてくれます。マリア様は神の最高傑作です。そのマリア様が毎日24時間、30年近く丹精を込めた最高傑作として聖ヨゼフをとらえてみてください。聖ヨゼフに肩を並べる聖人が他にいないのは当たり前だとつくづく思いますよね。

 自分を贖いの業に結ぶこと、マリア様に導かれるままになること、これは天が選んだ共同体の生き方ではありませんか! そうです。聖ヨゼフの生き方は、共同体の生き方のモデルそのものです。共同体から過去の偉大な聖人たちを超える最高の聖人が出ると天は告げていますが、この預言はきっと実現します。マリア様が聖ヨゼフのために、彼に代わって唱えた奉献の言葉に、そのための鍵を見いだすことができます。聞いてください。
「神よ、私はここにいます。あなたの思し召しを行うために」
「この子と一緒に、私マリアと私の夫ヨゼフはあなたの思し召しを行なうために尽くします。主よ、私たちはあなたの召使いです。あなたの栄光のために、あなたの愛のために、どんな時でも、どんなことがあっても、私たちはあなたの思し召しを行います」(1)

 今、ただちに行なってほしいことを天は今、世界中の恵みの霊魂を通して日々伝えてくださっていますが、その思し召しを行なっているのは実にリトル・ペブルさんと一致した、天が選んだ共同体だけです。過去においては聖家族の家においてだけ、神の思し召しは、あらわされるその同じ時に果たされてゆきました。さまざまの修道会、信心団体の共同体がありましたが、思し召しに完全に即応する場ではあり得ませんでした。今、天が選ばれた共同体は、聖家族の家の再来として存在しています。そこでは刻々と神の思し召しがあらわされてゆき、リアルタイムで実行することが可能なのです。もちろん修道生活においては素人の、弱く、悪く、徳もまだ身についていない人の集まりですから、私たちのゆえにその実行は不完全で、完璧からは程遠いのですが、それでも教会内ではここだけが、それが可能な場なのです。

 共同体の中に生きる人は、聖家族の家に住む人です。聖ヨゼフのように神の最高傑作であるマリア様にできるだけ完全に身をゆだね、全人類のための贖いのいけにえになりましょう。何の妥協も、遅滞もなく思し召しを行える特権を存分に利用しましょう。そして恵みに応え、大聖人たちを超える大聖人になることを目指しましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P198



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【 第47章 】

 聖書には書かれていませんが、イエズスがお生まれになった後も、マリア様と聖ヨゼフがベトレヘムにとどまったのは、しばらくして祭司ザカリアが訪ねてきて、お二人にそうするように勧めたからです。マリア・ワルトルタへ天から与えられた啓示の中でザカリアはこう言います。皆さんはどう思いますか?
「……ユダヤ人たちが、ナザレトの人々をどのように評価しているかはご存じでしょう。将来、自分の民の救い主となるはずの王が、軽蔑されている地から来るとしたら、その軽蔑が王にまで及ぶ恐れがあります。衆議会はどんなに理屈っぽいか、それを構成する主なる三つの階級の人々は、他の人をどんな目で見ているか、ご存じでしょう。……この子がこれほどの使命を託されていることを考えれば、この子が勝負に容易に勝つために、準備を整えて世間に登場すべきであることを忘れてはいけない。もちろん彼は上智を有するでしょう。しかし一人の祭司がその先生であったということだけでも、気難しいファリサイ人と律法学者とを納得させ、その使命の道が、より安らかになるでしょう」(1)
 彼の意見はもっともだと日本人の皆さんは思うでしょう。ところがマリア様と聖ヨゼフはそのような考えをまったく持っていませんでしたし、そう勧められても、その考え方は拒み、ただ祭司に対する従順のためにナザレトへ帰らなかっただけです。ザカリアの考え方は、救い主にはハクをつけるべきだ、それらしい外観が必要だ、という主張です。しかしマリア様と聖ヨゼフの考え方は逆です。マリア様はベトレヘムへの出発前に聖ヨゼフに念を押しています。
「"私たち"の子供たちのために。ヨゼフ、よく覚えておいてください。"世間の目"では、彼はそうあるべきです。御父はその到来を奥義のヴェールで隠し、私たちは、そのヴェールをはずしてはいけない。彼イエズスは、その時が来たら、そうするでしょう」(2)

 これは、それらしい外観はむしろ"その時"が来るまでいらないという主張です。お二人はわかっています。当面、"私たち"の子に必要なのは、ご自分に注がれる愛とまわりの人々の互いの愛だけだと。

 マリア様のミッションに参加している日本人が共同体にまず欲しがるものは、ザカリアの重要視するものと同じです。新設の段階から、伝統的な修道生活に近い日課のプログラムの実施を主張します。典礼の荘厳さ、苦業や祈りの信心業を求めます。そして中にいる人も、見学に来た人も、それがないと納得しません。「これではダメだ」と言います。この反応は、イエズスがナザレト人の大工だと知り、軽蔑するファリサイ人と律法学者と全く変わりません。もし日本人の皆さんが望む通りに共同体を運営するなら、それは聖シャーベル修道会の共同体とは違うものになってしまいます。そこでは会の発展のためという大義に、修道生活はもちろん、信者の生活にも慣れていない会員たちは、互いを思いやるゆとりさえなくし、ストレスでとげとげしくなりながら、隣人に努力が足りないと不満を持ちながら、青息吐息で無理を重ねていることでしょう。聖シャーベル修道会の共同体とは、そこに生きている人の一人一人、難しい性格、弱さ、心理的傷、病気、老齢などを背負った人が皆、尊重され、愛され、本人もそれを実感できるよう、柔軟に配慮する共同体です。外観はむちゃくちゃでも、その中の人が最も効率よく神に仕えることができ、心が安らかでいられるなら、それがその共同体の採用するプログラムになり、個人に与える特例になり、それでちっとも構わないのです。それが各自を尊重すること、愛することです。
"会の発展のために"と日本人が考える時、特に大間違いが起こります。神は隣人を愛することを通して愛されるのを望んでおられます。中身より包み紙にお金をかけるのが日本人ですが、神のまなざしは包み紙を見ません。中身の愛だけを見ます。まず愛してください。心の中でさえ裁くことをやめ、批判を決して口にせず、弱い人が心の安らかさを保てるところにしてください。そうするなら、その共同体は、時がくればふさわしい外観も与えられることでしょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P217、218
(2) 同本 P185、186



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【 第48章 】

 御降誕後、聖ヨゼフとマリア様はベトレヘムに長くとどまらず、ナザレトへ帰るつもりでした。生まれた子のために用意した全てがそこにあるのです。お告げの家も、菜園も、聖ヨゼフの仕事もそこにあるのです。ベトレヘムにとどまるように勧める祭司ザカリアへのマリア様の言葉を聞いてください。
「でも、どうしましょう? ナザレトにすべてを置いてきました。ヨゼフは苦労もお金も節約せずに、私のイエズスのためにすべてを備えました。昼、他人のために働けるように、夜なべをして、一番美しい木、一番柔らかい毛、一番白い麻を買うために、勤勉に働いてお金を作りました。蜜蜂の巣箱も作り、家を整えるために、左官屋の仕事さえもしました」(1)

 そうです。すべてが無駄になり、一からやり直しになってしまうのです。あれほどの苦労をしたというのに! なぜあらかじめ全てをご存じの神様は聖ヨゼフに「あとで無駄になるから、それはしなくてよい」と言わなかったのでしょうか?

 共同体創立に参加した人は、多くの場合、類似の経験をしています。柱となる人物がリトル・ペブルさんに不忠実になって自分勝手な道を行き始めると、そこにすべてを残して去らざるを得なくなったりします。生活基盤の放棄は大変な試練です。そのあと生活を立て直すまでの極端な貧しさ! この失敗、無駄足、一からのやり直しを、あらかじめご存じの神様は、なぜ前もって教えてくださらないのでしょう? 聖ヨゼフはナザレトの顧客を放棄し、ベトレヘムで一からやり直し、それをまた放棄してエジプトに行き、一からやり直し、それをまた放棄してナザレトに帰ったのですから、三度も放棄という大変な目にあったのです。何という無駄を強いられたことか。そう思いませんか? しかし……。

 神様は良い目的があるので、ある出来事が起こるのを許されるのです。聖ヨゼフの苦労も、共同体創立に参加した人の苦労も、良い目的のためというなら、それはいったい何でしょう。共同体の創立は一見、人間の努力でなされているようですが、そうではありません。人間の努力だと、悪魔の妨害によって何もできはしないでしょう。共同体はささげる功徳によって建設されるのです。そしてまた、共同体自体が、守られて楽に暮らす場所ではなく、世間よりも苦労を多く背負うことで功徳をささげる場です。そのささげられた功徳によって世界中の霊魂に救いの恵みが下るのです。神様の良い目的とはこれです。ですから人間的には無駄に見える苦労も価値あることなのです。日本地図を見てください。その中で共同体のたった数軒の家がいったい何になるのでしょう。点でさえありません。一億数千万の国民にどんな係わりを持てますか。しかし神の恩寵の世界では、その数軒の家で、数人の人がささげる功徳は空のように日本中を覆い尽くすこともできるのです。これは救い主への協力の使命だからこそ、救い主イエズスの無限の功徳に合わされることによって可能なのです。神への愛ゆえにささげた苦労が、人間的には無駄になるという矛盾の苦しさに満ちた聖ヨゼフのご一生は、救い主の協力者の使命の道とは救い主の使命の道と同じで、一生を通じて苦労すること、人間的には矛盾したことを受け入れる苦しみをささげる道だと教えてくれています。私たちは常に人間的に考えて間違いを犯すものですから、聖ヨゼフに祈って、成功失敗という結果ではなく、プロセスにおいてささげられる功徳が神様にとっては全てなのだという真理を得心できるよう助けていただきましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P218

【 第49章 】

 マリア様がご自分に比べて聖ヨゼフがいかにハンディキャップを負っていたかを説明してくださるのを聞いてください。
「……ヨゼフは、全き人間でした。というのは、その心の唯一の助けは、自分の聖徳だけでした。"無原罪"のものとしての私には、神のすべての賜物が与えられていました。でも私は汚れのない者であることを知りませんでした。それでも、その賜物が私の心の中に活発に働いて、霊的な力を与えていました。けれどもヨゼフは、無原罪ではありませんでした。人間性は、そのすべての重さを持ってのしかかって、彼は完徳に達するため、神に嘉されるものとなるために、すべての能力をもって苦労して、その重荷の上に絶えず立っていなければなりませんでした。……」(1)

 この内的なハンディキャップに加えて、聖ヨゼフは外的なもの、つまり世俗で生き、世俗のことに携わるというハンディキャップも負っていました。マリア様のように神殿で育ったのでもなく、洗者聖ヨハネのように人里離れた荒野で幼いころから一人で生きたのでもなく、誰か聖人や預言者の弟子の集団に加わっていたのでもありません。本当に世俗の中でのみ生きたのです。しかし聖ヨゼフは世俗で生き、世俗のことをしながら誰よりも聖でした。

 私たちは聖ヨゼフの聖徳の完全さを、ひとつひとつ見るべきです。しかしそれだけでは聖ヨゼフが聖であるということの意味を十分にとらえることができません。そのためには私たちは聖ヨゼフの精神が聖であることをも見るべきです。多くの人が共同体、修道会、神学校、教会の中で生き、聖なることを勤めとしながらも俗です。聖なる精神の対極にあるのが世間的精神、俗っぽい精神です。聖ヨゼフの精神には、世間的精神が混ざっていません。これは驚くべきことです。彼の判断と行動を支配する精神は、人間の論理、人間の常識を用いず、神の論理、神の常識を用います。判断においては「神の御旨ならば、なんでも実現可能だ」とし、行動においては「正直にぶつかってゆく」だけです。世間的精神を用いる人は「それは不可能だ」と判断し、「うまくやらなければ」といろいろな手を使います。聖なる精神を持つ人には神がともに働いてくださるので、超自然的な実りがつきます。世間的精神の人には、人間の働きだけですので、人間的な実りだけがつきます。この実りの差は無限といえるほどに開きます。

 共同体に入いってくる人は、世間の精神を皆、最初は持ち込むものです。共同体に持ち込まれた世間の精神は、共同体のつける実りを小さな、人間的なものにしてしまう害悪です。世間の精神は自分で自分の心から吐き出してしまわなければ出ていってくれません。そして世間の精神が出ていかないと、聖なる精神は生じないのです。ですから個人のためにも、共同体のためにも、早く自分で世間の精神を吐き出してしまい、聖ヨゼフにならって聖なる精神で心を満たしましょう。

 共同体の中に生きる人が世間の精神で何かを試み、神の助けでそれに成功したなら、結果は自分の才能・努力に対する自己満足とうぬぼれです。最悪ですね。だったら失敗する方が、その人にとってはよっぽど良いではありませんか。聖なる精神で何かを試み、神の助けによって成功すれば、結果は感謝と希望の徳のさらなる強化です。神の御旨と合わないために失敗しても、結果は謙遜と委託の徳の強化です。どちらにしても神の御前に良いことしか生じません。ですから聖徳だけでなく、聖なる精神も大切だということを忘れず、自分の精神を世間の精神から聖なる精神に変えていきましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P220、221



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【 第50章 】

 既存の修道会において、志願期、修練期は長い修道生活の中で最も厳しい試練のときです。特に修練期はそうです。やめていく人のほとんどが、この修練期の最中に断念して去ってゆきます。これらの期間、志願者・修練者は、自己愛を捨て去って、イエズスとマリア様への愛のみになるよう必死に努力します。この山場を乗り越えて初誓願を立てるときは、感涙にむせぶほどうれしいものです。しかしよっぽど気をつけていないと、この瞬間から自己愛への逆戻りが気づかぬうちに起こるのです。共同体も同じです。共同体に入いるまでが全てを捨てて来ることの大変さのため、最大の山場といえるでしょう。そして共同体の中に住めるようになったときの喜び! しかしこの瞬間からやはり気づかぬうちに自己愛への逆戻りが起こるのです。

 マリア様が次のようにおっしゃっています。「……神への奉仕に聖別された多くの人々の中に、ヨゼフのように、この世ですべてに納得して、すべてを放棄して、すべてを耐え忍んで、すべてを率直に、明るく、変わらない心で神に仕える人がいるでしょうか。いいえ、そのような人は本当に少ないのです。……」(1)

 自己愛に逆戻りすると、神様からさらなる犠牲を求められると「いいえ。もう十分にあなたに尽くしました。いったいどこまで私に求めるつもりですか」と不機嫌になります。こうならないためには、「私はもう十分あなたに尽くしました」ではなく、「私はまだあなたのために何もしていません」という自己否定と、「いったいどこまで私に求めるつもりですか?」ではなく、「どこまでもあなたに尽くしたい!」という仕える心の際限なさが決め手です。「もう嫌だ。こればっかりは我慢できない」と人は言いがちです。あなたはそこで前進をやめるなら、神に「もうあなたを愛するのはやめて、自分を愛します」と言うことになるのです。前進しない人は立ち止まっているつもりでしょうが、そうではなく後戻りしてしまっているのです。ですから少しずつでも、毎日前進することを決意してください。悪魔が巧妙に仕掛ける自己愛の罠から逃れられるように、自己愛を決して持たなかった聖ヨゼフに保護を祈りましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P221



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【 第51章 】

 日本では、共同体の中に生きる人々は、それまで教会に行ったことがなかった人が大多数になるのではないでしょうか。その人たちは司祭に恩を受けたことがなく、司祭たちの腐敗をメッセージによって知っているため、彼らに対して警戒心と反感が先に立ってしまうと思います。ですから皆さんには特に聖ヨゼフの司祭に対する尊敬の徳を見習ってほしいのです。腐敗した司祭たちをどうやって尊敬するのですか?と言いたいところでしょうね。自然の愛で尊敬できなくても、超自然の愛徳で尊敬するのです。つまり、すべての司祭をイエズス・キリストとして見、イエズス・キリストのように扱うのです。

 日本ではマリア様のメッセージを信じ、リトル・ペブルさんに従ったのはカトリック信者ではない人の方でした。共同体に彼らが入いり、そこで良い証しを立てることによって、カトリック信者もマリア様のメッセージを信じ、リトル・ペブルさんに従うことが神様のご計画です。しかし、もし彼らカトリック信者として子供の時から育った人が、共同体の中に生きる人が司祭を軽蔑し、悪口を言うのを見たらどうなると思いますか? 子供のころから彼らは司祭への尊敬を教えこまれてきているのです。こんなふうに習ってきているのですよ。「一人の神父様と一位の天使が前から並んでやってきました。どちらの方に先にご挨拶をするのでしょう? 神父様に先にご挨拶しなければなりませんよ。それは神父様がパンとぶどう酒をご聖体にすることができるお方だからです。天使にはそれができません。それほど神父様は尊いのですよ」

 ですから、彼らが司祭が軽蔑され、悪口されるのを見たら、「この共同体も、このマリア様のメッセージも、神からのものであるはずがない」と判断するに決まっています。そのことを知らないでいてはいけません。神様のご期待を裏切り、人をつまずかせ、救霊の可能性さえつぶしてしまうほどの悪影響が出るのですから。

 聖ヨゼフは司祭への尊敬のために、御降誕後、訪ねてきてベトレヘムに留まるように勧める祭司ザカリアに従いました。一家を養う責任のある彼にとって、どれほど困難を抱えることになるか判っていながらです。そのことを考えたら、どんな司祭をも敬うこと、口が裂けても悪口を言わないことを皆さんが実行することは、何ともないはずです。司祭の尊敬のために、彼はその何百倍の犠牲を払ったのですから。マリア様もこのことを強調なさっています。聞いてください。「……それに司祭に対しての尊敬は、いつもキリスト的な良い心のしるしです。イエズスが言われた通り、使徒的熱心さを失う司祭たちにろくなことはない! けれども同じように、彼らを軽蔑してもよいと考える人々も、ただではすまないでしょう。司祭たちは天から下るまことのパンを聖別し、分配するからです。そのパンにさわることによって、彼らは自ら聖なる者でなくても、聖別された杯のように、聖とされるからです。しかし、言うまでもなく彼らは、神の御前に、それだけの責任を負っています。あなたたちは、彼らをそのように見なし、これ以上のことを気にしてはなりません。彼らの言葉によって天から下り、その彼らの手に挙げられるわれらの主イエズス・キリストよりも厳しくしてはいけない。そういう司祭が、盲目で耳も聞こえず、心が麻痺し、考えが病気で、自分たちの使命とあまりにも対立する罪のらい病に冒されて、墓の中のラザロのようであっても、彼らを治してよみがえらせるように、イエズスを呼びなさい」(1)

 誰かが司祭を軽べつし、悪口を言えば、それをイエズス・キリストに対して直接なされたものとして天は受け止めます。天は不快になり、喜ぶのは悪魔の方です。ではどうしたらよいのでしょう。救霊の愛に燃え、天国にいるその司祭の実の母親であるかのように祈るのです。マリア様の勧めは以下の通りです。「なお、いけにえとなっている霊魂たちよ、あなたたちの祈りと苦しみをもって、イエズスを呼びなさい。一人の霊魂を救うことは、前もって自分の霊魂を救うことですが、一人の司祭の霊魂を救うことは、多くの霊魂たちを救うに等しいのです。なぜなら"聖"であるすべての司祭は、霊魂たちを神へと引く網だからです。一人の司祭を救うことは、その人を"新たに聖別すること"で、今、言った神秘的な網をつくることです。その網にかかる獲物は、すべてあなたたちの永遠の冠に加えられる光です。平和にいきなさい」(2)

 確かにイエズスとマリア様を最も苦しませているのは、司祭と修道者なのです。極悪人でもサタニストでもなく、み心のまわりに最も近く置かれた彼らが、お二人のみ心を最も痛々しく突き刺している刺なのです。あなたがイエズスとマリア様の苦しみを和らげてさしあげたいなら、その刺を抜いてさしあげるのが一番効果ある方法です。すなわち司祭、修道者たちのために祈り、彼らを救うことなのです。聖ヨゼフに一致して、イエズスとマリア様に対するこの慰めのわざを行なってください。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P223
(2) 同本 P223、224



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【 第52章 】

 共同体の中で生きる人は、永遠のもの、永遠の報いだけを求めて旅をしています。目的が純粋でなければなりません。地上のものを目的としてはいけません。わざわざこう釘をさすのは、人間は弱く、神のために、イエズスとマリア様のためにと思いながら始めても、いつの間にか自分の利益に対する欲、自分の名誉に対する欲の満足を求めてしまうからです。そうならないように自分で自分を戒めなければなりません。それで「神よ、あなたにのみ栄光と賛美がありますように! 私には、ただ恥じと辱めがありますように!」というような短い祈りが、神のために働く人々の間では伝統的に用いられてきています。この言葉のままに行なったのは、なんと言っても聖ヨゼフです。特に聖ヨゼフが三人の博士たちの礼拝の時にみせた態度に、その完全な模範があります。マリア・ワルトルタへの啓示の中で、イエズスが説明してくださっているのを聞きましょう。「……まず"自分に委託された役割"にとどまるヨゼフの態度である。ヨゼフは"純潔"と"成聖"の守護者、また後見人としてそこにいるけれども、何も横取りしない。お辞儀と尊敬の言葉を受けるのは、イエズスとマリアである。ヨゼフは、彼女のために喜び、自分がわき役に置かれていることを気にしない。ヨゼフは"義人そのもの"である。そして、今もその態度をとる。決してあの謁見の香の煙に酔うことはない。彼はいつまでも謙遜で正しい人である。その贈り物を喜ぶが、自分のためではない。それは、自分の浄配と、か弱い幼な子の生活を、もう少し楽にできると考えるからである。ヨゼフには何の欲もない。自分は労働者として労働を続ける。しかし、自分の愛である"その二人"にいくらかの安楽と慰めのあることを喜ぶ。……」(1)

 共同体が良い実りをつけ、その信仰がたたえられ、事業が成功するとき、この聖ヨゼフの模範がどれほど重要になることでしょう。地上での成功は、人々のための真理の証しにはなってくれますが、私たちのための報いと考えるべきではありません。報いは天でいただけばよいのです。「ヨゼフには何の欲もない」、これが重要な鍵です。地上のものに対する欲と執着が、目的の純粋さを汚すのです。ですから私たちは、聖ヨゼフの無欲と執着のなさをぜひとも見習いましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P249



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【 第53章 】

 イエズスは聖書にも登場する偉大な律法学者ガマリエルに、「人はへりくだるとき偉大である」と教えたことがあります。神の目に偉大な人とは、人々が「偉大なる誰それ」と呼ぶ人ではありません。自らを常に低くしている人がそうなのです。しかし誰かが神から特別な恵みを受けると、人々はその人を「偉大なる誰それ」と呼びかねません。これは危険極まりないことです。

 もしあなたが共同体の中に生きていて、もしあなたの霊魂が神から特別に恵まれているなら、あなたは共同体の共同生活のうちに完全に隠れるように努めて下さい。それは聖ヨゼフのように謙遜と沈黙のうちに日常の義務の中に皆と同じように自然に生きることです。東方の三博士の礼拝の時、聖ヨゼフは何のほめ言葉も受けずにすみました。彼は何と自然に養父としてその場にいながら、黒子のように自分を彼らに意識させず、僕のように仕えたかを見てください。イエズスもこうおっしゃいます。
「ヨゼフは、イエズスと神の母の守護者であるにもかかわらず、どんなに謙遜か、神の、あの僕たちのあぶみを支えたほどである。ヨゼフは、人の暴力によってダビドの子孫として、そのすべての財産を奪われたので、貧しい大工にすぎないが、いつまでも王の子孫で、王的な気品のある方である。彼について、実際に"偉大なる者であったので謙遜であった"と言われるのである」(1)

 聖ヨゼフのように行なって、霊魂を危険から守ることができます。でもこれは皆が見習うべきことなのです。皆もそうすることで、謙遜のうちに偉大で徳の高いものに、沈黙のうちに雄弁に神の御前に取り次ぐものとなるのですから。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P250



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【 第54章 】

 共同体への召命はふるさとの放棄を意味します。ちょうど聖ヨゼフに天使が「子供と、その母を連れてエジプトへ逃げよ」と命じたのによく似ています。召命に伴う困難の種類は、聖ヨゼフのような外国での亡命生活ほどではなくとも、やはり同じようなものでしょう。逃亡の支度をしながら、彼はマリア様を慰めて次のように言います。
「私もイエズスさえいれば、何ヶ月か前まで懐かしく思っていた故郷を持つと同じです。私には神がおられる。ごらんの通り、私にとってかけがえのないないもの一つも失わない。イエズスさえ救えば"すべて"が私たちに残る。今から、もうこの空、この田舎、それにもまして、懐かしいガリラヤの地を再び見られないにしても、彼と一緒なら、すべてを持っていると同じです。さあマリア、いらっしゃい。暁はもう始まる。女主人に挨拶して、荷物を載せましょう。すべて、うまくいくでしょう」(1)

 子供のころは環境の変化はそれほどの苦しみとはなりません。しかし年をとるとともに、それは大きな苦しみとなります。不慣れということ自体が苦しみですし、郷愁もそうです。一から生活基盤を築きなおす苦労は言うまでもありません。しかし私たちはそれらの苦しみを補ってあまりある喜びを、聖ヨゼフのように本質的なものに見いだして、心の平安と幸福を増してゆくべきです。聖ヨゼフにとってそれはイエズスです。彼は実際にイエズスを持っていましたね。私たちにとってもそれはイエズスです。でも、ご聖体拝領によって実際のイエズスを持つことを今は言いたいのではなく、徳を持つこと、特に愛徳を持つことによってイエズスを持つことを言いたいのです。共同体の中で隣人愛を実践するとき、その意味がわかってきます。なぜなら自分ではなく、自分の中のイエズスが隣人を愛していると感じるからです。世間のレベルをはるかに超えて愛するとき、また、愛しにくい相手に愛を与えるとき、あなたは自分の中にイエズスを見るでしょう。そして大きな喜びが生じることでしょう。

 また、聖ヨゼフがこの言葉でマリア様を慰めたように、これ以後も、死ぬまでいつもマリア様を慰めたことに注目してください。マリア様は聖ヨゼフという慰め手を神からいただきました。「すべて、うまく行くでしょう」という言葉のように、彼の与える慰めは、彼の強い「希望の徳」の発露です。共同体の中で特別な苦労を負って生きる私たちの慰めは、自分自身の「希望の徳」を強めることで神から与えられます。気を紛らわすものでも、気休めでもなく、本当に確実な慰めなので、私たちの慰めであるばかりでなく、私たちの回りに生き、同じ苦労している人にも感化を及ぼし、私たちは聖ヨゼフのように彼らの慰め手ともなるのです。

 あなたが内的に今、召命を感じているなら、ぜひ、このエジプトへ出発しようとする聖ヨゼフのことをよく黙想して下さいね。きっと大きな励ましとなりますよ。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P256



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【 第55章 】

 世の多くの人々は、聖ヨゼフの天使的純潔を認めません。信じません。また、信じている人の中でもほとんどの人が、聖ヨゼフはもともと肉欲を持っていなかったと考えています。つまり肉欲の衝動すらまったく起こらなかったので、生涯純潔でいられたのだと。カトリック信者のなかでも、彼の天使的純潔について正しいとらえ方をしている人はほとんどいないのです。多分これを読む皆さんも、上記のように考えているか、聖ヨゼフのことを聞くのは初めてかのどちらかでしょうね。上記の考え方が誤りであることをイエズスはマリア・ワルトルタに与えた啓示の中で教えてくださっています。聖ヨゼフが原罪の汚れをもって生まれた身であることは、何度も繰り返し述べられていますから、彼は原罪の結果である肉欲の衝動を持っていたのです。無原罪でいらっしゃるイエズスとマリア様はそれがありませんが、お三方とも戦いを免除されてはいなかったのです。

「……私たちは、いわゆる邪欲を知らなかったのではない。見聞きするための目と耳を持っていた。そしてサタンは、活動中、そういうふうな悪徳を目の前に踊らせ、また、いろいろなそそのかしをもって、私たちを誘惑しようとした。けれども、私たちの意志力は全く神に嘉されるものとなるために絶えず緊張していたので、そのような汚らわしいそそのかしは、サタンが目指していた目的に達する代わりに、その反対の効果を私たちの中にもたらしたのだった。彼、悪魔が働けば働くほど、私たちは、彼が体と心の目に見せつけていた、その泥のような闇を嫌悪して、ますます神の光の中に避難するのであった。……自分たちが腐った泥にすぎないので、人間の中に、ひとりでも翼と光を持っているのを認めようとしない人々は、お産の後の、マリアの処女性と、ヨゼフの純潔をなかなか認めようとしない。このあわれな人々は、心も体も堕落しているので、自分たちと同じ人間が、女を尊敬して、肉体ではなく、その魂だけを眺める全く超自然的な雰囲気の中に生きることができる、などとは考えられないのである」(1)

 私たちも聖ヨゼフも同じですが、自分の中から、または聞いたものや見たものによって外から、または悪魔から、霊魂には肉欲の衝動が起こりはじめます。霊魂はまだそれを受け入れてはいません。たとえていうなら、ドアの外にあって中に入いろうとする寸前です。これを第一衝動と呼んでいます。鋭い良心を持つ人は、この段階ではっきりと危険を感じ、すかさず追い払いにかかります。どんなにしつこく入いろうとしてきても、そのたびに戦って一回も見過ごしません。このとき、私たちは被造物である自分の虚しさを痛感し、自分の本性の弱さを悟ります。なぜなら誘惑はなかなか去らず、しつこく攻撃され、自分の無力さを思い知るからです。そこで私たちは神に必死によりすがるのです。この戦いを神がお許しになるのは、私たちを敗北させるためではなく、神によりすがらせて、勝たせるためです。それによってますます私たちを神の近くに引き寄せるためです。聖ヨゼフは他の諸徳において、完全な域に達していましたが、純潔の徳の獲得を、他の諸徳の力も結集して行いました。被造物である自分のむなしさ、人間の本性の弱さ、自分の無力さの意識の中で、神の助けに希望します。謙遜に神によりすがります。忠実に一回も見過ごさず戦います。たとえ進歩しないように見えても、長期にわたって忍耐します。そして彼は勝利に勝利を重ねたのです。彼の戦いの全貎を私たちはいつか天国において知ることができるでしょうが、今はあらましだけであっても、もう彼の天使的純潔を正しくとらえることができましたね。

 共同体の中に生きる人は、人類史上最も肉欲のはびこった今、純潔の見える証しとなるよう求められています。深い闇に輝く燈台の灯のようにです。そのためには聖ヨゼフのやり方で戦えばよいのです。第一衝動のうちに追い払うことを、他の諸徳を結集して行なうのですが、非常に重要なのは、自分の力でではなく、よりすがって戦うことです。それも神様だけにではなく、マリア様と聖ヨゼフにもよりすがるのです。もちろん私たちは聖ヨゼフと違い、他の諸徳もまた不完全なので、純潔の戦いにおいても彼のようないつも完全な勝利をおさめるわけではありませんが、続けてください。この戦いは、霊魂の利益となるから許されて起こり、また、この聖ヨゼフに習った戦い方が、神のご計画通りに私たちを神に近づけるのですから。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P259







【 第56章 】

 天はマリア・ワルトルタへの啓示を通して、聖書には書かれていない聖家族の家庭生活を知ることを私たちに許してくださいました。共同体の中で家庭生活を送る人にとって、彼らを模範にできることは何と大きな恵みでしょう! 少し、かいつまんで引用します。場所はエジプトで、イエズスはせいぜい2歳半くらいです。

「聖家族のなごやかな生活を見る。……"非常に貧しい人々"の家で、壁は、しっくいの上に石灰を一塗りしただけのものである。……その近くの地面に敷いたござの上に幼いイエズスがいる。……黄金の濃いちぢれ毛の頭、バラ色の皮膚、生き生きと輝いている目、色は濃い空色でいかにもかわいらしい。……少し離れた木陰に、マリアが粗末な機で布を織りながら、子供を見守っている。……その彼女の美しさと、何とも言えないやさしい表情のほかに、どんな飾りもない。……ここで道から、あまり背丈が高くないが、強そうな一人の男が、やってくるのが見える。ほほえんでいるヨゼフだとわかる。……正直な魅力のある信頼をさそう顔である。イエズスとマリアを見て歩を早める。……マリアはほほえみ、子供は喜びの小さい叫びを上げて、小さい腕を伸ばす。……子供は母を離れて、ヨゼフの腕の中に飛び込み、小さな頭をヨゼフの首のくぼみに寄せて、ヨゼフとの接吻を交わす。愛敬にあふれる場面である。……それから食事の支度ができ、祈りをしてから食卓につく。……祈りを唱えるのはヨゼフで、マリアは、それに答える。……イエズスは、おとなしく自分のりんごをかじる。白い小さい歯を見せて、ほほえむ。……ぶどう酒はなく、貧しい人の夕食である。しかし、この部屋にただよう平和が、どんなに快いものであるか、どんなに優雅な宮殿でも見られないものであった。それにどれほどの調和!……イエズスが言われる。『今、見ている物事が、あなたと他の人々に訓戒を与える。謙遜、辛抱、全きの調和。キリスト教のすべての家族、特に、今の苦しい時の、キリスト教の家族に与えられる模範である』……」(1)

 現代ほど家庭生活から徳が消えてしまった時代はありません。世界中どこの国でもそうです。世間の物質主義、功利主義、利己主義、みだらで不潔な精神、憎しみと分裂の精神が家庭を毒し、麻痺させ、愛も徳も根こそぎにしてしまいました。この世界には、一個人として良い聖なる人はまだ少数ながらいて、世間への証しとなっています。しかし一家庭という単位で良い聖なる証しができる家族はもはや見あたりません。親は子に、子は親に、兄弟は兄弟に対立し、個人として聖なる人でも、家族全員を神へと高く引き上げ、聖とすることができない悲しい時代です。堕落と分裂のため、今一番深い闇のあるところ、それは家庭です。聖シャーベル修道会がこの世に与えることができる証しの中で最大の証しは、共同体の中で家庭生活をする家族が与えるものです。他の手段では、もう復興することのできない家庭内の愛と聖徳の貴重な模範によって、最も深い闇に、最も輝かしい光を投げ込むからです。それは多くの人を引きつける偉大な力を持つことになります。この使命に召されている、共同体で家庭生活をする人々のために、家族と家庭について、これから聖ヨゼフとともに見ていくことにしましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P263−268



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【 第57章 】

 聖シャーベル修道会は、家族が主役です。司祭・修道者が脇役です。司祭・修道者は家族より上に立ち、家族によって支えられるのではなく、まったく逆に彼らの使命と役割は、家族の下に、いわばもぐりこみ、下から家族を支えるのです。家族が主役ですから、世の人々の目に映るのは、家族の家庭生活です。家庭生活の模範を通して証しをするのも、家族の使命と役割のひとつです。しかしそのためには神様が望んでおられるのはどんな家庭なのかを知らなければなりません。それを知って、自分の家庭がそれとほど遠いことも知らなければなりません。

 日本の共同体では、中に住む家族の、家庭の復興が、非常に骨の折れる大事業になるでしょう。なぜなら日本の家庭は世界でも、たぶん最も家庭の本来の姿を失っているからです。日本の家庭を短い言葉で言いあらわすなら、「衣食住の物質的なものが整っていて、各自が勝手気ままにしているところ」と言えます。これをあらわす典型的な現象が「ひきこもり」の問題ですが、これは日本に特有の問題です。日本の家庭は心のつながりが切れてしまっていることで、家は家なのですが、ホームと呼べる場所ではありません。

 しかし、どんな家族も、だから共同体にいる資格がないとか、共同体にいても仕方がないとか決して考えてはいけません。また、すべての部門の会員皆にも、そのような考えを持つことは断じて許されません。なぜなら家族の使命と役割の最も大きな部分は、彼らが家庭という共同生活を、聖シャーベル修道会の共同体ですること自体にあるからです。問題だらけで、苦しみながらでも、進歩できなくても、その共同生活自体に一番の意味があり、そうやって過ごす一日一日に偉大な価値があるからです。考え違いをしてはいけませんよ! 何かを成し遂げることに価値を置いてはいけません。家族が愛しあう努力のうちに一緒に生活することに最大の意義、価値、重要性があるのです。これをどうか間違わないで理解してください。問題の大きさ、多さに隠れてしまって見えなくなっていても、そこでは何らかの形で自己放棄が行われ、何らかの形で償いがささげられ、何らかの形で愛と善徳が実践されているのです。

 聖ヨゼフを見てください。何かを成し遂げたと世間的にいえますか? しかし彼の過ごした一日一日が、人の目にはさえないものでありながらも、神の目には尊とかったではありませんか。ですから大いに家族を励ましたいと思います。聖シャーベル修道会において最も価値あることを行なっているのは皆さんだと。そして家族たちは聖ヨゼフの姿を自分たちの励みにして、一日一日を彼にささげつつ過ごしてください。










【 第58章 】

 共同体の中で家庭生活をする人にとって、聖シャーベル修道会の創立以来の経験上、すでに分かっている大きな問題がひとつあります。それは、夫婦が連れてくる、18歳未満の子供たちのことです。彼らは自由意志で自分からきたとはいえません。そして共同体全体の、神と隣人のためにというモチベーションのレベルよりずっと低いレベルのモチベーションしかたいてい持っていないのです。中学生か高校生の年代なら、たぶん言うかもしれません。「ここで暮らして何になるの?」「何もしていないじゃないのですか?」「いったい何のためにここにいるの?」「外にいても同じでしょう?」と。

 一家庭の中に長年の間に固定されてしまったもの、互いの関係、接し方や距離、それぞれの考え方、やり方、習慣などは、共同体の中に移り住むだけではほとんど変わりません。若者たちは自分の考えを変えず、世間の精神で暮らし続け、18歳になったら、その家と共同体から出ていってしまうでしょう。両親がいくら聖なる模範を示してもです。両親以外の指導者、霊的助言者、相談相手が存在する必要がここにあります。

 親として子供の成長を見た人はわかると思いますが、子供はある年ごろから、親の言うことよりも、先生の言うことに従うようになります。親としての経験がない人も自分の子供時代を思いだしてください。両親以外の大人の意見は、両親の意見よりも重みがあると感じていたでしょう? そして耳をずっとよく傾けたでしょう? 聖シャーベル修道会は、子供たち、若者たちの世間的精神に替えて、彼らの霊魂に聖なる精神を、彼らが司祭や修道者、家族の長などの両親以外の大人であるスペリアー(長)にも導かれるシステムの中で、共同体による教育・養成として与えてあげることができるのです。

 この共同体の中には、神様がこの子にもゆだねている使命と素晴らしいご計画があり、その実現への道を歩いて行くには、今日の、そして日々毎日のこの子の家庭生活が必要であり、それが将来のための最高最善の準備であること。そしてやはりこの子たちの家庭生活それ自体に神へのささげものとしての尊い価値があり、愛と善徳の実践、意向の純粋さによって、本人の努力でさらにその価値を高めていくことができることなど、共同体が修道会の精神、カリスマ、徳の身につけ方を、スペリアー等、両親以外の大人を通してこの子たちに教え、神と隣人への奉仕のモチベーションを高め、高く保たせるなら、この子たちは若くても、愛の使徒、愛の宣教者となります。これは啓示されている神様のご計画なのです。

 この大きな問題に必ず直面するであろう子供連れの家族も、共同体の他のメンバーも決して恐れたり、不安になってはいけません。神様は良いことが結果として起こるから試練を許されるのです。悪いことは何一つ起こりません。聖ヨゼフは亡命者として外国での極貧の生活を神様から恐れなく受け取りました。それほどの試練に会う人は皆さんの中にはいません。召されていると感じるあなたは、彼のように希望の徳を強め、超楽観主義者となり、神の助けに信頼し、同時に修道会である共同体の助けに信頼して、何も、誰をも恐れずに御旨を果たすべきです。あなた以上の試練にあった聖ヨゼフには、修道会である共同体の支えは与えられていなかったのですよ。神様は私たちを甘やかしてくださっていますね。



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【 第59章 】

 日本の一般的な家庭で、子供の目に、そして目を通して心に映るものを多い順から書いてみます。

 まず1位がゲーム。断然1位の長時間です。ゲームの基本的要素は戦い、攻撃、破壊、殺人、弱肉強食です。2位がテレビ。教育ものであれ、娯楽ものであれ、魔女、魔法、UFO、宇宙人などオカルト的内容がたいてい含まれています。第3位はマンガ本。露骨なセックス、暴力表現は当たり前の世界です。第4位は職業人である保母、先生、塾講師。将来のための知識、処世以上のことは教えません。第5位は友達。有徳な友とか価値ある友情とかとは無縁です。第6位は子供の僕、サービスロボットとしての両親。これらでほとんどすべてです。では子供の目に、生身の人間としての深みのある両親の霊魂は映ることがあるのでしょうか? 多分まったくないでしょう。

 日本の親たちが現在やっていることは、子供との心のつながりを切ることです。そうして突き放した部分を親たちは教育的な?ゲーム、テレビ、マンガ本、保母、先生、塾講師が受け持ってくれることを望んでいます。こう書いても親たちは心のつながりということさえも分からなくなってしまっているので、少し説明が必要でしょう。

 家族の間に心のつながりがあるなら、どういうものが子供の心に生じてくるかわかりますか? 仮にいま挙げた、子供の目と心に写っているものが存在しないとしましょう。かわって子どもの目に映り、心に映るのは、日本で好んで言われる「背中」ではなく、真正面から見るあなたと他の家族の生身の人間としての喜び、悲しみ、苦しみです。これを見続ければ、やがてこれは肌を接しているかのごとく子供に伝わっていくようになります。そして霊魂までも子供には見えてきだします。家族として共に暮らす祖父母、両親、年上、年下の兄弟姉妹、すべての人に心がつながると、人の身になって考えること、思いやること、面倒を見ること、支えになってあげること、世話をやくこと、手伝うこと、話を聞くこと、話をすること、我慢すること、順番を待つこと、尊ぶこと、敬まうこと、気遣うこと、かわいがること、慈しむこと、あわれむこと、同情すること、いたわること、大目に見ること、ゆるすこと、くさらずにしかられること、すすんで罰せられること、謝ること、償うこと、ありがとうと心から感謝すること、悪かったと心から反省すること、皆を明るくさせること、機嫌よくいつもいること、みんなを楽しませること、元気づけること、等々が、その子の心に芽生え、実行するようになり、人格の一部となってゆきます。子供が両親の霊魂を見るようになると、彼らを僕、サービスロボットとはもう見なくなります。かわりにそこに無償の愛と奉仕の精神を発見します。神の姿を将来そこに重ねて見いだす素地がこれででき、子供は信仰心の土台を持つことになるのです。今の日本の子供たちの心に、これらを幼稚園が、学校が、塾が、ゲームやテレビやマンガ本が与えることができるでしょうか。

 日本の家庭として共同体に移り住む家族の両親は、まず信仰以前の問題である心のつながりの回復から始めなければならないことが分かったと思います。その他の、親として神から任せられていることも知る必要がありますから、その説明も後でしましょう。

 「大変だなあ」と思っているあなたに、私たちには祈りという原爆より強力な武器があることを思いだしてもらい、力づけ、励ましたいと思います。マリア様と聖ヨゼフが、あなたが家族のために祈るとき、聞いてくださらないことがあると思いますか? あなたの子をあなたの愛よりもずっと強く完全な愛でお二人は愛しているというのに? 逆にマリア様と聖ヨゼフはあなたの祈りと協力を待っていらっしゃるのです。あなたの子を聖人に変えようと望んで。ですから恐れないでください。心配しないでください。子供たちの反発があっても、特に強く正しい聖ヨゼフによりすがり、祈りつつ、立ちどまらずに進んでください。



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【 第60章 】

 テレビの対談番組で、日本の親たちがよくこういうことを言うので、私は本当に驚いてしまいます。例えば「あいさつだけはきちんとできるようになってくれれば、それでよい」、「勉強だけはちゃんとしてくれたら、それでよい」、「警察のお世話になるような人間だけにならなければ、それでよい」、「元気であれば、それでよい」などなど、「……さえできればあとは自由放任」というパターンが実に多いのです。日本の親たちは、なぜ自分の責任をわずかなことに限定してしまうのでしょうか? 彼らは子供が世間様に後ろ指をさされないようにだけを共通して望んでいて、力点がそれぞれの親で違うというだけです。「子供をあらゆる面で高潔な人格の大人に育てるために、私にできることは全部やります」という親がいないのは、とても不思議です。これこそ神がすべての親にゆだねている責任だというのに! 日本の親たちは「それは自分にはできない。荷が重すぎる。これだけの種目に絞り込めばできるだろう」という考えで、きっとこのような主義に皆おちいるのでしょう。でも、なぜ無理だと感じるのですか? 聖ヨゼフは父親として最も優れたお方ですが、無学な大工でしたよ。日本の親子関係は特殊なのですか?

 はい。そうですね。非常に特殊なところが確かにあるのです。そのため日本の子供は、諸外国の子供と比べ、親との距離がはるかに遠いです。それを理解するには外国、特に欧米で生活し、学校と家庭をよく見ることが役に立ちます。欧米の学校では先生の役割と、子供たちのやっていることが日本と全く違います。日本では子供は本に書いていることを覚えこむだけですが、欧米では子供たちは自分で考え、先生は子供の考えるプロセスを助けます。これは家庭での親と子の間でも同じです。というよりは、家庭での親の役割と子のやっていることを学校に移したのです。親は子供におりあるごとに考えさせ、親は子供の考えていくというプロセスを一緒にやりながら導きます。また、欧米の子供は、父親、母親と一緒に実によく、日本でいえば大人の仕事を長時間します。そして大抵のことはほぼ一人前にこなす何でも屋さんです。仕事には段取りがあり、多くの手順をふんで合理的に目的に向かってゆきますね。それぞれの段階にそれなりの意味があります。ですから子供が考えるというプロセスを、親と一緒にやっていく大切な実地の場となっています。

 日本では学校の先生が子供の考えるプロセスを一緒にやらないし、子供に考えるプロセス自体を教えないのと同様、家庭でも親は子供に考えるプロセス自体を教えないし、子供の考えるプロセスを一緒にやって導いたりはしません。というより、この家庭の姿が学校に移されているのです。そして日本の子供は、親の仕事や家事をほとんど手伝いません。遊びと勉強以外何もしません。親は覚え込ませたくて、考えるというプロセスをすっとばして、「こうするもんだ!」「それが常識だ!」と言って教えますが、結局子供の信用を失っていくことになります。なぜなら子供も経験が増えれば、状況によっては、または家庭が違えば、地域が違えば、「こうするものだ」と教わったことが、こうしてはダメで、「それが常識だ」と教わったことが非常識なことになってしまうことがわかってきます。ですから口やかましく、こと細かに言っても、考えるプロセスを子供と一緒にやらない限り無益ですし、子供の心は親から離れていってしまいます。反発し、軽蔑しさえします。
 もし親が自分の考え方の道筋を子供に移し植えてあげれば、状況に応じて子供はそれを応用して、親のように判断することができるようになります。これはあらゆる面においてです。善悪、道徳、信仰、実生活、勉強、仕事、趣味や遊びに至るまで、すべてに応用することができます。欧米の親たちは、この応用が自在にきく「考えるプロセス」という基本を子供に移し植え、子供を自立させ、一人前の大人にしてゆきます。日本の親たちのように答えだけを与えていると、状況が変われば応用がきかず、子供は何もできなくなります。また、その都度人に答えをたよろうとするマニュアル人間ができあがるだけです。これでは日本の親たちは一生子供につきっきりにならなければいけないではありませんか。

 子供が幼いころから、親がこの「考えていくプロセスを」一緒にやってきたなら、親と子はいつでも心を通わせられる距離にいるでしょう。しかし、日本にはこういう家庭はまずありません。共同体に入いってくる家庭は、今までの日本的な特殊な親子関係を改めるチャンスを手にします。親たちは今までのやり方を改めねばなりません。親は子供の「考えていくというプロセス」を、話し合いと、仕事や家事をともにする中で、一緒にやることを始めなければなりません。それで初めて、子供との距離が近くなってゆくのです。ただし、親はそれを超楽観主義者としてやってください。悪魔的悲観主義を子供に移し植えるようなことが起こらないためです。聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの霊性をよく理解し、それを行ないつつですよ。「うまくやらないと失敗するぞ!」、これが日本流の、結局子どもを悲観主義の臆病者にする、子供への親の掛け声です。「気楽にやれよ! きっとうまくいくさ!」、これが欧米流の、子供への親の掛け声です。身に覚えがありませんか? 実に信仰以前の問題ながら、これほどあなたも存在の深いところから、変わる必要があるのです。だからぜひ、聖ヨゼフに助けを求めましょう。「気楽にやってください! きっとうまくいきますよ!」






【 第61章 】

 日本の子供にとって、家庭は「無償の愛と奉仕の場。それを学び実践する場」ではありません。子供は両親から、ただ奉仕を受けるだけです。無償の愛? 物を欲しがるだけ与えられ、甘やかされ、ダメにされることをそう呼ぶのなら、子供は無償の愛も両親からただ受けるだけです。親たちはそれで子供の精神と霊魂がほったらかしになっていることには気がついていないようです。日本の親たちはよく「やるべきことはみんなしてやった」と言いますから。

 しかし日本の親たちは次のことを理解し、受け入れなければなりません。「子供は親を知り、愛し、仕えなければいけない」のだということを。父親の生活だけでなく、その精神と霊魂を知り、彼を愛し、彼に奉仕しなければいけないし、母親の生活だけでなく、その精神と霊魂を知り、彼女を愛し、彼女に奉仕しなければいけないのです。例として、日本でもよく知られている「大草原の小さな家」の著者、ローラ・インガルスをあげましょう。彼女は父親と母親それぞれの子供時代からのことも別の本に、詳しく、出来事だけではなく感情や心の思いまで描写しつつ書いています。日本の子供は、それができるほど父について、母について知っていますか? 親たちは子供にほとんど何も内面を伝えていませんから、もちろんできるわけがないのです。知らないのですから。では子供たちは知らない人をどうやって愛するのですか? 親だからと義務として愛するのでしょうか? 親を敬うのは神の十戒による義務なのですけれど。でも義務としての愛は本当の愛ではありません。義務ではなく自由にまかされて愛するとき、愛は初めて本当の愛になるのですから。子供は、深い魅力をたたえた親の精神と霊魂を知り、また、そこに自分への大きな愛があるのを知り、それで親を愛し、精いっぱい愛し返そうとするのでしょう?

 日本の親たちは、自分の内面を、自分の精神と霊魂を子供に伝えることが全くできていませんね。だから家庭が変わるためには、少なくともここからスタートを切らなければならないのです。子供に「親を愛しなさい!」「親に奉仕しなさい!」と言うところからではありません。もっとさかのぼったところから、まず親が始めなければ変化は始まらないのです。
 なぜ子供は親を知り、愛し、仕えなければならないか、その理由がわかりますか? それは親とその子の関係が、たいていそっくりそのまま神とその子の関係になっていくからです。人は神を知り、愛し、仕え、天国の永遠の幸福を得るためにこの世に生まれさせられます。親を知らなくても平気で、知ろうという興味も持たないように育てられた子は、神を知らなくても平気で、知ろうという興味も持たないでしょう。親を義務感で愛する子は、親を本当に愛してもおらず、同様に神を義務感で愛することはできるでしょうが、やはりそれは本当の神への愛ではありません。親から奉仕されるのが当然として育った子は、神に感謝する人間にもならず、親に奉仕しなかった子は、仮に感情的な信心業を神にささげることができても、苦労、犠牲、苦しみを担いつつの奉仕を神にささげることはできないでしょう。家庭は将来へのあらゆる基礎ができる場、そして訓練の場です。神を知り、愛し、仕え、天国に行くのにも家庭で基礎がすえられ、訓練が施されるのです。人生の究極の目的に向けての基礎づくりという、これ以上ないほど重大な役割が親に任せられているのですよ!

 共同体に入いる夫婦も、独身者として入会し、将来家庭を持つことを望んでいる人も、日本の家庭が全く欠落させているこの部分を、どうか聖ヨゼフのいと清き御心を通してよく黙想して下さい。というのは、日本人である皆さんには、親にしてもらっていない未体験のことなので、体験を利用できない大きなハンディキャップがあるからです。聖ヨゼフは恵みをもってその黙想を助け、実りあるものにして、皆さんのインスピレーションのうちに教えてくださるにちがいありません。この世において神の父親の役目を完全に果たした彼なのですから、天からあらゆる手段を用いて、家庭のために彼にこい願う人を助けてくださいますよ。








【 第62章 】

 日本の親たちは、なぜ家庭にまで能率至上主義と分業主義を持ち込んでしまっているのでしょう? 例えば父親が「お母さんの手伝いをしておいで」と言い、子供が母親の家事を一緒にやろうとし始めると、母親は「手伝わなくていいから、勉強しなさい」と言い、一緒にやらせません。母親が「お父さんの手伝いをしておいで」と言い、子供が父親がやっていることを一緒にやろうとすると、父親は「じゃまだから遊んでこい」と言って一緒にやらせません。こんなケースがいくらでもあります。親にとっては子供が一緒にやると能率が悪いことでしょう。子供が勉強だけする方が、成績という目に見える結果が出るので、親にとってはいいことでしょう。しかし、親のこの拒否で、子供は親を行ないによって愛するチャンスを失いました。ことの重大さがわかりますか? 子供は具体的な行ないによって、愛することを学ぶ必要があります。愛とは感情ではないのです。感情のみで何の行ないも伴わなかったら、それは愛することになりません。目の前で飢えに苦しむ人がいて、「かわいそうに!」と思えば愛したことになりますか? いいえ、食べ物を分けてあげなければ愛ではありません。家庭は「無償の愛と奉仕を学ぶ場」でなければならないのに、奉仕のチャンスを与えず、奉仕という具体的な行ないをさせることで愛を教えるということをしないなら、一体子供はどうやってそれらを学べるのですか? 家庭は「心のつながりで結ばれ、人と心のつながりを持つことを学ぶ場」でなければならないのに、子供と一緒にやることを親が拒否していてどうやって心のつながりを作り、作り方を学ばせるのでしょうか? 日本の親たちは、まず能率至上主義と分業主義を家庭から排除してください。つまり家庭にいる間は、親たちは別の主義に切り替えてください。私が今、名前をつけますが、それは「子供の霊魂至上主義」という主義です。子供の霊魂の養成のためなら、親の仕事の能率も、子供の学校の成績も重要視しないという主義です。

 共同体の中で家庭生活をする夫婦は、「子供の霊魂至上主義」を夫婦で話し合いつつ、一緒に徹底させてください。上に例としてあげたような、子供の霊魂にとって悲劇的なことがもう起こらないように。そして、「子供と心のつながりを作ろう」「自分たちの内面を伝えるコミュニケーションをしよう」「子供におりあるごとに考えさせ、子供の考えていくというプロセスを一緒にやろう」ということを話し合い、二人とも実行するのですよ。そうしながら、夫は子供に「お母さんを愛しなさい」と命じ、具体的な奉仕と尊敬を教え、実践させてください。また、妻は子供に「お父さんを愛しなさい」と命じ、具体的な奉仕と尊敬を教え、実践させてください。

 そして非常に大切なことがあります。それは「愛と奉仕には限界がない」ということです。この意味は、子供が教えられたことを義務としてではなく、創造的に、自発的に愛と奉仕を実践するようになり、これをひとつの方向性として家族の全員に、共同体の全員に、地域で触れ合う人へと広げていく過程がこの先にあるという意味です。どこに子供を導いていくのか、親たちはビジョンをしっかりと持ってください。もうひとつの方向性はもっと重要です。これはこの先、肉体的、物質的慈善の業から、精神的慈善の業へ、そして信仰の真理を教える霊的慈善の業へと子供の愛と奉仕の質が広がることです。この方向への広がりによって、人にも神にも際限なく愛と奉仕をささげる完ぺきな神の僕に子供がなってゆくというビジョンを親たちは持ってください。親に任せられたことはなんと重大なのでしょう! これに応えるには聖ヨゼフの助けが不可欠です。

 長くなりますがマリア・ワルトルタを通してイエズスが教えてくださることを聞いてください。そうすればなぜ聖ヨゼフに祈り求めるべきかがわかります。
「……最後に親たちの注意を引きたいことは、ヨゼフは教育によって得た多くの知識もなかったのに、私を腕の良い労働者に仕立て得たということである。道具を使える年になるや、私に怠惰な日を許さず、早速、仕事を習わせ、マリアに対しての私の愛を、仕事に励むように助けとして使った。母の役に立ついろいろな道具を造ること、これによって、すべての子供が母親に対して持つべき尊敬を、私に注ぎ、未来の腕のいい大工を作る見習いは、今言った深い愛を込めた尊敬に基づかせていたのだった。親たちを喜ばす手段として、子供たちに仕事を愛させる家族は、今どこにあるか。多くの場合、子供たちは家の暴君となっている。親たちに対して心を閉ざし、無関心で無礼に育つ。親を自分の僕とさえ考え、親を心から愛さず、また、対して愛されていない。なぜなら、あなたたち親は、子供たちをわがままな暴君のようなものにつくると同時に、恥ずべき無関心をもって、彼らから心を遠くして生きるからである。20世紀の親たちよ、あなたたちの子供は、あなたたちの子供というよりも、乳母とか、金持ちだったら家庭教師とか、有名校の子である。貧しかったら、仲間達、道、学校のものであるが、あなたたちのものではない。あなたたち母親は、子供を産むだけの者である。あなたたち父親も同じようなことをやっている。しかし子供は肉体だけのものではない。何よりも知恵、心、霊である。この知恵、この心、この霊を創り上げる義務と権利が、誰よりも父と母とにある、とよく肝に銘じておくがよい。……」(1)

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P276、277



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【 第63章 】

 家庭はまず、ホームであるべきです。そこには自分が世界で最も愛する人たちがいて、世界で最も自分を愛してくれる人たちがいて、愛の輪があるべきです。この愛の輪があるので、そこは世界で最も幸福を感じる場所になります。お互いに心が深くつながっていて、互いに無償の愛と奉仕をささげあうところ。そういう場所としてのホームでなければなりません。衣食住が整っていても、各自が勝手気ままにしているところをホームとは言いません。ホームであることを実現するには、聖ヨゼフの助けと修道会である共同体の助けを得なければならないのですが、家庭はホームであるだけではなく、それに加えて、子供にとって小さな教会、小さな学校、小さな職場、小さな社会でもあらねばなりません。あれもこれもと言われて、目がまわりそうになっていませんか?

 今の日本の家庭は、子供にとっての教会、学校、職場、社会としての役割を果たしていません。悪い分業主義に皆染まっていて、親たちは自分の本来の役割を教会、学校、職場、社会にすべて肩代わりさせ、それぞれの場所に子供をあずけるだけです。しかし、これは間違いです。神がゆだねている責任のあらかたを放棄してしまっているからです。
 日本の人たちに、ホームであり、小さな教会であり、小さな学校であり、小さな職場であり、小さな社会でもある家庭をイメージするのはほとんど不可能でしょう。では、例えばカナダやアメリカの開拓時代のフロンティアにある家庭をイメージしてみてください。きっと近いものをイメージできると思います。親たちも子供も、生きるために精いっぱい働いています。木を切り、畑を作り、水を汲み、家を建て、狩りをし、牛馬を飼い、保存食料を作り、越冬する……、すべて自分たち家族全員の力でやりますが、それだけでなく、教会も学校もないので、信仰深い彼らは、家で子供を教育し、信仰を教え、家庭で神を礼拝します。また、男として、夫として、父としてのあらゆる仕事と勤めができるように、女として、妻として、母としてのあらゆる仕事と勤めができるように、知っていることの限りを子供に伝え、習得させます。そして、親類や、近い家とのつきあいや、協力、共同作業のうちに社会のルールを子供に身につけさせます。これはわずか200年ほど前のことですよ。オーストラリアのフロンティアでも、きっとこうだったでしょうね。当時の親ができたことをあなたができないのはなぜでしょうか? それは、子供がその心と霊魂において、もう親のものではなくなっている現実が、すでにあるからです。開拓時代のフロンティアにある家庭では、子供は体においても、その心と霊魂においても親のもので、親が子供を立派な大人にするほとんど唯一の責任者でした。

 さて共同体の中で家庭生活をする親たちは、親の役割と家庭の役割については、フロンティアにある家庭のようなものを目指していくべきです。「それは退歩ではないのですか?」と思うでしょうね。「いいえ、回復です」とお答えしましょう。今、親たちは悪い分業主義によって子供と切り離されています。子供はホームを失い、心のよりどころがなく、孤立して精神的にさまよっています。子供は親から生きる術をすべて習うことが自然です。動物たちはそうしていますよ。今の不自然を進歩と呼ぶなら、その進歩の結果、社会はよくなり、人は幸せになりましたか? 子供はもう親に何も期待していないではありませんか? 父ちゃんなんか要らねえや、母ちゃんなんか死んじまえと。それで親は幸せですか?

 共同体の中で家庭生活をする親は、今まで従ってきた日本の社会と家庭の悪い分業主義を否定して、子供を自分の手に取り戻すことをやり始める必要が本当にあるのです。家庭の中で親から子供が、生きること、大人として必要なことをもっとたくさん学ぶことで、子供の心は親と再びつながります。子供を取り戻す戦いなのですよ。肉体的にであったら、普通、親は命をはります。心と霊魂を取り戻すのはもっと大切な戦いです。それは信仰のうちに行なうべき戦いです。あなたは自分と自分の家庭を聖ヨゼフにささげ、彼の熱愛者となって戦いに挑んで下さい。きっと成功します。恐れずにチャレンジしてください。



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【 第64章 】

 共同体においても家庭生活の模範となる聖家族の家庭の中で、目に見える顕著な徳を、イエズスは簡潔に言いあらわしておられます。「……謙遜、辛抱、全きの調和。……明るさ、ほほえみ、調和がただよい、……いらだち、不機嫌、暗い顔はなく、お互いの不満や咎めもなく……」(1) このように謙遜、辛抱、明るさ、ほほえみ、調和という徳と、いらだち、不機嫌、暗い顔、相手への不満、咎めという悪徳とは対比されています。

 日本の子供たちを、近所や知り合いや、まわりをよく見回して観察してみてください。わずか1〜2歳から、いらだち、不機嫌、暗い顔、親への不満、咎めの感情が強く、しかも頻繁に現れます。本当ですよ。日本の子供たちには何が起こっているのか分かりますか? 実は「親を子供が支配すること」が起こっているのです。日本の親たちは、子供がまだかわいらしい年齢のうちは、何をやってもやりたい放題にさせます。けれども、子供というものは、人生のごく初期の段階で、自分と回りの人の力関係を感じ、位置付けをしてしまいます。何をやってもそれをやめさせない相手。いらだち、不機嫌をぶつけ、つまり泣きわめいたり、だだをこねたり、すねたりすれば、何でも要求を通すことができる相手は自分より下の人。強い視線と、断固としたジェスチャーや声、手や足や体をやさしくしっかりと押さえて静止させる人、泣きわめいたり、だだをこねたり、すねたりしても、いっさい何の要求も通らない人、むしろそれをすぐにやめさせ、かえって自分が従うまで要求を繰り返し、いい加減にはしない人、この人は自分より上の人です。支配されるか支配するかの関係がこの時期に決まります。生まれた時点から3歳ごろまでが本当に大切な時なのですよ。

 親を支配する立場に立った子供には、謙遜も、辛抱も、親との調和も、明るさも、ほほえみも育ちません。立場が上なのですから、へりくだる必要も、我慢する必要も、相手に合わせる必要も、相手を喜ばす必要もないからです。その代わり、何でも要求が通るはずなのに、時々望みに従わない親に、心の中には不満や咎めが積もり積もってゆき、いらだち、不機嫌になり、親に暗い顔を向けます。当然の反応ですよね。「家来のくせに従わないとはけしからん」というわけなのですから。そして一生、この子供はだれに対しても主人として自分を位置づけることになります。神に対してでさえもです。日本の親たちはこういう人間を作っているのです。なんと罪つくりなことでしょうか! 自分の子に、悪徳に向かうレールを敷いてやり、その上を走らせはじめるのですから。

 家庭は子供に徳を植えつけ、その子の中に徳を成長させるところでなければなりません。しかしそのためには、信仰以前の、しかも動物的な次元のベースとして親が子供を支配する自然な正しい関係が必要なのです。

 日本の家庭は、たぶん世界で最も子供が親を支配している家庭です。徳を子供に植えつけ育てる場としては、世界中で最低最悪の家庭です。ここからの回復をはかるには、親にも子にも、皆の上に奇跡を起こす神の恵みが先行して必要です。ですから皆さんに呼びかけます。皆さんの努力に先行する神の恵みを受けるために、恵みのラインの中に入いりなさい。恵みの流れの中心に入いってきて、留まりなさいと。それがマリア様のミッションであり、家庭の回復のためのこの聖シャーベル修道会であり、家族が主体の共同体であり、その中で与えられている聖ヨゼフのいと清き御心への信心なのです。

 「闇に座す民は光を見た」という預言の御言葉が、旧約聖書にあります。最も深い闇に陥っている日本の家庭に、この預言が当てはまり、実現するように、まずあなたとあなたの家庭が「光」に入っいてきてください。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P268、269



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【 第65章 】

 善い健全な家庭で育った人は、善い健全な家庭をつくるのは、そう難しくはありませんし、善い修道者となることもそう難しくはありません。しかし、そうでない人、つまり、悪い不健全な家庭で育った人や、家庭で育たずに施設などで育った人は、善い夫、よい父になること、善い妻、善い母になること、善い健全な家庭をつくることが大変困難で、善い修道者になることもまた、大変困難です。経験上、これは事実なのです。でもそうすると日本の家庭の今の状況を考えると、日本人で善い夫、善い父に、善い妻、善い母になり、善い健全な家庭を作れる人は、また善い修道者になれる人は、誰もいないなんて結論になってしまいますね。聖シャーベル修道会の共同体の中で修道者になるにしろ、家庭を持つにしろ、日本人にとって、どちらも大変困難なわざであるということは確かに言えます。しかし、だから恐れにとらわれ、信頼をなくすのは、聖ヨゼフの霊性とは反対の行ないです。聖ヨゼフに習う超楽観主義者は希望の徳によって、神様の助けが必要なだけいただけることをこれっぽっも疑わないものです。

 ここで神様の助けについて書くのは、まだ悪魔的悲観主義を根づよく持っている皆さんをなんとか励ましたいからです。その助けとは、近い将来、偉大な聖人たちが生き返って、天の選ばれた共同体の中で、私たちと一緒に生活してくださいます。エーッ、ホントーッ!と叫ぶほど驚いたでしょう? 本当ですよ。そうして私たちを指導してくださいます。ですからその日まで、困難の数々は、担うべき十字架、ささげるべき犠牲として受け入れ、共同体で堅忍してくださいね。ここまでしないと私たちがものにならないと神様はよくご存知なのですね。私たちは何と甘やかされていることでしょう! 確かに天のおっしゃるとおり、あらゆる世紀を通じて、今の私たちほど多くの大きな恵みを受ける世代はないのです。堅忍とは、常に御旨にハイと言い続けることです。これによって恵みに心を開き続けてください。神様が注ぎたい恵みが全部入いるように。聖ヨゼフのように希望の徳を強めるのが、堅忍の鍵ですから、聖ヨゼフから目を離さず、彼にますます似たものとなってください。



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【 第66章 】

 今から書くことは、伝統的には個人的に司祭にたずね、司祭から教えてもらうことですが、いまは2つの理由でここに書くべきでしょう。ひとつはこれを読んでいる人の中に、司祭に個人的に相談できる恵まれた立場の人がほとんどいないという理由で、もうひとつは司祭が間違ったことを教える可能性が高いからです。

 夫婦間の貞潔と夫婦のつとめについて説明します。既婚者の貞潔は、独身者の貞潔とは違います。完全な純潔を保つべき独身者は、異性の体を見つめることも、性行為を思い描くことも禁じられています。それに対して既婚者は、配偶者の体を見つめること、配偶者との性行為を思い描くことは禁じられていません。もちろん配偶者とのみ、夫婦のつとめを果たすのは義務です。既婚者はこれらを性欲の充足のためだけではなく、配偶者との夫婦間の愛を養い強めるためにするべきです。単なる性的快楽のためだけなら、同じことをしてもそれは罪になります。子供の出産は夫婦の召命です。修道者の召命のような召命なのです。ですからいつも神様に受胎の可能性を開いていなければなりません。ここで多くの間違いがカトリック教会の中に広まってしまっているのです。すなわち自然な受胎調節(オギノ式など)を用いれば、神様に出産の可能性を閉ざしてよいという間違った考えです。神様のお望みは、それと反対です。神様は現代の夫婦にもっと子供を受胎させたいのです。マリア様のメッセージを知っている人の中にも、聖福音の「その日不幸なのは、見ごもった女と乳を飲ます女である。こういうことが冬や安息日に起こらぬよう、その日逃げ出すことのないように祈れ。その時には、世のはじめから今までにもなく、後にもないほどの大艱難が起こる」(マテオ24・19−21)を自分なりに解釈して、今は子供を産まない方がよいと考えている人が多いのです。それは全くの誤釈で、神様の御旨に反しています。

 ところで、現代の新しい問題ですが、非常に増加しているセックスレスの夫婦は、神の御旨に反しています。配偶者がまじめに夫婦のつとめを求めるとき、これを拒むことは罪です。

 偉大な聖人ですら、一日に少なくとも七度は罪を犯すと言います。聖ヨゼフだけは、あらゆることを神と隣人への愛ゆえに行った特例です。他は皆、罪人なのです。というのは、神と隣人への愛を持たずに行なうことは何であれ罪なのですから。少なくとも怠りの罪になることは分かりますよね。聖ヨゼフのようにすべてを愛をもってすることは可能なのに、そうしないのですから。これは夫婦のつとめの場合にも、もちろん当てはまります。利己心のみで自分の満足しか求めないなら、そこに神の召命に応えるものへの神の祝福はありません。相手を道具のように利用して、自分のためだけの利益を追求しているからです。これは功利主義と言います。キリスト教的愛に基づくなら、神と相手への愛のために、自己を与える行ないであるべきです。

 共同体の中で生きる夫婦は、完全に神のお望みに従ってください。それができる環境です。他の会員たちがあらゆる支援を与えてくれます。人間の自分勝手によって世界中で今、子供は神の最も尊い贈り物ではなく、ぜいたくな生活の妨げ、面倒でやっかいな邪魔者として敵視され、恐れられ、受胎、出産を拒まれています。神の最大の贈り物だというのに。

 このよこしまな世界に代わって、神の御旨が完全に果たされる場として共同体が存在します。子供の受胎に関しても同様です。生まれるべき子は永遠の昔から神によって定められています。神の永遠のご計画が、共同体に生きる夫婦の神への愛と、互いへの愛による協力によって、実現され、天国を継ぐ民、平和の統治に生きる子らが増やされるように、私たちと同じ原罪を持って生まれながらも、あらゆることを神と隣人への愛のうちに行なった唯一の方である聖ヨゼフに祈り、助けていただきましょう。
【 第67章 】

 マリア・ワルトルタに天から与えられた啓示によって、イエズスのご生涯を生き生きと見ることができます。そこにはイエズスの老人たちに対する限りない優しさと忍耐が描き出されています。神にしかできない優しさと忍耐です。既存の修道会は今、老人ばかりのところが多いのですが、その代わり彼ら、彼女らは順応性に富んだ若いときから始めた修道生活を40年、50年、60年、70年、それ以上も送ってきた、鍛えられたプロ中のプロたちです。聖シャーベル修道会の共同体は事情が全く異なります。そこに住むお年寄りは、すでに老齢になってから修道会である共同体に入いったのですから。それで共同体では年をとっている人に特別の配慮が必要です。

 既存の修道会が入会年齢上限をたいてい35歳くらいに定めているのは、男性はそれ以上の年になると順応性が乏しくなり、適応できずにたいてい退会してしまうからです。女性は40歳くらいに定められているのは、同じくそれ以上の年になると順応性が乏しくなるからです。そして年を取れば取るほど、ますます人間は考えが固まり、変わりにくくなります。生活習慣もまた、変えにくくなります。皆さんが考えているより、はるかに適応に時間がかかります。考えは非常に狭くなり、新しいことが入いっていきません。年とともに起こる脳の変化をどうしてとやかく言えるでしょう。年とった人たちの善意の方に目を向けるべきです。彼らは非常にゆっくりと適応してゆけばよいのです。

 年とった人のことも、共同体の中で生きる家族にかかわる問題のひとつです。共同体には老夫婦二人だけの家庭もあれば、若い夫婦と一緒に入会する人たち、一人住まいの老人もいます。聖シャーベル修道会は拡大家族という考えを会員に示しています。ある家族だけがお年寄りの世話でフーフー言っている。まわりは無関心。ある家に老夫婦がいる。一人住まいの老人が寂しく生きている。まわりは無関心。これが現代社会の現実です。お年寄りが存在することが悪だといって、安楽死を合法化していっています。とんでもないことです。悪はまわりの無関心です! 共同体はこうであっては絶対ダメです。まわりが関心を持ち、年をとった人もまわりに関心を持ち、拡大家族としての道が始まります。一方向ではなく両方向であることが肝心です。共同体の中の若い人とは何年たっても一度も話したことはないし、名前も知らない。誰の子かも分からない。という、お年寄りの陥りやすい状況を、そうならないように助けてあげてください。

 上に書いたような老齢の修道者は尊敬すべきです。若いころから自分をよくおさえて、自分に打ち勝ち、多くの徳を身につけているのですから。しかし、聖シャーベル修道会の共同体に入いるお年寄りも尊敬すべきです。神が送られた人を、創立者のリトル・ペブルさんを、そのように神が送られた人として受け入れた単純な信仰もまた、尊いのです。単純ながら、どれほどその信仰が深いかは外見からは分かりません。しかし多くの試練にふるい落とされて、有能な働き盛りの人たちが、次々に、ほとんど入れ替わってきた中、試練に試されてもずっと信じてきているお年寄りたちがいるのです。また、神様は大警告の時、その人の真価を公にされるでしょう。彼らのうち最初から忠実であり続けた人々は、男性は33歳、女性は15歳の体と能力に戻るからです。

 また、やはり外見ではわかりませんが、彼らのうちに邪欲の炎はもう燃えていません。老齢によるその魂の静けさの中、愛の炎だけは無限に大きくできるのです。体の衰えや、いろんな苦しみを、こころよくささげて、愛のいけにえとして神の目に嘉される人もいます。人生の最終コースで、神もその人の完成を目指し、その人も人生の最後をいけにえの使徒職を持って主のご受難、ご死去に一致させようと努めているなら、準備、働き、いけにえという使徒職の人生のプログラムでは、今、いけにえの段階という最高に価値ある日々を送っているのです。

 聖ヨゼフが老いて、病気で苦しんで、イエズスとマリア様のために使い果たしてしまって亡くなったことを考えましょう。ベッドにふせっている聖ヨゼフは、働き盛りの時以上の働きを、いけにえの状態でささげていました。それで共同体の皆さんは、拡大家族の一員として、お年寄りに自分の父のように、母のように配慮と尊敬をもって接してください。

【 第68章 】

 コルベ神父様は司祭になってローマからポーランドに帰ってきたとき、もうすでにいつ悪化して死んでもおかしくない重症の結核でした。外見からはそうは見えないどころか、微熱のためのいつも赤らんだ顔とほほ笑みのせいで、かえって健康に見えました。神父様は熱が上がらないようにゆっくりと動いたので、他の会員からたくさんのひどい侮辱を受けました。言い返さずに我慢するのに両手で顔をおおう必要があったほどです。「修道院の院長が病人だと、修道士たちは幸せです」という言葉があります。これは健康な人がいかに病人のことを理解しないかを示す言葉です。修道院という「愛徳」に生きる場で、修院長に選ばれる有徳の司祭でさえ、自分が同じ苦しみを背負っていないなら、病気の人を「裁く」のが普通なのです。

 皆さんは外見にはっきりとわかるハンディキャップや、病気の症状がはっきりしているケースの場合、「辛いだろうな」と自然と思うでしょう。しかし外見には現れない病気の人、やっと何とか普通の人と同じことができる病人の方が、精神的にずっと重い苦しみを負っているものです。修道生活において、そういう人はしばしば針のむしろの上に座っているような年月を送っています。

 さて、新しい奉献生活の様式である聖シャーベル修道会には、最初から病人として入会する人がいます。既存の修道院ではそういう人は入会を断られますし、入会後に病気になった人でも、終生誓願をまだ立てていないなら、退会させられます。この点が既存の修道会と聖シャーベル修道会が非常に違う点です。また、普通、家庭には病人がいて自然です。家族が共同体の中で生活する聖シャーベル修道会にとって、病人のことは家族がチャレンジすべき大きな課題を提供しています。

 カトリック信者であっても、健康な人は病人に同情しないばかりか、病人を裁くのが普通ですが、それは神の御旨にもちろん反することで、罪なのです。このことのうちに、あわれみの欠如だけではなく、疑念、邪推、誤断、軽蔑、傲慢が罪として犯されています。中でも「もっとできるのに、怠けているに違いない」「やればできるのにやろうとしない」など数多くの邪推は、病人を残酷に鞭打つものとなっています。私たちの共同体は多くの病人まじりの大きな一家族なのですから、この「普通のこと」が決して起きないようにしましょう。それで皆に理解してほしいのは、病人にとってプログラムに合わせることは大切なことではないということです。大切なのは病人が徳に進歩することです。そして健康でたくさんの仕事をしている人が会のために一番働いているという考えが大間違いだということを知ってほしいのです。コルベ神父様は会の中で一番働いているところを見たいというお客さんを案内しました。病気の修道士たちの病室に連れていきました。ここが修道院の中で最も働いていると神父様は確信を持っておっしゃいました。お客さんたちは驚きました。皆さんもこんな考え方はしたことがないでしょう? しかし私もはっきりと断言します。病気の十字架は神の祝福で、病人は修道会の宝であり、会の前進のために必要な功徳をほとんど彼らが皆に代わって獲得してくれていると。働けないことで味あわせられる内心の恥ずかしさとか引け目とか、働くことができる人には理解できないのですが、病人たちはその隠れた辱めを甘受することで、小さなもの、卑しめられたものとして、自分を大きなもの、価値あるものと思う働ける人の不純な自己満足と傲慢の償いを代わりに神にささげて、神の正義のはかりのバランスをとり、神の正義の罰の避雷針となっているのです。

 十字架の神秘について、病人にはある程度理解できますが、健康な人は、それについて聞き、読み、黙想し、努力して少しでも察することができるよう努めなければなりません。聖ヨゼフが、マリア様に次いで最も偉大で、地上において完全な清さに至っていたのに、苦しく長い病気を神様が彼に与えたことを黙想するのが役に立ちます。「あなたはこうこうだから病気なんだ」とか「病気が治らないのはあなたがこうこうだからだ」とか「病気を治す努力をあなたはちっともしていない」とか、病気を病人のおこないの悪さの結果だとか、病気を皆にとっての悪だとか、悪そのものだとか見ることができなくなります。病人を役立たずのごくつぶし、何もしていない無益な人と見ることができなくなります。病人を共同体の足手まとい、前進のための邪魔ものと見ることができなくなります。なぜなら聖ヨゼフを黙想するとき、彼のすべてがあがないと救いへの協力で、功徳と祝福を全人類のために天から獲得するものだったことが第一に思い浮かぶからです。この黙想をどうか各自が深めてください。あなたが無慈悲で残酷なことを病気で苦しんでいる人にしないためにも。そしてあなたの共同体に本当に愛徳が栄え、祝福がみちるためにもです。



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【 第69章 】

 多くの精神的に苦しむ人が救いを求めています。精神科医とかケースワーカーとか、なになに療法とか、なになに訓練法とか、必要な手段を彼らは使っています。ただそれだけでは本当の救いにはならないのです。真理にたどり着くことが本当の救いですから。精神的な病気や傷や苦しみを持つ人が、それゆえに真理と救いを探し、マリア様のミッションにめぐりあうのはなんと素晴らしいことでしょう。聖シャーベル修道会の共同体にも家族会員の中に、そういう人が一緒に暮らすので、家族のこととして取り上げます。

 司祭、修道者は精神的に非常にタフであることが要求されますから、第一部門、第二部門はそういう人には向きません。自分のことを完璧に自分で果たし、なおかつ余らせた時間、体力、精神力、能力で隣人に奉仕する召命は、激しいプレッシャーやストレスにさらされますから。例れば、それは自分の重荷に加え、隣人の重荷をできるだけたくさん背負って歩き抜く召命です。心に傷を負っている人から精神病の人まで、共同体では彼らはその逆に、重すぎる自分の重荷をおろすことしなければならない人々です。年をとった人にも病人にも共通して言えることですが、安らかに暮らせることが大切です。これらの人々のうちでも精神のバランスを崩しやすい彼らには、最もその安らかさが大切です。家族や他の会員たちは、彼らが非常にゆっくりと適応してゆけばよいこと。大切なのは共同体のプログラムに合わせることではなく、徳に進むこと、霊魂の新しい習慣を獲得していくことだということをいつも覚えていてください。まわりの人たちはその人たちの心が「安らか」でいられるように、心配しないで、急がせないで、あなたも「平和」でいてください。あなたが彼らなりの生き方を心配して、不安定な精神になれば、たとえ言葉に出さなくとも、それは伝わり、安全で平和の場所であるべき共同体が、彼らにとってつらいところになります。そうなったらそれはあなたの忍耐、分別、愛の明らかな不足なのです。あなたは抽象的な「共同体らしさ」「修道会らしさ」を愛し、「プログラムの完ぺきな遵守」「全体の統一感」を愛し、具体的な、生身の苦しむ隣人を愛さないことが本末転倒だということに気がつくべきです。神の御旨は互いに愛しあうことであり、それが行なわれないなら、共同体らしさやプログラムの完ぺきな遵守がいったい何になるのですか? プログラムは人のためにあるのであって、人がプログラムのためにあるのではありません。外からどんなにへんてこりんに見えても、一番大切なのは中に生きる人が効率よく神に仕えることができ、幸せで安らかに生きられるようになっていることです。

 皆さんのうちの多くが「彼らとは一緒に暮らせない」「彼らと一緒にやりたくない」と考えもし、言いもすることはわかっています。しかし聖ヨゼフだったら彼らと一緒に暮らせること、一緒にやれることを喜び、神に感謝するに違いありません。人が「あんな共同体には絶対に入いりたくない」「あんな人たちとは絶対に一緒にやりたくない」と言っても、聖ヨゼフだったら逆に、そのとても修道会や共同体には見えない、外見からは聖なるものにほど遠い共同体に入いるのを栄誉だと思うに違いありません。苦しむイエズスと、苦しむマリアと一緒に生きていけるのですから。あなたは苦しむイエズスも苦しむマリアも皆、排除されるところ、生きてゆけないところを共同体の理想として思い描いていませんか? 神様はすべての人を共同体に召していらっしゃるということの意味をわかっていますか? すべての人の中でも、精神的にハンディキャップを持つ人は、「もうここに最後の望みを託そう。ここで救われなければもう絶望だ!」という必死の思いで最後の最後に出会ったこのマリア様のミッションに賭けてくる人たちです。わらをもすがる思いのこの人たちの中に苦しむイエズス、苦しむマリアが見えませんか? あなたは聖ヨゼフ役を務めることを神から期待されています。このことに気づき、理解し、その栄誉ある大役を引き受けられるよう聖ヨゼフに熱い祈りをささげてください。あなたの目が開かれ、見えるようになりますように! 愛と成聖の本質を悟ることができますように!

【 第70章 】

 マリア様は共同体では全員が集まって食事をするよう望んでいらっしゃいます。食堂がない間は無理ですが、くみとるべきはその精神です。つまり大きなひとつの家族になることを目指しているのです。

 日本の共同体で、もしも数十もの家族がその共同体にあれば、世間の精神で振る舞うなら、そのうちの以前からの知り合いか、同郷出身の家族か、気の合う家族を2〜3選び、いつも一緒にお付き合いし、その他の家族には挨拶程度に……、となってしまうところです。これは一致を目指す精神の逆ですね。共同体においては悪い振る舞いです。友情と話し合いと公平な愛が、自然徳のレベルでの一致の基礎です。あなたは友情を2〜3の家族だけに限らず、数十の全家族へ拡大すべきです。挨拶程度と限定せずに、すべての家族と内容のある会話をすべきです。親しい家族とそうでない家族と差をつけるのをやめて、差別なく公平に全家族を愛するべきです。

 共同体において家族間のおつきあいが、放っておけば世間の精神で行なわれるのをどうするかは、家族に関する重大な問題です。とくにフランクでない、社交べたの、ホスピタリティーに乏しい、儀礼的すぎる、表裏のある日本人にとって、この問題は、解決するためにかなりの知恵と力を注ぐことが必要です。一人一人の修道者的精神の深まりと一致を目指す修徳の努力はもちろんのこと、日本の共同体ではそれに加えてこまやかな工夫とおぜん立てをする必要があります。第一歩は名前と顔を覚えることですが、これさえ放っておけば全く進まないでしょう。例えば教会にシスターが数人いても、日本人はただ「シスター!」とみな同じに呼びますね。「シスターマリア!」とか「シスターアンナ!」とか名前を呼ばないでしょう? それでいつまでたっても名前がわかりませんね。皆が全員の名前と顔を覚えられるよう、こまやかな工夫とおぜん立てを各共同体であみだして行なってください。次に内容のある会話の機会をつくることです。また、全体でのバレーボール大会のようなレクリエーションを行なうのもマリア様のお望みなので、こういう工夫とおぜん立ても考えついて行なってください。プログラムにおいても、家族と家族の交流をおぜん立てすることができるよう、大胆に工夫してください。日本の共同体においては、各家族が自発的に、そして意欲的に交流を広げ、深めようとはしないので、このためのおぜん立てはプログラムにしっかりと組み込むべきです。祈りのグループの集会の仕方を例にとって日本と欧米を比べれば、何を言ってるかがわかると思います。欧米では祈りのグループの集まりは、祈り、会食、談話がバランスよく組まれます。しかも皆が一人一人と、グループの全員と親しくなる努力を自分でします。「あなたと今まで話したかったのにチャンスをつくれなくてごめんなさい」とか言って、早く親しくなる努力を自分がしなかったことを許してほしいという言葉で切り出してきます。日本ではどうでしょう。祈りのグループの集まりは、祈るだけです。まとめ役のお言葉があったらいい方というところでしょう。誰かが紹介してくれないと知らない同士のままいつまでも平気でいます。時間内いっぱいいっぱいに祈り、決められた祈りのノルマを果たして大満足して帰る。天も満足したと思う。しかし、そうであるべきではないのです。互いに愛しあい、一致するための親睦が欠けています。それが欠けているために、祈りのグループは日本では共同体へと発展しないのです。祈りのグループ形成を指示なさった天の意図は、祈りのグループが祈りのグループであり続けることでなく、共同体へと発展することです。しかし悲しいかな、これが日本人の自然な考えと行動なのです。日本の共同体では各共同体がこまやかに工夫し、大胆におぜん立てをして、この日本的な悪いパターンを打ち破ってください。聖シャーベル修道会の共同体にいる人には、これだけはわかって欲しいです。あなたが共同体の誰かとあいさつ以上のおつきあいをしないなら、それは「怠り」です。天の望みに対する「NO!」です。相手にも神にも謝るべき振る舞いです。

 日本人の心の底にはいつも恐れがあります。自分のまわりに壁を作る、親しい人同士の輪だけで壁を作るのは、この恐れの典型的なあらわれです。安心して心が開けないのは、どう思われるかと怖がっているのです。それで共同体の中で生活する家族の一人一人が、まず初めにすべきことは、聖ヨゼフの霊性の基礎である超楽観主義者になり、この恐れを霊魂から完全に追い出すことです。この恐れを追い出さない限り、共同体全体としてのどんなこまやかな工夫も、大胆なおぜん立ても上滑りしてしまうだけです。誰にでも心を開けるように、必ず各自は聖ヨゼフの霊性の修徳を基礎から始めてください。聖ヨゼフに祈りつつですよ。聖ヨゼフが、この日本という難しい国の共同体でも、家族と家族が残らず交流しあい、一致し、一つの大きな家族になることを実現させて下さいます。彼に祈る人は必要なものはすべていただけるのですから。



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【 第71章 】

 聖シャーベル修道会は全世界に広まっていますから、会員はもちろん多国籍です。共同体のひとつひとつはローカルなものではありますが、マリア様は2カ国以上の人が混ざりあうことをお望みです。なぜでしょうか。それは互いに学び合えるというメリットがあるからです。それだけではありません。自分の中に多国籍という状況にならないかぎり、隠れている悪徳が表面化するので、それを認め、新たにへりくだることによって、より謙遜になれるからです。

 家族まるごとという単位で違う国籍の人が入ってくると、その国の文化をそっくりと持ち込んでくれます。司祭、修道者は一人で入ってくるので、そういったことはないのですが、共同体で生きる家族たちにとって、家族の移住によって多国籍の共同体になった場合、乗り越えるべき問題が出てきます。

 日本の共同体の場合、他国の人との交流に慣れていない家族がほとんどです。まず取ってしまう態度は、距離を置いて、交流しないというタイプです。つまり、日本人家族間だけで交流するのです。他の国籍の家族のことは、彼らと交流する勇気があり、言葉ができるわずかの人にまかせて、自分たちはかかわらないでおくのです。世界中どこへ行っても、これは日本人が示すお決まりの行動で、日本人は必ず日本人だけで固まってしまいます。これではマリア様の意図はどうなるのでしょうか?

 次に生じることは差別と偏見です。これもまた、日本人の強烈な特徴です。原因は、日本人の常識と彼らの常識が違うということによるのです。違うのは当たり前なのですよ。しかし、日本人は違うということをいきなり悪と決めつける文化を持っています。これを既存の修道会の中で、「愛徳」に力を注ぎながら生きつつも、日本人会員たちがとってしまった行動の実例で説明しましょう。第二次世界大戦に日本は負け、弾圧されていたカトリック教会は息を吹き返し、短期間でしたが発展期を迎えました。その時、朝鮮半島出身の日本人が多く修道会に入会しました。しかし彼らのほとんどが修道生活を続けることができませんでした。修道会の中で日本人が彼らに対して愛徳に欠けてしまったからでした。同様なことが、他の国籍の外国人会員にもなされたこともありました。これらの原因は、違いを即、悪と感じてしまう日本人にあります。日本の修道会の中で被害者になるのは、よりストレートな国民性を持つ人です。これは日本ではストレートな生き方、ストレートな感情表現、ストレートな話し方をしてはいけないとされているからに違いありません。まっすぐに生き、まっすぐに考え、まっすぐに行ない、まっすぐに話す人は、日本では評価されず、かえって軽蔑されます。しかし神様の目から見て、まっすぐさは徳であり、考えることと口にすることが違うのは悪徳です。日本人が逆の立場で、外国の修道会で暮らす時、指摘され、どうしても直すように言われるのは「まっすぐでない」という欠点なのですよ。カトリック信者として徳に進歩するためには、「まっすぐさ」がどうしても必要なのです。これもまた、学び合えるということですばらしい例ではありませんか。多国籍のメリットです。

 共同体の中に生きる家族には、あらかじめ日本人としての欠点、つまり、違うことに対する不寛容、閉鎖性、差別、偏見、傲慢を知り、いざそのときに間違いを犯さないでほしいのです。間違いを犯すということは、かわいそうな被害者の家族を出すことなのですから。また、他の国籍の人からたくさん学ぶことがマリア様の御旨なのですから、カトリックの伝統を持たない日本の人々には特に、交流を通して学ぼうという謙遜な心構えと意欲を持ってほしいのです。

 聖ヨゼフはガリラヤ人でした。ユダヤ人たちは、まっすぐで熱血漢のガリラヤ人たちを、その当時、非常に嫌い、軽蔑していました。ユダヤ人たちは自分たちを上品で洗練された文化人で、心の中をあらわさず、礼儀作法にかなったふるまいができる、優れた人種だと誇っていました。まるで今の日本人みたいですね。ですから、もし聖ヨゼフが聖家族をつれて、日本の共同体に移住してきて、彼らが身元を明かさないで隠しているなら、日本人の家族たちは、当時のユダヤ人たちと同じく、聖家族とは交流せず、遠巻きにしながらも彼らを嫌い、軽蔑してしまうでしょう。こんなことになってほしくないですね。それで皆さんは、国籍の違う家族を迎え入れるときは、聖家族を迎え入れるつもりで迎えてください。それが超自然の見方、考え方、振る舞い方であり、共同体に根づいてほしい常識です。それができるため自分を変えることができるよう聖ヨゼフに祈りましょう。聖マルチノのように、乞食の姿で現れたイエズスに、それと知らずに愛徳を実行できるか、または乞食を嫌い軽蔑のまなざしを送るか、あなたを試すために、そんなテストがあるかもしれませんよ。



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【 第72章 】

 共同体の中に住む家族にとって、子供の教育は重要な問題です。子供は学校に行きますが、そこでは無神論の教育がされています。教会へ行きますが、誤謬だらけの信仰教育が、司祭や要理教育者から授けられます。家庭では心ない叔父、叔母、祖父、祖母など外部の親族が、両親の信仰を批判したりすることもあります。しかし家庭と学校と教会が一致協力して、子供を真理だけで教育することが、本当は何よりも大切なことなのです。年上の人の影響は子供にとって大きいので、一人でも無神論や信仰上の誤謬を吹き込む人がいたら、子供は簡単に混乱し、迷ってしまうからです。

 共同体は、家庭と学校と教会の真理における一致協力という理想に向けて、できるだけのことをすべきです。実はマリア様は共同体に私立学校をつくるよう望んでいらっしゃいます。教員免許を持った人が家族会員や修道者の中にいる共同体では実現の可能性が出てきますね。地域の教育委員会と連携しながら進めていけるようなら、そうしてください。

 今のところできることは、両親が子供が学校や教区の教会で何を教わっているかを聞き、植え付けられた誤りを取り除くことです。そのためには子供と話し、耳を傾けることが必要ですし、まず両親が自分の信仰を正さなくてはなりません。すでに両親が子供の時代から、教会ではおおっぴらに誤謬が教えられていました。また、カトリック作家と呼ばれる人たちの本によっても、おおっぴらに誤謬が広められました。誤謬が正統とされた時代の教会で教育されたなら、影響を受けていないはずがありません。アダムとエバの創造に関することを疑っていませんか。進化論を信じていませんか。「中世の暗黒時代」という歴史家の言うことを信じていませんか。天は世界中で私的啓示を与えて、広まっている誤りに対して本当のことを教えてくださっています。共同体では、それらの私的啓示を協力して集めて、親たちが子供の教育に用いることができるように準備するようにしてください。

 親たちは特に、聖ヨゼフが無学な大工でありながら、立派な教育をイエズスに与えることができたことを考えてください。親がたとえ知識に富んでいなくても、聖ヨゼフのように、わずかでも知っているよいことを愛をもって語り、尊敬をもって扱い、徳の実行を持って生活に生かすなら、聖なる雰囲気が家に漂います。頭の中に知識がいくら入っていても、親であっても、それだけでは子供に伝わりません。信仰は正確な知識の面と情緒の面の両方で子供に伝わらなければなりません。聖なる雰囲気の家族では、子供に生き生きとした信仰が伝わります。この影響力を親たちが持てるように、共同体全体で聖ヨゼフの助けを願いましょう。

 最後に今書いたことの具体的な例を挙げておきましょう。ある神父様は、母親がご聖体を指さして、「神様だよ!神様だよ!」と言ったことを、幼いころの最初の記憶として持っていて、その時からご聖体における主の現存を80年以上、一回も疑ったことがありません。母親が一大事のように「神様だよ!神様だよ!」と言ったのは、幼児にも見事に伝わりました。棒読みのような説明で、「ご聖体に主は現存しておられます」と言って幼児に伝わるでしょうか? この同じ神父は、かなり長い間、アシジの聖フランシスコを、母親のお兄さんのひとりだと思い込んでいました。母親がアシジの聖フランシスコのことを彼への大きな愛をもって親しげに語り聞かせてくれていたからです。母が愛を示すものを子供も愛するようになるものです。この神父様が後にアシジの聖フランシスコの息子の一人となったのは言うまでもありません。また、司祭が「ご聖体はイエズスです」と正しく教えたとしても、ミサの聖体奉挙の後、聖体布の上にご聖体をまるでゴミを投げ捨てるようにポンと放るなら、見ている子供に何が伝わりますか? 敬神の徳が行ないにあらわれ、本当に神である赤ちゃんを御父に差し上げるようにうやうやしくかかげ、そして馬ぶねに寝かせるように聖体布の上にお置きするのを見るなら、子供に何が伝わりますか? これが情緒の面で伝えるということなのです。



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【 第73章 】

 現代のマスコミが流す家庭の場面で、あまりにも多すぎるのは、父親を笑いものにするところです。とうとう家族の中で父の座は一番下になったのですね。これは神のお望みなのでしょうか? 聖家族ではどうだったのでしょう? マリア・ワルトルタに天が与えた啓示の中から少し書き抜いてみます。「……"その家では、超自然的、精神的、物質的な順位が尊敬されている" 神は最高の頭で、神に崇敬と礼拝と愛とが与えられる。これは精神的な順位である。……」(1) 「……ヨゼフは家長であった。家庭内の権力は異論のないもので、神の母もそれを深く尊敬し、神の子も服従していたのであった。ヨゼフがしてよいと決めたことは、どんな議論も反対もなく、どんな意固地もなく承諾されていた。彼の言葉は、私たちにとって小さい法律であった。……」(2)

 これが神の望まれる家庭の秩序と父の権威です。共同体の中に生きる家族は、この神の望みに沿うように努めなければなりません。父の権威の失墜は、共同体の中のほとんどの家族に内在する問題です。父の権威の失墜、および低下は、どういう影響をもたらすか知っていますか? 動物の家族では、父の権威が強い家族は結束力が強く、子供たちは親を勝手に離れないので生き残れる確率が高く、逆に父の権威が弱い家族は団結心が弱く、子供は早くからバラバラになります。親から勝手に離れ、敵に襲われるので生き残れる率が低いのです。この敵を悪魔に置き換えて、人間の家族に当てはめると、現代の子供たち、若者たちに起こっていることをなるほどと思えますね。「彼の言葉は小さい法律であった」というイエズスの言葉に示されている通り、善悪の判断を子供に確立させるのが父の役割です。何が良いことか、何が悪いことかを父は教えます。良いことは自分の損になっても行なわなければならない。悪いことは自分の利益になるとしても行なってはいけない。これも父が教えることです。「正義」が父の教えの分野です。人が見ていなければ、罰せられなければ悪いことをやる人間が、父の権威の低下とともに社会に増えます。これも今の子供たちと若者たちの道徳感のなさをちゃんと説明します。

 さて権威とは、人に従われてこそはじめて権威です。父の権威を高めるのは、父に従う人たちだということに気をつけてください。妻や、もう理解力のある子供たちは、自分で自分を変えることができますね。だからそうしてください。幼児の場合、妻や、兄、姉たちの協力がとても必要です。「お父さんには決してイヤと言ってはいけません」 この言葉が彼らの最も有効な道具となります。「お父さんには必ずハイと言いなさい」 これも同じですね。そして実際に、妻、兄、姉が模範になってください。すでにわがままになった子、何でもイヤという自我の芽生えの時期にちょうどなった子には、それが父だけには決してやってはいけないし、やっても通用しないことを体験的に学ばせてください。つまり、親が一歩も譲歩しないのです。交換条件の提示もなしですよ。お菓子をあげるから、ご褒美をあげるから、これを日本の親たちが、いかに多用し、連発するか気がついていますか? これによって子供は、直ちに従わずにだだをこねた方が得をすると親から教えられているのですよ。

 もう一つ日本の親たちに気がついてほしいのは、父の権威を子供に示す時期が間違っているということです。物心がつかないうちに子供に対して父の権威を強力に確立させておいて、そこから年とともに少しずつ自由にさせていくのです。日本ではもうすでに手遅れの時期になってから父の権威を示そうとしはじめます。そして逆に年と共に自由を奪おうと厳しくしていくのです。これではもうめちゃくちゃです。かわいいからと猫かわいがりにされた子供は、もうすでに父をなめているというのに、頭ごなしに命令し、無理やりに従わせれば、結果は何が起こると思いますか? 断絶か反抗、心の二重性と屈折、行動は従っているとしても心の中に憎しみ、恨み、軽蔑を抱くことです。父の権威を教わらずに幼児期を終えてしまった子には、父は、その子と目と目を合わせ、話しをしてその子にわからせることです。妻、兄、姉たちも協力してください。共同体からの助け、つまり、親以外の大人もその子への父の働きかけを助けるようお願いします。

 父親は動物の家族からも学んでください。あなたを中心に家族が団結心を持って結束するのがあるべき姿なのだと。もちろん聖ヨゼフが一番の先生です。マリア・ワルトルタへの啓示を繰り返し読んで、聖ヨゼフの家庭での姿を頭にたたき込んで、自分の家庭で聖ヨゼフのように振る舞ってください。自分の役割を果たせるよう聖ヨゼフに祈ってください。彼は父親たちの本当に偉大な助け手なのですから。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P271
(2) 同本 P275



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【 第74章 】

 まずイエズスの次の言葉を聞いてください。「……家族はあるし、またあるべきである。今、言った真理を破壊する説とか、いわゆる進歩とかは、大きな滅びを産むしかない。崩壊している家族組織から、ますます堕落した、ますます大きな滅びのもととなる未来の男と女しか生まれない。猿の集団にある一致と愛さえもない家族があるよりも、この世には結婚と子孫とがない方がよいと真実に言う。そのように家庭は、徳、仕事、愛、宗教の学校ではなく、そのような家族では、子供は一人一人孤立して生き、最後に崩壊し混沌で終わる。さあ、どうぞ、切れ、破れ、家庭の絆を! 社会生活のこの最も聖なる様式を破る結果を、あなたたちはもはや見、それに圧倒されている。望むなら、さあ、それを続けよ。けれども、この世が家庭と国とを食う怪物の住まいのような地獄になっても、決して嘆きの悲鳴を上げるな。あなたたちの望むようになっているのだから」(1)

 崩壊した家庭という言葉は、日本人の皆さんは、離婚、別居、子どもの家出で実際バラバラになった家族と、家庭内暴力、引きこもり、不登校等の問題で精神的に地獄のような苦しみを味わっている家族を指すために使います。しかしイエズスは、すなわち神様はそうではなく、その言葉で、徳、仕事、愛、宗教の学校ではなくなった家庭を指しています。ということは日本で子供を養育中の家庭はすべて崩壊した家庭の範疇に入いるでしょう。言い過ぎではありません。なぜなら日本の社会は、同い年の子だけの集団でいる時間、そして親と切り離されている時間を年々長くし続けてきて、家庭が何らかの学校である時間がもう残っていないようにしてしまっているからです。この点でたぶん日本は世界で最も長時間子供たちを人為的で不自然な集団に組み込んでいる国です。欧米の学校は宿題がなく、帰宅時間も早く、子供たちは皆よく親の手伝いをします。田舎では特に夏の2カ月間の休みの間は、もちろん宿題がないので子供たちは、畑で、牧場で、家で、大人に交じって大人たちと同じ時間働いています。こんなことができるところが日本のどこにもありません。

 共同体の中で生きる家族たちは、この現状をぜひ何とかしましょう。同い年の子だけの集団でいる時間をずっと減らすこと。子供を親のもとに置くこと。その上で、子供に家庭で徳を与え、仕事を与え、愛を与え、宗教を与えることです。とても参考になるので、聖ヨゼフと兄アルフェオの対話を、マリア・ワルトルタに天が与えた啓示から少し書き抜きましょう。
「子供たちを自分のそばに置く、というのは甘やかすことではない。大事なことは常識と良い心を持って子供を愛することです。私たちはイエズスを、このように愛している。そして、マリアはこの辺の先生よりも学問があるので、イエズスの先生となればよい」
「しかしね、そうしたら、あなたのイエズスは、大人になって蝿さえも怖がる女の子みたいになるだろう」
「いいや、そんなことになるはずはない。マリアは分別がある女で、男らしく彼を教育できよう。私も卑怯者ではなく、男らしい模範を与えるのを知っている。イエズスは心と体とに欠点のない子です。身も心もまっすぐな力強いものとして成長するに違いない。安心して、アルフェオ。私たちの家族の面目を失わせるようなことはありません。私がそう決めたので、これだけで十分です」(2)

 どうですか。共同体の中で家庭生活する親たちは、この聖ヨゼフの確信を自分たちの確信としてください。希望の徳ですよ! 神の助けは聖ヨゼフの取り次ぎによって必ずいただけます。その確信に立って、神の目からは崩壊している自分の家庭を、共同体全体の助けで、聖家族のような家庭と変えてゆきましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P277
(2)同本 P284



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【 第75章 】

 共同体の中に生活する子供のいる家族には、やがて恋愛という問題がやってきます。司祭、修道士、修道女の召命を感じる子もいるでしょうが、その子たちも心に秘めたかたちで終わっても、恋愛を一度は体験するでしょう。共同体の中でおつきあいが始まったら、二人とも清く交際してください。テレビ、映画、漫画などで恋人がしていることはみな、夫婦になって初めて許されることだと考えて間違いありません。恋人にとっては罪になります。清い愛情表現と、自分または相手に性的刺激を引き起こす愛情表現とはっきりと区別してください。後者はだめですよ。交際中、二人だけの回りに壁を作らないでください。今まで通りに回りの人々と接しながら交際してください。愛と情熱は一緒くたにしないでください。若い情熱は表現力豊かです。回りから見ても強く愛しているように見えますが、本人たちも、回りの人も知っておいてください。尊敬深い愛、奉仕する愛、忍耐深い愛という特徴が見て取れないなら、その愛は情熱だけにすぎず、続かないということを。本人たちは相手の愛をこれで識別してください。親は二人のそれぞれの愛を識別してください。そして婚約まで進んでいいか、情熱ぬきに識別するよう導いてあげてください。結婚まもなく相手に離婚を迫るのは女性側ですが、マリア様の注意に耳を傾けて下さい。マリア・ワルトルタに天が与えられた啓示からです。

「……妻たちに注意を促したいことが一つあります。あまりにも多くの婚姻の絆が、いつのまにか不和、分裂に至ることです。この多くは、夫に対しての思いやり、同情、慰めなどとなる愛を知らない妻たちの責任です。男には、女にのしかかっている物理的な苦労はあまりありませんが、多くの精神的な苦労に圧倒されることがあります。仕事のこと、さまざまの決断、世間、または家族に対する責任……。おお、どれほどのことが男にのしかかっているか! 彼も慰めを、どれほど必要とするか! それなのに、疲れきって幻滅を感じている。あるいは、落胆して心労に打ちのめされている夫に向かって、妻は無駄な、時として正しくない愚痴や、不平の重荷を加えるのです。以上のことすべては、女が自己中心のエゴイストで、愛していないからです。愛するとは、感情、または利益に自己満足を探すことではありません。愛するとは、感情と利益を超えて、愛する相手に満足を与え、希望と平和に生きるために必要な助けを与えることなのです。……」(1)

 また、聖アンナと聖ヨアキムの模範から、結構相手の選び方を学んでください。イエズスの言葉です。
「……"私が若いときから愛し、求めたのは知恵だった。私は、それを配偶者にしようと努め、その美しいものの愛人となった" アロン家のアンナは私たちの先祖が語っている、かの強い女であった。そして、ダビド王家の子孫のヨアキムは、美しさの魅力と富よりも徳を探したのである。アンナは、"大きな"徳を持つ人であった。さまざまの花を集めた香り高い花束のように、美しいもの"徳"を作るすべての長所を持っていた。神の座の前に立つにふさわしい実際の徳を。ヨアキムは上智を娶った。"女よりもこれを愛して"正しい女の心にある神の上智を娶った。アロン家のアンナは、自分の一生涯を真っ直ぐな正しい男の生活に一致させて結ぼうとした。正しさには、家族の喜びがあると知っていたからである。……二人はどんな事件も起こさなかった真実で、継続する徳の持ち主となるべきだった。信仰の徳、愛の徳、希望の徳、貞節の徳。夫婦の貞節。二人はこれを守っていた。なぜなら貞節であるには、童貞であることの必要はないからである。貞節な床は、天使たちに守られて、そこから、良い子供、親の徳を自分の一生の基準とする、よい子が生まれるのである。しかし今は、そういう夫婦はどこにいるのか? 今は、子供たちが望まれていないが、貞節も望まれていない。そのために私は、愛と床は汚されていると言うのである」(2)

 外見の美しさ、自分の性的満足、この二つは決して選択基準にしてはいけません。なぜならこれらは本質的には自分のためを第一にする功利主義であり、愛ではないからです。相手は徳にみちていますか? また、あなたの徳を強めてくれる相手ですか? あなたは相手の徳を強めてあげられるでしょうか? 互いに弱い徳を補い合えるでしょうか? これらによって相手を神に近付けることを望む、言い換えれば、相手に神を望んであげていますか? 配偶者への愛で最も純粋で崇高なのはこれです。相手に善を望むのが愛ですが、人は神以上の善を相手に望んであげることはできないからです。神が最高の善だからです。共同体での恋愛が結婚として実るとき、二人ともどうかこの最高の愛をお互いに持つようにお願いします。本人たちもよく黙想し、親などの回りの人も教え導いてあげてください。

 さて、良い結婚相手を与えてくださいというお願いは、聖ヨゼフにするものなのですよ。恋愛を経験し始める年頃の子供に、親はこの意向で毎日聖ヨゼフに小さいお祈りをするよう教えてあげてください。それを子供が続けているかも時々聞いてあげてくださいね。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P186、187
(2) 同本 P22−24










【 第76章 】

 ロシアは共産主義の時代に家庭がすさまじい有り様になってしまった国です。今はアルコール中毒、麻薬、黒魔術、売春等々、目を覆いたくなる惨状です。家庭に関して言えば、共産主義者たちは男らしさ、女らしさを否定しました。女性に男性と同じ役割を与えたのです。ここから家庭はだめになってゆきました。女性が女性らしくなくなったら、男性も男性らしくなくなってゆきました。力があって荒々しいだけです。家庭の精神的柱で指導者、家庭の経済の大黒柱である責任。こどもをしつけ、社会的訓練を施す重大な責任を負わなくなりました。今のロシアの父親の多くは、一日中ウォッカを飲んで、妻や子に暴力を振るうだけの存在です。これらが女性が女性らしくなくなったところから始まったことに注目してください。自由主義諸国でも同じことが進行中です。そして父親の役割を果たせない、男らしくない男性(もちろん力はあるし、荒々しいです)が若い人の間でほとんどになってきました。家庭のあり方、子供の訓練、しつけのあり方は大きく変わり、子どもはダメになってきています。小学校教師の何人もから聞きました。年々子供は悪くなっていますが、女の子の方がより悪くなっていますと。男の子より女の子を親がチヤホヤして養育するからだそうです。日本の若い親たちは、子供をペット扱いにしかできなくなったようですね。しつけ、訓練する男らしい父は、天然記念物か絶滅危惧種のようにめったに見ない存在になりました。社会の論評では、男らしいとか女らしいとかは使ってはいけない語彙だそうです。しかし、神様はそんなことは言いませんよ。男らしさは男性の重要な徳です。女らしさは女性の重要な徳です。今は女の子の方が悪いと現場の先生が言いますが、家庭で女の子の方が誰にも支配されず、誰にも仕えなくていい立場にあるのです。女性らしさの徳は、献身的に仕えるところにあります。聖パウロの教えですよ。この女の子たちがそのまま大きくなるとどうなるのでしょうね。男性らしさの徳は、献身的に支配するところにあります。これも聖パウロの教えですよ。横暴に支配することの逆です。しかし徳とは、繰り返し訓練してはじめて身につき、さらに訓練してますます磨いていかなければならないものです。今の日本には女の子たちに献身的に仕える訓練の場が全くありません。男の子たちに献身的に支配する訓練の場が全くありません。男が支配するのは、とにかくどんな支配のあり方でも間違っていると社会と学校と、そして家庭までが教えているのですから。

 男らしさの徳、女らしさの徳を家族の全メンバーがそれぞれ身につけることができるかどうかは、共同体の中に生きる家族の問題です。社会をそのまま家庭は持ち込んでくるのですから。そしてこのままではロシアの家庭の二の舞いになってゆきます。共同体では幸い、共同の祈りの時、聖パウロ教えているように祭壇に仕え、神への奉仕を受け持つ役割を、祈りのリードから朗読に至るまで男性と男の子に受け持たせ、家庭での祈りの時、聖ヨゼフの模範にあるようにリードするのは男性と男の子に受け持たせ、献身的にリードする実地訓練の場とすることができますね。家庭や共同体での仕事でも、荒い、力のいる、よごれることを、そして段取りとリードを男性と男の子に任せることで、献身的に支配する実地訓練の場とすることができますね。また、男の子にはその能力が備わっているのですから、「君は、全体を広く見て、みんなのことも把握していなさい」とか「君は今やっていることだけでなく、時間的に先々のことも常に考えていなさい」とか「君は何かが間違っていると考えたなら、ものおじせずに意見を言いなさい」とか「君は自分なりのものを生み出すようにいつもやってごらん」とか、ただ人に合わせていればいいというような今の教育の反対をやってあげて欲しいです。会社に入いってから初めてこのような指導するのは間違っています。男の子は最初から男性なのですから。幼稚園、保育所、小学校の先生が、ほとんどみな女性です。素直に従う子ばかりを女性はかわいく思い、子供にそれを期待するということも、男の子が男らしさの徳を身につけない大きな原因となっています。共同体で私立学校や保育所を作るとき、これを忘れずに考慮してください。子供たちの遊びの集団が、同い年ばかりのグループなのも、男の子が献身的に支配する実地訓練の場を失った非常に大きな原因です。年下の子の安全を確保しながら、皆がその年なりに楽しめるようアレンジを加えつつ遊び、遊ばせる。けんかの仲裁もあれば、弱い者いじめをした子のお仕置きもする。本当に将来のリーダー、未来の父親の訓練が大きい子から小さい子まで一緒の集団では実地でできます。共同体ではこれを復活させてください。

 そして最も大切なのは父親の模範です。男の子は父を見てまねをします。聖ヨゼフが、この大切な努めにおいて父親たちを助けて下さるよう祈ってください。自分のためだけでなく、共同体全部の父親のために祈り、祈りあってください。互いに祈りあうとき、各自が自分のためだけに祈るより、祈りはずっとよく聞きいれていただけます。隣人愛の功徳が加わりますから。

 女の子のことは、チヤホヤ育ててはいけないと、それだけ厳重に言っておきます。



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【 第77章 】

 神様はマリア・ワルトルタへの啓示によって、聖ヨゼフのいと清き御心の愛の奥義を私たちに教えてくださっています。聖ヨゼフの愛は利己心を知らない愛、完全な愛だったとおっしゃるのです。そして彼は自然的には肉体と心に苦しいものであったその時々の神の御旨をいつも祝福し、感謝の讃美をたやさなかったとおっしゃるのです。そのうえ、「あってもよい物質的な恵みをくれない神に対して、なおさら何の不満もなかった」(1)ともおっしゃいます。

 これらが、どれほどのことかを説明しましょう。イエズスは、人々が「祈りの場合でも、利己心を避けるのは相当まれである」(2)とおっしゃっています。それほど人の心とは利己心に満ちているのです。あなたは、たとえ利己心を避けるよう気をつけていても、無意識に近い思いで「もう少し楽になりたいなあ」と漠然と考えることはあるでしょう?  自分をいたわり、かわいがりたいという欲求は利己心です。これがない、しかもまったくないという霊魂を想像できますか? あなたは「そんな人、いるわけがない! いたらもう人間ではない。天使です」と言ってしまうはずです。さらに御旨をいつも祝福し、何の不満もないとはどういうことか考えてみて下さい。あなたも神に不満を持つことはないと思っているかもしれませんが、「神様はなんでこうしてくださないのだろう」と無意識に近い思いで漠然と考えることはあるでしょう? これが不満というものです。この考えすら全然起こらない霊魂を想像できますか? 御旨を祝福し、賛美し、感謝することしか知らない霊魂を。「それは天使だけでしょう!」 あなたはそう言ってしまうはずです。以上の説明で分かったと思いますが、想像を絶するという言葉がありますよね。まさにこのことは、聖ヨゼフのいと清き御心に、大げさではなく、文字通り当てはまります。

 聖ヨゼフのいと清き御心の、特に御父に向かう愛には、まだ特別な奥義があります。私たちは主の祈りでこう言います。「天にましますわれらの父よ、願わくは御名のとうとまれんことを。御国の来たらんことを。御旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを」と。私たちが「御旨が行なわれんことを」と言うとき、「御旨」と言っても、本当は自分の利己心から思い描いている御旨が、今はまだ行なわれていないので、どうか行なってくださいと、先ほど説明した「不満」を心に持ちつつ祈っています。ところが、心に何の不満もない聖ヨゼフは、御旨に関してのとらえ方が私たちと全く違います。つまり、聖ヨゼフにとって、御旨とは今行なわれていることそのものなのです。聖ヨゼフとは、まるで双子のような、同じ霊性、同じ聖徳を持つ幼きイエズスの聖テレジアがこれを分かりやすく説明してくれます。彼女は「イエズスがなさることはすべて好きです」と言ったのです。自分の身に起こることすべてが好き! とは、なんと聖ヨゼフとそっくりなのでしょう! 不満の全くない、ただただ御旨を祝福する彼女もまた、「御旨」を今、行なわれていることそのものと、とらえているでしょう? ね。二人は特別です! 本当にこの二人にならいたいものですね! この聖ヨゼフのいと清き御心の御旨への愛は、「み摂理の御父」への愛です。この世で御父をこのように愛した方は他にいません。御父から聖ヨゼフほど愛された方も他にいません。私たちは御父への愛に燃え盛る聖ヨゼフのいと清き御心をもっと愛し、もっとたたえましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P269
(2) 同本 P268






【 第78章 】

イエズスの次の言葉を聞いてください。
「……二人には、一つしか心配がなかった。聖なる者、神から来た私にとって、今の土地ができるだけ住みづらくないようにすることであった。これは親、また信仰者の愛で、その愛とは、余分な仕事をして得た収入で買った小山羊、木くずにきざんだ小さなおもちゃ、自分たちの口には入れずに、私のためだけに手にする何がしかの果物にまでに至る、思いやりであった。地上の、私の愛する養父、あなたは神にどんなに愛されたことか。天のいと高きところにいます父なる神、この世で救い主となった子である神に、どんなに愛されたことか。……」(1)

「……幼子であったので世間を知らなかった間、私は天国さえも懐かしく思わなかった。父なる神と霊なる神とは、私のそばに現存していたし、マリアは、神に満ち溢れていたからである。天使たちも、そこに住んでいた。なぜなら、その家から離れさせることは何もなかったからである。その上に天使の一人は、ヨゼフにおいて肉体となったと言いたいくらいであった。なぜなら、肉体の荷から解放されたかの人は、神と、その子とに仕えることだけに専念して、セラフィムたちが愛するように、神を愛することだけを何よりも気にかけていたからである。おお、ヨゼフのまなざし! それは地上の、この世の邪欲を知らない星のように、いつも穏やかで清いものであった。ヨゼフは私たちの安らぎ、私たちの力であった。……」(2)

 あなたは幼いころの記憶はいつから始まりますか? 幼いころ、毎日どれほど父から愛情を注がれても、私たちは残念なことに、ある時までは全く記憶に残らず、その後もわずかに記憶しているに過ぎません。しかし、イエズスは違います。聖ヨゼフが与えてくれたすべてを憶えています。一生にわたって絶え間なく激しく燃えた、聖ヨゼフのいと清き御心の御子に対する愛をすべて知っておられ、今もすべて憶えていらっしゃるのです。そしてイエズスは、彼へのご恩返しを、聖ヨゼフを愛し、聖ヨゼフを通してご自分に願う人の祈りに応えることで果たしたいと強く望んでいらっしゃいます。それで聖ヨゼフのイエズスへの愛は、私たちのためにすべてを可能にしてくれるのです。これが聖ヨゼフのいと清き御心の御子への燃え盛る愛が持つ力の奥義のひとつです。ご自分を愛してくれた聖ヨゼフを、ご自分もどんなに愛しているかを人々に知らせたい。ご自分の愛する聖ヨゼフを人々にも愛させたい。これがイエズスの強い願いなのです。

 聖ヨゼフにとってイエズスはすべてでした。何の誇張もなく、偽りもなくそうなのです。イエズスは原罪をもって生まれた人々の中で、聖ヨゼフからの愛ほど純粋で、大きな、強い、熱い、深い、広い愛をだれからも受けていません。イエズスも人間の言葉で彼の愛を表現できないほどです。ただ私たちは天国に至ったとき、言葉という限られた媒体なしに直接に彼の愛を見、理解するしかないのです。それまでは聖ヨゼフのいと清き御心のイエズスに対する愛は奥義でとどまります。「愛する」という言葉の限界を人間はどうしようもありません。

 イエズスへの愛が持つ力の奥義を、聖ヨゼフそっくりの霊魂が、びっくりするような表現で言いあらわしました。そう。彼女です。幼きイエズスの聖テレジア! 「私に愛を与えてください。そうすれば私は愛で地球を持ち上げましょう!」といったのです。(もともとこれは「てこ」の原理に関する言葉でした)

 私たちには貧しい、弱い、小さな、不純な愛しかイエズスにささげられません。でもこの私たちの愛を、聖ヨゼフのいと清き御心のイエズスへの愛に載せましょう。私たちの火の粉のようにちっぽけな愛は、天国まで吹きあげられ、イエズスの玉座に運ばれます。そしてイエズスの愛は私たちに必要なすべてを与えて、すべてを可能にしてくださるのです。

 聖ヨゼフのいと清き御心の御子に対する愛を称えましょう。彼が幼いイエズスに、そして死ぬまでイエズスに尽くした愛のすべてが、永遠の炎となって燃えさかっています。私たちはもっと聖ヨゼフのいと清き御心に信心を持ちましょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P269
(2) 同本 P275、276

【 第79章 】

 マリア様は聖霊の花嫁です。聖霊はマリア様の中に住んでいらっしゃいます。聖霊を隠れた神と言ったりしますが、マリア様を愛するとき、聖霊も愛しているのです。マリア様を通して、マリア様とともにいつも必ず聖霊は働きますから、マリア様を愛し、マリア様に近づいた度合が、ある霊魂の中での聖霊の働きの度合です。聖ヨゼフほどマリア様を愛し、マリア様に近づいた人はこの世に誰もいません。マリア様への愛も一致も聖ヨゼフは「完全」だったのです。ですから聖ヨゼフほど聖霊を愛した人もまたいないのです。そのため聖ヨゼフの中で聖霊は非常に活発に、自由自在に働きました。もちろん今も聖霊は他のいかなる聖人よりもはるかに聖ヨゼフを通して活発に働き続けています。

 神の愛である聖霊は聖ヨゼフのいと清き御心の愛に、聖霊に似た性質を与えています。聖霊は聖ヨゼフのいと清き御心から燃えたつ愛の炎となって、私たちを神の方に、神に近づくようにと押し上げるのです。それは聖霊が、神を愛させる神であり、御父と御子の交わりに私たちをも入れる神だからです。この聖霊の働きと一致した聖ヨゼフの愛の炎の働きは、聖ヨゼフのいと清き御心の愛の奥義のひとつです。知られぬままになっているからです。私たちが御父を愛したい、御子を愛したい、マリア様を愛したいと、愛すべき方に向かうとき、聖ヨゼフは、いわば、私たちの背中を押して近寄らせてくださるのです。こんな素晴らしい助け手が知られず、こんな力強い助けが、積極的に求められていないのは悲しいことです。聖ヨゼフを愛し、彼にお願いし、助けてもらうだけで、どれほど私たちは愛する方にもっと近寄れるかしれません。

 聖ヨゼフは私たちを限りなく愛してくださっています。そしてご自分のいと清き御心を私たちに与え、私たちの貧しい心とご自分の御心を交換することを望んでいらっしゃいます。そうすれば私たちが、この世でもう一人の聖ヨゼフになって働けるからです。もう一人の聖ヨゼフとなった人は、神を愛することだけでは満足できなくなるのですよ。人々に神を愛させたいという、聖ヨゼフと同じ望みに燃え始めてしまうのです。「私がもっと神を愛し、神を愛させることができるようにと祈ってください」と手紙に書いた、聖ヨゼフと同じ霊性に生きた誰かさんのように。そうです。もう一人の聖ヨゼフともいうべき幼きイエズスの聖テレジアのことです。お二人の御心で聖霊は自由自在に働いたのですね。そしてお二人をセラフィムのように愛で灼熱させ、人々を神の方に押し上げるために、人々の足の下に身を踏み台のように置かせたのですね。私たちも本当にそうなってみたいものですね。



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【 第80章 】

 聖ヨゼフのいと清き御心には百合がシンボルとして咲いています。純潔の徳の象徴ですが、だからといって聖ヨゼフの徳は純潔だけだと勘違いしてはいけませんよ。ちょうどマリア様の御心にはバラがシンボルとして咲いていて、それは愛徳の象徴ですが、マリア様の御心にはこの世のありとあらゆる徳が備わっており、それを表わすには広い広い面積を使って花々を描くかなければならないので、バラをシンボルとするのと同じことで、実は聖ヨゼフの御心にも、このようなありとあらゆる徳が備わっており、百合は代表として彼の御心のシンボルなのです。聖ヨゼフのいと清き御心にありとあらゆる徳が備わっていることは知られていませんし、それを人々は考えもしません。不可能だと思っているからでしょう。原罪をもって生まれた人間にそれはあり得ないと。すべての徳は、マリア様にはもともと備わっていました。聖ヨゼフは戦って獲得しました。マリア様はそのために聖ヨゼフの聖徳は私よりも高く輝いているとおっしゃるのです。しかし聖ヨゼフがありとあらゆる徳をその御心に集め、しかもそれを完全にすることができたのは、ひとえにマリア様との結びつきのおかげなのです。その結びつきをズバリ言えば「結婚の絆」です。イエズスが説明してくださるのを聞いてください。

「……ヨゼフは自分のさまざまな不便、不自由の主なる原因となったマリアを咎めず、マリアの方も、生活をもう少し楽にすることさえもできないヨゼフに愚痴をこぼさない。"二人は清く相愛している" これが全てである。そのために、彼らの心配は自分の安楽ではなく、配偶者のことだけを考える。真の愛は利己心を知らない。そして、真の愛は、あの二人の選ばれた配偶者のように完全でなくても、いつも清いものである。その清さが愛と一緒になっているなら、必ず他のいろいろな徳の富を集め、清く相愛している夫婦を完全な夫婦にする。私の母とヨゼフとの愛は完全だった。そして、そのために、その愛は、他のすべての徳のもとであった。……」(1)

 マリア様を完全な愛で愛した聖ヨゼフのその愛は、彼をマリア様に完全に一致させ、もちろん徳においてもマリア様の徳をすべて自分のものとしたのです。教会の歴史上、ごくわずかの聖人が、「神秘的結婚」を体験しています。シンボルとして彼らは結婚指輪をイエズスからはめていただいたり、マリア様からはめていただいたりしています。現代ではリトル・ペブルさんがマリア様から結婚指輪をはめていただき、「神秘的結婚」のきずなでマリア様と結びつけられています。これらの出来事はイエズスから、また、マリア様からの諸徳の移入が行なわれたと受け止めることができます。あらゆる徳を持っていらっしゃる聖ヨゼフも、私たちの心に彼の諸徳を移入することができます。

 聖ヨゼフのことを忘れられた聖人と昔からいっています。現代、聖ヨゼフを愛する人は以前よりさらに少なくなりました。ほんのわずかな人が彼を愛していますが、それは主に男性です。少し時代は遡りますが、カナダのケベック州のモントリオールに今、聖ヨゼフのオラトリオと呼ぶ大巡礼聖堂があります。これはブラザーアンドレイという謙遜な、門番で一生を通した修道士さんの聖ヨゼフに対する愛と信心が、皆の信心を燃えたたせ、大事業を始めさせ、完成させたのです。また、コルベ神父様に、入会後すぐにその場で台所に送られ、ついに一生台所で謙遜に働き通したカシアノ修道士さんは、聖ヨゼフの信心を広める素晴らしい本を2冊も書きました。また、リトル・ペブルさんを日本人に紹介し、そのための迫害にも耐え抜き、最後には聖シャーベル修道会の司祭会員に正式になって亡くなったスタインバック神父様には、かつて聖ヨゼフが目に見える姿となって、街頭に立つ神父様の福祉事業のための募金箱に手づからお金を入れてくださったのです。神父様のご自分への愛と信心に感謝するために。

 謙遜に仕える男性たちに聖ヨゼフの熱愛者がいるのですね。彼らの聖ヨゼフに対する愛の熱烈さと、聖ヨゼフの助けに対する確信の強烈さは、彼らに聖ヨゼフのことを書かせ、語らせ、人々に聖ヨゼフを知らせるために身をささげて仕えさせました。こういう人が女性にいないのは残念でなりません。聖ヨゼフの名をいただいた修道会も、シスターの修道会の中にいくつもあります。しかし現代では聖ヨゼフのことを、上に挙げた人たちのように力を尽くして知らせようとするほどの人はいません。イエズスの指輪をシスターとしていただくことにあこがれる女性はまだいるようです。シスターであるなしは関係なく、私は誰か聖ヨゼフから「神秘的結婚」の指輪をはめていただけるほどに、彼を配偶者として熱愛し、献身し、仕える女性が日本にたった一人でもいてくれればいいなと思います。少なくともそれにあこがれる人がたった一人でもいてくれたら……と思うのです。そうすればその人は聖ヨゼフの御心から咲き誇る諸徳を移し入れてもらえるでしょうに!

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P269、270



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【 第81章 】

 これは偶然なのかもしれませんが、聖ヨゼフのいと清き御心のシンボルである百合がたとえとして出る聖福音の箇所の教えは、聖ヨゼフの超自然的な見方に徹底した生き方そのものを見事に語っています。まず聖書の教えを聞いてみましょう。
「野の百合がどうして育つかを見よ。苦労もせず紡ぎもせぬ。私は言う、ソロモンの栄華のきわみにおいてさえ、この百合の一つほどの装いもなかった。今日は野にあり、明日はかまどに投げ入られる草をさえ、神がこのように装わせられる。ましてあなたたちによくしてくださらぬわけがあろうか。信仰うすい人々よ。何を食べ、何を飲み、何を着ようかと心配するな。それらはみな異邦人が切に望むことである。天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる。だから、まず神の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて与えられる」(マテオ6・29−33)

 次にマリア・ワルトルタを通してマリア様が教えてくださったことを聞きましょう。
「……イエズスが、私たちと一緒におられたことは、私たちに物質的な利益をもたらしたことはありませんでした。あなたたちの多くは、少しでもイエズスに近づいた、と感じた時に、心にこれを期待します。彼が "霊のものを探せ" と言われたことを忘れているのです。神は、小鳥たちと同じく、人間にも糧を与え、計らってくださいます。なぜなら肉体が、霊魂の足場になっている間は糧の必要もあるとご存じだからです。けれども何よりもまず彼の恩寵を頼みなさい。あなたたちの霊魂のために祈りなさい。他のことは、おまけに与えられるでしょう。ヨゼフは、− 人間的に言えば − イエズスと一緒にいることによって、心配、苦労、虐げ、飢えなどしか与えられませんでした。しかし彼は、イエズスだけを目的にしていたので、そのすべての苦しみは、霊的な平和、超自然的喜びに変わりました。私は、あなたたち皆を、私の夫が言ったように "私たちはすべてを失っても、イエズスと一緒なら、すべてを持っている" と言えるまで到達させたいのです。……」(1)

 この20年以上、日本でリトル・ペブルのミッションに参加した人たちが、共同体をつくろうとか、何かを具体的に行なおうとするとき、彼らが自然的見方しかできないことをいつもさらけだしてきました。マリア様が「おまけに与えられる」とおっしゃる事柄を、これがなければ進まない最優先にすべき事柄だと考えてしまうのです。お金、協力者、才能あるスタッフ、組織等々を切に望み、自分たちの人間的活躍で前進しようと、言葉の巧みさ、人脈、権謀術数を頼みとします。使える手は何でも使うのを良しとします。もしここに聖ヨゼフが混じっていて、超自然的見方を皆に進めたとしたなら、「自分の理想をどうぞ勝手に追い求めなさい。さようなら」と、地に足がついていない理想主義者として嘲笑され、裁かれ、切り捨てられてしまうこと受けあいです。人が自然的なものの見方によって行なおうとすること自体、すでに誤りを犯すことなのですが、まだ無知ゆえのことで、罪に至らないこともあり得ます。しかしその人たちが神よりも自分たちに頼る時、恩寵は止まります。恩寵が止まれば、彼らが愛と善徳に進むのは不可能です。こうして愛にもとることを行ない、善徳を裏切ることを行ない、「おまけに与えられる」はずだったものはいっさい受けられなくなるのです。正しい人を嘲笑し、裁き、切り捨てるとき、あるいは真実を一部隠したり、正直でない手段、まっすぐでないやり方を用いるとき、罪がそこにもう存在します。そして何もかも無に帰す結果になるのです。

 もうわかりましたね。神のために生きる、神のために働く、それには聖ヨゼフのように超自然的なものの見方をする道しかあり得ないのです。最優先であり、絶対死守すべきことは愛と善徳の実践です。あとの生活や計画については心配しないでください。愛と善徳を何が何でも行ないぬけば、神のおぼしめしの通りになっていきます。「異邦人が切に望むこと」を日本人はマリア様のミッションにおいても望んできました。これからは愛と善徳を守るためならすべてを失うことをあえて選んでください。

 例をひとつ挙げましょう。コルベ神父様が長崎に来たとき、すでに長崎に入いっていた他の修道会は、コルベ神父様の修道会を追い出そうとしました。コルベ神父様には文書伝道によって日本のみならずアジア全域をマリア様のものにする大望があったにもかかわらず、修道士たちにこう言いました。「彼らに対してよくない思いがほんの少しでも起きるなら、私たちはここに来ない方がよかったのです」と。どんな立派な目的よりも愛徳をほんの少しでも傷つけることのない方をコルベ神父様は選んでいたのです。これが超自然的な見方に徹底する生き方、聖ヨゼフと同じ生き方なのです。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P335












【 第82章 】

 聖ヨゼフは「内的生活」の先生です。といっても皆さんは「内的生活」という言葉を聞くのは初めての人がほとんどですね。チマッチ神父様という日本で働いた宣教師で、ご遺体が聖ベルナデッタのように生きている時のままに変化しない方が、面白いことをおっしゃいました。「私の頭は2階建てになっていて、1階で忙しく働いていても、2階では神に一致している」と。この2階の部分を内的生活というのです。これは最初からあるものではありません。全くのゼロから努力によって、そして恵みによってつくられていくものです。

 聖ヨゼフは貧しい大工として一家を支えるために働きづめに働きました。外から見れば仕事をしている聖ヨゼフは他の大工さんと変わるところはありません。しかし聖ヨゼフの内面には他のいかなる聖人よりも霊魂の働きがあったのです。霊魂は祈っていました。神と交わっていました。愛していました。礼拝していました。賛美していました。感謝していました。あなたは「仕事と同時進行でできるのですか?」と不思議に思うでしょうね。確かに不思議なことではありますが、神の恵みによってできるのです。そしてこれができるようになること、つまり内的生活がつくられ、それが深まっていくことは、神をより愛するためにとても大切なことなのです。

 聖ヨゼフに習うことができるように、聖ヨゼフの霊性を一緒に見てきました。聖ヨゼフのご生涯にあらわれた彼の聖徳も一緒に見てきました。そして、聖ヨゼフの外見にはあらわれない彼の「内的生活」は、聖ヨゼフに習うための3つ目の大きな柱なのです。「内的生活」という言葉さえ初耳の皆さんに、よく分かるように書きたいと思いますが、これは皆さん自身が聖ヨゼフに祈りながら、恵みの助けによって自分の内につくることであって、それをしない限り理解することは到底できない事柄です。私も聖ヨゼフにならって超楽観主義を貫いて「すべてうまくゆきます」と信じて書きます。皆さんも聖ヨゼフのように超楽観主義者になって何も恐れず、「すべてうまくゆきます」と信じて、内的生活を霊魂につくる第一歩を踏み出してください。読んだだけでは何もなりません。何も分かりません。忍耐強く歩き続ける人だけが、この内的生活の点では聖ヨゼフに近づけるのです。



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【 第83章 】

 「内的生活」が外的活動と同時進行だということに皆さんの疑問は集中するはずです。でも皆さんは毎日少なくとも一連はロザリオを唱えるでしょう? ロザリオを毎日唱えるようになってどのくらいになりますか? まだ始めたばかりなら、唱えている言葉の意味を注意深く追っているでしょうが、もう随分と長く続けている人は、ロザリオを唱えながら、もっと多くのことを心の中でしているのではありませんか? マリア様のメッセージのお言葉を思い出しているとか、ご出現の描写の通りに頭の中にイメージを浮かべているとか。そうでしょう? この心の動きは時がたつにつれ、もっともっと多くなりますよ。確かに指はロザリオの珠を繰り、唇を動かし、声を出しているのに、完全に自由な黙想に入いっているという段階に、時とともに近づいていくでしょう。「祈りを唱えながら黙想するなんてできない。一体どうやればいいのですか」とみなさんは質問しますが、どうやるもこうやるも、とにかく皆さんが続けていくしかないのです。「内的生活」が外的活動と同時進行になり、しかも時と共に深く活発になるのは、ちょうどロザリオの祈りの指と口の動きと、黙想が同時進行するようになり、黙想が時と共に深く活発になって行くのと同じなのですよ。

 高いところから墜落して、死ぬはずだったのが奇跡的に死ななかったケースでは、落ちてゆく間のわずか数秒間に、一生の間の多くのいろいろな場面を見た人が多いです。自分で見ようとして見たのではなく、明らかに見せられたのであり、見るだけでなく鮮明にその意味合いを認識し、後悔あるいは感謝の念をそれとともに起こしています。人は皆、絶えず霊魂の働きかけを受けていて、「良心」としてはっきりと認識してもいます。霊魂の能力は最初から完成されていて、胎児からぼけてしまったお年寄りまで差はありません。霊魂はまた、すべてを何一つ漏らさず記憶していて、特に死の時には、がぜん活動をはじめます。それですべての人は死の時、自分の霊魂を見知り、その声を聞くのです。大罪によって多くの人は自分の霊魂をあたかも絞め殺された状態にして、良心の声さえあげられなくしていますが、そんな人たちも、その時目覚める霊魂の働きで、自分の犯したすべての罪を認識させられます。逆に自分の霊魂の働きかけに常に従い、協力する人にとっては、霊魂の働きは一生涯の友のようなものです。そういう人には良心の声、インスピレーションによる示しも非常に強く心に響きます。また、寝ている間でさえ、起きているときと同様に愛し続ける霊魂を意識しています。「私は眠りますが、私の霊魂はその間も、主よ、あなたを愛し続けます」と。

 「内的生活」は異常なことでも心理学の領域でもなく、神の恩寵と、霊魂の働き、そしてそれらに協力することでつくられていくものなのです。神を信じ、霊魂の存在を信じるなら、当然あり得ることと受け入れられるはずのものですよ。



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【 第84章 】

 「内的生活」は大切です。その大切さを分かってもらわなければなりませんね。聖ヨゼフは「内的生活」の最高の模範です。つまり、原罪をもって生まれた人の中で、聖ヨゼフは最も深い、最も活発な「内的生活」を送った方で、彼に並ぶ人は誰もいないのです。それと同時に聖ヨゼフほど外見にその偉大な成聖があらわれることのない、外見と本当の姿とに大きなギャップがある人もいないと言えるでしょう。

 皆さんは聖人伝を読んだことがないか、あってもわずかでしょうから、日本的な例を用いますが、山伏や雲水のような人間離れした厳しい修行をする人の姿が、聖徳のイメージとして、キリスト教世界においても持たれているのです。それが人間共通の感じ方なのでしょうね。しかし、最も偉大な聖人の聖ヨゼフの生活は、厳しい修行の全くない生活でした。貧しいどこにでもいる大工さんで、父親で、村の誰とも変わらない生活でしたし、変わってはいけなかったのです。イエズスとマリア様の奥義をだれも、悪魔さえも気づかぬように神がおぼしめしたからです。従って聖ヨゼフの、神様とすべての天使たちをこの世で誰よりも喜ばせたところとは、聖ヨゼフの「内的生活」なのです。人には何ら価値あるものと気づかれないところなのです。

 マリア様のこのミッションでは、現代主義の教会から無視され、投げ捨てられた伝統の復興がゆだねられているため、断食とか、信心業とか、信心のための祈りや、準秘蹟についてメッセージで語られることが確かに多いです。それで日本人の間では、カトリックの伝統がないので読み違え、取り違え、マリア様のお望みが外的な償いの修行的な業にあるという共通の理解ができてしまっています。これは間違いですよ。私たちは日本人として、伝統的カトリック国の国民が持っているセンスがないので、言葉に注目すると、必ず取り違えますが、模範とお姿に目を注げば、間違いに気づくこともできるはずです。神様とマリア様のお望みは、私たちが聖ヨゼフとマリア様とイエズスの「内的生活」を30年の聖家族のご生活から学び、まね、自分のものとすることが第一です。マリア様のミッションに参加している日本人には、強迫観念みたいなものができてしまっていて、厳しい修行に類することを自分にも、仲間にも強いることをしています。厳しくすればするほど神様は喜んでくださるのだから、もっと厳しくしなければ、限界まで厳しくしなければという強迫観念です。それはそうしない仲間へのファリサイ人的な裁きの行動となって、罪のない人を裁きに裁くという結果を生んでいます。いったいマリア様は、「裁くな!」と教えてくださったイエズスに反して、「裁け!」とメッセージでおっしゃったのでしょうか? もしも私たちの間に聖ヨゼフが私たちのような姿をとってまぎれ込むなら、マリア様のメッセージを盾に聖ヨゼフを裁く人がたくさん出るに違いありません。今の状態では必ずそうなります。皆さんの固定観念はカトリックのものではありません。例えばアシジの聖フランシスコが教皇様に最初に認可していただいた会則に従って生きているフランシスコ会の派があります。アシジの聖フランシスコ当時の大修道院制で、当時の生活で生きています。10時と3時ごろにおやつがあり、必要ならシエスタ(昼寝)をします。生活の穏やかさにつまずきを感じますか? つまずきを感じることは、すでに彼らを裁いているのですよ。それでお願いします。固定観念を捨ててください。メッセージにこう書いてあるじゃないかと言うのもやめてください。あなたは「『内的生活』の大切さは言うまでもなく」という、メッセージの文章になっていない大前提を知らないのですから。

 それでは「内的生活」の大切さを一言でいましょう。それは「神との一致」をもたらすものです。神に何かをささげるのではなく、「神との一致」が起こるのです。あなたに「神との一致」が大切であることが分かれば、「内的生活」が大切であることがわかります。とても単純なことでしたね。



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【 第85章 】

 マリア・ワルトルタへ天が与えた啓示の中で、マリア様は使徒のアルフェオのヤコボ(小ヤコボ)が聖ヨゼフに性格が似ているとおっしゃっています。アルフェオの子、ヤコボとユダの2人の子供時代の姿が描かれたエピソードがあり、彼らは本当に子供らしい子供です。溌剌と遊ぶ腕白な子、学校の聖書と律法の勉強は眠たくなってしまう、じっとしていない男の子です。今でも修道士や司祭になるのは、子供時代「公教要理には興味なし」という元気のありあまった子の方であることを考えると、聖ヨゼフの子供のころも活発で、精気に満ちた子だったのでしょうね。でも男の子は思春期にガラリと全く変わってしまいます。内的な世界に目覚め、外にばかり向けていたエネルギーを内的な方向へ多く用いるようになります。聖ヨゼフはちょうどその年ごろに聖ヨアキムの聖なる模範の影響を強く受け、聖ヨアキムと聖アンナに注文されてバラの彫り物を施したゆりかごを作り、そこに寝かされる生まれたばかりのマリア様を見、3歳になるまでの天使のようなマリア様を折々に見かけたわけですね。青年期の聖ヨゼフはきっとイエズスのように清らかな愛の使徒聖ヨハネのようだったでしょうね。浮世離れしたところを聖ペトロにからかわれる聖ヨハネのように、聖ヨゼフも兄のアルフェオや、村の人たちから、「結婚生活には向いていない、浮世離れした変わり者」と言われたことでしょう。
 聖ヨゼフが霊魂内に「内的生活」を作り始めたのはいつごろなのかはともかく、私たちと同じゼロからのスタートだったことははっきりしています。これを読むあなたは今、何歳なのでしょうか。10代であろうが20代であろうが、それ以上でも、ゼロから内的生活をつくり始めるのは皆同じです。それでこれから、そのために役立つことを書いてゆきます。ただし最初に皆さんに注意しておくことがあります。他の国の人にだったらこんな注意をする必要はないのですが、皆さんは日本人なので間違えるはずですから言っておかねばなりません。今から書くことを「みんな取り入れて実行する」ということをやってはいけません。自分に合うものをいくつかだけやってみるのです。そして「これ」と決めてしまってはいけません。「これを一生やっていくんだ!」などと絶対に考えてはいけません。ある期間用いた方法も、別の方法に変えてゆく方がよいのです。また、月がわり、週がわり、日がわりというやり方だってよいのです。人の顔は皆違いますが、霊魂の性格はそれ以上に人によって違っています。親子は顔が似ていますが、霊魂はそうではありません。それで、ある人にあうものが、他の人には全くあいません。ある時期に役立ったものが、他の時期にはちっとも役に立ちません。その人、その時々にあったものを用いていくべきです。そして今から書くことは、「神との一致」という目的のための手段にすぎないということを強調しておきます。手段にすぎないものを目的にしてしまうといった間違いを日本人は犯す民族です。祈りにしろ、苦業にしろ、今から紹介する方法にしろ、愛による神との一致という目的に達するための手段にすぎないのですから、これをしないとだめだと考え、あるいはこれさえ実行すればいいと思い、同じようにやっていない人を裁くなら、それは手段を目的としてしまった過ちで、結果として人を裁く罪を犯して、神との一致の逆の方向へ進むのです。手段にすぎないものを目的としてしまうと、本来の目的が忘れ去られてしまうものなのです。私がこういうやり方がとても良いですよと書いても、常に手段として紹介していることと、各自で選んで利用してほしい私の意図を忘れないでくださいね。





【 第86章 】

 チマッチ神父様は「私の頭は2階建てになっていて、1階で忙しく働いていても、2階では神と一致している」と言いました。「内的生活」を「神の現存の体験」と呼ぶ人もいます。「内的生活」は人それぞれにかなり違う体験であるに違いありません。一人の人の中ででも、時が経過し、「内的生活」が深まるにつれ、体験が変化していくのですから、どれほど多様なことでしょう。それに体験という言葉の他に感覚とか、意識とか、状態とか、絶え間ない祈りとか、自分の「内的生活」を表現するのに、さまざまな言葉が使われるのも、「内的生活」が千差万別なのを物語ります。聖パウロが「生きているのは私ではなくキリストだ」と言ったのも、幼きイエズスの聖テレジアが「私の中でイエズスが愛していらっしゃる」と言ったのもそうですし、逆にイエズスご自身が「絶え間ない愛の祈り」と名付け、その特定の「内的生活」に導いてゆかれたシスターコンソラータの例のようなケースもあります。「内的生活」を説明しようにも、私には他人の「内的生活」は分からないのです。今の自分のことしか説明できないのです。それがどんなに幼稚なものを紹介することであっても、それ以外のことを皆さんにしてあげることはできないのです。

 私にとって「内的生活」は、私の意識が引き寄せられる神の引力です。絶えず私の意識に作用している神の引力です。それでこの世のことに集中するのをやめると、私の意識は神の方に引き戻されてしまいます。私がゼロから「内的生活」をスタートしたときは全くこの逆でした。この世の引力だけが絶えず作用していたので、神の方に意識を向ける努力をしている最中だけ、ほんの短い間、この世のことから神に意識が向きましたが、その短い間さえ、強力に引き戻そうとするこの世の引力との戦いでした。神の引力は全くありませんでした。この世からだけ引かれていたので、自然にしていれば、常にこの世のことのみに意識が向かったままでした。私は18歳のとき、ゼロからの「内的生活」のスタートを切りました。皆さんと同じくらいの年でしょう? 聖人たちの生涯によくあるような特別なことは何もなく、24年以上、地道に努力してきました。幼きイエズスの聖テレジアのご生涯は24年間でしたから、私は始めるのも遅いし、進むのも遅いし、才能もないし、何らかの良い結果を出したわけでもありません。けれども神の御目には、結果よりもプロセスの方に価値があるのです。24年以上「内的生活」が最も大切なことだという考えを、私は変えることがありませんでした。そうして私がささげたちっぽけな努力のひとつひとつに神の御目は注がれて、そのちっぽけな努力のひとつひとつは永遠に失われることなく、天国で貧しい私の霊魂のわずかな飾りとなるのです。「内的生活」自体、結果ではなく、プロセスそのものというべきでしょう。あなたがゼロからスタートし、プロセスが始まったその日から、「内的生活」はあなたの霊魂に存在し始めるのです。ですから単純に始めましょうね。始めることが到達することでもあるのですから。聖ヨゼフのいと清き御心に祈りつつですよ。助けて下さるのは聖ヨゼフなのですから。



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【 第87章 】

 「内的生活」をつくるために、情報の遮断が役に立ちます。一日中ラジオを聴いている人、一日中テレビを見ている人、毎日、新聞を隅から隅まで読む人などは、たくさんの情報を受け身で受け取っています。ある期間、この情報を受け取らないようにすると、神に意識を向けるのがたやすくなるはずです。

 聖ヨゼフのナザレトの村での生活は、今の私たちと情報量がずいぶん違いました。私たちは情報の洪水の中に沈んでいます。それが普通のこととなっているのですが、本当にそれは普通のことなのかどうか考えたことはありますか? 

 情報は他人が考えたことで、他人が生み出したものです。あなたは受け身になることでそれをもらっています。あなたが自分で生み出すことが、心の働きとして全くなくとも、こうして一日は過ぎていきます。これが情報の洪水の中にいる人の一般的な状態です。情報の洪水の中にいない人は自分で考えます。空想すること、思いめぐらすこと、探求することなど、心の働きは、自分で生み出すことが基本となっています。心の働きにおいて、受動的か能動的か正反対の人間が、情報の洪水の中にいるかいないかでつくられているのです。本来はどちらが人間の普通の姿ですか? 今皆さんは、人の心の痛みを全く考えることができない子、人の身になって考えることが決してない子、自分の行動の結果を思いめぐらすことを少しもしようとしない子たちが育ってきているのを目にしているではありませんか? あなたもその一人だと自覚しているかもしれません。今の日本人が本来の人間の姿でないことは明らかです。ところで、本来の人間の姿に立ち戻った方が、神に意識を向けやすいのですよ。神に意識を向けるのは能動的な心の働きなのですから。

 老人から幼児に至るまで、今の情報の多量さに自分をさらしている人は、もうすでに心の能動性をなくしてしまっています。ただしこれは外的な積極性とは全く別なので混同しないでください。物静かで控えめな人の心が非常に能動的で、反対に活動的で独力で道を切り開き世を渡っている人の心が完全に受動的で、受け売りの知識のみに富み、受けた情報を最大限に利用しているだけであるというのは普通にあることです。心の能動性と外的積極性は無関係です。

 自分の心に能動性を取り戻すためには、情報の一定期間の遮断しか他に方法はありません。あなたにとって必要でしたらそうしてくださいね。



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【 第88章 】

 あなたがロザリオをマリア様におささげするとき、回りは静かでしょうか? うやうやしく愛をこめて唱えようとすると、そのためには静かさが必要だと感じるでしょう? 同様に「内的生活」を作るためにも静かさはとても役に立つます。神に意識を向けるのが、よりたやすくできるからです。

 自分の心の意識を神に向けようと努力し始めると、すぐに気がつくのは「意識はじっとしていない」ということです。まるで、友達とはしゃぎまわる小さな子供のようです。この状態の子は「静かにしなさい」といくら言われても静かになんかできませんよね。隣の子が気になって、どちらかがすぐにまた、ちょっかいをかけてしまうでしょう? そんなとき、大人はどうしますか? その子を友達から引き離して、その子が落ち着いてくるのを待つしかありませんね。私たちも意識を落ち着かせ、神に向かわせるのには同じことをすればよいのです。あなたに、まわりから自分の意識にちょっかいをかけられない、そしてまた、自分からまわりの者に意識を向けることの少ない時間や場所はありますか? そこで心の落ち着き、平和、静かさを味わうようにしてみてください。たとえ静かな環境があっても、そこで心を静かにさせようとしないなら無意味ですよ。あちらこちらへ飛びまわる意識を自由にさせないで、コントロールをきかせる努力を始めてみましょう。意識は絶えず何かを求めて飛びまわっていますが、神を見つけることは、そうしている間はできません。静かさの中にあなたの意識は神を見つけることができるのです。

 あなたの心を深い湖として考えてみてください。水面をいくらぐるぐるとミズスマシのようにせわしなく動き回っていても、探し求めるものが湖の底の一番深いところにあるなら、絶対に見つけることはできません。見つけるためにはぐるぐる水面を動き回らず、一点に止まって、それから湖の底を水を透かして見るのです。これはイメージとしての話しですが、探し求める神をかすかに認めるでしょう。これが「内的生活」の最初の段階で行なわれることです。実際あなたの霊魂の底の底、中心の中心に神は現存なさっているのですよ。これこそ驚くべき恵み! 感謝しつくせない現実ですね。自分の霊魂の最も奥に現存しておられる神に出会うため、深く、さらに深く心の底におりてゆく、それを可能にしてくれるのがまわりの静かさと、あなたの心の静かさなのです。








【 第89章 】

 札幌オリンピックの歌を歌ったトワ・エ・モアの歌に「ある日突然二人黙るの。あんなにお喋りしていただけれど。……」という歌があります。「沈黙」という言葉を聞くと、私はいつもこの歌を思い出します。「内的生活」には沈黙がとても役に立ちます。あなたはおしゃべり好きですか? おしゃべりは判断の連続です。心の一番上層の部分の働きです。「あれは、こうだよ」「いや、そうではなくてああだよ」と、ある対象についての言葉のキャッチボールは続きますが、それは判断し、伝える。判断し、伝える。その繰り返しです。

 ある対象に心を向け、「判断する」のではなく、もっと深い層の心の働きである「愛する」ことを始めるとき、言葉は消えます。突然、沈黙がやってきます。愛は沈黙を連れてくるのですね。おしゃべりは愛を連れてはきません。沈黙は「愛」といわば手を携えているのです。「内的生活」は神を対象に心を向け、「愛する」心の働きです。ですからおしゃべりと両立はしません。「内的生活」を心につくりたい人は、それで、沈黙を一日のある時間取り入れたり、ある一定の期間、例えば週のうちのある一日、月のうちのある一日、年のうちのある数日実行するなら、あなたの心の働いている部分が、判断する上層の部分から、愛するもっと深い部分へと切り替わるきっかけをつかむことができます。

 ところで外的に発声しないという沈黙をあなたは実行するとします。しかし心の上層部の働きを何ら制限することなく、声にはしなくとも「あれはこうだ」「それはああだ」とやっていたのでは、ほとんど沈黙の意味はありません。発声しないことを外的沈黙と言いますが、それとは別に内的沈黙というものがあり、それは心の上層部の働きを制限し、少なくすることです。こちらの方が本物の沈黙であり、「内的生活」をつくるのにより役に立つ沈黙です。人に違和感や不便を感じさせることのない程度の話しをしながらも、内的沈黙を十分に実行できるのが、より深くなった「内的生活」の段階です。けれども初めのうちは、それは無理ですから、外的沈黙を強力な助けとして、内的沈黙ができるようになるよう努力すればよいのですよ。
【 第90章 】

 「黙想」とは何でしょうか。「思いめぐらすこと」ですね。「内的生活」をつくるのに「黙想」をどう役に立てればいいのでしょう。マリア様は、12歳のイエズスをエルサレムで見失い、3日後に神殿で見つけたとき、イエズスから「私が父の家にいると知らなかったのですか」と言われました。マリア様はこの言葉を心に留めてずっと思いめぐらしました。黙想のやり方はいろいろありますが、中でも短いひと言を用いるこの方法が「内的生活」をつくるのに向いています。思い出し、味わい、探求する、これには短い言葉の方がよいのです。長い言葉は意味の完結したまとまりですね。ですから思い出すだけで止まってしまうことが多く、そこから心が能動的に働いてはいかず、ただ受動的に意味を受け取るだけになりがちです。短い言葉は、そこに自分なりの世界をつくる俳句のように、その言葉をもとに自由に連想すること、自分独自の思いを巡らすことを行ないやすいものです。本当ですよ。「父の家」、この言葉から自由にさまざまな連想をしてくださいと私が課題を出したとして、皆さんは難しくはないでしょう? でももっと長いフレーズの「どうして私を探したのですか。私が父の家にいると知らなかったのですか」という文から自由にさまざまな連想をしてくださいという課題だと、さまざまになど連想できませんよね。逆に皆さんにとってもっとやさしくするには、「父の家」を「父」だけ、または「家」だけにしたらよいのです。そんなに短くして本当にいいの? と心配になるのですね。心に神を愛する思いをもって思いめぐらせば、それで本当にいいのです。心に神を愛する思いをもってということを忘れないでください。

 朝のうちに短い言葉を選ぶことを勧めます。新約聖書の聖福音からが選びやすいですよ。少し読んだら、その中から心が一番何かを感じたところを選べばいいのです。選んだ文をその場で覚えて、そしてその後は、一日の間、たびたび思い出すのです。「何だったっけ?」「あ、そうだ! 父の家だった」と。そして神を愛する思いを起こしつつ、自由に連想するのです。その日一日、その短い言葉を使えばよいのです。こうすれば楽しいものですよ。神に意識を向けることもちゃんとできています。試してみてはいかがですか? 

【 第91章 】

 聖書はもちろん神様が私たちに読ませるために与えてくださった本です。マリア様のメッセージも現在だけでも全世界で何千人もの人を通して与えられ、膨大な量になりますが、私たちに読ませるために与えてくださっているのです。マリア・ワルトルタに第二次世界大戦中に神様が終わりの時に生きる私たちに特に読ませるために与えてくださったものもそうです。私たちに読ませるためにとは、私たちの霊魂が、読めば神に近づくことができるということです。それで、聖書もメッセージも、マリア・ワルトルタへの啓示の本も「読みなさい!」と天がおっしゃるのです。「読みなさい!」と天が非常に強く勧めているのですから、単純に従うべきです。読まない人はいろいろな自分なりの理由をあげます。「愛と謙遜の実践だけでいい。知識など何にもならない」など、もっともらしい理由で、すばらしい考え方に聞こえます。しかし「単純の徳」は、どんな素晴らしい自分の考えにも固執せず、神様のお勧めに何の異議も唱えず、従うことにあります。聖ペトロは漁師頭としての、専門家としての自分の意見に反するイエズスの勧めに単純に従って、もう日が昇って魚が捕れない時間に漁場でない場所に網をおろし、生涯中最高の水揚げを得ました。この種の「神秘的な豊漁」を得るためには、誰でもそうしなければなりません。自分の素晴らしい考え、何十年もの経験に裏打ちされた人間的には絶対間違いのない意見を、神のお望みの前に投げ捨てない限り、「神秘的な豊漁」「超自然的な実り」を得ることはできないのです。

 「内的生活」をつくり、深めるために、つまり神に近づき、神と一致するために霊的読書は必要です。(霊的読書という言葉はローマ・カトリックの専門用語で、意味は「霊魂の栄養となる本を読む」ということです) 霊的読書は黙想と一緒に合わせて用いるものです。それは黙想の材料を提供するものですが、単に知識のストックを増やすものというだけではなく、神に対する霊魂の愛の火の燃料でもあり、神様やマリア様、天の方々からの愛の語りかけと愛撫でもあります。つまり、黙想の際に心に抱く神への愛の思いが強まり、その燃えあがった愛の火が、黙想後もしばらく持続するという「内的生活」をつくることと、それが深まることを霊的読書はもたらしてくれるのです。霊的読書を神が自分に愛の言葉を語りかけてくださることだと理解するなら、愛する人の愛のささやきが持つ効果と同じ効果がそれによって霊魂にもたらされることは、すぐ納得できますよね。それであなたは自分からも、その言葉を学者のように頭だけで受け止め、研究するような受け取り方をしないようにしてください。あなたは愛する人の言葉なら心を持って受け取るでしょう? 味わうでしょう? 込められた深い意味を探るでしょう? そのように霊的読書を行なってくださいね。



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【 第92章 】

 これを読んでいるあなたが女性でしたら、初恋は小学生のときだったでしょう? 男性だったら中学生の時だったでしょうね。男性の方がはるかに強い影響をこうむりますから、その初恋の間はずっと相手のことが一日中頭から離れることなく、何をやっていてもうわのそらになり、勉強なんか全く手につかなかったのではありませんか。この経験は「内的生活」をつくるのに利用できます。一日中相手のことが頭から離れない状態は、「内的生活」が深まった人が神のことが頭から離れない状態になっているのに非常に似ているからです。あなたが「内的生活」が深まった段階を想像するのに、初恋のことを思い出し、相手を神様に置き換えたら、かなり近いものを想像できるはずです。そしてそのイメージを目標に、自分の意識が常に神に向いているように努めるという方法も、一つの良い方法なのですよ。

 恋愛は心の働きですね。頭の働きではありません。神に意識を向けることは、心に抱く神を愛する思いによって行なうことで、心の愛が大きければ大きいほど、神に意識を向けるのはたやすくなります。これも自分の初恋を思い出せばわかるでしょう? 相手のことを思わないようにしよう、忘れようとしても、それができないほどに心の愛によって意識が相手に向かっていたでしょう? 

 それで皆さんに一つ提案します。神様に、イエズスに、マリア様に、聖ヨゼフに、あなたは魅力を感じるようにしてみてください。聖書やメッセージやマリア・ワルトルタへの啓示の本などの霊的読書の時、それを思い出し、思いめぐらす黙想の時、その方々の絵を見るとき、歌を聴くとき、愛すべき人として、魅力ある人として、自分を夢中にさせる人として、そして何よりも誰よりも自分に特別な思いと愛を寄せてくれている人、自分を魅力あるものとして見てくださっている人、自分を選んでくださった人、自分のためには苦しみも死をもいとわない人として、心でその方を受け止めてみてください。今まで頭でその方々を理解しようと試みていた皆さんには、これは新しいやり方でしょう? けれどもきっとあなたの「内的生活」をつくり、深めるのに役立ちますよ。



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【 第93章 】

 これを読むあなたが子を持つ親なら、「内的生活」を理解してもらうのに、子を気にかけている親の状態に似ていると言えば、きっと想像しやすいと思います。四六時中、頭のどこかに子供のことが気になっているというよりも、子どもを心に住まわせているような状態に、親になったらなりますね。イエズスは私たちのために赤ちゃんになってくださり、33歳までのすべての年齢をこの世で体験してくださいましたから、私たちはイエズスをどの年齢のイエズスとして愛しても構わないのですよ。幼きイエズスとして、わが子として愛することももちろん、とても良いことなのです。あなたが、神様が人間に備えてくださった父性愛、母性愛を働かせてイエズスを愛することで、「内的生活」をつくるのも一つの善い手段です。子供がいなくても母性愛を女性は早くから理解し、持つことができますから、若い女性にもこの方法は用いやすいはずです。あなたがいなければ何もできないイエズスをイメージしてみてください。泣いてあなたを呼ぶしかできないイエズスですよ。お乳? おしめ? とにかくあなたが必要になったのです。イエズスはイエズスですが、あなたの一部分です。あなたを離れては生きていけない存在なのですから。どうですか? このイエズスのことを思い出すのは、そして意識を注ぎ続けるのはできそうに思いませんか? 食事の時、おやつの時、お茶の時、お世話すべきイエズス、あなたの愛を飲みたいイエズスを思い、同じようにいろいろあなたの生活の場面で、あなたの思いやりの服を着せてほしいイエズス、あなたの愛の歌で眠りたいイエズス、あなたのキスが欲しいイエズス、あなたに遊んでもらいたいイエズスを意識すればよいのです。女性も男性もやってみてください。あなたは幼きイエズスに特別な愛と信心を持つことになるでしょう。そしてあなたの「内的生活」はマリア様、聖ヨゼフ、幼きイエズスの聖テレジアに似たものになるでしょう。



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【 第94章 】

 コルベ神父様は「内的生活」を非常に大切にした方です。修道士たちを育てるのも、「内的生活」に重点を置きました。コルベ神父様は各部屋ごとにマリア様のご像を、だいたい目の高さに、つまり口づけできる高さに置き、そのすぐ真上にイエズスのご絵を置きました。マリア様を通してイエズス様に至るということを皆の心にしみとおらせるためでした。そして修道士たちに度々、マリア様のご像とイエズス様のご絵に目を向けるように指導していました。そうです。目を向けるたびにマリア様に、イエズスに、御父に、(なぜならマリア様を通してイエズスに至り、イエズスを通して御父に至るというのが、特にコルベ神父様の教えていたことですから)意識を向けることができ、「内的生活」を深めてゆけるからです。すばらしい方法でしょう? 簡単で確実な方法ですよね。これは忙しい人に特にすすめたい方法です。コルベ神父様自身も山のような仕事にいつもかこまれていたし、修道士たちも同様でした。コルベ神父様の宣教事業の中心である印刷の仕事は、注意を集中させていないとすぐ数百枚や数千枚の紙を無駄にしてしまうような仕事です。その仕事中でもチラッと目をご像、ご絵に注ぐことはできます。そうしてたびたびマリア様への愛を深め、マリア様への奉献を新たにし、マリア様へ、今の仕事を祈りとしてささげ、一日中をマリア様への継続的な祈りにすることが、そんなに忙しく、集中を必要とする仕事をしている修道士にさえ、この方法で可能だったのです。言葉さえ必要ありません。愛をもって見るだけで、愛をこめたまなざしを送るだけで、「内的生活」を深めていけるのです。
 これをあなたなりに応用してみてはいかがですか。愛は発明家です。聖ヨゼフもまた、あなたに独創的なアイデアを思いつかせてくださるでしょう。なにしろ聖ヨゼフは労働者の保護者なのですから、忙しいあなたにも「内的生活」をつくることができるように必ず助けて下さいますよ。



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【 第95章 】

 「内的生活」を作るのに射祷が有効です。「射祷」もローマ・カトリックの専門用語ですから、皆さんは何のことだろうと思うでしょう。「しゃとう」と読みます。そして「射」は弓で矢を射ることをあらわしています。そのようにごく短く、神に意識をサッと向ける祈りです。「イエズス愛します!」とか「マリア様助けてね!」とか「お願い聖ヨゼフ!」とかの非常に強い祈りです。静かに燃え続けるろうそくのようではなく、フラッシュのような感じですね。この世のことに向いている意識を神にグッと向けるのにこれを用いるのです。仕事や勉強の間でも、フッと息を抜くことができた瞬間や、ちょっと頭がひまになったとき、また、自分がこの世のことに長く意識を向け続けていると気がついたとき、この世に意識が向いた状態を断ち切って、神のもとに飛んでゆくのは、まるで2〜3歳の子が少し遊んでは母親の方に戻ってきて、安心してはまた遊びに戻り、少したったらまた母親の所に戻ってきて安心するのを繰り返すのに似ていますね。こうして自分の発進基地がこの世ではなく、神になってゆきます。この世の子ではなく、神の胸であたためられる神の子になります。まだほとんどこの世に意識はとどまっているにしても、神に意識を向けているのは時間的には合計してもわずかに過ぎなくとも、射祷を一日の間、度々用いることによって、このように大きな転換が起こるのです。何とうれしいことでしょう!

 用いる祈りは自分で自分なりのを作れば良いのですよ。その時その時でぴったりするものに変えていった方がいいです。あなたがずっとこれだと決めてしまうと、神が導く余地がなくなってしまいますから。私のおすすめは、希望の徳を強め、超楽観主義者になるための射祷、「すべてうまくいっています」「すべてうまくゆきます」「悪いことは何一つ起こりません」の3つを、あなたのものと混ぜて用いることです。聖ヨゼフの霊性を「内的生活」の基礎とすることは、日本人である皆さんには特に必要なことなのですから。この3つの射祷は、神に対する信頼の思いに満ちたものです。さっきの例の子どものように、神様から安心を汲みとってはまた、遊びに戻ってゆく、そんな霊魂は何て神様と生き生きしたつながりを持っていることでしょう! この方法を実行してみてください。



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【 第96章 】

 イエズスから与えられた射祷もあります。「イエズス、信頼します!」 これはポーランドのシスターファウスチーナにイエズスがお与えになったものです。イタリアのシスターコンソラータには「イエズス、愛します!」という射祷をイエズスはお与えになり、心の中でできるだけ度々唱えるようにご要求なさいました。イエズスはシスターコンソラータの「内的生活」が深まるにつれ、できるだけ度々というご要求を、絶え間なくというご要求にまで、じょじょに難しくしてゆかれました。また、祈りも「イエズス、愛します!」を、「イエズス、マリア、愛します!」に。そして「イエズス、マリア、愛します。霊魂(達)を救って!」というふうに、少しずつ長くしてゆかれました。シスターコンソラータは心の努力の限りを尽くしました。何年もの激しい努力の結果、彼女は、何をしていてもこの愛の祈りを止めずに心の中で続けるというイエズスのご要求にそえるように本当になったのです。「そんなの人間技ではない!」と皆さんも思うとおり、これこそまさに神技です。神がお与えくださる恩寵のおかげで絶え間なくこの愛の祈りを心の中で唱えることができるのです。シスターコンソラータは、彼女と同じ方法で「内的生活」を生きる多くの人々の霊的母親になるためにイエズスから選ばれたのです。彼女の模範と取り次ぎによって、彼女と同じように絶え間ない愛の祈りを用いて「内的生活」を生きるようにと神がお呼びになっている人にも、イエズスはシスターコンソラータにお与えになったのと同じ恩寵を与えてくださいます。皆さんの中にも絶え間ない愛の祈りに呼ばれている人がいるかもしれませんね。マリア様のこのミッションでは、聖ヨゼフにも祈るようにと、イエズスは「イエズス、マリア、ヨゼフ、愛します! 霊魂(達)を救って!」と、ヨゼフの名もまた、お加えになりました。このリトル・ペブルさんのミッションのフランス語を話す人たちのために、マリア様はフランス語のこの祈りに、歌うためのメロディーをつけてくださいました。残念ですけれど、フランス語のこの祈りはとても短く、日本語のこの祈りには、そのメロディーは合わないので使えません。とにかくこれを台所とかで働きながら、皆が静かに繰り返し歌ったり、自分ひとりで小声で静かに繰り返し歌うことができるのです。これもできるだけ愛の祈りを絶え間なく続けるのをやさしくするために、マリア様が与えてくださったのです。射祷を使って絶え間なく愛するのが要点ですから、あなたのアイデアで、あなたなりの方法を生み出してもいいのですよ。



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【 第97章 】

 神に意識を絶えず向けるために、「愛」よりも「望み」の方がよりたやすい人もいます。私たちの、神と隣人への愛と望みは、生きている間は無限に大きくしてゆくことができるのです。「日本中のできるだけ多くの人を救いたい」とか「世界中のできるだけ多くの人を救いたい」とか、この望みの強さは人それぞれに無限の差があるのです。この望みが神の恵みによって際立って強い人には、「愛」よりも「望み」の方が自分の心から多く出ているように感じられます。こういう人は、そのままこの「望み」を「内的生活」をつくり、深めてゆくのに利用できます。また、今の時点ではまったくこの望みを持っていなくとも、この世的なこと、例えば試験の合格とか、お金持ちなることとか、立身出世とかを望むと、取りつかれたように一日中、頭の中からその望みが離れなくなってしまう人は、神様に関することを望めば、同じように一日中その望みが頭の中から離れないタイプかもしれませんよ。

 聖ヨゼフの霊性を説明したとき、完徳のレベルでの徳の土台は「あらゆる苦しみを苦しみたい」という望みだということを書きました。つまり、他の人を救うには、その人の代わりに償いをささげればいいのだから、苦しむことにより償いをささげ、他の人を救うことができると理解できた霊魂は、他の何ものにもまして「苦しみ」を望むようになるのです。「代わりに償ってあげたい」とか「もっと苦しみたい」とか「できるだけ多くの人を救いたい」とか、あなたは一日中、何をしていても望み続けることができる人かもしれません。その人はこの望みを強くすれば強くするほど神へと意識が強く、そして長く向きます。また、神を愛することも、神をお喜ばせしたいと望むことを含んでいますから、神様を、イエズスを、マリア様を、聖ヨゼフを、または自分の守護の天使や保護の聖人をおよろこばせしたいと一日中望み続けるのも、愛と望みの両方によって「内的生活」を深めるひとつの方法ですね。



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【 第98章 】

 肉体的な苦しみと痛みも、神に意識を向け続けるのに利用できます。一日中苦しいとか、一日中痛みがあるとか、ある病気の人はそういう状態です。普通は苦しさや痛みは祈りを妨げるものですが、これを逆に祈りそのものに結び付けて「内的生活」に役立てる方法です。苦しみとか痛みを「償いとしてささげます」という意向と、心の中での射祷「ささげます」とともにそれを意識するのです。神秘的にイエズスのご受難の苦しみを体験する神秘家たちは、たとえば毎週金曜日は一日中とか、長時間肉体的にも精神的にも苦しんだりします。その上、苦しみや痛みから気をそらせることはできず、かえって苦しみや痛みの中に没入して深く味わうのです。そのことを考えると、自然的な病気やけがからくる苦しみ、痛みをこうして「内的生活」をつくり、高めるのに役立てるために意識することも、それと同じことだといえます。あまり辛いと「ささげます」と心の中で言うこと以外、何もできない、何も考えられないものですが、これで十分どころか、このささげものは他の祈りより、祈りと苦しみがあわさっていますから、ずっと大きく、神の御前にはるかに大きな価値があります。価値があるからこそ神秘家たちは超自然的にその状態をささげさせられるのです。あなたが病気で、この長時間続く肉体的苦しみや痛みを持っている人なら、どうかこの方法用いてみてください。また、今、元気な人も病気になったとき、けがをしたとき、この方法を思い出してやってみてください。

 このほかに肉体的なものへの意識を利用して「内的生活」をつくり、高める手段として「呼吸の祈り」と呼ばれるものがあります。「吸う」「吐く」を意識して、そこに射祷を当てはめて絶え間なく神に心を向けるという方法です。「イエ・ズス」とか「愛し・ます」とか、吐くときだけ「マリア」とか、吸うときだけ何かとか、あなたの自由なアイデアで行なえばよいのです。この方法が向いている人も皆さんの中にいるかもしれませんね。



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【 第99章 】

 神に意識をむけるのを妨げるものは、あなたを神から引き離すものです。それはあなたの霊魂にとって非常に大きな損害になっています。コンピューターゲームが最も今、皆さんを長時間神から引き離すものですね。例えばコンピューターゲームをした人は、その間はもちろん神から引き離されていたわけですが、他の時間にもこのゲームのことを考え、空想しています。そうやってゲームのことが心を占領している間も、やはり神から引き離されているのです。こういった心を占領するくだらない考えや空想をやめることは、「内的生活」をつくり、深めるために役立ちます。

 「内的生活」は神に意識を向けることが、時々から頻繁に。頻繁にから絶え間なくなるようにと深まってゆきます。絶え間ない愛、絶え間ない望みを神様は私たちに求めていらっしゃるからです。イエズスは「内的生活」の指導を神秘家たちになさる場合は、心を占領するくだらない考えや空想をやめ、好奇心までも捨てるようにと厳しい要求をなさいます。そうすればその分だけ神に意識が向く時間が増えるわけです。しかしそれだけではありません。くだらない考えや空想を放置していると、神に意識を向けている最中も、意識の片隅にそれが居座って、純粋であるべき神への愛や望みを濁らせるからなのです。神は澄んだ清水を私たちから飲ませてほしいと願っていらっしゃいますが、それによって私たちは神にくさい泥水を飲ませることになってしまうのです。神のご要求に従い、くだらない考えや空想をやめれば、神へ向ける意識にこもる愛と望みの純粋さも強さもまします。

 皆さんは自分の意識がくだらない考えや空想にとどまっているのに気がついたら、その考えや空想を直ちに打ち切り、かわりに神に意識をすぐに向けるという自分自身との戦いをどうか始めてください。もちろんあなたは、あなたのくだらない考えや空想を養うものを断たなければ、この戦いに勝つことはできません。あなたは自分の「記憶の水がめ」から取り出した記憶をもとに考え、空想するのですが、今はあなたの「記憶の水がめ」には、この世のことが全体の99%を占めていたとしても、その供給源をたち、かわりに神のこと、聖なることを供給していけば、どんなに時間がかかっても少しずつ比率は変えてゆくことができます。あなたが例えばコンピューターゲームをすることは直接体験です。ゲームのことを考え空想することは頭での追体験です。両方ともが「記憶の水がめ」に入る、この世の水です。この世の水がいっぱい入いった水がめから、人はまた考えと空想の材料として、この世のことを取りだして味わい、追体験し、それがまた「記憶のみずがめ」に入いっていくというふうに、直接体験も頭での追体験も放棄しなければ供給源は断てません。また、この世の水がいっぱい入った水がめから考えと空想の材料として神のこと、聖なることである清い水を取り出すことは困難なことだということも知っておいてください。それは霊的読書で補なわなければなりません。

 聖ホセ・マリア・エクスリバー神父は神のことしか話さない方でした。そこまでになるほどに「記憶の水がめ」を神のこと、聖なることのみにすることを目標にしましょう。まずあなたの心を占領するのがどんな考えや空想なのかをチェックするのです。そしてそれを追い出す戦いにうつり、その供給源も断つのです。さっそく始めてみましょうね。


【 第100章 】

 自分の義務としての勉学や勤めのために頭を働かすときは別として、神に関すること以外のことは考えないという「内的生活」をつくり、深める方法があります。これは思考活動を用いる方法です。思考活動といっても、神に関することを考えれば、心の愛の思いも、救霊や償いや苦しみに対する望みも同時に働きます。けれども思考によって導かれて働くのですから、主導的なのはやはり思考なのがこの方法です。

 今、私はこの本を書いています。毎日、ほぼ一日中、この本の内容を生み出すために神に関することを考えています。食事中も旅行中も、何をしていてもという状態です。とても不思議で奇跡としか言いようのない「内的生活」の状態です。私は思考活動を用いた「内的生活」があることを、著作活動を始めるまでは知らなかったのです。これは必要に迫られてのことです。私は思考する力が強い人間ではありません。100%神の恵みです。主はたたえられますように! 神に感謝!

 もしあなたが思考する力が強い人、思索的な人であれば、この方法を用いてはいかがでしょうか? 「神のみ」、この標語は十字架の聖ヨハネのものです。十字架の聖ヨハネという聖人は「絶対の博士」というあだ名があるぐらいに「神のみ」に徹した方です。そして神秘神学の最高峰といわれる本を何冊も書きました。中でも「カルメル山登はん」は地下牢に閉じ込められ、牢番からひどい虐待を受けている境遇にある時に書いたものです。神に関することを考えるのは楽しいことですよ。皆さんはまだその経験はしていないと思います。十字架の聖ヨハネは「暗夜」という神様からの慰めが全くない霊魂の状態についての本を書きました。私も感覚的な慰めを神様からいただかないという特徴を持った霊魂の一人です。何十年も、ずっと「暗夜」だけが続いています。その中で神に関することを考えることは、感覚的な楽しみとは違いますが、唯一の喜びです。ですから「神のみ」の、いかにも無味乾燥といったふうに見える「神に関すること以外のことを考えない」という方法での「内的生活」に召されていると感じる人は、勇気を出して歩み始めてください。

【 第101章 】

 皆さんは1日1回、ロザリオをマリア様にうやうやしく愛をこめて一連ささげるとき、あらたまった祈り方をしていますね。ローマ・カトリックの伝統としては、このほかに、起床時の祈り、朝の祈り、食前の祈り、食後の祈り、夕の祈り、就床時の祈りを毎日、祈りの前後に十字をきり、多くは聖人たちが作った内容豊かな祈りの文をあらたまって唱えます。自分の言葉でマリア様に子供のようにお話しするのが祈りの基本ですが、それとは別にこういった祈りもあるのですよ。私は小さいころから、これらの祈りは耳で覚え、意味も全然わからないうちから唱えてきています。大きくなると意味がわかりますから、内容の素晴らしさを味わい、霊魂の栄養とすることができます。それも素晴らしいことですが、これらの祈りは習慣として、その時、その場面で自然と祈りたくなるというのがまた、すばらしいことなのです。何の苦労もなしに、日常のその場面が来ると、神に意識を向けることができるようになっているのですから。

 生活に密着したこれらの個人的祈りも、「内的生活」をつくり、深めるのに利用できます。利用できますが、実際には利用されていません。「内的生活」をつくりたい、深めたいという望みをもったわずかな人々の中の、これらの生活に密着した個人的祈りがそのために利用できると気がつき、利用しようと努めている人、本当にごくごくわずかな人が利用しているに過ぎません。

 あらたまった祈り方は、神の御前にいるという感覚をもたせてくれます。神と対面している自分の姿をイメージさせてくれます。それで、その短い祈りの間はこの世のことから完全に切り離されて、あたかも神の玉座のみ前に飛んできたように、深く、強く、神に意識が向きます。すでに書きましたが、十字を切るのも非常にゆっくりと丁寧に、うやうやしく、父、子、聖霊、マリア様、聖ヨゼフに愛を心に起こしながら、頭、胸、左肩、右肩、両手のひらを合わせる、と動作してゆけば、なおさら天の方々のみ前に出ているという意識を強く持つことができます。習慣づける祈りを一日のうちにちりばめ、そのたびに神に意識を深く、強く向け「内的生活」をつくり、深める方法は、誰にでもできる方法です。皆さんは今からすべてを始めるのですから、徐々に始めていくことが大切です。起床時、就床時、食事の前後だけからやってみてはいかがですか? 実践したい人のために、一般的な祈りを書いておきます。美しい祈りですよ。それから十字を切るのは心の中だけででもできます。自分の手を思い描いて、心の中で動かして行けばよいのです。実際の十字の印と心の中だけでの十字の印を場面に合わせて使い分けてくださいね。

■起床時の祈り
 朝まだきにわが心、主をあこがれてめざむ。
 イエズス・キリスト祝せられさせたまえ。
 イエズス、マリア、ヨゼフ、
この日と一生とを御手にゆだねたてまつる。

■就床時の祈り
 イエズス、マリア、ヨゼフ、
心と霊魂とを御手に任せたてまつる。
 イエズス、マリア、ヨゼフ、
臨終のもだえの時に、われを助けたまえ。
 イエズス、マリア、ヨゼフ、
御保護のもとに、安らかに息絶ゆるを得しめたまえ。
 守護の天使、保護の聖人、
われを照らし、守り、導きたまえ。アーメン。

■食前の祈り
 主、願わくはわれらを祝し、また主のおん恵みによりて、
われらの食せんとするこのたまものを祝したまえ。
われらの主キリストによりて願いたてまつる。アーメン。

■食後の祈り
 とこしえに統治(しろしめ)したもう全能の天主、
数々のおん恵みを感謝したてまつる。アーメン。
ねがわくは死せる信者の霊魂、天主のおんあわれみによりて
安らかに憩わんことを。アーメン。



【 第102章 】

 三位一体のまことの神を愛さない、礼拝しない人類にかわり、全人類のためにわずかな人が代表者となって、天使たちの歌隊に加わって愛と礼拝を捧げるようにと神様が望まれたので、共同の祈りを修道院などの共同体は行なっています。「代表者」はたった一人でもさぼると、多くの人への恵みが止まってしまいます。「代表者」は責任重大です。

 共同の祈りは神様の目から見ると、今説明したように、あなたが天使たちと聖人たちのただ中で、今生きている人類だけでなく、リンボと煉獄の数えきれない霊魂たちのために祈ることです。彼らは本当に祈りを必要としています。私たちは一人でいったいどれほどの数の霊魂を代表しているのでしょうね。単純にこの世にいる人とリンボのすべての霊魂と、煉獄のすべての霊魂を足して、修道院などの共同体で共同の祈りをしている人の数で割ったら、どんな数字が出るのでしょう。天文学的数字になるかもしれませんね。これらの霊魂のうち、特に煉獄の霊魂たちは皆、私たちの共同の祈りを待ち焦がれています。彼らのために祈る人は実に少ないのです。悲しいことに現代のカトリック信者、聖職者、修道者は大半が煉獄の存在を信じていません。だからもちろん彼らのために祈りません。煉獄の存在を信じている人でも、彼らを愛していないので祈ってあげません。それを考えると、マリア様のこのミッションの共同体でささげる共同の祈りは、彼らにとって今どれほど貴重でしょう。そして私たち一人にかかる責任はどれほど大きくなっていることでしょう。ご出現の後に、マリア様が、ご出現中の皆の共同の祈りによって天国に連れてゆくことのできた、煉獄にいた霊魂の数を教えてくださることがありますが、時には数万とか数十万とかいうこともあり、共同の祈りの途方もない取り次ぎの力には、全く驚かされてしまいます。

 共同の祈りは私たちの「内的生活」に非常に役立ちます。自分の方法というごく狭い視野で「内的生活」をつくり、深める努力をしている私たちに教会的な広い視野を与えてくれますし、教会が保有する多様な霊的宝を私たちに与え、それによって私たちのバランスを良くしてくれます。さらに新しい発見を私たちにさせ、心を照らし、導きを与えてくれます。こうして共同の祈りは、私たちの「内的生活」が順調に、健全に深まっていくのを助けてくれるのです。

 今、共同の祈りをしている人も、将来、共同体に入ってそこで始める人も、共同の祈り自体の価値と自分の責任に気づいてくださいね。そして天使たち、聖人たちのただ中で祈り歌う自分、自分がパイプのようになり、自分を通過して恵みが全ての今、生きている人の霊魂、リンボのすべての霊魂、煉獄のすべての霊魂に流れていくのをイメージすることなどを行なえば、共同の祈りはともに祈っている全天国、恵みにあずかる全ての霊魂を意識できる機会になります。その意識を自分の「内的生活」に生かし、霊魂の及ぼす愛の対象を広げてください。そうすれば神様との、また、イエズス、マリア様、聖ヨゼフとの対話が豊かになるでしょう。祝日や季節の典礼によって、喜ぶ教会とともに喜び、悲しむ教会とともに泣く、これも「内的生活」において、対話やイメージが豊かになることです。イエズスを思うことひとつとっても赤ちゃんのイエズス、ご受難のイエズス、小羊としてのイエズス、王としてのイエズス、父として、花婿として、兄弟として、友として、と多様になれば会話も無限に多様になり、尽きることがなくなりますね。

 共同の祈りをあなたはこのように意識的に「内的生活」に役立ててみてください。



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【 第103章 】

 子供を育てている母親が幻視者の場合、マリア様は子どものしつけに関することを教えてくださることがよくあります。マリア様は子供を取り巻く環境すべてに気をつけるようにとおっしゃっています。騒がしい音楽を聴かせてはいけないこと。つきあっている友達を調べ、悪影響を与える友人とは断交させること。読んでいる本やマンガ、楽しんでいる遊びや、行っている場所を調べ、悪いものは捨てさせ、悪い場所には行かせないこと、等々。今の子供たちが育つ環境があまりにも悪いので、マリア様は親に多くのことを正すように願っていらっしゃいます。

 「内的生活」をつくり、深めるために、このマリア様のおすすめはぴったりです。親を私たち自身に、子供を私たちの霊魂に置き換えて考えてみてください。子供に悪い環境とマリア様がおっしゃるものは、霊魂が「内的生活」をつくり、深めるためにも同様に悪い環境です。皆さんの訓練されていない霊魂は子供と同じです。環境に流され、まともに影響を受け、染まってしまいます。逆に子供に良い環境を与えてやれば、子供は良い影響を受け、健全に成長しますね。同じことが皆さんの霊魂にも当てはまります。それで「内的生活」をつくり、深めるためには環境がおおいに利用できるのです。

 神に意識を向けやすい環境をできるだけ整えましょう。あなたは「若者の文化」の中にどっぷり浸かっているような人ですか? 回りの若者たちと何ら変わらない環境から抜け出さなくてはいけませんよ。彼らは生活を刺激で満たそうと、あらゆる刺激的なもので回りを囲み、刺激を探し求めて歩き回り、刺激的な友を選びます。あなたの霊魂を見てごらんなさい。刺激に反応しては意識がそっちに向かいます。ちっとも落ち着かず、次から次へと別の刺激に反応し、意識はこの世のことにあっちこっちと引きずりまわされるばかりで、神に心を向ける余地が残っていませんね。この現状に気がついたら、それを正すためには、どういう方針で環境を整えていくかがわかると思います。あとは自分の頭で考えつつ、工夫しながらやってみてください。



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【 第104章 】

 「内的生活」をつくり、深めるのに「つつしみ」が役に立ちます。さて、みなさんは今、どんな意味にこの「つつしみ」という言葉をとりましたか? 控えめな態度とか、しとやかな服装とかでしょうか? 「つつしみ」という言葉はローマ・カトリックで用いる場合、世間一般での意味と少し異なり、抑制することを言います。「五感をつつしむ」と用いれば、見ること、聞くこと、味わうこと、嗅ぐこと、感触を楽しむことにおいて、それぞれにブレーキをかけ、自分に満喫させないことを意味します。あらゆることにこの「つつしみ」を実行すると、その人の生き方は中庸なものになります。これは聖徳のひとつです。

 「つつしむ」ことの反対は、もし極端に全くつつしまないなら、「ふける」ことです。小さいときから何らかの「つつしみ」を、つまり抑制の訓練をしない人は、実際大人になると、いろんなことに「ふける」ことになりやすいのです。有名な例としては聖アウグスティヌスの母、聖モニカの話しがあります。小さいころ聖モニカは水を飲みたいだけ飲むことを少し我慢するように指導されましたが、実行しませんでした。「つつしみ」の訓練をしなかった彼女は、大人になってお嫁に行ってから、ぶどう酒にふけってしまったのです。隠れて飲んでいたのですが、結局お手伝いさんたちが皆、陰であざ笑っているのを知ったとき、不名誉に耐えられず、やっとこの悪習から抜け出すことができました。そして小さいころに「つつしみ」を実行しなかったことを悔やみました。この例でわかるように「つつしみ」の実行は、霊魂を鍛えて、強くします。強い霊魂は誘惑をはねのけます。

 「内的生活」を作り、深めることは、すなわち意識をこの世に向けっぱなしにさせようとする誘惑をはねのけ続けることですから、この点で「つつしみ」は「内的生活」に役立つのです。しかしそれだけではありません。あらゆることを「つつしむ」ことで、霊魂はこの世のことに巻き込まれずにすみます。例えば好奇心そのものをつつしむ。口をつつしみ、口出しを控える。目をつつしんで悪いもの、刺激的なものを見ないなどなど、「つつしみ」は「内的生活」を邪魔する多くのことから直接霊魂を守ってくれます。

 子供のころ、親からは「我慢しなさい」としょっちゅう言われました。神父様からは「犠牲にしなさい」とよく言われました。若い皆さんはそのようには育っておらず、「つつしみ」の実行を子供のころにしていません。ですから今から始めましょう。遅すぎることはありません。聖モニカはあの不名誉な出来事のあとから「つつしみ」の実行をはじめ、自分は聖人になり、息子も大聖人にしてしまったのですから。
【 第105章 】

 世の中の高貴な人は自分の尊厳を示す手段として、庶民とは違う服装と立居振舞を用います。ところで霊魂の尊厳は、神に愛され、イエズスの貴い御血によって贖われていることに由来します。霊魂がそのことを絶えず忘れないという、記憶を用いた方法で「内的生活」をつくり、深める人もいます。この方法は、絶えず感謝の思いを神にささげることを可能にさせます。

 どれほどの価をイエズスが払って下さって、悪魔の奴隷になっていたあなたを買い戻してくださったかを考えたことはありますか? あなたは一円たりとも払っていないわけで、イエズスは全額を、それも無限の額を神の無限の苦しみでもってあなたの代わりに御父に払ってくださったのです。それであなたの霊魂に支払われた価が、あなたの霊魂が持っている尊厳です。

 記憶という霊魂の能力を「内的生活」をつくり、深めるのに利用する人には、服装と立居振舞が役に立ちます。服装と立居振舞を尊厳あるものにすることで、自分の霊魂の尊厳のもととなっている神の愛と贖いを思い出すことができるからです。

 皆さんの普段着はジーンズにTシャツですね。トレーニングウエアですか? とにかく動きやすいもののはずです。薄くなる。短くなる。身体に密着するという流れで服装は変化してきましたね。着ているものはもう邪魔になるようなことはありませんね。ところが修道服は厚く、ぶかぶかで長いものなのです。おまけにカプチウム(フード)やヴェールが肩の回りにあるし、スカプラリオ(のぼりのような布)は前後に足元までたれているし、チングルム(なわの帯)のたれとロザリオが左右に腰から長くたれているし、そでは長く、そで口がばかに広いし、もう「じゃま」の塊のようなものなのです。いすに座るのも、ひざまずくのも、階段を登るのも、降りるのも、手を伸ばすのも、食卓のものをとるのも、何をするにもどこかが邪魔になって、押さえたり、つまんで引き上げたあり、脇によけたりと、その都度やらなければなりません。動きもゆっくりと落ち着いて動かなければなりません。それで修道服を着ている間は普段と全く立居振舞が違っています。しかし、それはまさに高貴な尊厳ある人のような立居振舞になっているのです。便利ではなく不便の極みというべき服ですが、意外な効果を持った服です。

 マリア様が女性にはご自分のような服、いわば修道服のような服を着なさいとおっしゃっていますね。男性にも、透けない、ゆったりした長い服を着るようにおっしゃっていますね。その服装と、その服装なりの立居振舞は、それを意識的に自分の霊魂の尊厳のしるしとして着、行なうなら、ちょうど修道者が神への自分の奉献を示し、また、絶えず意識するようにと修道服を着るのですが、そのようにあなたの記憶が神に関することをしばしば思い出すのを大いに助けてくれ、「内的生活」をつくり、深めるのに役立つのです。



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【 第106章 】

 皆さんは、ああ!と天をあおぐことはありませんか? また、勉強中でも、仕事中でも目をしばし上に向けることをよくやりませんか? 「助けてほしい!」とか「インスピレーションが欲しい!」とか、そういう時に自然と出る動作ですよね。

 胸に手を持っていく動作も、感情の動きとともに人が自然にやってしまう動作ですよね。これらの動作を「内的生活」をつくり、深めるに利用する方法があります。

 ひとつは「霊的まなざしを天にあげる」と呼ばれる、神に意識を向ける方法です。実際に目を上にさっとあげ、神に語りかけたり、愛を矢のように送ったりします。これをたびたび行なうというやり方です。この霊魂と肉体を一緒に用いる方法は、心をその瞬間、確実にこの世のことから切り離せます。試してみてください。それに簡単ですよ。

 もうひとつは神に対して起こした自分の愛を、心の中で継続的に意識し、保ち続けるために、胸に手をやってその姿勢を長く続けるという方法です。ある修道会では伝統として、マリア様がよくなさるように、ばってんじるしにして腕を胸の上に置きます。腕組みではありません。修道会ではその姿勢を長時間保たせるので腕が疲れます。でもこの肉体的なある程度の苦痛が、意識を胸にとどめておくのに効果があるのです。自分なりに、赤ちゃんのイエズスをだっこし続けているとイメージするのも良いことです。三位一体の自分の霊魂の中での内在を抱きしめ続けることをイメージするのも良いことです。両手の平で胸を押さえても、片手でそうしても同じことができますね。コルベ神父様は内的生活をとても重視なさいましたから、このばってんじるしのやり方を修道士たち全員に実践させました。言っておきたいことがあります。これを苦業としてとらえないでください。苦業にもなります。しかし苦業として行なうなら、「内的生活」を深めるためには役立ちません。生き生きとしたイメージをつくり、これによって「内的生活」を深めたいという望みを強く持ちつつ実践するのですよ。あなたは愛に燃え続けることができることが分かるでしょう。少し試してみませんか?



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【 第107章 】

 あなたが人を愛するにも、人間的な力だけで愛すると、たちまち愛はつき、限界に突き当たり、憎しみにすら変化してしまうのを、自分でも分かっているでしょう? 忍耐もそうです。人間的な力だけで忍耐すると、あっという間に難しくなり、やめたり、あきらめたり、怒ったり、裁いたりしてしまいますよね。今の皆さんは、まだ人間的な力だけで徳の実践にチャレンジしています。神に一致して、神の愛で人を愛するなら、敵さえも愛し、迫害する者の救いのために祈れます。神に一致して神の忍耐で忍耐するなら、長い期間、どんな苦しい重荷を負わされても、それを担い続けられます。我慢ならない人とともに、ずっと平和に暮らせます。神に一致してという状態が、今の皆さんには欠けています。心の中で人を裁くのも、かげ口を言うのも、その場にいない人のことを話すのも(電話ででもですよ)やってはいけません。それなのに皆さんはやり続けます。人を裁きに裁いています。これは神との一致を霊魂が行なっていない明らかなしるしなのです。もし霊魂が神との一致を保っていたら、この悪と罪を捨てされます。神との一致がどれほど重要なことか分かるでしょう? この神との一致の状態をつくることが、すなわち霊魂に「内的生活」をつくり、深めることなのです。神と一致することは、どんな偉大なわざを成し遂げることよりも良いことです。神との一致なしにどんな立派なことをしても、どんな業績を残しても何にもなりません。かえって傲慢になって悪くなりかねません。神との一致を保つことは霊魂にとって最高の善なのです。すべての善の源である神に一致するのですから。神との一致を保つことが最高の善なら、神との一致をやめることは、特に誘惑と知りつつ、この世のものの魅力にひかれ、神との一致を打ち切ってしまうのは最大の悪といえます。善の源から自分から離れるなんて愚の骨頂です。それで霊魂は、意識を神に引き戻しては、神との一致を断続的にでも続けていかなければならないのです。

 神に意識を引き戻すことがいかに大切な行為か理解できますね? ある修道会は鐘を15分ごとに鳴らしていました。会員たちはどこで何をしていても、皆、少なくとも15分に一回、神に意識を引き戻すことができました。「15分毎の祈り」という短い祈りが使われていました。これはすばらしい方法ですね。皆さんも参考にして、アイデアを生かして自分なりの方法を作ればいいのですよ。ただしデジタルリストウォッチは所有しないでくださいね。これはマリア様の指示です。反キリストの支配の道具としてサブリミナルな信号を発しています。今はそれによって腕につけている人を洗脳されやすくしています。そして後には反キリストの指示を伝えるという機能が、反キリストのデビューとともに働き出します。



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【 第108章 】

 「潜心」というローマ・カトリックの専門用語があります。潜心するということは心を落ち着け、集中しやすい、または集中した状態に保つことをいいます。心の集中の反対は心の散漫です。「内的生活」をつくり、深めるためには、心の散漫を避け、潜心と心の落ち着きを大切にするのが役に立ちます。人間は霊魂と肉体は影響しあっていますから、心の落ち着きを保つには、動作も落ち着いていなければなりません。コルベ神父様は修道士たちに、階段を駆け上がったり、2段ずつ昇ったりしてはいけないと教えていました。それは修道士にふさわしくないと言っていました。なぜならコルベ神父様は「内的生活」を大切にしており、修道士たちを「内的生活」を深めるように導いていたからです。

 「潜心」は「心の落ち着き」よりもさらに強い集中を伴っている状態です。まなざしは完全に心に、つまり内側に向かっています。外の世界に意識がほとんど向いていないので、目は開けて見ており、耳も聞こえていますが、目に映るもの、耳に聞こえるものなど五感を通して入ってくる情報には気がつきにくくなっています。皆さんが深く考え込んでいるときの状態に似ています。人に何度か呼ばれてから、ハッと気がつくというような時の状態にです。

 「潜心」というのは訓練してできるようにするものなのです。外からは不活発な人、または不活発な状態に見えますが、逆に「潜心」というものは心を能動的に働かせることができるようになればなるほどできるようになるのです。ですから間違って座禅のような「考えない」訓練をしてはいけませんよ。また、オカルト的なもの、ロウソクを見つめるとか、ゆれる振り子を使うとか、脳のなんとか波を測定するとか、自律神経の訓練とかは絶対にしてはいけません。もし今やっている人がいれば、ただちにやめてください。これらはますます洗脳されやすい受身な心の働き方に陥らせるのですから、悪魔のえじきになることうけあいです。そうではなく心に愛の思いを満たしつつ、神に関することを思い巡らす黙想や、外的な動作や話し方、態度の落ち着きの実行で、しだいにできるようにするものなのです。素晴らしいことですが、しかしこれは手段です。目的にしてはいけません。「内的生活」をつくり、深めるための手段のうちのひとつであり、どうしても不可欠なものではありません。あなたが自分の助けになると思うのなら、どうぞ役立ててください。





【 第109章 】

 皆さんは修道士を見たことがありませんね。なにしろ日本では数が少ないし、人前に出ない立場の人が大半ですから。修道士たちはとても明るいです。私も修道士の志願者になったとき、最初に教わったのは、「ふたつ返事で機嫌よく!」でした。何を言われても上機嫌でハイハイと従いなさいと。日本ではハイは一回でいいとか、ふたつ返事は相手を馬鹿にしているとか言うようですが、それは日本だけのことです。とにかく修道士たちは上機嫌を保って生活する人たちです。「何を言われても」というのは、世間では言われないほどの厳しいためなおしの指摘を受けるからです。なお、年をとれば年下の若い神父から受けることになりますが、それでも上機嫌を保ちます。世間では不機嫌さや怒りを、人を従わせる手段に使う人が大勢います。子供がすねたり、泣き叫んだり、ふてくされたり、不機嫌さと怒りで親を従わせてしまうのと同じことを、一生、老人になっても続ける人たちですね。もちろんこれは悪徳ですよ。どんなことであっても機嫌を悪くするということはすべて、その霊魂の何らかの欠点が表面化したのです。たとえばプライドや我の強さです。とにかく自分に打ち勝っていないことのしるしです。こういう人を修道会ではしょっぱなからためなおすわけですね。そして上機嫌を一生懸命保てば、逆に不機嫌の本当の原因である自分の霊魂の欠陥がためなおされてゆき、その罪から解放されてゆきます。サレジオ会の会員たちは特に快活さを大切にします。聖ドンボスコの精神で、彼は、快活であれば罪を犯さないと言いました。これは本当に言えています。聖ヨゼフの霊性も希望の徳による超楽観主義者となることが基本なので、不機嫌さの入り込む余地はなく、快活でいることになりますね。悪魔的悲観主義を持っている間は、当然そうはいきません。不機嫌や怒りを現す人は、こういったよくない土台を持っている人ですから、逆にたくさんの罪を犯し続けます。

 コルベ神父様もまた、ジョークの上手な、人を笑わせる明るい方でした。特にコルベ神父様は常にほほえんでいました。ウェイターとかサービスマンは仕事中だけはほほえみを保ちます。しかしコルベ神父様はいつもほほえみを保っていました。

 これらの快活さを保つこと、ほほえみを保つことを「内的生活」をつくり、深めるために利用することができます。「えっ? 誰もいないところでもほほえみ続けるの?」と思うでしょうね。でも神様に向かってほほえみ続けるのですよ。上機嫌であり続けることも大きな戦いです。自分を踏みにじって、自然的感情に打ち勝って、気分という継続的なものをコントロールして持続させるものですから。愛のほほえみ、喜びの快活さを絶え間なく外的にあらわすことで、霊魂の中にも絶え間なく愛のほほえみと喜びの快活さを抱き続けるのです。これによって絶えず神を意識し、神に一致していられるようになるのです。

 この方法は副産物として、その人の精神的ストレスと共同体全体の精神的ストレスを減らします。個人としては内的幸福感が生じるからです。その幸せそうな人を見る共同体の隣人も幸福感に伝染し、共同体全体の精神的ストレスが減るのです。そして愛徳を実践したいという気持ちを起こさせます。また、ほほえみも、快活さも人を引きつけます。これは大きな証しと宣教の力となります。共同体全員でやりたい方法ですね。



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【 第110章 】

 皆さんの朝の日常はこんなふうではありませんか? もう10分早く起きれば余裕ができるのに、ぎりぎりの時間を計算して目覚まし時計を鳴らして起きる。後は大慌てで仕度する。時間ばかり気にしながら。そしていつものように駅まで走っていって、滑り込みセーフで電車に乗る。夜の日常はこんなふうではありませんか? なんとなくテレビを見たり、夜食を食べたり、いつまでも起きていて、睡眠不足になるなあと思いながらも眠くなるまではベッドに入らない。人それぞれの生活でしょうが、修道院の生活とはずいぶん違うところがあります。修道院は何をするにも決まった時間に行ないます。それも落ち着いてこなしていけるように時間を決めています。老人、病人、体の弱った人もついてこれるように時間を決めています。これを何百年、あるいは千何百年と繰り返している修道院もあるのです。このやり方は「内的生活」をつくり、深めるのに非常に役に立ちます。やってみたい人は、朝、落ち着いて、心の余裕を持てるように起きる時間を決めましょう。トイレ、着替え、洗面、朝ご飯の用意、食べ始め、食べ終わり、片付け、出発、もちろんすべてに余裕を持たせて時間を固定するのです。手順も決めて固定します。夜は十分な睡眠時間を計算して、明かりを消す時間を決め、バスタイム、だんらん、勉強、ベッドに入る等々、やることと時間をやはり固定するのです。話し込んでいても時間がきたら皿洗いをはじめ、皿を洗いながら話し続ければよいし、どうしても見たい番組は生で見ずにビデオに録ればよいし、とにかく決まった時間にお決まりのことをするのです。こうすれば行動はオートマチックになり、意識を行動に向ける割合がぐっと減らせます。その分だけ神に関することを思いめぐらしたり、いろいろなやり方で神に意識を向けることができるようになります。修道院では、例えば100歳の修道士さんは84年ほど毎日同じことを同じ時間にやっているので、もうずっと神に意識を向けっぱなしで日常の行動ができるわけです。このやり方を何と呼べばよいのでしょうね。私には「定刻主義者」というあだ名がありますから、「定刻主義のやり方」としておきますが、どうぞやってみてください。上にあげたような皆さんの生活では神に意識を向けることは本当に難しいのですよ。ただし、決めた時間を何かでみだされても心をみだしてはいけませんよ。起こることはすべて、あなたにとって最高最善のことだから、神様に許されて起こっているのです。落ち着きを保ち、感謝して受け取りましょう。













【 第111章 】

 現代の人は皆、強烈な刺激に慣れっこになっています。映像や音楽や、ニュースにしても恐ろしいほど強烈です。白黒テレビからカラーテレビになり、初めてその映像を見た時、その映像の刺激にドギマギするほどでした。同じ内容でも刺激の強さがはるかに大きくなって与えられはじめました。今はそのカラー映像でショッキングなもの、露骨なものを流す傾向はエスカレートしていくばかりです。ラジオや新聞でもニュースの内容はショッキングなものばかりです。現代の人はその強い刺激にすぐに慣れてしまってつまらなくなり、さらに強い刺激を求めて自分から探しまわるようになってしまっています。刺激を求めることと、よっぽど強烈な刺激でないともう感じないという状態は、実は「内的生活」をつくり、深めるためには最悪なのです。

 神が与えてくださるインスピレーションはひそやかなものです。霊魂のデリケートさがそれを受け取るためには必要です。この霊魂のデリケートさは、外的な強い刺激を避けるようにすることで養われるのです。今、皆さんは強い刺激を求める人になっています。強い刺激を受けないように細心の注意を払うことは、まったく正反対の生き方への転換を意味します。「それでは感動のない生活になってしまう」と言うのですか? いつも感動を求めてより強い刺激を求め、それに慣れっこになっては、もっと強烈な刺激を求め、そんなイタチごっこをしてたくさんの感動に出会う毎日が送れると思っているのですね。霊魂のデリケートさをどんどん失う生き方では、たくさんの感動に出会う毎日は決して来ませんよ。逆に霊魂のデリケートさを取り戻すことによって、ほんの小さなことにも、かすかな神からのインスピレーションにも感動し、心が震え、胸が熱くなり、涙があふれるようになるのです。その時こそ毎日がたくさんの感動に出会う日々となるのです。

 「内的生活」はたびたび神に意識を向けることによってつくり、深めていきます。その時あなたは神に語りかけますよね。でもそれだけでなく神もまた、あなたの心の最も奥深くにご自分の声を響かせていらっしゃるのです。この神からの働きかけを受け止めるということも「内的生活」をつくり、深める重要な手段なのです。この能力を霊魂に取り戻すために、強い刺激を注意深く避けていくという方法を用いるのです。「内的生活」をまだ霊魂につくっていない今の時点でさえ、皆さんは強烈な刺激を受けると、その映像なり音なりが頭の中に何度もよみがえり、意識を占領してしまうので、祈れなくなってしまうでしょう? ただよく祈るためだけにでも強い刺激は邪魔になりますね。ですからなおさら「内的生活」をつくり、深めるには、強い刺激は破滅的な害を及ぼすと推し量ることができるでしょう? あなたにとってこの大きな生き方の転換はぜひとも必要ですから、聖ヨゼフに祈り、聖ヨゼフに信頼しつつ、始めてくださいね。



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【 第112章 】

 新聞は朝、読むのが世間の常識ですね。早朝のテレビもニュース番組がほとんどです。ビジネスマンは会社の始業時間までに重大な義務のように新聞の経済の記事に目を通します。ニュースを仕入れることは朝の国民的行事となっています。しかし皆さんが「内的生活」をつくり、深めたいなら、これらすべてのことは、朝にはやらないでお昼以後にした方がいいのです。

 霊魂は、濁った水たまりに例えることができます。いろいろな雑多なことでいつもかき回されていて、澄んだ状態であることはありません。しかしちょうど何時間も水が動かされず、水の中の不純物がすべて底に沈んでしまうと、水たまりの泥水さえも透きとおるように、朝一番の私たちの霊魂の状態は一日でその瞬間だけ透きとおっています。ここにこの世のニュースが、情報が、映像が、音が入った瞬間、水は動き、泥がわき上がり、霊魂はいつものように濁り切った不透明な状態にたちまち戻ってしまいます。

 「修道生活は朝が勝負だ!」と私は教わりました。朝、ろう下で鳴る鐘の音で目が覚めたその瞬間に「主を祝します! 神に感謝! マリア!」と第一番目の心の動きを神とマリア様にささげます。神への愛をその日の初ものとしてささげ、愛を最初の瞬間から始動させるのです。その日一日が神に意識を向けることによってスタートします。その後も神に意識を向けながら身支度し、祈りに行きます。2時間ほど共同の祈りがありますが、朝ほど祈りやすい時間はありません。神のことだけにたやすく集中できます。神以外のものが入ってこないようにしているのですから。その後簡単な朝食がありますが、沈黙をたいていその間続けますから、皆それぞれに神のことに思いをめぐらしています。朝食が終わって、今日の仕事を考えるまで、霊魂は神のこと一色です。あとは山のような仕事に囲まれてしまうのですが、この朝の祈りがあるので、神に意識を引きもどし、引きもどしやっていけます。もし朝一番に新聞を読んだり、ラジオを聞いたり、テレビを見たりしたらと考えると、考えただけで恐ろしくなります。もうそれは修道生活ではなくなるに違いありません。「内的生活」には、計り知れないダメージになるのは分かりきったことです。

 皆さんもこれらのことをヒントにして、朝の時間の祈りやすさを無駄にしないで、一日の「内的生活」に役立ててくださいね。



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【 第113章 】

 「内的生活」を作り、深めるために射祷を用いる人は、「自分の射祷は機械的で愛がこもっていないなあ。どうすればいいのだろう?」と思うものです。すでにそう思ってる人は心配しないでください。それは普通の問題なのですよ。さて、射祷に、よりたくさんの愛をこめる、よりたくさんの親しさを込めることは、「内的生活」を深めるのにとても役に立つ手段です。コルベ神父様は何と!修道士たちに話すときでさえ、マリア様のことを、ポーランドの赤ちゃんがお母さんを呼ぶ言い方で「マムシャ」と言っていたのです。「マムシャはね……」と言うふうに! イエズスが御父に祈るとき、幼児言葉の「アッバ」という呼び方で御父に呼び掛けていたのとおんなじですね。これはとても良い方法ですから、皆さんも自分なりにぴったり合うものを用いて利用できますね。私はマリア様のことをよく「お母さん」と呼びます。聖ヨゼフのことを「お父さん」とよく呼びます。では御父はというと「アッバ」と呼んでいます。祈りの基本は自分の言葉で子供のようにマリア様にお話しすることです。ですからあなたの射祷だって、全文赤ちゃんか子供の言葉で構わないのですよ。神様と自分だけのプライバシーですから。この方法であなたはずっと神様やマリア様や聖ヨゼフと親しくなれますよ。

 よりたくさんの愛をこめる方法はというと、日本人には全くなじみがない習慣なのですが、「おお!」とか「ああ!」とか嘆息とかが利用できます。恥ずかしがらずに試してみてください。世界ではこれは当たり前のことなのですから。「ああ!お母さん!」とご絵をちらっと見て言ってみてください。「聖マリアよ!我、御身を愛したてまつる!」と言うのと比べてみてどうですか? 「内的生活」を深めるには「ああ!お母さん!」と言う方が絶対に役に立ちますよ。鏡で自分の顔を見てください。表情が違うでしょう? 子供としての愛着があらわれているでしょう? 「愛着」という言葉の「着」の字は、本当にこの子供の情緒を言いあらわしていますよね。「愛してくっつく」、「くっつきたい愛」。きっとあなたにはこの愛が欠けているので、「内的生活」を深めるのに壁に突きあたっているのです。神様との、マリア様との愛着形成で、その壁をどうか突き破ってくださいね。



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【 第114章 】

 「内的生活」をつくり、深めることは、この世へ向かう自分の意識を、この世から切り離し、神に向けることです。この世から自分の意識を切り離すのは、この世の日常の生活を送りながら行ないます。しかし、一時的にこの世から実際に自分を切り離すという手段もあります。もちろん完全にではありませんが……。それを黙想の日とか静修の日とか呼んでいます。

 この方法の主要な要素は、一人きりになることです。これはいつも会っている人と会わないことです。そして話し相手を持ってはいけません。黙ってすごせることが大切です。挨拶もしなくていい環境がベストです。次に重要なのは、いつもやっている仕事や勉強をしないこと。できれば家事、料理も、買い物もしない。新聞、テレビ、ラジオ、ステレオなど、見ない聞かない読まない。電話連絡などもしない。最後に豊かな自然に触れることができたらなお良いです。黙想の助けになる読み物は用意するのですが、読むことをメインにしてはいけません。「内的生活」をつくり、深めるための黙想の日、静修の日なのですから、心の中で神と対話するのがメインです。月に一度とか、年に数回、こういう隠遁をできたらやってみてください。きっといつもより、神様からのインスピレーションにたくさん気づきます。夜、遠くの音がまわりの静けさのせいでよく聞こえるようなものです。そして霊魂が養われ、強められたことに気がつくでしょう。霊魂は神と触れあうことでのみ養なわれ、強められるので、いつもより濃い密度で神と触れあえば、それを自覚することがよくあります。

 この自分だけの隠遁所をどうやって持つかですが、手っ取り早いのは、上記の条件を良く満たすようなホテルです。選ぶとき、注意してください。町の音や声、隣の部屋の音や声が完全に遮断される部屋にこだわって下さい。寝に行くのではありませんから、睡眠はくれぐれも長すぎないように。疲れているなら早く寝て、そのかわり朝、非常に早く起きるといいですよ。神様とあなたのデートだと思ってください。心が浮き立つでしょう? 夕日が沈むのを、星空を、月を、朝、真っ暗だった空が次第に変化するのを、朝日が昇るのを、じっと静かに見たことがこのごろありましたか? その美しさは神の語りかけですよ。イエズスにとって夜は御父との一致の時でした。一人きりで、眠ることのない祈りの夜をお過ごしになることがしょっちゅうでした。隠遁所での夜の時間は特に「一刻千金」の価があります。イエズスが何を味わっていらっしゃったか体験するために、イエズスに「私にも教えてください」と頼みながら、神との触れあいを、語り合いをやってみてください。きっと得るものがたくさんありますよ。





【 第115章 】

 修道会では「内的生活」をつくり、深めるために、あいさつを利用するところがあります。ある修道会では「死をおぼえていましょう」とあいさつするのですよ。驚きましたか? コルベ神父様はご自分のたてた修道院では、「マリア!」とあいさつするように決めました。手紙の出だしのあいさつも「マリア!」です。それをポーランド語で、とっても優しい感じで、マを少し延ばして、アをほんの少しだけあげて、「マーリア!」とあいさつするのです。日本語の一本調子の「マリア」ではありません。本当にやさしくおっしゃるのです。部屋に入ったら、他の修道士に出会ったら、部屋から出るときも、つまり、おはようも、こんにちわも、こんばんわも、さようならも、みんな「マーリア!」なのです。今もポーランドのニェポカラヌフの修道院では、このあいさつが行なわれているのではないでしょうか?

 共同体ではこのような決まりごとを作って「内的生活」をつくり、深めるのにあいさつを利用できますが、共同体以外では利用できませんね。でも皆が利用できるもう一つ別の方法があります。それは聖ホセ・マリア・エスクリバー神父が個人で実行していたやり方で、人に会ったら、その人にあいさつする前に、心の中で、その人の守護の天使にあいさつするというやり方です。聖ホセ・マリア・エスクリバー神父が世間にいながら超自然的な世界にいかにひたって生きていらっしゃったかがよくわかりますよね。この方法はすばらしいです。あいさつの機会が来るごとに、ちゃんと神に関することに意識を向けさせてくれますし、人に出会ってあいさつする時とは、普通、神に向けていた意識をこの世に向ける時なのに、その逆ができてしまうのですから、効果は大きいです。その人との会話のひと時に超自然の世界の影響をもたらしてくれ、良い感化を与えることにもなります。それに日本では、天使たちが全く崇敬されていません。愛されてもいません。助けを求める人もいません。まったく無視されています。自分に胎児の時から絶えず付き添っている守護の天使にさえ信心を持っていません。天使たちへの愛を育てるにもとても役に立つ方法ですから、日本人の皆さんには特におすすめしたい方法です。

【 第116章 】

 「内的生活」をつくり始めた当初は、散漫な意識を落ちつかせるだけで、大変な努力が必要です。落ち着かせた意識を神に向かって集中させるということにも、同様にかなりの努力が必要です。この努力は、あなたに大きな心理的ストレスを生じさせます。これらのことが楽にできるように、時とともになってゆくのですが、楽になるまでは、この心理的ストレスに対するストレスコントロールが必要です。ローマ・カトリック教会は二千年の歴史がありますから、このストレスコントロールのやり方も完全な方法を持っています。修道生活や隠遁者の生活では、肉体労働と隣人愛を用いてストレスコントロールをします。聖シャーベルは共住の修道生活も孤独の隠遁生活もしました。石や岩だらけの土を掘り、ブドウの苗を植え、栽培する重労働の日々を送りました。共住生活の時代には、自分の修道家族たちのために、彼ら全員に従い、仕えました。もちろん年下の人にも新入りの人にもそうしたのです。後の隠遁生活では、人と接触はしませんが、霊魂の中ではかえって全人類、つまり祈りを必要としているこの世、リンボ、煉獄のすべての霊魂に神が恵みを与えてくださるようにと願う、ひとつの炎と化してしまったのです。コルベ神父様も修道士たちにある時こう言いました。「皆さんの心には、あわれな罪人たちのための場所がありますか? 皆さんの心には、あわれな罪人たちを入れる場所がなくてはなりません」と。自分の心にあわれな罪人たちを住まわせ、彼らと隣人愛のきずなで結ばれるので、修道者の霊魂は、神と隣人への愛の深まりとともに、どんどんにぎやかになってゆきます。はつらつとなってゆきます。このように修道者だけでなく、皆さんも、肉体を使うことと、実際に、または霊魂で、愛のきずなをもって人と交わることで、心理的ストレスを発散し、解消することができます。

 皆さん日本人の生活は、この2つが子供のころからほとんどない生活です。日本の子供や若者をホームステイに受け入れるカナダ、アメリカ、ヨーロッパなどの国のホストファミリーは、日本の子供や若者が、その家の家事や、メンテナンスの作業や、畑や農場などの仕事を、体を動かして手伝おうと全くしないのに対してひどくショックを受けるものです。現地の子供や若者が、自発的に喜んで大人顔負けの肉体労働を、家族への愛の奉仕としてやるのとはあまりにも違いすぎて、どう彼らを判断し扱っていいのかまったく分からなくなってしまうのです。皆さんの今送っている生活は、それほど異常な生活なのですよ。

 子供たちがテレビゲームやパソコン、テレビ、マンガ、勉強など、個人的なことに長時間を費やせば、それだけ年齢をこえた人々と交流する時間がなくなり、手伝ったり、一緒に活動しなくなり、体を動かすこと自体もなくなります。そうなれば、幼少期の子なら、脳の前頭葉の発達がいびつになり、自制が効かない脳、切れやすい悩、意識が常に散漫な脳、じっと落ち着けない脳、愛や思いやり、慈しみや同情・共感などの感情が欠落した脳ができあがり、固まってしまいます。残念なことに、これらはすべて「内的生活」をつくり、深めるために必要な自然的能力なのです。ということは、皆さんは「内的生活」をつくり、深めるための自然的能力が不足した世代の人間で、その不足を少しでも取り戻すために、体を動かし使うことと、年齢をこえて人と交わり、隣人愛を身につけることがとても必要であるということです。「内的生活」をつくる努力をすることで、初めのころかなり強く受ける心理的ストレスの量も、これらの能力の不足のためにより大きくなるわけですから、それを発散し、解消するための修道生活での肉体労働と、隣人愛と同じものの必要性は、皆さんにとってより大きいといえます。

 自分のあちこち定まらない意識に自制をきかせ、落ち着かせ、神と隣人への愛の感情を抱きつつ、神に関することに意識を集中させるというこれらのことすべてに、日本人である皆さんは、現代の文化のせいで大きなハンディキャップを持っていて、他の国の人よりもずっとそれらの実行が難しくなってしまっていますね。ですから聖ヨゼフに助けを願いましょう。神を愛し、小さいころから家族や隣人に骨身を惜しまず奉仕しつつ育ち、結婚後はマリア様とイエズスのために体を使い果たして死ぬほどに、愛と肉体労働一筋に生きぬいた方ですから。聖ヨゼフが皆さんに不足しているものを、彼の功徳と取り次ぎによって、必ず補い助けて下さいます。聖ヨゼフは「内的生活」の先生であり、保護者です。そしてもちろん聖シャーベルにも。日本では全然知られていませんが、彼は途方もなく偉大な聖人なのですよ。この終わりの時に全人類を導くための修道会である聖シャーベル修道会の保護者、そして助け手として神ご自身が指名した聖人なのですから。

 そしてもうひとつ言い添えたいことは、あなたが親であれば、子供にテレビゲームをさせないでください。お願いします。それは霊魂には毒です。たとえ子供が欲しがっても、毒を飲ませる親がいるでしょうか。子供は肉体である以前に霊魂であるということをどうか忘れないでください。




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【 第117章 】

 聖ヨゼフに習うには三つの柱、つまり聖ヨゼフの「霊性」「聖徳」そして「内的生活」を見習わなければなりません。個人により千差万別な「内的生活」の一般的なつくり方と深め方を説明しました。ぜひ「内的生活」をつくり始めてくださいね。これにつけ加えたいのは、他人の「内的生活」を妨害しないためのいくつかの注意です。特に共同体の中で生活する人には知っておいてほしいことですが、皆さんも頭の中に入れておいてください。

 聖堂では人の意識の集中を邪魔することは一切してはいけません。空気のように入ってきてください。音を立てずに入り、歩く音も、バッグや服のガサゴソという音も、ひざまずいたり、座ったりするときの音も立てないようにしてください。もちろん完全な沈黙を守り、だれにもあいさつなどしてはいけません。聖櫃のイエズスに最初から集中し、よそ見をしないでください。中にいる人に用があるときは、肩にふれてドアを指さし、外に一緒に出てもらってください。聖堂の外では聖堂の中の人に聞こえないように話してください。もちろん聖堂の周囲での会話は、中にいる人に聞こえないようにいつも気を配るのですよ。女性は聖堂に入る前に身支度し、ヴェールをかぶってください。座席であれこれするものではありません。とても集中の邪魔になります。コルベ神父様は聖堂の中で手を振って歩くこと、または手をたらして歩くことを許しませんでした。聖堂全体が神のお住まいです。聖堂の中ではどこだって両手のひらを合わせて歩くのです。片手がふさがっていたらもう一方の空いた手は胸に当てて歩いてください。こうすれば目立たないので人の集中を邪魔しません。ゆっくりと歩いてくださいね。早歩きも小走りもダメですよ。ひどく目立つ行為です。唇はいくら動かしても構いません。しかし「息の声」は出さないでください。ロザリオは唇を動かせばちゃんと唱えているのです。かすかな「息の声」も聖堂の隅々まで聞こえているものなのですよ。お願いがあります。ミサの聖変化の際のホスチアとカリスの奉挙は、最も精神を傾けて意識をご聖体のイエズスに集中させるべき時です。どうか誰も手を動かさないでください。仰ぎ見る。礼拝する。それ以外のことは心の中だけで行なってください。もし切りたいのなら十字のしるしは心の中でだけできることができます。この時は絶対に他人の集中を妨げぬように!

 共同の祈りでは、自分の声を完全に皆と一致させてください。早口の人は特に注意して皆に合わせてください。早く唱えるとよく祈れない人がほとんどのはずです。速度も、どこで祈りの文をきり、息をつぐかも、息つぎの長さもきれいに合わせてください。共同の祈りで深く祈れない最大の原因は、たいてい誰かが人の集中を邪魔することに対して無神経で、完全に「ひとつの声」になるように合わせようとしないからです。「内的生活」の重要性を理解するなら、そんなことはしないでしょうに! 共同の祈りでは祈れないとたいていの人が感じます。「ひとつの声」なら祈れるのですよ。

 共同体の黙想の家に行ったときや、男子修道院、女子修道院内では、常に、「誰かが内的生活に今、打ち込んでいるかもしれない」と考え、集中する邪魔にならないようにドアのバタンという音や、靴のコツコツという音や、スリッパのパタパタという音を立てないようにしてください。音が立たない靴を履くのが簡単な方法です。いくら注意して歩いても、そうでない場合、音が立ってしまいますから。ある神学院に住んでいたとき、中国での迫害で殺害の危険に直面していたある老宣教師の部屋の回りでは、特に音を立てないように言われました。ほんのかすかな音ででも、飛びおきてしまうからでした。


 あなたと他人の「内的生活」のためにもなりますし、いろんな理由で静寂が必要な人が修道院にはいます。愛徳のうちに静けさを身にまといましょうね。



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【 第118章〜132章 】
 多田さんのクレームによりカット

復活! 謝罪文を入れて掲載
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【 第118章 】

 聖ヨゼフは「神秘的教会」の保護者です。「神秘的教会」は、私的啓示で導かれる人々と、その私的啓示を信じ、受け入れ、従う人々が構成しています。皆さんには初めての言葉ですね。この「神秘的教会」のメンバーは本来、霊的指導のたまものをいただいている聖職者から守られ、導かれ、支援されるはずなのです。それが神の御旨であり、「神秘的教会」のメンバーもそう願っています。しかし聖職者、つまり司教・司祭は神の御旨への反逆に陥っていて、「神秘的教会」を弾圧してきています。司教・司祭が正しい指導を与えないなら、「神秘的教会」は個人個人たくさんの間違いを犯してしまいます。

 ほぼ20年間、この日本で「神秘的教会」のメンバーとなった日本人たちがおちいってきた間違いを、私はこれから書きます。司教・司祭が正しい指導を与えない状況下で、過去の過ちを反面教師にして、皆さんが同じ過ちにおちいるのを避けることができるようにするためです。

 いつくしみ深い父である聖ヨゼフがここに、皆さんの中にもう一度生きてくださったなら、父として子供がおちいるに違いない危険をあらかじめ教え、どんなに耳に痛い忠告でも、まことの愛をもって与えるに違いありません。放っておけば必ず皆さんも同じことをします。いいえ。人々の心は年々どんどん悪く、汚くなってきていますから、きっと同じことではすまないでしょう。もっと甚だしく間違えるに決まっています。それで皆さんは、他人事として読まず、自分に内在する問題が明らかにされているものと受け止めて読んでください。





【 第119章 】

 「幻視者は何でも知っている」「幻視者は心を見通せる」「幻視者にはそういう能力がある」 これらはみな大間違いです。幻視者は神様が知らせたことだけ、ただそれだけを知るのです。幻視者は人の心を見通せません。神様はそのようなことをお許しになりません。幻視者は「能力」があるのではなく、神に使われるだけです。神がお使いにならない時、幻視者は何もできません。天からのものを見たり聞いたりするのは「能力」ではなく、その瞬間の神の働きであって、奇跡によるその人の五感への介入なのです。日本には「みこ」と呼ばれる人々がいて、今は霊能力という言葉もあり、皆さんはそれと混同します。「能力」としてとらえるので、「お伺いを立ててほしい」と「みこ」に対してするのと同じことを幻視者にします。幻視者本人も悪魔にだまされ、自分に「能力」があるのだと、「神の介入」を自分の「能力」としてとらえてしまいます。そして「私には何でも分かる」「私は人の心が読める」等々と思いこみます。これも皆大間違いです。天からの使命をいつ失ってもおかしくない傲慢な思い込みです。カトリックの伝統がある国では、こんな大間違いは起こりません。日本人の独特な解釈です。悪魔は日本人の欠点につけ込んで、幻視者自身と幻視者を知ることになった人を最初の一歩目から大きな間違いにおちいらせるのです。両方ともが同じ間違いにおちいるので、誰も間違いに気がつきません。日本ではこの大間違いが天下の常識のようにまかり通っているのです。このことが20年間ずっと続いています。

 今までの日本人が最初の一歩目から間違いの中に踏み込んだのと同じことを、皆さんは決して繰り返してはなりません。仮に幻視者の方で「能力」という考え方をまだしはじめていないとしましょう。皆さんが「能力」を持った人として幻視者を見、幻視者にかかわるとき、皆さんは傲慢への誘惑者として悪魔の道具として使われてしまいます。幻視者はひとたまりもなく皆さんの影響にのみこまれ、自分に「能力」があるという考えにおちいります。人間的な自尊心をその考え方が満足させるからです。

 あなたが、幻視者が使命を失う、つまり傲慢になって落ちる原因になる可能性はいつでも十分にあります。厳重に警戒してください。また、この間違いにおちいっている幻視者には「教義的な間違いにおちいっているので、改めないと使命を失う」と教えてあげてください。真理からはずれていては、天から期待されている使命を果たすことは不可能なのですから。



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【 第120章 】

 「感覚的なものは、本質的なものに向かって歩き始めるための出発点に過ぎません」。この言葉で何を言おうとしているのかを例をもって説明しましょう。例えば皆さんのうちの誰かが、幻視者に「私の守護の天使は何色の服を着ていますか?」と質問したとします。たいていの幻視者は、もしその人の守護の天使を神様から見せられていたならば、「こんな色の服で、こういうものを持っていて、こういうお顔で……」という答え方をしてしまいます。幻視者は感覚に与えられ、感覚で受け止めたことにとどまってしまいがちなのです。同じ質問を霊的指導の経験を積んだ司祭にしたならば、こう答えるでしょう。「天使は純粋な霊ですから、色、形はないのですよ。人に姿を見せるときは、人が感覚でしか知覚できないので、色、形をとって現れますが、そこに興味を持つのは間違っています。天使を使わして下さる神の愛、そして天使の愛と助けという本質的なことに目を向けなさい。天使の導きが何かを悟ることに知恵を、そして天使のすすめに従うことに力を注ぎなさい」と。

 日本人は感覚的な民族です。つまり理性が弱いという欠点を皆さんは持っています。天からのメッセージを読む場合でも、日本人は感覚でとらえたことを出発点ではなく終着点にしてしまいます。「もうすぐ災害が起こる」と書いてあれば、「怖い!逃げよう」と考えます。神様が、人間に、祈り、罪を犯すのをやめ、自分と他人の罪ほろぼしをさせたいから、それらをしないと災害をくだすと知らせていること。それらを行なえば災害がくだされないこと、つまり改心によって災害の実現を人間に妨げさせたいから、神様はあらかじめ告げていらっしゃる。では祈りと償いをささげ、この災害を取りやめていただこう、と。「本質」に向かって理性の働きでせまろうと、日本人は一切しないのです。霊的指導司祭が幻視者や皆さんを指導するとき、第一にすべきことは、感覚的なことから離れさせ、本質的なことに向かわせることです。しかし幻視者も、皆さんもその指導を受けつけようとしないのです。悲しいことですが、日本人の感覚的な自己流解釈に対する自信過剰は強烈なものですし、感覚的な事柄に対する執着は、頑固なロバや牛以上で、そこから動こうとは断固しません。

 事実として指摘します。同じメッセージを天から受けたら、外国の幻視者は日本の幻視者と全く違う反応します。同じメッセージを読んだら、外国の人は日本人と全く違う反応します。その反応の結果として、日本では公的幻視者はすべて落ち、メッセージを信じる人は皆、隠れてしまいました。他の国々では隠れることなく、着々と聖シャーベル修道会の共同体を形成しています。少なくとも共同体設立のためのプロセスを一歩一歩確実に前進しています。どちらが正しい反応をしているかを結果が示しています。

 霊的指導者がいない状況にある皆さんは、非常に感覚的であり、感覚的なものに強く執着するという自分の欠点を自覚し、自分でそれを改める努力をしてください。自分の判断に決して自信過剰になってはいけませんよ。また、同じ日本人同士で意見が合ったから、ある考えは正しいなどという判断はしないでくださいね。同じ間違いをするもの同士、意見が合うのは当たり前ですし、みんなそろって間違っているにすぎないのですよ。



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【 第121章 】

 マリア様のこのミッションでは、分裂イコール混乱なのです。それは互いに一致するようにという重大な指示への「ノー」であり、悪魔と自我への「イエス」だからです。日本のマリア様のミッションにおいては、最初から分裂と混乱があり、一致はこの20年間 一度も実現したことがありません。マリア様はそれを大変お嘆きになり、その原因を指摘なさいました。それは派閥心、猜疑心、互いの警戒心です。

 まず派閥心について書きます。過去、日本でのこのミッションでは、最初から地域に分かれて張り合いが行われ、分裂していました。張り合いが行われるのは、各自の心によくない競争心があるからです。なぜ「よくない」のかというと、そこには功名心という不純な動機があるからです。神様のために働く人にとって、功名心という不純な動機は、神様の業を汚し、神様の業を人間の業のレベルにまでおとしめる恐ろしい悪です。まず内的なこの悪を取り除こうとしないことが、派閥心のひとつの根本原因です。これは皆さんにも当てはまりますから、功名心という不純な動機とよくない競争心を完全に捨て去ってください。そうしなければ、神の御目に、善い働き手として認められることは決してないでしょう。

 さてみなさんは系列という日本独特のシステムを知っていますか? 例としてトヨタ、日産、本田、三菱という自動車会社で説明すると、製造部門の下請け工場や部品工場から、販売部門のディーラーに至るまでを完全にかこって、他の自動車会社に利用させないシステムです。革新的な技術をある部品工場が開発しても、例えばそれがトヨタの系列であれば、トヨタはその工場が他の自動車会社と取引することをさせません。その技術が全自動車会社に提供されれば、日本の自動車業界全体が大進歩するとしても、日本全体の利益は無視し、ただ系列のグループ内の利益のみを追求するやり方です。このシステムが、日本の自動車産業が力を結集すればできる進歩を、はばんでいるのはわかりますね。日本人はマリア様のこのミッションにおいても、常にこの系列そっくりのシステムを作りました。そして結果として派閥に分かれ、一致団結せず、進歩できませんでした。過去20年間、日本人が皆、これをやったということは、皆さんも同じことをやってしまう人間だということです。これを読んでそうならないようにしてください。派閥心は日本人の文化そのものといえるほど皆の心、考え、行動に根付いてしまっています。ここから脱却して一致を成し遂げるためには、日本人は自分を180度転換させなければなりません。神様のため、マリア様のため、人々の霊魂の救いのためなら、自分の文化さえ否定し、捨て去りましょう。


【 第122章 】

 マリア様が日本のご自分のミッションの分裂と混乱の主要な原因として指摘なさった派閥心に関してですが、これから私が何度も使う「かこう」という言葉は、「何かをグループ内の人にだけ利用できるようにし、グループ外の人、他のグループの人々に利用させないようにする」という意味をあらわすことを頭に置いて読んでください。

 過去、日本のこのミッションは、司祭をかこおうとしました。幻視者をかこおうとしました。天からのメッセージをかこおうとしました。聖シャーベル修道会の会則会憲をかこおうとしました。英語などのタレントを持つ人をかこおうとしました。翻訳した天からのメッセージをかこおうとしました。組織に組み込むことで人をかこおうとしました。ほかにも重要な情報をかこおうとしました。そして今でもそれをやり続けています。これらはそもそも神がすべての人々のために、このミッションに与えたり、送ってくださったものです。聖福音でイエズスは、無償で天からを受けたものを無償で人々に与えなさいと命じておられます。皆さんは読みながら「なんてケチな根性なのだろう!」とあきれていると思いますが、皆さんも日本人です。所属する組織のためという大義名分で世界の善も、個々人の善も踏みにじって行動する人間です。だから同じ立場に立っていたなら同じことをやったに違いないのですよ。しかし、「ケチ」という判断は当たっています。そして派閥心を分析するための重要な鍵がそこにあります。人間のこざかしい知恵で自分と仲間だけの利益をはかる行動の根底にあるのはケチンボの精神です。神はこれと全く逆のことをするよう命じています。「与えよ、そうすれば与えられる。押し入れ詰め込み、ゆすり入れ、あふれるほどのものをあなたたちの服のひだに入れてもらえる。人は自分のはかる秤ではかられるのである」(ルカ6・38)と。

 日本人はケチンボで、マリア様のこのミッションで20年間行なってきていることは霊的ケチンボの行ないです。ケチンボの人に対しては、神様も同じようになさいます。それで恵みは十分いただけず、恵みが不足するので、企てたことはすべて失敗してきたのです。与えれば100倍も豊かに神様は与えてくださるというのに、……。
 日本人がケチンボだと私が書いても、皆さんにはその自覚がないでしょうね。日本ではそれが標準なのですから気がつかなくて当然です。自分のこととして気づかせるために、別の例をあげましょう。日本人が祈るとき、「私にください」という願いごとをします。ローマ・カトリックの伝統では、そうではありません。「私たち全員にください」という願いごとをするのです。自分が得たいと思う恩寵があるとしますね。祈るとき、自分がその恵みをいただくことだけを考えていませんか? 他の人のことは忘れていませんか? もしそうだとしたら、あなたはケチンボです。ケチンボほど惨めな人種はいません。我慢ならない人種はいません。神様の仕事をするには全くふさわしくない人種です。マリア様は日本人も日本に聖シャーベル修道会の共同体を設立するようにと長年促し続けていらっしゃいます。しかし、もしその共同体の中で、このようなケチンボの祈り方を皆がしたなら、恵みはほとんど与えられないでしょう。逆に自分が得たいと思う恩寵を、共同体のメンバー全員がいただけるようにと祈ったら? そしてメンバー全員がそれぞれそのように祈ったとしたら、どれほどその共同体は恵みに満ち溢れることか! これは日本では夢物語ですか? 皆さんがケチンボを克服するかどうかにかかっています。今日からそのように祈ることから、ケチンボの克服を始めてください。

 もうひとつ例をあげましょう。宣教師が日本のどこにでも行けるようになった明治時代、不幸のどん底にある見捨てられていたライ病者のために何もかも与えつくして奉仕したのは外国人の修道者でした。また、敗戦後、貧しい人や孤児たちのために真っ先にすべてを与えて活動したのも、ゼノさんのように外国人の修道者でした。日本人の修道者は自発的に行動しませんでした。率先して与えようとしませんでした。修道者は私有財産を持たないので、世間の人よりケチになる危険があるのですが、まさに日本では修道者もケチンボになっているのです。世間では貧しい人の方が愛徳のために寛大に自分のものを与えます。貧者の一灯とよく言いますね。修道者は貧しい人の友となり、貧しい人の痛み、苦しみが理解できるようにと全財産の放棄したはずなのですが……。日本人には「与えたい」というモチベーションがほとんどないのです。

 これらのことを皆さんは反面教師としてください。他人ごとではなく、将来共同体に入る人、清貧の修道誓願、または、修道信徒誓願を立てる人は、特にこれらのことを忘れないでください。そして与えるのです。与えつくすのです。日本人もこうして初めてケチンボを克服し、派閥心を捨て去ることができるのですから。



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【 第123章 】

 ケチンボと貪欲とは双子のようなものです。貪欲とはエバが最初に犯した罪のひとつで、今でも女性の方がこの罪にずっと深く染まっています。ローマ・カトリック教会の今の状況は、以前とは違い、ほとんどの教区・小教区の司教・司祭に女性の取り巻きができています。以前は聖職者の貞潔を損なうまいと、女性は司教・司祭と距離を置くよう自ら心掛けていたものです。取り巻きを作っている女性たちは聖職者を真理に対して盲目にさせ、自分たちの望み通りに彼らを操っています。取り巻きになるのは甘い汁が吸えるからです。利用できるからです。すなわち貪欲の罪がこの行為の根底にあるのです。日本の、このマリア様のミッションでも、勇気ある一人か二人の司祭がいる時期、女性たちは司祭をかこおうとし、奪い合いのような行動に走りました。本来司祭とは、いろいろな賜物を非常に豊かに神から与えられており、たった一人でも多くの人を導くことができます。聖パトリックがたった一人でアイルランド中をカトリックに改心させたり、聖フランシスコ・ザビエルがたった一人で日本も含め、アジアの多くの人々改心させたのがそのよい例です。神がこのミッションにお与えになる司祭は、たった一人か二人ならば、その司祭はミッション全体のために働くように召されていますし、彼らにそれは十分可能です。このミッションにおいては、日本人は司祭を自分のグループのためだけにかこおうとし、取り巻きになったり、なろうとしました。そのためにある司祭は十分に働くことができませんでした。限られたグループに独占されてからです。また、別のある司祭は全世界のために働く偉大な使命に召されていましたが、取り巻きの幻視者たちが日本のためにかこおうとし、その使命を失わせたので、彼はすべての使命を失ってしまいました。日本人が、特に女性たちが、この貪欲の罪を改めようとしないなら、たとえ神様が新たにまた、司祭を送ってくださっても、その司祭は本来の使命を果たすのを妨げられるか、悪くすればすべての使命を失わされてしまうでしょう。司祭をかこう派閥心、取り巻きになろうとする貪欲の罪がもたらす悪い結果は、これほどまでに重大なのです。

 それで皆さん全員に言います。特に女性は心して聞いてください。あなたは自分の回りに取り巻きを作らせてはいけません。取り巻きの一人になってはいけません。派閥をつくってはいけません。派閥に加わってはいけません。閉鎖的な仲良しグループを作ってはいけません。閉鎖的な仲良しグループの一員になってはいけません。公的な使命に召された人を自分個人のために利用してはいけません。公的な使命に召された人をかこって、他人から遠ざけてはいけません。絶対にですよ! 公的な人から私的な利益を期待するのは、公私混同も甚だしいのです。これもまた、女性が社会においてしばしばおちいる行為です。しかしもらおうとするのをやめ、逆に与えようとしない限り、皆さんはこれらの行動をやめることはできません。だから天国以外の何ももらおうと望まないでください。この世で持っているものは何もかも、神と隣人に与えつくしたいと望んでください。そうすればこれらの行いをやめることができますし、それによってのみ、皆さんは自分の貪欲の罪を克服できるのです。



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【 第124章 】

 聖シャーベル修道会の共同体で養成された、神への愛に燃え、愛しあい、一致しあう家族がこの世に対する最高のあかしであるのと同様に、神への愛に燃え、愛しあい、一致しあう幻視者たちの姿もこの世に対する最高のあかしです。それがなければ真理がこのミッションにあると、この世が認めるわけがありません。また、それがなければ幻視者は非常に弱く、もろい存在なので、悪魔から各個撃破され、次々に落ち、だれも堅忍できません。幻視者は互いに探し、互いに知り合い、一致しあい、上下の別をつくらず、複数ならば皆を公平に愛し、ダビデとヨナタンのように命をささげあうほどの友情を結びあい、励ましあい、支えあわなければなりません。全員でその友情の輪を築きあげなければなりません。これをマリア様は「一致の輪」と名付けておられ、「一致の輪」に加わらないものは落ちるとおっしゃっています。幻視者のまわりの人たちは、彼らが互いに探し、知り合い、一致し合うのを助ける義務があり、それを妨げるようなこと、つまりかこうことを絶対してはいけないのです。

 しかし日本人は、マリア様のこのミッションの中で20年間、天が幻視者を与えてくださるたびにその幻視者をかこい、他のグループがかこう幻視者と交流させないようにしてきましたし、今もそれをし続けています。また、幻視者本人も「お世話になっているのだから」と人間的なしがらみにとらわれて、かこわれることを受け入れました。さらに、これらのことが悪いことだとは日本人はだれも思っていません。これらが世界の常識のように思い込んでいるのです。とんでもありません! 外国の幻視者は互いに自分から他の幻視者に連絡をつけ、友情を結ぼうと努めますし、回りの人たちは彼らをかこったりなどしません。その逆に紹介し、連絡を手伝い、「一致の輪」が広がり、強化されるように助けています。日本人だけが全員そろって「私たちの派閥の幻視者」にしようとするのです。神は幻視者同士が決して上下なく、固い友情で結ばれ、皆が公平な愛で他の幻視者たちを愛し、話し合い、文通しあい、支え合い、励ましあう一致を築くようにと命じているのです。互いに知り合うことさえ妨げて、一体どうやってこの一致を築きあげさせ、強めあって堅忍させるつもりなのですか?

 まず幻視者本人に言います。他の幻視者と決して上下なく一致するのです。人の上に立とうと思ったり、人を指導しようと思ったりしてはいけません。同様に幻視者以外の人々の間でも、彼らの上に立とうとしたり、彼らを指導しようとしたりしてはいけません。あなたは聖徳の実践の模範を見せることによって、人を聖徳に導くように召されたのです。特にどんな試練の中でも首尾一貫して神にハイと常に言い続ける英雄性を皆の前で見習うべき模範として輝かせるために、山の上の町のように目立つ存在として立てられているのです。過去に人の上に立とう、人を指導しようと考えた公的幻視者は皆、全員が落ちました。その二の舞いにならないでください。そして外国の幻視者の模範にならって、どんなにお世話をしてくれる人、またはグループであっても、そのかこいものになってはいけません。神が日本に与えられた幻視者全員と率先して交流し、ひとつの「一致の輪」をつくりなさい!

 幻視者のまわりの人、関係者、プロモーターや、グループの中心的な人々に言います。幻視者をかこってはいけません。それは幻視者に落ちる道を歩かせることです。あなたたちも派閥心を捨てさりなさい! 幻視者に対しては外国の人たちを模範にして、今までのやり方を180度方向転換させてください。あなたたちは天からのメッセージをよく知っているはずです。いったいどこに幻視者を知り合わせるな、交流させるなと書いてあるのですか? 公的幻視者がだれ一人堅忍できず、幻視者の「一致の輪」というこの世に対する最高のあかしを示すこともできず、20年間が過ぎ去ったのは派閥心のせいです。どうかマリア様を泣かせないでください。嘆かさせないでください。皆さんはおおいに間違っています。



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【 第125章 】

 プロモーターの許可なくメッセージを人に渡してはいけないとか、メッセージを広めるのに対してプロモーターが何らかの制限をする国、そしてそれをおかしいとも思わずに皆が従う国が日本以外の世界のいったいどこにあるのでしょうか? 天がすべての人のために与えるもの、すべての人に届けてほしいと願っているものである天からのメッセージでさえ、日本では派閥のかこいものにされているのです。

 皆さんは自分がメッセージを知った時のことを忘れたのですか。地獄に向かって歩いていたでしょう? あなたがカトリック信者だったら現代主義に乗っかって、反キリストのロード・マイトレーヤの教会の一員となるべく進んでいたはずです。カトリック信者以外の人は、無神論やオカルトや物質主義やニューエイジや肉の快楽や金のとりこになって、その瞬間死ねば必ず地獄行きになっていたような生き方をしていたはずです。メッセージに出会えたからこそ、救いの可能性が開けたのでしょう? 今も、もしメッセージを知っていれば、自分の霊魂を救うことができるはずだった人が、日々大勢死んで、永遠に続く地獄の罰に飛び込んでいるのですよ。同じ立場から救われたというのに、彼らに対しての思いやりは全くないのですか? そうです。あなたたち日本人は、まず組織の利益が大切なのです。隣人の永遠の運命など二の次なのです。メッセージを広めれば、敵に情報がわたり、組織に迫害が及ぶから、しいては日本の、リトル・ペブルさんを支持している人たちみんなの不利益になるから賢く?慎重に?やらなければならないというのはウソです。皆さんが思いやっているのは神の利益ではなく自分と身内の利益です。

 そのような人間的な理論を打ち破るために実例をあげましょう。どちらも私がじかに体験したことです。リトル・ペブルさんと一致し、強力にサポートしていたカナダのミッションに幻視者が天から与えられ、公的ご出現が始まりました。もちろんメッセージは自由に広められ、ご出現地はオープンに人を迎えました。そこで、日本でいえばプレイボーイ誌のような非常に低俗なカナダのある週刊誌は、ご出現と天からのメッセージをもの笑いの種にしようと記事として扱ってくださったのです。そのせいで、信じる人々が増え、司祭までもがご出現の真実性を固く信じて巡礼に来たのです。もうひとつの例は私たちのインターネットでの宣教です。完全にオープンです。敵だろうが読みたい人は自由に天からのメッセージを読みます。そして敵対している人たちが実際に攻撃キャンペーンを繰り広げて下さいます。ところが彼らが攻撃キャンペーンをやってくださればやってくださるほど天のメッセージを信じる人々が増えていくのです。メッセージがどのように広まってゆき、マリア様のミッションがどのように発展し、強化されるかは人知を超えています。

 皆さんはこの神の摂理をどう受け止めますか? メッセージを与えてくださり、それを信じた一人一人に、そのメッセージを広めるように命じておられる神が、その命令に単純に従っている人を保護しないなどと考えられますか? おまけにこれは聖福音でイエズスが命じておられることにも従うことなのです。「私が闇の中でいうことを、あなたは明るみで言え。耳をあてて聞くことを屋根の上から知らせよ」(マテオ10・27)と私たちは命じられています。自らの行いをメッセージと聖福音の両方に照らして識別してください。

 ある人々は、よその国のメッセージの内容を盾に、自分たちの行いを正当化しようとするかもしれません。だからあらかじめ反論しておきます。日本は世界の光となるという特別な、本当に特別な使命に召し出されています。世界の国々がまことの神に、そして唯一の真理であるローマ・カトリックの教えに改心する起爆剤になるという使命です。この特殊な事情のゆえに、そして宣教国であるという一般的事情のゆえに、日本での、日本人への神のご要求は、堂々と自分の信仰とリトル・ペブルさんを支持する信念を表明し、天からのメッセージを広めることなのです。日本と日本人に与えられたこの偉大な使命を辞退するつもりなのですか? 神のこの素晴らしい預言を信じていないのですか? もうそれが実現するという希望を捨ててしまったのですか? 神が日本人に特に命じておられること、各自が信仰と信念を堂々と表明し、メッセージを多くの人に紹介することをやめて、よその国への指示を採用することを選ぶのは、よその国の将来の事情と日本の将来の使命の違いをわかっていないのです。日本は隠れないで宣教しなさいと個々人が命じられている国なのです。

 どうかグループのリーダーたち、プロモーターたちは天からのメッセージをかこわないでください。グループのメンバーはメッセージを広めることについて何ら制限されてはいけません。むしろその逆に、天からのメッセージを精いっぱい広めるようにと励まされるべきです。

 そして皆さん全員に言います。メッセージを知ることで「真理の中の真理」を知ることができた皆さんは、この世で最も価値ある財産を預けられ、持たされているのです。これを隣人に与えることは、どんな物質的富を与える行為よりもすぐれた愛徳です。なぜなら隣人に「永遠に続く無限の幸福」を与えることになるのですから。だからこの最高の財産を神から預けられたあなたの使命と責任は重大で、同時に、あなたがそれを知らないあわれな隣人に分け与えれば、その報いは限りなく大きいのです。神の御旨とは、今それをあなたが全力で行うことなのです。この最高にすぐれた愛徳をあなたが行うことで実る神の救霊のみわざの結果と、日本のマリア様のミッションの保護の両方ともを、神の摂理におまかせしてください。神の摂理に信頼するのです。そうすればどちらのことも、カナダのミッションのように、私たち、日本の聖シャーベル修道会のように、神は人知を超えた方法で完璧に行って下さいます。皆さんに悪いことは何一つ起こりません。あなたの心の最大の悪は、組織第一で、隣人の永遠の救い(今この時も死んでゆくたった一人の救いをもです)を二の次にする派閥心からきている価値観の狂いです。その人間的な価値観は、神の価値観とは正反対なのですよ。だからあなたは、あなたの安全のためだと言われようが、組織の安全のためだと言われようが、日本のミッション全体の安全のためだと言われようが、メッセージをかこう指示には従ってはなりません。これはあなた個人が神の御旨か、派閥心かのどちらかを選ぶ、神とあなたの問題です。あなたは「私は人に従ったまでです」と言って、言い訳することはできません。聖書は「人に従うよりも神に従え」と神の命令をはっきりとあなたにも伝えているのですから。



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【 第126章 】

 日本のミッションでは、ある期間など、リトル・ペブルさんが天から受けたメッセージを4カ所で、少なくとも4人が4通りの翻訳をしていました。大して差異のない訳です。「何で同じことを4人がやるのですか? 誰か一人がやれば済むことでしょう?」と皆さんは理解に苦しむことでしょう。「一人が翻訳し、必要な人みんなに使わせてあげればいいのではありませんか? そうすれば他の3人は別の仕事ができるのに」と当然考えるでしょう? 誰が考えてもおかしいこの非能率で無駄なやり方は今も同様に、全ての天からのメッセージが2カ所以上でダブって翻訳されるという事態となって続けられています。ローマ・カトリックの専門用語に強い翻訳者は、日本のマリア様のミッション全体でもわずかな人数です。そのうえ、翻訳すべきものは山ほどあるのです。翻訳者たちが一致協力して手分けしてやらなければ、大切な仕事にも手がまわりません。(日本のミッションで最も大切で、かつ緊急を要していた翻訳の仕事は、実は聖シャーベル修道会の会則会憲の翻訳だったのです。このことは後ほど説明します) 「なぜこんな馬鹿げたことを何年も続けているのですか?」とみなさんは聞きます。それは「私たちが翻訳した天からのメッセージ等は、他のグループには使わせない。自分たちのグループのためのものは自分たちで翻訳しなさい」という主張がまかり通っているからです。すなわち天からのメッセージ等の翻訳をかこう行為が原因なのです。

 過去20年間の日本のマリア様のミッションで、プロモーターとプロモーター、グループのリーダーとグループのリーダーの分裂と感情の対立、そして互いへの敵視は、主にこの天からのメッセージ等の翻訳をかこう行為が原因になって起き、この行為がずっと続けられているために、修復できないほどにエスカレートしてきています。この悪い実りがはっきりと証明しているのは、メッセージの翻訳等をかこう行為が神からのものではないということです。もしこの行為が神からのものであれば、混乱や分裂、憎しみや敵意などはもたらされるはずはなく、逆に愛と一致と平和が実りとしてもたらされたはずです。

 「なぜメッセージ等の翻訳をかこって、他のグループに使わせないのですか?」と皆さんは質問しますね。それは自分のグループの利益だけをはかる派閥心なのです。つまり、メッセージ等の翻訳をかこうのは、世間的な集金システムの整備なのです。ですからもちろん世間的には法律的に認められた行為です。しかしこれは、神の祝福をいただける行為ではありません。例をあげて説明しましょう。コルベ神父様は日本に来て、宣教事業を開始し、「無原罪聖母の騎士」誌を出版しました。この月刊誌は、購読料を払いたい人は払う。払えない人はただで受け取るというシステムで発行されていました。これは世間的集金システムを知ってる人には、気違いざたとしか思えないシステムです。しかし、この「神の摂理に信頼して寛大に与える」というシステムは神の祝福をいただき、読者はどんどん増え、経済的にもうまくゆき、宣教事業は急速に発展し、多くの日本人に救霊をもたらしました。コルベ神父様の後継者に日本人会員がなっていくと、日本人はコルベ神父様のシステムを世間的集金システムに切り替え、そのシステムを整備してゆきました。ところがそうすればそうするほど読者は減少し、経済的にもまったく成り立たなくなっていったのです。これはコルベ神父様の精神による「神の摂理に信頼して寛大に与えるシステム」は神からのものであったことと、日本人会員たちの精神による世間的集金システムの整備は神からのものではなかったことをはっきりとあらわしています。ローマ・カトリックの宣教事業においては、すべての時代に、世界のどこにおいても「神の摂理に信頼して寛大に与える」人々は、神の祝福をいただくので、どんどんその事業が発展し、逆に人間的手法で経済を確立しようとする人々は、神の祝福をいただくことができず、徐々に行き詰まってゆき失敗に終わります。今ももちろんこのマリア様のミッションにおいても世界中でこのことが起こっています。リトル・ペブルさんは天から与えられたメッセージを発行するのにただで与えるだけです。広め方も何の制限もせず、インターネットですべて公開しています。翻訳者を許可制などにしたりしません。人間的に考えたら宣教事業の経済は成り立つはずがないのです。それなのにたくさんの反対者が経済的にぶっつぶしてやろうとあの手この手で挑んできても、事業は発展し続け、メッセージの支持者も全世界で増え続けるばかりです。日本の聖シャーベル修道会はコルベ神父様のシステムを採用しています。「箱舟の聖母」誌を、マリア様のためにすすんで奉仕したい人は寄付を出して読みます。そうしたくない人はホームページに数カ月後に無料公開されるのを待ってただで読みます。どちらの人も自由にコピーして読みたい人、読ませたい人にどんどん配ってよいのです。世間的に考えたらただで読めるものをお金を出して読むバカはいないと思うでしょうが、私たちには宣教事業に必要なお金はいつも送られてきているのですよ。これは毎日が奇跡の体験といって過言ではありません。しかもキリスト教徒でない多くの日本人が、私たちの宣教事業を通してリトル・ペブルさんと、天からのメッセージをもうすでに知っているという実りも実っています。これで十分わかりましたね。神の御旨は、私たちが「神の摂理に信頼して、持っているもの寛大に与えること」なのです。

 日本人である皆さんは宣教事業とはどうあるべきかという理解を持っていません。歴史を通じて示されてきた「神の摂理に信頼して寛大に与える」人々への神の祝福と保護の実例の数々も知りません。おまけに日本人は派閥心に凝り固まっていて、しかもケチンボです。だから過去の日本のミッションの過ちを反面教師にして、皆さんはどうか同じ過ちを犯さないようにしてください。
 天からのメッセージ等の翻訳をかこう行為は、日本のマリア様のミッションを分裂させ、グループ同士を敵対させています。しかし損害はそれだけにとどまりません。もしマリア様の望みに従って一致協力して仕事をしていれば、何倍もの翻訳の仕事ができていたはずです。最も重要かつ緊急だった聖シャーベル修道会の会則会憲の翻訳も、訳すように天から指示を受けていた人が訳すべき時に訳せたはずです。他にもマリア様がぜひ読むようにとおっしゃっていながら、日本語に訳されていない多くの部分が残されている本、マリア・ワルトルタの著作集とか、シエナの聖カタリナの「対話」とかも、その残りの部分を訳すことができているはずです。そのうえ見苦しい派閥間のいがみ合いは、愛徳を損なわせ、個人個人からも、日本のミッション全体からも多くの恵みを失わせ、多くの弱い人つまずかせ、ミッションから離れさせました。グループ自体も行き詰まり、自分の首を自分でしめる結果になっています。

 だからグループのリーダーたち、プロモーターたち、そして翻訳の実務者たちに言います。いつまで神の御旨に逆らって、摂理に信頼せず、持っているものを寛大に施さず、協力し合わず、一致を拒み、人間的なシステムに頼り続けるのですか? 天からのメッセージ等の翻訳をかこうことをもうやめてください! 「私たちが翻訳したものをどうか使ってください。使っていただければ、あなたたちに仕えることができて私たちはうれしい」と言ってください! そして翻訳の実務者は、自分自身にはこう発言する責任があるということを知ってください。「私が翻訳した天のメッセージをグループ内でかこうことを私は決して許さない!」と。



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【 第127章 】

 聖シャーベル修道会の会則と会憲は天からのメッセージと同様、リトル・ペブルさんに天から直接与えられたものです。アシジの聖フランシスコの場合と同じですね。アシジの聖フランシスコの小さき兄弟会が急激に発展したので、最初の原始会則にかえ、神は聖フランシスコに、それに即した第二会則を再び与え、書きとらせました。しかし彼の後継者たちはそれを捨ててしまいました。今、世界中でほとんどのフランシスコ会派が用いている会則は、その後、神が3度目に聖フランシスコに与え、書きとらせた第三会則であり、第二会則は永久に失われてしまったのです。第二会則は後継者たちが思い描いていた会のあり方とは、まったくあいいれない会のあり方が、神から与えられて書きとらされていたのでしょう。今、日本のこのリトル・ペブルさんと一致したミッションで、共同体を設立したい、または将来入りたいと思っている人が、もし聖シャーベル修道会の会則会憲を読むならば、アシジの聖フランシスコの後継者たちがやったと同じように、この会則会憲は捨ててしまうでしょう。なぜなら聖シャーベル修道会の会則会憲が、彼らの考えている共同体のあり方と全く違う共同体のあり方、彼らが考えている共同体の設立の仕方と全く違う共同体の設立の仕方を規定しているからです。聖シャーベル修道会の会則会憲とは全くあいいれない共同体のあり方、共同体の設立の仕方の思い込みは日本人独特の考え方から来ていて、この間違いはオーストラリアで聖シャーベル修道会が設立されたことが日本人の耳に入った時から存在しています。しかし聖シャーベル修道会の会則会憲を捨ててしまうに違いないほどに、日本人独特の間違った共同体のあり方と、共同体の設立の仕方の思いこみが、正しいものとしてこのミッションのほとんどの日本人にしっかりと根を張り、決定的に共通理解となってしまったのは1996年以後です。そしてそのことが防げなかったのは、聖シャーベル修道会の会則会憲が一部の人々にかこわれてしまって、ほとんど誰も読むことができなかったからです。リトル・ペブルさんからは翻訳担当者から受け取るように指示が出ており、待つしかなく、何年もがむなしく過ぎていったのです。結局このルートで日本語の会則会憲が入手できるようにはなりませんでした。この事態にはやはり派閥心が根底にあるのです。

 聖シャーベル修道会の会則会憲が一部の人々にかこわれてしまったことで、日本のこのミッションは計り知れない打撃を被りました。ひとつは共同体の設立が遅れていることです。しかしそれはもうひとつのことに比べれば、まだ小さな打撃です。そのもうひとつのこととは、共同体のあり方と共同体の設立の仕方の間違った思い込みが日本人の間に定着したので、聖シャーベル修道会の共同体の設立が、彼らにとって不可能になってしまったことです。そうです。遅れるならまだしも、不可能になってしまったのです。それはこういうことです。実例によって説明します。カナダでは、聖シャーベル修道会の共同体を設立する動きが非常に早く起こり、ニューブランズウィック州内で、ほぼ同時期に2つの共同体の設立が開始されました。そのうちのひとつは、財産を出し合ってひとつの敷地に共住を達成した段階から、先に進もうとしませんでした。マリア様はしばらくお待ちになられましたが、やがてついにこうおっしゃいました。「彼らはもう共同体ではありません。単なる農家の集まりです」と。そして彼らは崩壊の道をたどったのです。今、日本のミッションに参加している日本人たちが彼らの間違った思い込みを修正しなければ、必ずこれと全く同じ道をたどります。カナダの残ったもうひとつの共同体は、聖シャーベル修道会の会則会憲の正しい理解に立脚して、この会の精神とカリスマを学びつつ前進し、今は大きく発展しています。そのようにしないなら、共住し、たとえ財産を共有しても、聖シャーベル修道会の共同体には決してならないのです。

 今言っていることを皆さんに理解してもらうには、まず会則会憲とはどういうものかということを皆さんに説明する必要があります。2000年3月に、日本の聖シャーベル修道会は日本語の会則会憲の全文をホームページに公開し、読みたい人は誰でも自由に、ただで読めるようにしました。翌4月にはインターネットをしない人のために会則会憲を本にし、郵送する体制を作りました。この時点で会則会憲は、誰でもが例外なく日本語で読めるようになったのです。しかし、このミッションの日本人は、この時点においてもう全く会則会憲を自分たちには不必要なものだと考えるようになっており、読ませようとも、読もうともしなくなっていました。特定の幻視者の指導のもとに入り、幻視者の指示にその時々に従えば、共同体は設立できる。共同体に入った後も、それを続ければ問題は何も起こらないと信じきってしまったのです。特定の幻視者に従えばいいのだから、法律の条文など知らなくたっていいと考えています。日本人は会則会憲が修道会の会員にとってどういうものかすら分かっていないのです。読みもしないのに会則会憲を法律の条文だと決めつけています。

 いいえ、それらの考えは間違っています。「共同体は修道会」です。修道会の会員になるためには、会則会憲を熟知しなければなれないのです。ましてや共同体の設立のメンバーになるためには、日本の国や自治体のさまざまな法律や規定に適応させるために自由に応用できるほどに会則会憲を熟知していなければならないのです。設立初期の大変な時期、会則会憲の文面だけでなく、精神とカリスマをもそこから汲みとるほどそれを熟知していないと、状況に即した適用ができず、生活のバランスをとることができません。そして実際に修道会では、早朝の聖務日課の際や、沈黙で食事をする際に会則会憲が読み上げられ、会員が皆、完全な理解を会則会憲に対して持てるようにしていますし、志願期、修練期の間は特に会則会憲について深く学ぶのは言うまでもありません。会則会憲は会員にとって、いわば花婿です。花婿であるイエズスと一体となるために、会則会憲と一体になるのですから。会則会憲は、愛し、一体化する対象なのです。つまり花婿イエズスの精神が会則会憲で、花嫁である会員は、花婿イエズスの精神にひたされ、同じ精神になるよう会則会憲を知り、愛し、生きるのです。だから修道会においては、もちろん会則会憲の上に位置する会員など誰もいません。聖シャーベル修道会においても、創立者で将来の教皇のリトル・ペブルさんでさえ、この花婿である会則会憲に服従する立場にあるのです。だから会則会憲など知らなくても、目上に従っていればいいんだとか、天から直接に指示を受ける幻視者に従えばいいんだなどという考えはとんでもない間違いです。修道会とは会全体としてだけではなく、会員が一人一人例外なく花婿イエズスの精神である会則会憲によって統治されるところなのですから。

 次に修道者とはどういうものなのかを説明する必要があります。修道者とは修道会の敷地の中に住んでいるから修道者なのではありません。修道院に寝泊まりしているから、修道服を着ているから修道者なのでもありません。修道者とは従順・清貧・貞潔の三つの誓願を、教会を通して神に立てることによって、完全に神に奉献されたものになっているから修道者なのです。修道者自身、いけにえとして完全に、残りなく御父へのかぐわしいささげものとなるための焼きつくす炎であるこれらの3つの誓願、イエズスである十字架に永久に自分を打ち付けてくれる3本の釘であるこれらの3つの誓願、多くの霊的な子を産ませるためにご自分の花嫁としようとする聖霊への「なれかし」(フィアット=マリア様がお告げを受けたときの承諾のハイ)であるこれら3つの誓願について繰り返し、繰り返し黙想するのです。そして修道会とは、これらの3つの誓願を立てた人の集団です。この3つの誓願を立てる前提は、会則会憲を熟知していること、3つの誓願について完全に理解していることです。もちろんこの3つの誓願について教えているのは会則会憲です。ですから会則会憲を読まないなら、3つの誓願はたてることができません。すなわち会員には絶対になれないのです。

 これで「共同体は修道会」だという言葉を皆さんは理解できるようになったと思います。では、日本人独特の思いこみの間違いについての説明に入ります。日本のミッションにおいては今、共同体とは単なる共住である、つまり村のように単に寄り集まって協力して暮らすだけであるとか、ただ財産を共有にした祈りのグループであるとか信じ込まれています。共同体の設立に関しては、幻視者が中心になり、ワーカーとともに設立するとか、幻視者の指示通りに設立するとか、幻視者に頼まれて設立するとか皆が考えています。しかしこれは全くありえません。なぜなら「共同体は修道会」だからです。つまり共同体のメンバーとは従順・清貧・貞潔の3つの誓願をたてる人だからです。そして誓願とは、指示されてとか、頼まれてとか、強いられてたてることは許されないのです。誓願は、まったく本人の望みと意志だけで、完全な自由のもとに、だれからも影響されずにたてなければいけないものなのです。あなたがたとえ神ご自身から指示されたから、または願われたからと言っても、指示された、願われたというのでは、どんな修道会も誓願を立てさせません。まず会則会憲を熟知しており、三つの誓願と、誓願をたてるという行為について正しい理解を持っており、だれからも強制されず、影響されず、完全に自由な状態で、本人自身が自由意志で強く望むことが、誓願をたてるための絶対条件なのです。ですから祈りのグループに幻視者が指示して、それをそっくりそのまま共同体にするなどありえないことなのです。

 日本に共同体を設立するために、まず最初にやるべきことは会則会憲の翻訳であったのです。グループのリーダーやプロモーターたちは翻訳担当者からできた翻訳を受け取り、印刷し、リトル・ペブルさんを支持する人の出来れば全員の手元に届けるべきだったのです。これを読んで、よく理解したうえで、召命を感じ、共同体設立のメンバーになる資格があると自覚した人が、自発的に名乗りをあげなければならないからです。この内的呼びかけは神がご自身で自由にお選びになるもので、人が介入することは許されません。内的に召命を神から感じさせられた人が自発的に志願する。これが修道会です。「共同体は修道会」なのですから絶対にこうでなければなりません。共同体の設立のメンバーに神から召される人は多くの人の中に、わずかしかいません。そういう人があらわれるために日本語の会則会憲をできるだけ多くの人、できれば全員に読ませるべきなのです。それには翻訳担当者が全てのグループのリーダーとすべてのプロモーターに訳を渡し、自由に使わせなければなりません。これを妨げたのが派閥心なのです。

 翻訳は私が肩代わりし、今は誰でもが自由に日本語で読めます。すべてのグループのリーダーとすべてのプロモーターに、自由に使ってくださいと言って、会則会憲の本を送りました。そしてそこには今の日本のミッションの人々が夢想だにしないことが書いてあります。共同体は話し合いで、そして全員一致の決定を導き出せるまで話し合うことによって万事を決定すること。話し合いにおいては、いただいている賜物や、知識、才能、貢献度、年齢等に関係なく、皆が平等な発言権を持つこと。どの部門で、どの部所においてもこれを行い、上意下達(トップダウン)のやり方をしないことが規定されているのです。そして日本人たちが、内容として含まれていると思い込んでいることが、書いてありません。幻視者が共同体をつくる。幻視者が組織のトップにつく。幻視者が皆に命令する。幻視者があらゆることを決定すべきだ。などです。今、幻視者をトップにしたトップダウン、上意下達のシステムを聖シャーベル修道会の共同体だと考えている人々は、この聖シャーベル修道会の会則会憲を受け入れることができるのでしょうか? 自分たちの間違った考えを改めない限り、アシジの聖フランシスコの後継者たちが、天から与えられて書きとらされた第二会則を捨ててしまったのと同じことを彼らもするはずです。すでにグループのリーダーたち、プロモーターたちが今自分が世話している人々に聖シャーベル修道会の会則会憲を読むように熱心に促さないのは、実質的に会則会憲を捨てていることになりませんか? 日本語の会則会憲の存在を知りながら、読もうとしないこのミッションの人たちも皆、会則会憲を実質的に捨てていることになりませんか? 聖シャーベル修道会の会則会憲を受け入れず、自分たち独自の会則会憲を作って、独自の共同体を設立しようとするかもしれませんが、「共同体は修道会」です。その独自の会則会憲は認可を受けるために聖座に提出されなければならないし、教会に受け入れられる方法で、三つの誓願を会員が皆、たてることができなければならないことを忘れないでください。しかし、もし幻視者をトップにすえたトップダウン(上意下達)のシステムなどという、修道会では採用不可能な会則会憲を作るなら、教会は決してそれを受け入れはしませんよ。幻視者を導くのは司祭なのです。幻視者がどれほど落ちてしまいやすいか教会は知っています。

 ずいぶん以前からこのミッションに参加している日本人は、過去の日本に与えられたメッセージを知っており、大警告の間にほとんどの国土が海中に没する日本に、大警告の時点の前に共同体が設立されているかどうかで、沈まずに残る部分の場所と広さが違うことを知っているはずです。日本にとっても、日本人の救霊にとっても、これほど重要な共同体の設立なのですよ。そのためにすべきことの中で最も重要なことが会則会憲をできるだけ多くの人に読ませることです。どうか皆さん、会則会憲を読み、読ませてください。多くの人にとって内容を理解するのに経験が足りないことはわかっています。それだからこそ、こうして解説書であり、共同体生活の教科書である「153本の聖ヨゼフの百合」という本を書いて助けを与えているのです。そして皆さんは、日本と日本人の救いでもある共同体の設立を妨げた、会則会憲をかこう行為の根底にあった派閥心のこの恐ろしい害悪を悟ってください。派閥心を捨ててください!

 そして新しくこのミッションに参加する人たちに言います。皆さんはまだ洗礼を受けていませんね。外面的には聖書的な言葉で表現すると、「異教徒、罪人」です。しかしイエズスは聖福音の中で、恵みを拒んだ「選ばれた人」の分の恵みが「異教徒、罪人」に与えられ、「異教徒、罪人」の方が神の国に入るとおっしゃってくださいました。そして今、そのことがまさに起こったのです。御父は皆さん全員に共同体に入る召命を与えてくださっています。この呼びかけに応える人には、召命に応え続け、最後まで堅忍するための恵みを与えてくださいます。あなたたち皆が呼ばれているのですから、どうか皆が聖シャーベル修道会の会則会憲を読んでください。そして特に共同体の設立のメンバーに召されていると神から感じさせられた人は、名乗りをあげてください。神に信頼してください。あなたが完全な「ハイ」を神に向かって言うなら、すべてが恵みによってうまくいくのですから。



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【 第128章 】

 同じ派閥心からの行動でも、派閥をつくるのと、グループに人をかこいこむのとでは大きな違いがあります。派閥をつくるだけなら、そのメンバーは他のグループのメンバーと自由に交流しているのですが、グループに人をかこいこむというのは、そのメンバーに他のグループのメンバーと交流させないようにする行為です。あなたが女性ならよく分かると思いますが、その手段として用いられるのは悪口、陰口、そしり、ざん言です。「あの人は悪い人だから、あの人ともあの人のグループともつきあっちゃだめよ!」というふうにです。こうして絶交させることで人を自分のグループにかこいこむのです。ですからグループ自体、完全に閉鎖的になりますし、そのメンバーの心も閉鎖的にさせられてしまいます。この行為のうちには派閥心という罪に加えて、愛徳に反する多くの罪が侵されています。いまあげた悪口、陰口、そしり、ざん言はもちろん、偏見を持たせる罪と偏見を持つ罪が犯されています。こういう行為があることと、こういう行為が主に女性によって行われていることを、私は16歳まで知りませんでした。同じ高校の女生徒が「女の世界はきたないのよ!」と教えてくれるまでは。その数年後、私はある修道院にいましたが、ある食事のとき、皆、楽しくて非常に幸せな気分でした。一人の修道士がこう発言したのです。「私たちは幸せだよ。シスターたちは、大変なんだよ!」と。見まわすと他の修道士たちが皆うなずいていました。修道女たちも、修道女である以前に女性なのですね。

 このリトル・ペブルさんと一致した日本のミッションにおいても、20年間絶えず同様の悪を見続けてきています。まさか人数が多いグループの方が正しいという理論を持っているのでしょうか? だとしたら、それは神に信頼するのではなく、数に信頼することであり、神に対する不信頼の罪も犯していることになります。旧約時代の歴史が教えてくれていますが、神は数を頼む人を助けてくださいません。神により頼む人を助けて下さるのです。また、この行為はそのうえ、人を自分たち以外の人と付き合わせないようにコントロールすることですから、独占欲の罪と支配欲の罪、そして貪欲の罪も犯しているのです。汚い策略の罪でもあります。なぜ人を自由にさせないのですか? なぜ自分たちだけの友人にしてしまうのですか? 皆さんは自分でこの答えを見つけるように内省してみてください。

 はっきりいいます。マリア様のミッションで、たくさんの罪の複合体であるこんな行為をする必要はありません。単に派閥を作るという悪よりも百倍も悪いことです。今、このミッションに参加している日本人は、この罪から直ちに足を洗いなさい。新しくミッションに参加した人は、彼らを反面教師にしてください。そして同じ罪悪に染まらないように、くれぐれも注意してくださいね。



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【 第129章 】

 「第七、汝、盗むなかれ」 これは神がモーゼを通して人に守るようにと命じた十戒の掟です。マリア様のこのミッションの日本人は派閥心から、グループの利益のためにこの戒めを破っています。それは有能な人をかこうことによってです。有能な人はミッション全体のために、その才能をもって奉仕するために神から与えられているのです。それを自分のグループのためだけに奉仕を限定させることは、グループ以外の他のすべての人から奪い、盗むことです。たとえ有能な人自身がそう望み、同意してそうしていても、すべての人のための才能を独り占めすることは、それをおはからいになった神への反逆です。

 「第十、汝、人の持ち物をみだりに望むなかれ」 これもモーゼの十戒です。神はまた、モーゼを通して「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19・18)という掟を与えてくださいました。ところである有能な人があるグループにいて、別のグループがその人を引き抜いたなら、それはこの2つの掟を破ったのです。それが数少ない翻訳者だったなら、引き抜かれてしまった方のプロモーターは、またはグループのリーダーは、活動できなくなるほどの打撃を被ります。引き抜きとは、世間ではライバル会社をつぶすための手法です。競争相手を蹴落とす行為です。協力しあいなさい。愛しあいなさい。というマリア様の命令の逆を行く行為です。この行為には世間でさえもえげつないこととして、皆が眉をひそめます。隣人を自分自身を愛するように愛するなら、決してできないことです。利己心ここに極まれりといった行為です。

 このような行為が日本のこのミッションでは20年間変わらず行われてきています。派閥心はなによりも自分のグループの利益を追求させ、人を愛と善徳に対して盲目にさせ、その良心を鈍らせ、善悪の判断すらできなくさせます。今、ミッションに参加している日本人は、神に反逆し、マリア様の命令に逆行する自分たちの行為を、なぜ正しいものと思うのでしょうか? 自分たちのグループは神のため。だから自分たちのグループの利益は神の利益という考え方をしているに違いありません。そして、神のためにしているのだから正しい行為なのだという理論です。派閥心でおこなっている行為を、正しい行為なんだと自分自身の中で納得できる、日本人のこの理論の誤りを明らかに示さないと、日本人の良心は目覚めないようですね。

 皆さんの考え方はこうです。「グループが有能な人をかき集め、神のためにたくさんの仕事を成し遂げられるようになり、たくさんの仕事を捧げれば神が喜ぶ」。たしかにそうなれば人の目には神によく仕えているように見えます。しかし神ご自身が「そんなもの私はいらない」とおっしゃっているなら、この理論はそれで破たんしてしまいます。サウル王が戦利品をとって神にたくさんのいけにえをささげようとした時のようにです。神は彼に「敵のものは一切とるな」と命じており、その命令に従ってほしかったのです。敵のものでご自分にたくさんのいけにえがささげられることなど、神は望みませんでした。神の命令に従わなかったこの行いのために、神は彼から王位を取り上げました。(サムエル記上の15章を読んでください) 今のミッションの日本人はサウル王と同じことをやっています。サウル王と同じ結果に終わりたいのでしょうか? 盗むな。みだりに人の持ち物を望むな。隣人を自分を愛するように愛せよ。これらの神の命令に従っていないのですから、たくさんの仕事をささげても神はお喜びになりません。人間的に考えれば、グループとして有能な人をたくさん抱えていればいるほど、神に貢献できると思うでしょう。しかしサウルにかえて王として神がお選びになったダビデのことを思いだしてください。神はダビデのご自分に対する完全な信頼心をお喜びになったのです。彼は巨人ゴリアテに対し、人間的には必要と思える鎧もつけず、剣も持たず、従者も従えず、たった一人で立ち向かい、拾った小石ひとつで、それらすべてを持っており、なおかつ巨人である敵を打ち殺し、全イスラエルを救いました。(サムエル記上の17章を読んでください) これで皆さん日本人の理論の根拠のなさを明白にし、神に仕えるものの世界においては、その理論は捨てねばならず、ましてや自己正当化に使ってはならないことを示しました。だから皆さんは日本人の派閥心を嘆き悲しむマリア様の御心の刺に自分がなっていることを認め、良心に痛みを感じるようにしてください。悔い改め、自分を変えることはそこから始まるのです。

 今、持っている人間的理論を捨てたなら、真理に根ざした超自然的理論を代わりに持たなければなりません。ダビデの用いた小石は、あなたが天に積む功徳を象徴しています。あなたが愛と善徳によってたてる功徳です。リトル・ペブルさんに一致したミッションの前進は、この功徳によって前進するのです。このミッションの前進をはばもうとする悪魔が置くすべての障害を突破できるのは、ただこの功徳によってなのです。あなたは功徳によって、神に求められるすべてのことを成し遂げることができるのです。功徳によってなす。これが皆さん全員が持つべき理論です。功徳は神の望みに従わなければたてられません。神の望みとは、皆さんがグループをこえて、違いを乗り越えて愛しあうこと、一致団結すること、協力しあうことです。愛しあうことに関しては、敵を愛せよと命じられているのですから、今、敵視し、敵対している他のグループの人たちを愛しなさい。一致団結せよと命じられているのですから、派閥心を捨て、他のグループの人たちと交流し、あなたの心と手を開いて持っているものすべて与えなさい。何もかこってはいけません。協力しあえと命じられているのですから、競争心で相手をぶっつぶすようなことをやめなさい。話し合いをし,助けあえることを探し、実行しなさい。祈りも、犠牲も、仕事も、何もかも、神に聞き従って兄弟を愛するときに、初めて神に受け入れられ、功徳となるのです。

 最後にイエズスの聖福音の御言葉を書きますから、各自が深く内省してください。「だから祭壇に供え物ささげようとするとき、兄弟が何か自分に対して含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ、祭壇の前に置き、まず兄弟のところに行って和睦し、それから帰って供え物ささげよ」(マテオ5・23、24)



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【 第130章 】

 マリア様を嘆き悲しませている日本人の派閥心の罪は、「身内」とみなす自分たちのグループのまわりに壁を築く行為と、自分たちの利益のみを求め、あらゆるものをかこう行為を日本人たちにおこなわせています。派閥心によって日本のこのミッションではグループ間の敵対感情は激しく、しかも固まってしまっており、ミッション全体の害となる問題がたくさん生じ、そのままずっと存在しています。なんとかせめて和解の糸口を探り、放っておけないたくさんの問題を解決していくために、話し合いが絶対不可欠なのですが、グループのリーダーたちとプロモーターたちは話し合おうともしません。この話し合わないという行為も派閥心の罪に特有な行為です。彼らはむしろ互いに心を閉ざし、絶交しています。

 皆さん、聖ヨゼフの霊性によって完徳を目指す方法を思いだしてください。一致を目指すための主要な自然徳の中に「本当の話し合いができる」という徳がありましたね。表面的なものではなく、自分自身を与える行為として、自分の心を開き、自分の内面、自分の意見を正直に相手に伝え、お互いにそれをおこなうのが本当の話し合いです。心を開き自分自身を与えることと共に手も開き、持っているもの、かこっているものを相手に与えるべきなのです。この自然徳の土台は人間としての動物徳、つまり猿が仲間すべてに心と手を開き、相手を受け入れ、何もかも分けあい、助けあっていることに習う徳、つまり「誰に対しても心を開く」という徳です。さらにさかのぼれば、誰に対しても心を開くためには、傷つけられるのではないかという恐れに打ち勝たねばなりません。傷つけられる恐れによって、「身内」とみなす自分たちのグループのまわりに壁を築く行為に走るのです。この恐れを取り除くためには、聖ヨゼフのように超楽観主義者になり、だれをも、何をも恐れなくなることが必要です。超楽観主義者になるためには希望の徳を強め、神の全き善さを認識し、すべてうまくいっています、すべてうまくゆきます、悪いことは何一つ起こるはずがありません、と心から言えるようになることが必要です。もうわかりましたね。日本人の派閥心の罪を、皆さんが克服する方法は、皆さん一人一人が聖ヨゼフに習い、希望の徳を強め,超楽観主義者となるところから始めなければならないのです。そうしない限り、決してこの罪を捨てることはできません。悪魔的悲観主義による恐れが残っている限りダメなのです。この方法によって一人一人、そして全員が派閥心を捨てる努力をすることをどうか始めてくださいね。

 今、リトル・ペブルさんに一致したこのミッションに参加している人、特にグループのリーダーたちとプロモーターたちは、すでにこじれきった状況があるのですから、この個人的努力に加え、さらに自分たちのまわりに築いた壁を打ち壊し、心と手を開いて、かこっているものも何もかも、自分自身をも相手に与え、話し合いをしてください。本当に与えることが大切です。何もかこわずに与えなさい。与えつくしなさい。徹底的に与えなさい。そうすれば今の状況を改善することができるのです。確実に改善できます。相手に心を閉ざし、絶交していては、一致に向けてただの一歩もあゆむことはできません。それを続けてはいけません。マリア様を喜ばせたいのでしょう? なぜマリア様を泣かせ続けるのですか?

 新しくこのミッションに参加する日本人は、今までの人々を反面教師にしてください。そうしないとあなたも同じことをしますから。そうです。あなたも日本人であり、悪魔的悲観主義にもとづいて生きており、恐れに支配されているのです。間違いをしでかす前に、聖ヨゼフにならって超楽観主義者になるのですよ。


【 第131章 】

 皆さんは初めての土地に行った時、村の中を歩いていると、村の人からは誰も声をかけてこない。じきに交番からパトカーがやってきて、その村を行き過ぎるまで見張っている。スーパーに入ればガードマンが出てきて、露骨にそばを歩き回るという経験をしたことはないでしょうね。しかしこれが警戒心というもので、マリア様のこのミッションの中で、同じことを日本人が互いにしあっているのです。「論理性のないおこないだなあ」と思うでしょう? しかし、村の人全員が持っている論理がちゃんとあるのです。それに従って行動しているのですから、論理性はあるといえます。その論理とは「よそ者は敵だ!」という論理です。ただし理由はありません。隣の巣箱に間違えて一匹のミツバチが飛び込むと、たちまち殺されてしまいます。隣の巣に迷い込んだアリは、同じ種類でもたちまち殺されてしまいます。これと同じです。ミツバチやアリと同じように、全員の頭には「よそものは敵だ!」という論理がインプットされていて、身内かよそ者かを判断しさえすれば、あとの行動はオートマチックに行われます。日本のミッションで日本人がとっている行動もこれと同じです。いったいこれでどうやって一致ができるというのですか? 互いに他のグループの人を、ただよそ者だからと敵視していては、永遠に一致はできません。これがマリア様が嘆き悲しんでいらっしゃる、互いの警戒心という日本人の悪なのです。

 互いの警戒心である理由ぬきの敵視は、一致を目指す主要な自然徳の「公平な愛」という徳の実践によってしか克服できません。敵をも味方をも公平に愛するのです。そしてこの徳の土台となる人間としての動物徳は、猿が仲間に対して反感を抱かないことに習う「誰に対しても反感を抱かない」という徳です。これを身につけるためには、迷惑をかけられるのではないかという恐れに打ち勝たなければなりません。そしてそのためにすべての恐れの源である悪魔的悲観主義を捨て去ることが必要です。聖ヨゼフにならって希望の徳を強め、超楽観主義者になることによってのみこれが可能です。

 日本人は多分世界一悪魔的悲観主義が根深く、恐れにとらわれているので、人に対する反感、敵意が非常に強いです。それを隠すために礼儀を重んじているのです。心には反感と敵意を抱きながら、表面上は尊敬や友好の態度をとります。逆に言えば、礼儀を重んじて、代わりに心の反感や敵意という互いの警戒心を野放しにしているのです。二面性、裏表、本音とタテマエ、これらが必要なのも、悪魔的悲観主義によって恐れに支配され、誰に対してもすぐに反感、敵意を抱いてしまうからなのでしょう。神様は私たち皆に「敵を愛しなさい」と命じています。日本人である皆さんは、敵対する人に礼儀正しくすれば、その命令を果たせると思うのではありませんか? それはとんでもない思い違いです。相手の喜び、満足、善のために、何かを積極的にすることが命じられているのです。どんな状況でも、少なくとも相手を心で祝福し、祈ってあげなければなりません。その上でホスピタリティーということをひとつのテーマとして、常に実践し続けてほしいのです。このホスピタリティーという概念は、日本にはありませんから、説明が必要ですね。先ほどのミツバチの例でいえば、間違えて飛び込んできたとなりの巣箱のミツバチを大歓迎することです。「よそ者大歓迎!」です。これを「自分がしてもらいたいと思うことを相手にしてあげなさい」という神の命令を守るためにするのです。知らない国で、知らない町や村で、知らない人々の間でこれをしてもらったら、どんなにうれしいことか!

 グループ同士敵対し、警戒心あらわの日本のミッションの状況を改善するには、一人一人の内的な、聖ヨゼフの霊性に習う方法での互いの警戒心という罪の克服と、実際的なおこないとしてホスピタリティーを実践することが不可欠です。そして、皆さん、すべての人の中にイエズスを見なさい。その人がどんな人であろうと、その人の霊魂の中に内在していらっしゃるイエズスを見なさい。愛してほしいと願っていらっしゃるイエズスを見、それに応えるのです。これをどうか心がけてくださいね。



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【 第132章 】

 日本人は臆病者です。それで人を信じないのです。疑うのです。悪意に受け取るのです。ある人を信じないということは、その人を愛さないということです。愛さないだけではなく、いわれのない疑いは深刻な侮辱であり、罪です。その人に対する精神的な暴力であり、拷問ですらあります。あなたは信じないという消極的方法で、隣人の喜びも平和も奪い去る人間であってはなりません。騙されるのが怖いから、裏切られるのが怖いからと最初から疑ってかかるのは、日本人であるあなたの根深い反福音的な行為です。この猜疑心がある限り、一致は実現できません。

 さて、真の友情が一致の実現には不可欠です。神が私たちに求めておられる一致とは形式的なものではなく、互いに堅く信じ合っている状態を言っており、それは真の友情で結ばれている状態だからです。「友情」という徳は、人を信じようという意志が土台です。猿の群れにある一致と愛は仲間を信じているからこそです。彼らに習いあなたも「人を信じる」という人間としての動物徳を身につけなければならないのです。そうして初めて「友情」という超自然徳を身につけることができます。

 しかし皆さん日本人は悪魔的悲観主義による恐れと憶病から、「信じよう!」ではなく「疑おう!」という意志を持っています。そこに心の友情が芽生える可能はあると思いますか? 皆さんが友情と呼ぶものがいかにもろいかをふりかえって考えてみて下さい。真の友情は永続するものです。相手のために命も惜しまぬものです。皆さんは疑いつつ友情?を結んでいるので、永続する強固なものにならないのです。聖ヨゼフがマリア様の妊娠の理由を疑った時、自分を責めてマリア様に告白し、許しを願い、次のように言いました。
「マリア、許してください。私はあなたのことを信用しなかった。今、分かった。私は、これほどの宝をあずかるに値しない人間です。私の愛は足りなかった。あなたに真相を聞かないで、私の心の中で不正にあなたを訴えました。自分自身を愛しているようにあなたを愛さず、神の律法に背いたのです。……疑心の侮辱をもって、あなたに対して罪を犯しました。マリア、疑い一つでも、もう侮辱です。……」(1)

 このようにたった一つの疑いでも、ほんのわずかでも無実の人を疑うこと自体が罪です。ですから日本人の「人を疑おう!」という意志自体がすでに徳に対立する悪徳なのです。これは意志という段階ではありますが、マリア様のお嘆きになっていらっしゃる猜疑心の罪にもう踏み込んでいるのです。これによって実際に人を誤解し、心の中で裁き、さらにこの猜疑心の罪に深く落ちこみます。この罪の重さは、立場を変えて相手の身になればよくわかります。善意でやったことを悪意にとられたらどうですか? 日本人には、どんな善意の行為もすべて「裏があるのでは?」と疑うほど猜疑心が強い人が多くいます。これはこの罪のもっと重い形態です。さらにもっとひどい猜疑心の罪あります。もう死語になりましたが、色めがねで人を見るという言葉があります。たとえば誰かのやることは全て悪意に決まっていると、特定の人のおこないを何から何まで悪意に曲解するのです。もうこうなったら猜疑心という罪は、相手を自殺に追い込むこともあります。姑と嫁の間で日本ではざらにありますね。嫁が死を選ぶほどの生き地獄になる原因は、嫁がふつつかなのではなく、姑の心に巣くう猜疑心です。

 日本のマリア様のミッションでは、この猜疑心の罪の最もひどい程度のものまでのあらゆる形態が存在しています。対立するグループのある相手のやることは、何から何まで悪意でやっていると互いに考えるところまで行っています。この状態を続けてよいわけがありません。マリア様が望んでおられるのは、皆が固く信じあい、真の友情に結ばれ、一致しあい、愛しあうことなのですから。ここまでひどくなった事態も、このミッションの皆一人一人が聖ヨゼフの霊性にならい、希望の徳を強め、超楽観主義者になり、誰をも何をも恐れなくなり、人を大胆に信じるようになるなら、必ず改善してゆくことができます。また、それ以外の解決策はありません。病巣そのものを取り除かなくては、病気が治らないのと同じです。

 そしてもうひとつのことを指摘しておきます。人を疑う人は傲慢な人です。相手を自分よりも信用ならない人だと見下しているからです。謙遜な人は自分こそ信用ならない人間であって、他人は皆、自分よりも良い人間だから、自分に信用するくらいなら他人を信用しようと考えるものなのです。

 このマリア様のミッションに参加している日本人に、友情の大切さに気づくようにと呼びかけます。皆さんは友情は必要ないと考えています。ある幻視者の系列の組織に入り、その幻視者を支持し、従えば、リトル・ペブルさんを支持し、従い、一致していることになるのだとすべての日本人が考えています。ですから組織への加入で十分だというわけですが、これは全く間違っています。組織図に名前がのればそれで済むようなものではありません。神はあなたの霊魂を見ていらっしゃるのです。猜疑心という罪を克服し、人を信じ、グループをこえ、違いを乗り越えて、皆と友情のきずなを結ぶようにというご自分の望みに従うかどうかを神は見ていらっしゃるのです。ですから組織への加入自体は神にとって無意味です。実際、その幻視者が落ちると、その系列に属する人が全員リトル・ペブルさんを裏切り、敵にまわるということを毎回繰り返しているではありませんか! どこかのグループに所属しているしていないにかかわらず、リトル・ペブルさんを信頼し、支持し、この神様の望みに従う人が「一致」していると神から見なされているのです。

 マリア様が日本のミッションの分裂を嘆き悲しみ、日本人の猜疑心、派閥心、警戒心を原因として指摘なさいました。一致の基礎は友情、話し合い、公平な愛です。これらは猜疑心、派閥心、警戒心という悪徳と反対の関係にある善徳です。この3つの自然徳を特に重視し、実践してくださいね。日本のミッションという大きな枠組みからグループ内、共同体内、共同体の各部所内という最も小さの枠組みに至るまで、一致と愛は、友情、話しあい、公平な愛の実践によってもたらされるのです。

 聖ヨゼフに祈ってください。聖ヨゼフによりすがってください。根本的な問題解決は、皆一人残らず聖ヨゼフに習い、神の全き善さをこれっぽっちも疑わないという希望の徳によって超楽観主義者になり、神と人を信頼するものになることです。皆一人残らず取り組まなければなりません。そうすれば聖ヨゼフによって本当に日本のミッションは救われるでしょう。そしてあなたも個人として、悪魔的悲観主義から、あらゆる恐れと憶病から、猜疑心、派閥心、警戒心から救われ、真に一致するもの、愛する者となるでしょう。

(1)「聖母マリアの詩(上)」あかし書房 マリア・ワルトルタ著 P177






【 第133章 】

 日本のリトル・ペブルさんと一致したこのミッションで犯された間違いの多くは、霊を試すことができないことが原因となっています。日本人は天からメッセージ受ける幻視者も、それを読む皆さんのような立場の人も、指導すべき司祭も、「識別」が全くできません。霊を試す=「識別」という言葉は、ローマ・カトリックの専門用語です。超自然の体験に関して、天からの正しいものと、天からのものでない間違ったものとを見極めること言います。世界中でこの「識別」に失敗するという問題は起こっていますが、特に日本人が「識別」が全くできないのは、それらとは比べようもないほどです。それには理由があります。日本人が感覚的な民族で、感覚的なものごとを好み、追い求めるからです。これを詳しく説明しましょう。

 「恋は盲目」という言葉がありますね。同性から見て女たらしの悪い奴なのに、女性たちは一目見るなりその男に心を奪われ、その男の本質をまったく見ようとせず、夢中になって愛する。痛い目にあうまでずっとだまされていることが分からない。日本人が超自然の体験に対してとる態度は、これと全く同じです。感覚的なものごとを好み、追い求める人間なので、それが与えられると最初から大きな喜びを感じてしまい、それを慎重に識別しようとしません。まさに盲目になるのです。天からのメッセージを直接受け取る幻視者も、間接的に受け取る皆さんのような立場の人も、幻視者を指導する司祭も、心が求めているものを与えられ、最初から大きな喜びを感じてしまうのです。目をくらませて、「識別」を不可能にするこの喜びを起こさないようにしない限り、いとも簡単に悪魔にだまされます。そうならないためには感覚的なものごとに対する好みを捨て、それを追い求めるのをやめなければなりません。何か超自然的なものを感じたい、つまり見たい、聞きたい、体験したいと願うことを一切やめなければならないのです。そもそも信仰とは見ないで信じることなのです。見ないで信じるからこそ、それがその人の功徳となるのであって、見て受け入れる人には信仰の功徳はありません。見てしまえばこれほど貴重なものを失ってしまうのです。神が皆さんに求めていらっしゃるのは、見ないで信じる信仰なのです。使徒の聖トマがイエズスのご復活を信じようとしませんでした。イエズスは彼にあらわれて、手の釘のあとの穴と胸の槍で開かれた傷に彼の指を差し込ませ、ご復活の事実を認めさせました。しかしイエズスは聖トマの不信仰をおとがめになりました。そして「トマ、お前は見たから信じたが、見ないで信じる者が幸いなのだ」とおっしゃったのです。日本人は聖トマのようにイエズスの釘のあとの穴に指を差し込む体験の方を、見ないで信じる信仰よりも価値あるものとして望んでしまいます。その望みは全く神の御旨に反しています。神は皆さんが感覚的な体験をちっとも望まず、ただ愛と善徳に進むことだけを望むように願っていらっしゃいます。もちろんこの善徳には信仰の徳も含まれているのですよ。

 典型的な例をあげましょう。日本のある幻視者は「皆のためにメッセージを受けなくては……」とよく言っていました。日本人である皆さんは「なんてけなげな人なんだろう。私たちのために一生懸命になってくれている」と思うでしょうが、この幻視者も、そう思う皆さんも大間違いを犯しているのですよ。正しい「識別」ができる指導司祭がこの言葉を聞けば、この幻視者を叱り、その考えを捨てさせます。そうしなければこの幻視者は必ず落ちるからです。天からのメッセージを受けたいという望みを完全にはぎとり、愛と善徳に進む望みだけしか持たないように導きます。

 もうひとつの典型的な例をあげましょう。日本の別のある幻視者は、公的ご出現の際、脱魂状態で「誰それ様、メッセージをください」という言葉を口にしていました。日本人である皆さんは、これが非常に悪いことだとは思いもしないでしょうが、この行為はタブーです。絶対やってはいけないことなのです。正しい「識別」ができる指導司祭がこの言葉を聞けば、その言葉に応えて与えられるメッセージはすべて、悪魔からのものがかなりの割合で入っているか、全部悪魔からのものであると判断するでしょう。そしてこの幻視者がすでに非常に危険な所にいて、落ちる寸前だと判断するでしょう。「愛と善徳のみを望む」、これが私たち全ての者にとっての大原則で、幻視者は特にそうでなくてはならないのです。メッセージをくださいと望む心を捨てるように、捨てるようにと細心の注意を払うことが彼らへの天の望みです。良い状態の神秘家・幻視者たちは、この望みが全くなしにメッセージを天から受けたり、神秘的体験をしたりしているのですよ。
 良い方の典型的な実例をあげましょう。外国のある神秘家は毎週金曜日、イエズスのご受難を神秘的に体験していました。彼女は金曜日が近づくと、苦しみ、震えていました。イエズスへの愛によって同意し、受け入れるのですが、彼女自身これっぽっちも神秘的体験を望んでいませんでした。他の幾人かの生涯忠実であり続けた外国の神秘家を知っています。彼女たちは超自然的な体験が与えられないようにと願っていました。ただ本当に、道具として使いたいというイエズスの御旨に、愛によって服従していただけでした。決して超自然的なものを自分から望むことはありませんでした。

 神秘家ではありませんが幼きイエズスの聖テレジアは、たまに超自然的体験をさせられると、辱めを受けたように感じていました。彼女はそんなものなしに、信仰の暗さ=霊魂の暗夜(超自然的示しも超自然的慰めも一切ない状態)の中で、信じ、耐え抜くことでイエズスに自分の愛を示したかったのです。

 これらの良い状態の神秘家たちに対して、日本の神秘家・幻視者たちは何と正反対の悪い状態にあったことでしょう! もちろん神秘家・幻視者たちだけでなく、すべての日本人がこの感覚的なものごとを好み、追い求め、それを喜ぶという悪い間違った傾きを非常に強く持っているのですから、皆さんすべてが悪い状態にあるのですよ。人ごとではないのです。

 この悪い状態にある人はだれでも、幻視者だろうが、司祭だろうが「識別」はできません。盲目なのですから。混乱と誤りに人をぜがひでもおとしいれようと全力を尽くしている悪魔たちに必ずだまされます。ということは、特に日本人の場合、幻視者本人は「識別」が全くできないと考えてください。子供のころから神秘的体験があり、訓練されているとしても、長年私的幻視者としてかくれて使命を果たしていたとしても、そんなことは全く関係ありません。良い信者だとか人格者だとかそんなこともまったく関係ありません。超自然的な体験を望む心があるうちは、「識別」ができないのです。感覚的なものに対する好みや、執着を完全にはぎ取られ、全くそれにひかれなくなり、魅力を感じなくなり、ただ愛と善徳に進むことのみを求めるところにまで到達して初めて「識別」ができます。ですから皆さんももちろん「識別」ができません。それを自覚しておいてください。そうすれば慎重になれます。そして自分で自分の感覚的なものへの好みと望みをはぎ取り、捨て去り、愛と善徳に進むことのみを望むように努めて下さい。あなたには、聖ヨゼフの霊性に習い、基本の基本から修徳の長い長い道を歩き始める、またはやり直すという大仕事があるではないですか。設計図は与えました。このことに全力を集中させてください。それこそ「愛と善徳のみを望む」道なのですから。



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【 第134章 】

 幻視者には、公になる前、つまり皆の注目を集め、天から受けたメッセージを読んでもらえるようになる前に、人に知られず、まだ誰にも相手にされていない時期というものが、短い長いにかかわらず必ずあります。たった一人、困惑しながら、受けたメッセージを書きとめているこの期間、幻視者たちは謙遜です。私的幻視者としてのこの期間に彼らは天からリトル・ペブルさんと一致し、どんな試練にあっても忠実を最後まで守るように強く命じられます。彼らはまだ謙遜ですから「ハイ」と答え、書きためたメッセージをリトル・ペブルさんに送り、確認してもらい、彼から皆に紹介されて公的な使命が始まります。ところが日本の幻視者たちは、公的幻視者として活動を始めてほんの数カ月で、誰にも相手にされていなかった時期のメッセージと語調が変わる人が多いのです。これは「識別」のための印となります。この語調の変化は、その幻視者が悪魔の攻撃を受け、影響を、悪魔自体からや、まわりの人間からや、自我から受けたことを示します。リトル・ペブルさんが20年以上にわたって受けている公的メッセージ、それは膨大な量ですが、最初から現在まで全てを読めば、彼のメッセージには語調の変化が全くないことがわかります。それは彼が悪魔、まわりの人間、自我の影響をメッセージに被っていないことを示しています。「幻視者は半年もてば良い方だ」と言われています。それほど人は注目され、認められるとたちまち謙遜さを失い、傲慢になるのです。公の使命に呼ばれること自体が謙遜の徳への大きな試しなのです。多くの幻視者たちは傲慢になって、最初に謙遜だった時期に受けた「リトル・ペブルさんと常に一致し、最後まで忠実に従うように!」という天からの強い命令とは正反対のメッセージやインスピレーションを悪魔から受け、そちらに「はい」と言ってしまうほどになり、ついには落ちるのですが、そうなる前に、謙遜さを失い始めた段階で、その幻視者の受けているメッセージには、どんどん天からのものでないものが増えはじめます。語調の変化はそのしるしなのです。皆さんは日本人ですから、日本語に関してはわずかな変化もわかるでしょう? この「識別」のための知識を持っているなら、幻視者本人も、皆さんも、指導司祭も、手遅れにならないうちにその幻視者が悪い状態になったことに気がつくことができます。

 ある幻視者はまだ人に知られない時期のメッセージは、リトル・ペブルさんが受けるメッセージの語調とよく似たものを受けていました。それが彼女に天が与えるものの語調だったのです。公的になって注目を浴びるとすぐに語調が変化し、自我をにじませるものになりました。その後さらに大きく語調が変化し、他の幻視者の語調そっくりになりました。語調が変わり、他の幻視者の語調をまねたようなものになるというのは、その幻視者のメッセージがもうほとんど天からのものでないものに占められているはっきりとしたしるしです。誰かの影響を受けたことがはっきり分かる段階では、悪魔からも自我からも強く影響されてしまっていて、天からのものはごくわずかか、全くなくなってしまった段階です。その幻視者自体も落ちつつある段階です。

 また、日本語の正しさも「識別」のための印です。天の方々は正しい日本語でメッセージを与えます。文法的にも用法的にもです。間違いが入っていれば、それは天からのものではないもののしるしです。ある幻視者は文法的にも用法的にも最初からでたらめなメッセージを受けていました。この場合、最初からその幻視者のメッセージは天からのもの以外の影響を強く受けているのです。もしその幻視者のメッセージが正しい日本語へと変化して行けば、それは良いしるしで、変化がなければそれが悪いしるしです。一般的なケースとは逆になる特殊なケースですので、注意して覚えておいてください。

 最初から自我の影響が受けるメッセージに濃く現れるケースがありました。つまり最初から天からのもの以外のものが多く入っているのです。このケースではプロテスタントの牧師さんの話に特徴的な、鼓舞激励一辺倒のメッセージになっていました。皆さん、これはありえないことなのですよ。私たちは、とがめられなければなりません。ためなおされなければなりません。痛悔に導かれなければなりません。罪ほろぼしのための償いを勧められなければなりません。天からのメッセージのこれはメーンテーマです。もし「行け!行け!」という調子で終始するのなら、そのメッセージは天からのものでないものがほとんどだというしるしです。

 外国のいろいろな幻視者のメッセージを読むと、ある幻視者にイエズスは常に荘重にお語りになります。ある幻視者には常に噛んで含めるようにお語りになります。ある幻視者には常に先生のように論理的にお語りになります。ある幻視者には常に愛情あふれる恋人のようにお語りになります。私たちが相手に合わせて話し方を変えるのと同じです。ただし一人一人の幻視者に固有の語調は、常に一定して用いられ、理由なくそれを変えることはなさらないのです。最初から悪魔や人や自我からの影響を受けて悪い状態からスタートする特別なケースを除いて、だれからも相手にされていなかった謙遜な時期に受けたメッセージを基準にして、語調の変化を「識別」のしるしとすることを皆さんは覚えておいてください。

 これから「識別」のためのいくつかの知識と、幻視者をめぐるいくつかの知識を皆さんに与えたいと思います。それは正しい「識別」と正しい指導ができる日本人司祭がいない現状では幻視者自身と、皆さんが自分で「識別」をし、自分で誤りを避ける以外にないからです。感覚的なものごとに対する好みと超自然的な体験に対する望みを完全に捨て去る努力を続けつつ、今私が与える知識を活用するのですよ。

 これは幻視者とその受けるメッセージを通して悪魔に翻弄され続けてきているこの日本のミッションの一人一人が、犯してきたたくさんの間違いを自分自身で認識し、改めるためです。また新しくミッションに参加する人が同じ誤りにおちいるのを前もって防ぐためです。20年間、そして今でも悪魔は日本のこのミッションでやりたい放題です。日本人はあまりにも超自然的なことに対して、カトリックの「識別」の仕方から何から何まで無知であり、だまされっぱなしです。悪魔のずる賢い手口を私に可能な限り暴いていきたいと思います。



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【 第135章 】

 皆さんが読むメッセージの中で100%天からのものだけというメッセージは存在しません。まずこのことを皆さんは知らなければなりません。仮に誰かは100%天からのものだけのメッセージを受けるようになるなら、その人は独立独歩で進めるわけで、一致の必要を否定してしまうでしょう。そういうことが起こらないように、そしてすべての幻視者が一人では立っていられないことを自覚し、謙遜にとどまるようにと神は100%天からのものだけを受けるようには誰に対してもなさいません。そのため幻視者は誰でも例外なく「識別」を自分自身でもおこない、他の幻視者や指導司祭におこなってもらわなければならないのです。当然これをしない幻視者のメッセージには、天からのもの以外のものがたくさん入り込みます。その幻視者の思い上がりに悪魔はたちまちつけ込むからです。

 悪魔にとって幻視者のメッセージに悪魔からのもの、人からの影響、自我からのものを入り込ませることは常に大勝利です。それによって破滅的な害を多くの人にもたらすことができるのですから。だから悪魔は幻視者たちのメッセージに間違ったものを入れようと、あらゆるチャンスをとらえ、常に全力を尽くすのです。ですから幻視者のメッセージの天からのものの割合とは、どれほど神から保護されるか、その度合いなのです。その幻視者の使命が重要であればあるほど、そのメッセージが公的な重要なものであればあるほど、神からの保護は完全に近いものになってゆきます。それで、世界で最も強力な保護を受けているのがリトル・ペブルさんのメッセージです。天は彼に与えるメッセージに100%に近い保護を与えます。それでも100%ではないので、リトル・ペブルさんは常に「識別」を怠りません。彼は世界中の特に忠実で良い状態にある幻視者に確認を依頼するのです。次に神から強力に保護されるのが、その依頼に対しての答えとして天が与えるメッセージです。それは非常に重大な事柄、誤りの許されない問題が扱われ、リトル・ペブルさんの世界一重く、大きな使命が果たされるのに必要なメッセージだからです。その次に強い保護が与えられるのは、公的幻視者が出す、世界に向けての公的メッセージ、全人類にあてての公的メッセージという公的度の高い重要なメッセージに対してです。公的度、重要度が下がるほど、そのメッセージに対する神の保護の強さも小さくなります。ですから皆さんには次のことをぜひ知っておいてもらわなければなりません。公的でないメッセージ、いわゆる私的なメッセージと、誰かの個人的な質問に対する答えとして与えられたメッセージは、ほとんど神から守られていないのです。間違いがほとんどで危険すぎるために、神は個人的な質問を幻視者を通して天にすることを原則として禁じています。公的なものではないメッセージはこのようにほとんど守られていないのです。もう少し突っ込んで説明します。公的で重要なメッセージを出す時に、そのメッセージが非常に守られていて大部分が天からのものであるメッセージを出すその同じ幻視者が、その同じ時期に出す私的なメッセージや、だれかの質問を取り次いで天に聞いた答えとして受けたメッセージが、天からのものがほとんどない間違いだらけのメッセージだという現実があるのです。公的で重要なメッセージが正しい天からのものが多い幻視者だから、私的なものもそうだということは全くありません。今、神が個人的質問を受けて取り次ぐ役目を与えているのはリトル・ペブルさんだけです。以前はもう一人いましたが、その幻視者はその使命を失いました。リトル・ペブルさんに不忠実になったからです。リトル・ペブルさんが役目がら私的なもの、個人的質問に対する答えのメッセージにまで強力で、ほぼ完全な保護を受けているのは例外であって、特別なことなのです。他の幻視者はそうではありません。ですから皆さんも、幻視者自身も、公的で重要なメッセージでも、間違った天からのもの以外のものは必ず入ってきていると考えるべきですし、そうでない私的なメッセージに関しては「幻視者は間違いまくる」と考えなければいけませんよ。幻視者は本当にたくさんの間違いを犯しますし、間違いだらけのメッセージを出します。それは神に許されて起こることです。幻視者にとってそれは謙遜になるために利用すべきことなのです。自分の受けるものが正しいという自信を持つことができないように神がそうなさっているのです。この種の傲慢に幻視者がいかにおちいりやすいかは、リトル・ペブルさんのミッションの20年以上の歴史が証明しています。リトル・ペブルさんが役目がら、メッセージの誤りを指摘すると、まずほとんどの幻視者が「いいえ、私の受けているメッセージは正しい」といって、そのためなおしを拒否します。そのためなおしを謙遜に受け入れる幻視者がめったにいないのです。もちろん傲慢ゆえにためなおしを拒んだ幻視者はやがて落ちます。こうして偉大な使命を持っていた多くの幻視者も含め、実にたくさんの幻視者が、持ってはいけないこの傲慢な自信ゆえに落ちました。皆さんはメッセージの現実というものを今、私から聞いたので、幻視者にとって受けるメッセージの中で神から強く守られるのは公的で重要なものだけで、あとはそうではないことと、その強く守られている一部のメッセージにすら天からのものではないものが入り込んでいるということを知りました。だから幻視者が「私の受けているメッセージは正しい!」と言うとき、それが事実とはかけ離れているということがわかりましたね。事実でないことを傲慢にも思いこみ、神から「彼に従え!」と命じられている「識別」の役目を持った人であるリトル・ペブルさんに「あなたこそ間違っている」と反対するのですから、使命も恵みも神から取り上げられても当然です。神は理由があってリトル・ペブルさんを立てています。この役目を持った人が立てられていなかったらいったいどうなると思いますか? 幻視者とは傲慢の代名詞になってしまいます。

 日本のマリア様のミッションにおいて、日本人はこういったメッセージと幻視者の現実を知らず、学ぼうともせず、日本人特有の思いこみで幻視者のメッセージは100%天からのものだとして考えてきましたし、今も相変わらずそう考えています。リトル・ペブルさんのサインがあれば100%正しいとか、現実ばなれもはなはだしい主張がまかり通っているのです。サインは天からのものが入っているという確認です。それを「識別」しつつ読まなければいけないというのは世界の常識です。特にプロモーター、グループのリーダー、翻訳者、幻視者本人は、変だと思ったら再確認を要請しなくてはいけません。サインがあれば、そのまま全部出すというのではだめなのです。受け取る皆さんもそれは同じです。かつて日本の中心的幻視者がとんでもない内容が含まれたメッセージを出しました。イエズスの子を妊娠したという内容です。日本以外のどこの国の人がこのような教義的にでたらめだと即座に判断できる内容を受け入れるでしょうか? しかし日本人たちはこれを信じ、リトル・ペブルさんのサインがあるからと、プロモーターはこれを広め、受け取った人もそれを喜んだのです! 私は日本にいなかったので、しばらくたってからそんな内容が含まれているメッセージが広まっていることを知り、直ちに行動しました。もちろんリトル・ペブルさんもこの間違いをためなおそうとすぐに当の幻視者に働きかけましたが手遅れでした。もうどうしようもないほどに日本のミッション全体が傲慢になってしまったのです。それで神秘的教会の大分裂が日本から起こってしまい、日本の公的幻視者は一人残らず落ち、リトル・ペブルさんに忠実にとどまったミッションの日本人は少なかったのです。この結末は1994年8月15日に出てしまいました。これによって全世界の神秘的教会が大分裂することになってしまったのです。日本人独特の大間違いの思いこみにより、「識別」をしないので、悪魔は世界の神秘的教会を大分裂させるのに日本のミッションを使ったのです。日本ほど悪魔にとってやりたい放題できる国はないのですから。

 皆さんにとって唯一安心して読めるのはリトル・ペブルさんのメッセージだけです。他のメッセージはどんなに多くの人から支持されていても「識別」が絶対に必要です。まずリトル・ペブルさんのメッセージを読んで、その内容を基準として他の幻視者のメッセージを各自が「識別」するのです。次にリトル・ペブルさんに非常に忠実に従い、一致が強固な良い状態の幻視者のメッセージを読めば、世界の幻視者が一致して何を言っているかがわかります。この点について実例をあげて説明しましょう。ある幻視者だけが、平和の統治に入ってから生まれた人は皆すべて天国に行くという内容のメッセージを受けました。世界の他の幻視者たちはそういう内容を受けておらず、変だということで確認が行われました。そして間違ったメッセージだということを天は明らかになさいました。平和の統治に入ってから生まれた子には、最後に天使に課せられたのと同様の試しが課せられ、自由意志でそれぞれが天国か地獄かを選ぶのです。ある幻視者だけが、天から選ばれている司祭には胸にそのしるしのアザがあるという内容のメッセージをずっと以前に受けました。これも変だということで確認が行われ、天はそのメッセージが間違ったものであることを明らかになさいました。このようにリトル・ペブルさんと一致した世界中の幻視者が出した内容と食い違っている内容、彼らのうち誰も受けていない内容、正反対のことを主張する内容に関して、変だと分かるようにならなければならないのです。リトル・ペブルさんと彼を公に支持し忠実に従い、一致している「一致の輪」の中に入っている幻視者たちが天から何を受けてきているかを知識として持っていなければ、この「識別」はできません。そのためには過去に与えられたメッセージを多く読まなければなりません。特にリトル・ペブルさんにメッセージの確認をとらない幻視者のメッセージを読むためには、この知識が必要で、本当に確かな「識別」力がなければなりません。あなたに自信がないのなら、たとえプロモーターが力を入れて広めていても読まなくて良いのですよ。心の平和が保たれる方が、多くを知るよりも霊魂のためになりますし、その方が安全です。このことは皆さんの自由なのだと知っておいてください。「君子あやうきに近よらず」、それは賢明なことです。



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【 第136章 】

 「良い状態の幻視者」という言葉を私が使っているのは理由があります。幻視者の状態は一定ではありません。よくなったり悪くなったりするのです。リトル・ペブルさんへの忠実という点だけをとっても、多くの幻視者がふらふらします。それは彼らがひとつには感覚的なものによって自分の道を決めてゆこうとするからです。実は、神に向かって感覚が開かれているということは、同時に悪魔に向かっても感覚が開かれているのです。悪魔は幻視者を落とそうと全力を尽くします。幻視者を落とせば一緒に多くの支持者を真理であるこのミッションから落とすことができるからです。それゆえ悪魔は感覚的なものを通して、つまりインスピレーション、幻視、幻聴、夢、実際の臭いとか五感を通して幻視者の判断を誤りに導きます。ですからある幻視者が感覚的なものに重きを置けば、それだけその幻視者は悪魔の罠にかかります。日本の幻視者は極端なほどふらつきます。それは日本人が感覚的なものに重きを置き、それを判断の基準にする民族だからです。特に日本の女性はそうですね。理性的ではありません。好き嫌い、つまり良い印象、悪い印象でたいていのことを判断しています。日本の公的幻視者はほとんどが女性でした。しかしこんなふうでは幻視者の使命を果たしていくことなどできません。

 リトル・ペブルさんへの忠実度は幻視者の状態が良いか悪いかを判断する基準として重要な要素です。真理の中の真理であるこのミッションに出会った人は皆、神から「首尾一貫」してリトル・ペブルさんに忠実であるように求められています。もちろんあなたもですよ。そして特に幻視者には「首尾一貫」が厳密に求められているのです。幻視者は皆の模範となるようたてられていますし、彼らは最初に天から直接この強い命令を与えられたのです。これは皆さんよりもはるかに深く彼らの心に刻み込まれた命令で、これをゆるがせにするなら、その責任は重いのです。その時、彼らは神に「ハイ」と責任をもって答えています。この「ハイ」は誓いと同じなのです。また、リトル・ペブルさんへの忠実度とその幻視者の使命の大きさ・恵みの大きさは直結しています。つまり、幻視者がリトル・ペブルさんに忠実であればあるほど、神はその幻視者により重要な使命を与え、より大きな恵みで満たすのです。反対に不忠実になってゆくと、神はその幻視者から使命と恵みを取り去ってゆきます。ですから幻視者の状態が良いか悪いかの判断基準の最も重要な要素として、リトル・ペブルさんへの忠実度をあげることができるのです。

 2つ目の要素としては、その幻視者が徳に進んで行っているかです。徳が高いか低いかではなく、徳に進んで行っているかです。皆さんが、幻視者に選ばれた人は徳が高いから選ばれたのだと考えていることは知っています。しかし、そうではありません。その逆です。神は皆がつまずくような人を選ぶのを好まれます。徳の高い人を選ぶなら、修道者ばかり選ばれていますよ。修道者たちの徳の高さ、堅固さんは並大抵ではないのですから。神は徳に富む人、知識に富む人をなおさら謙遜にさせるために、徳も知識も持たないような人を選び、その人を通してご自分の指示を伝えるのです。本当に謙遜にならなければ、自分よりはるかに劣った人を神の僕として認めることはできないからです。人となったイエズスの最初の礼拝者として羊飼いを、使徒として無学な漁師たちを選んだ神は、イエズスのご生涯の最後に彼が神であることを宣言する人として強盗殺人犯の死刑囚を選びました。一緒に処刑された聖ディスマスです。神はいつの時代にもこのようになさってきました。今も変わらずそうなさっています。このように幻視者たちは徳が高いとは言えません。スタート地点がどんなに低かろうが、完徳という山の頂きを目指して登りつつあればいいのです。それが神に「ハイ」と言い続けている状態だからです。ですから徳の観点から幻視者の状態の善し悪しの判断ができるのは、幻視者が以前より悪くなっていくという変化があらわれたときです。以前よりも人の悪口をよく言うようになったとか、以前よりも閉鎖的になったとか、特に聖ヨゼフの霊性にならって完徳を目指す方法を説明したときに書いた、一致の基礎となる動物徳と自然徳において後退し、友情、話し合い、公平な愛を妨げる悪徳が逆に目立つようになったら、その幻視者は悪い状態にあります。その幻視者が長く熱心に祈ったり、苦業を増やしたりして信心業や苦業などの外面的な行に進んでいるとしても、それに惑わされてはいけません。また、隣人愛という徳に関しては判断を間違いやすいので気をつけてください。その幻視者があなた個人に親切であれば、あなたはその幻視者の愛徳に問題はなしと判断するに違いありません。そういう判断の仕方はだめです。見るべきところは、その幻視者が敵対者と、自分に我慢を強いる人に対してどう振る舞うかです。忍耐とゆるし、この2点をみるのです。この2点において実に英雄的な模範を輝かしているのがリトル・ペブルさんです。彼の真実性はこれによってはっきりとあらわされているのです。彼が本当に何を耐え忍び、どんなことをゆるしているかを知るなら、皆さんは全員、自分のことを恥じるはずです。ひとつだけ言っておきましょう。彼は皆さんのために耐え難い苦しみを耐えています。それを皆さんに全く感じさせないほど、彼のゆるしと忍耐は完璧なのです。そしてこのしるしによって、彼の愛徳の完全さを知ることができるのです。この点でも日本の幻視者に良い状態を保つことができた人は誰もいません。皆、派閥心、猜疑心、互いの警戒心に毒されていて、敵対者、自分に我慢を強いる人にゆるしと忍耐を実行することができませんでした。すなわち隣人愛の徳に進んでいかなかったのです。

 3つめの要素は気持ちの強さです。なぜなら悪魔は世間的精神を持った指導司祭やワーカー、恩人、まわりの人々を通して、幻視者の超自然的精神に世間的精神の影響を与えようと全力を尽くすからです。幻視者が超自然的精神でもって愛と善徳の実践の功徳だけに頼って進んでいるとき、超自然的な豊かな実りが神によってもたらされます。そうではなく世間的精神で進むなら、人間的なごくわずかな実りしか結びません。それを悪魔は狙っているのです。幻視者は例外なくこの悪魔のたくらみと戦わなければなりません。その時に必要なのが気持ちの強さです。この気持ちの強さは殉教者になるためにも、証聖者になるためにも必要です。世間にちっとも流されず、信念をこれっぽっちもまげないことが殉教者や証聖者になる条件です。家族から泣いて頼まれても「教えを捨てます」と言わない。あたかもお前が間違っていると声をそろえて大合唱しているような世間に対して、堂々と真理を証しし続ける。これらが彼らの行動でした。幻視者の場合、気持ちの強さを失っていくとき、世間的な手段に頼るようになります。有力者やお金、組織、有能なワーカー、支持者の数等々、世間で通用するさまざまなものに引かれてしまうのです。もうひとつのしるしは、リトル・ペブルさんと同じ戦線で戦おうとしなくなることです。迫害を避けたがるようになり、リトル・ペブルさんと一致していることを隠したり、強調しなかったり、自分自身が隠れようとしたり、最前線に出ないのです。これは幻視者だけでなく皆さんも同じです。リトル・ペブルさんはどれほど同じ戦線で横を離れずに戦ってくれる人を求めていることでしょう。しかしほとんどの人がそれをいやがるのです。日本のミッションの人たちは誰もそうしようとはしません。気持ちの強さが足りないのです。しかし幻視者が良い状態であれば「力」の祝福を受け、神の恵みによって気持ちの強さを与えられ保っています。日本の幻視者たちがこの点でも良い状態でなかったと判断できます。幻視者の気持ちの強さを判断の材料として、その幻視者の状態を知ることができるのは、特にまわりが間違った望みを抱くときや、世間的な精神で動こうとする時、動いている時です。少しでもまわりに飲み込まれ、流されるなら、悪い状態なのです。逆に指導司祭やグループと絶縁してでも、ふさわしくないワーカーを追放してでも、恩人と対立してでも、家族を泣かせてでも、超自然的なやり方を曲げないなら、その幻視者は良い状態です。日本の幻視者たちは、これが全くできないのです。人間関係のしがらみに抵抗することができません。日本人はなんと気持ちが弱いのでしょう! 本当に情けなくなります。

 皆さんは両親に勘当され、籍まで抜かれ、家族、親族、友人から村八分になっても、信念を曲げてはいけませんよ。日本中からあざ笑われ、悪魔扱いされても、どんなスキャンダルを捏造されて個人攻撃をくらっても、決して信念を曲げてはいけません。わかりましたね。そして皆さんのために完全に身をさらして、全ての迫害の矢面に立ち、戦っているリトル・ペブルさんと一緒に、同じ戦線で、同じように戦い、同じ運命にあずかりたいと心から望んでください。これが日本人に神が計画なさった道なのです。あなたがこのまことのあかしをたてることによって、神があなたの愛する人々を救えるのです。



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【 第137章 】

 皆さんの多くは幻視者との個人的なつきあいは持っていません。今後も持たないと思います。ですから読むメッセージだけで幻視者の状態が良いか悪いかを判断する方法を説明します。

 以前にリトル・ペブルさんと他の幻視者たちの「識別」によって間違いだと確認された内容と同じものを、その同じ幻視者がまた受けたとき、または、いきさつを知っている幻視者が受けたとき、彼らの状態は良くありません。

 世界中のリトル・ペブルさんと一致している幻視者が等しく受けていることとくい違う内容を、それがくい違うものだと知っている幻視者が受けたとき、この幻視者の状態は良くありません。

 そのうえ、それをそのまま、リトル・ペブルさんに助言を求めず、あえて広めるとき、その幻視者は危険なほどに悪い状態です。持ってはいけない傲慢な自信を持ってしまっているしるしであり、一致の輪に参加する気がないしるしです。多くの幻視者がこれをおこなって落ちました。

 次に「メッセージがやせる」という変化でもって判断する方法を説明します。メッセージには内容のあるメッセージと、内容のないメッセージがあるのです。内容のあるメッセージを受けていた幻視者が内容のないメッセージを受けるようになってゆくことを、メッセージがやせてゆくというのです。内容のあるメッセージとは、読んだ人の霊魂を謙遜にさせ、償いに励むように促し、生活を改める力を持っているメッセージです。自分のいたらなさ、罪深さをとがめられ、滅びにひんしている隣人への同情をかき立てられ、使徒的愛に燃やされ、自分と彼らの救いのために悔い改めて新たに頑張りたいと勇気づけられるものです。しるしとして信仰のない人がまことの教えを受け入れる(未信者の改心)。罪深いカトリック信者が悔い改める。異端に染まっていたカトリック信者がその異端を捨て真理にたちもどる。などの実を多く結ぶメッセージです。このしるしが際立って多く、世界中からその証しの報告がたくさん寄せられるのは、リトル・ペブルさんが受けているメッセージです。特に未信者の改心(日本でいえば仏教、神道、無宗教の人々がローマ・カトリックが唯一の真理であることを認める)は、内容のあるメッセージの最も大きな特徴です。「木はその実によって分かる」ということをイエズスが聖福音の中で教えてくださっています。こういった実りが多くつくほど、そのメッセージは内容があるのです。こういう内容のあるメッセージには、神とマリア様、天の諸聖人、諸天使の愛、特に罪人に対する無限の愛が強くあらわれています。これが大きな特徴です。悪人、神から最も遠く離れている人、まことの神を知らない人へのあわれみと優しさに満ちた、天からの呼びかけがあるのです。神の本質である愛とあわれみが、そのメッセージでも同様に本質的要素となっています。

 同時に、内容のあるメッセージは、理由の説明がしっかりとなされているという特徴を持っています。「……です。なぜならば、……なぜならば、……なぜならば、……」と必ず理由を理解させるのです。そのメッセージ自体が、先生役となって感覚的な判断をしてしまう人をためなおし、理性的な判断に基づく信仰に導く役目を果たすという働きを持つのがもうひとつの大きな特徴です。これはまた、神の無限の知恵が強く反映され、英知という神の本質がメッセージでも同様に本質的要素となっているのです。内容のあるメッセージは、読む人には理性の働きを使わせて本質的なところまで深く掘り下げさせようとするものなので、日本人には好まれないのを知っています。日本人が好きなのは、マニュアル書のような具体的対処法の羅列です。それだと従えばいいだけで、理性でもって本質に迫る作業が必要ありません。本質を読み取るとか、汲み取るとかが要求されないので無責任でいられます。理性を使い、自分で判断するには、責任が伴いますよね。その責任を負わなくていいことと、従っていればそれで自分がよくやっていると思い込める二重の安心感が持てます。律法主義、ファリサイ主義と同種の、神の望みとは全くあわない好みなのですが、これらが日本人の好みなのです。日本人好みの別のタイプのメッセージは、思わせぶりと謎かけのような曖昧なものです。つまり感覚的判断のみを用いさせるものです。ヴィジョンの描写があり、その意味が解かれる。このタイプのものが好まれます。わかった気になれるからです。わかった気になれるだけで、実は、なぜならば……なぜならば……なぜならば、と本質に迫っていく部分が欠落しているメッセージなので、何もわかってはいませんし、罪人や未信者を改心させる力もそのメッセージにはありません。感覚のお遊びに終わってしまうタイプのメッセージです。悲しいことに日本人好みのこれらのメッセージが、内容のないメッセージというものなのです。ほとんどビジョンの描写に終始するようなタイプのものは、それがいかに克明に描写されていても内容は全くありません。しかし日本人の感覚的なものを追い求める性向と、超自然的なものへの不純な好奇心と、多くの知識を持つことを誇る傲慢さにはピッタリ合致するタイプのメッセージです。

 一般的に、幻視者が良い状態の時、その幻視者は内容のあるメッセージを受けます。悪い状態の時は内容のないメッセージを受けます。最も多いパターンは、誰からも注目されなかった時期と駆け出しの時期、それは謙遜で、リトル・ペブルさんにも忠実な時期ですが、その時のメッセージは内容のあるメッセージだったのが、数カ月たつとだんだん内容が無くなってゆき、つまりメッセージがやせてゆき、そのうちに落ちてしまうというパターンです。日本の幻視者はほとんどこのパターンを見せました。ですから、ある幻視者のメッセージがやせていくとき、その幻視者の状態が悪くなったとはっきりわかります。逆に内容のないメッセージを出していた幻視者のメッセージが、内容のあるものに変化してゆくとき、その幻視者は良い状態にあるのです。

 悪い状態の幻視者に対しては、そのメッセージだけでなく、すべての言動、グループやワーカーたちの行動や主張に対して慎重に識別してください。そうしなければあなたは混乱します。真理からそれてしまいます。

 皆さんは幻視者に対する幻想を抱いてはいけません。すべての幻視者のために祈る必要に気づいてください。彼らは常に悪魔の直接的影響にさらされていて、皆さんの祈りで支えられなければ、皆さんよりずっと倒れやすい人々なのです。どうか世界中のすべての幻視者のために祈ってくださいね。



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【 第138章 】

 リトル・ペブルさんと一致したミッションにおいて、天は全ての若い幻視者と神秘家の保護者として聖ベルナデッタをたてて、彼女に祈り、彼女を模範とするように求めています。皆さんは聖ベルナデッタを知っていますか? フランスのルルドのご出現地での幻視者で、死後、遺体が全く変化せず、ガラスの棺に入れられ、まるで寝ているように見えるのですよ。聖ベルナデッタといくつかの点を比較することによって、幻視者の状態が良いか悪いかを判断することができます。

 聖ベルナデッタは自分が受けたメッセージと出現を他人の識別にまかせていました。他人がどう判断しようが頓着しませんでした。これは全く正しい態度です。彼女が若く、記憶力が劣った人だったのに、神学的に完全な態度を、誰から教わりもせずにとっていたのには驚かされます。彼女は「私は、信じさせなさいとは言われませんでした」と言ったことがあります。これと同じ態度を幻視者はとっているでしょうか? これと同じ考え方をしているでしょうか? これが判断のひとつの基準です。聖ベルナデッタは受けたメッセージとご出現、つまり、賜物に全く執着せず、飄々としていました。信じてほしいと頼みませんでした。聞かれたら事実を伝える、それだけでした。日本において幻視者は信じてください。信じてほしい。という願いをあらわします。これは正しい態度ではありません。日本人が幻視者本人からそう頼まれると、メッセージを100%正しいものと信じてあげないといけないと思ってしまうからです。必ずそういう思いを日本人は抱いてしまいます。正しさよりも情が大事だからです。少しでも疑ったら気を悪くするだろうと考えるのです。実際、日本の幻視者はそうです。幻視者のその行動、その態度、その望みは、相手に「識別をするな!」と命じるのと同じなのです。ですから悪い行動、悪い態度、悪い望みです。こういうことをしてはいけません。望んではいけません。賜物に対する執着は禁物です。聖ベルナデッタのように受けた賜物であるメッセージとご出現を「すばやく手放す」(これは比喩的なローマ・カトリック独特の表現です)ことができている幻視者は良い状態です。そうできていないなら悪い状態です。

 聖ベルナデッタのお父さんは人が良すぎて家はど貧乏になってしまいました。赤貧洗うがごとしという有り様でした。彼女にご出現があった後もそうだったのですが、彼女はご出現から何かの利益を得ようとは全く望みませんでした。弟が巡礼者から小銭を握らせられたのを知って、彼女は弟の横っ面を張ったほど、ご出現が何かの利益につながることを許さなかったのです。これもまた、誰から教わったわけでもないのに、彼女のとった正しく完全な態度です。あなたが彼女と同じ状況だったらそうできますか? できないに違いありません。実際、日本人の幻視者たちはできませんでした。彼女たちは身びいきという弱点を持っていました。家族とかワーカーとか支援者とか、身内といえる人の利益を望むのです。その内容は、天から使命、地位、賜物が与えられること、病気が治ること、経済的に成功することとかですが、それらを望み、神に願い求めさえするのです。聖ベルナデッタとは正反対の行動と考え方です。彼女たちは自分がこうして神にお仕えしているのだから、身内といえる人々を神が特に恵んでくださるのは当然だと、あつかましくも考えていたのです。神は幻視者を身内の利益のためにたてたのでしょうか? 聖人伝を読んでください。特別な使命に召された人の身内が現世的利益を得たでしょうか? 幻視者にとって身びいきは本当におちいりやすい危険な罠です。身内が自分に与えられた使命に関連して利益を得るようなことがないようにと、聖ベルナデッタのように望んでいるなら、その幻視者は良い状態です。そうでないなら悪い状態です。
 聖ベルナデッタはメッセージやご出現を受けたこと、自分が幻視者であることから、自分自身の利益を得ようと決してしませんでした。彼女は苦しみと痛みのひどい病気となり、まわりの人はルルドのマリア様に治して下さるように祈るよう勧めました。すでにルルドのご出現地では、次々に多くの人が病気を治されていました。しかし彼女は「あなたをこの世で幸せにすることはできません」とマリア様が言ったからと、治してくださいと祈ることを拒みました。皆さんが聖ベルナデッタならそんな態度をとることはできないはずです。まわりから勧められるまでもなく、自分のための願い事を当然の権利としてたくさんしていることでしょう。しかし幻視者はすでに幻視の賜物という特権を受けているのです。その上さらに自分の利益を求めてよいわけがありません。天国での報いだけを望むべきで、この世のものは何一つ望んではいけません。望むとしたらもっと多くの人が救われるようにと苦しみを望むべきです。マリア様から「償い、償い、償いです」と言われ、聖ベルナデッタは生涯このようになさいました。同じようにしている幻視者は良い状態です。そうしないなら悪い状態です。

 幻視者にとって尊敬されること、褒められること、たたえられること、感謝されること、頼られること等は毒です。これらは傲慢へのいざないで、これらを受け入れるなら、その先には落ちるという結果が待っています。しかし日本の幻視者たちはこれらを望んでいました。聖ベルナデッタはこれらを忌み嫌い、そうしようとする人を「ばかげている」と思い、尊敬や賞賛から逃げ回っていました。逆にいやしめられることを願い、愛していました。聖ベルナデッタのようにしているなら、その幻視者は良い状態です。尊敬、賞賛、感謝を忌み嫌わないなら悪い状態です。

 皆さんは聖ベルナデッタのルルドでのご出現のエピソードとか、写真とかで感覚的に彼女にひかれると思いますが、彼女だけでなくあらゆる聖人に対してその様な感覚的なとらえ方をして好きになっても、霊的に得るものは何もありません。そうではなく聖人たちの徳に着目するのですよ。英雄的に徳を実践したからこそ聖人の位にあげられたのですから、完全な徳の模範がそこに見つかるはずです。神が聖ベルナデッタを若い幻視者、神秘家の模範となさったほどに、彼女は実に完全な態度をとっています。高潔な考え方をしています。その態度、考え方の土台となっている彼女の徳を探り、自分と照らし合わせて、それを悔い改め、やり直し、前進していくためのよすがとしてください。日本の幻視者たちは彼女の足もとに遠く遠く及びません。彼女を模範とし、よく見つめるなら、自分たちがどこを目指してゆくべきか、幻視者は本来どうあるべきかがわかります。

 幻視者でない皆さんも、全員が聖ベルナデッタを模範としてください。彼女の霊魂は本当に高潔でした。賜物に執着するとか、身内や自分自身の利益を期待するとか、他人からの評価を求めるのは、霊魂と心のいやしさなのです。聖ベルナデッタが入会した修道院は、良家の出身の上品な洗練された教養あふれる女性たちの集まりでした。卑しい身分の田舎者の、マナーも知らない彼女が出会った試練は、まわりからの「ねたみ」でした。「あんな卑しい人間でなく、教養もあり、上品で、家柄もよい自分たちにこそマリア様は出現するべきだった」という考えを持った人たちの女性特有のねたみからくる意地悪さでした。もしそういう人たちにご出現があれば、その人は賜物に執着し、身内や自分の利益をはかり、他人からの評価を求めたに違いありません。ねたみとは「欲しがる心」に起こるものなのですから。一体どちらが「いやしい」のでしょう。

 それで皆さんに知っておいてもらいたいのです。自分自身の戒めとするためです。心の卑しい人は、マリア様のミッションに加わることはできません。愛による無償の奉仕を自発的にすると言いながら、それに対する見返りを期待する、隠れた動機がある人は心のいやしい人です。どんな奉仕をしても、何をささげても、なすべきことをしたまでですと心から言い、特別な見返りを一切望まない人が真に高潔な人で、マリア様のミッションにふさわしい人です。心の卑しい人は、いつかマリア様に敵対することになります。特別な見返りどころか、この世では損をするばかりなのがマリア様も歩いたし、私たちも、私たちの身内さえも歩く道です。受けて当然だと思っている特別な見返りがない時、心のいやしい人はマリア様を責め、反感を抱き、憎むようになり、ユダ・イスカリオテと同じように行動することになるでしょう。

 最後にひとつの祈りを紹介します。幻視者・神秘家本人はもちろん、皆さんも彼らのためにどうか唱えてあげてください。皆さんが聖ベルナデッタを表面的なものによってではなく、彼女が幻視者として示した徳、考え方、態度の完全さ、高潔性、英雄性のゆえに愛し、模範とし、若い幻視者・神秘家たちを助けたいという愛の動機でこれを祈るなら、そうする人、つまりあなたの傍らに聖ベルナデッタがいつも保護者として付き添っていてくれます。また、ローマ・カトリックの信者には全しょく有も与えられます。

 聖ベルナデッタ
 すべての若き幻視者・神秘家の保護者への祈り

 愛する聖ベルナデッタ、最も若く従順な幻視者よ、
 この終わりの時における世界中の若き幻視者と神秘家を
 導き照らしてください。
 彼らが天から与えられた使命を受け入れ、
 そして真理を求める 世界中のすべての若者のもとにいたるよう、
 彼らに勇気、決意、敬虔さ、謙遜を与えてください。
 私たちはこれを無原罪の御宿り(おんやどり)を通して
 いと至聖なる三位一体に懇願します。

聖母が1993年7月13日にリトル・ペブルに語られた。「私はこの祈りを祝福します。そしてこの祈りを真の信心を持って唱える者に対して、この祈りにミサ聖祭100回にあたる全しょく有を与えます。聖ベルナデッタが彼ら(この祈りを唱える人)の傍らにいるでしょう」



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【 第139章 】

 日本の幻視者は、自分の受けるメッセージとご出現を100%天からのものだと考えます。全面信用です。そして「識別」をしません。だからたちまち悪魔にだまされます。日本では昔から夢枕に誰かが立って何かを告げて、おしまいに「ゆめ、疑うなかれ!」と言いますよね。「絶対に疑うな!」と言うのです。そう言うならば、それは悪魔に決まっています。天は、どんな超自然的な示しも慎重に、健全な疑いをもって「識別」するように望むからです。しかし、「ゆめ、疑うなかれ!」が象徴するように、日本では超自然的示しを全面信用しなければならないことになっているようですね。日本の宗教は教祖らの受ける「お告げ」を疑うことを決して許しません。疑う人は教団をやめなければなりません。全面信用する人だけが、そこに留まっていられるのです。日本人が天からの真のメッセージに対してとる態度は全面拒否か、全面信用の2つにひとつです。圧倒的に全面拒否が多いのですが、とにかくどちらも間違った態度なのです。正しい態度とは、慎重に、健全な疑いをもって「識別」するという態度なのですが、それだけはなぜか誰もとりません。一体どうしてなのでしょうか?

 それは日本人が皆、権威主義という悪に染まっているからです。全面拒否か全面信用しかないというのは、権威主義社会における権威主義者の保身術です。権威主義者は、お上の言うことは100%信じます。正しいからではなく、権威を持った人が言うからです。正しいかどうかは関係ありません。疑えば排除されると恐れているのですから。教会における彼らの権威者は司教・司祭です。「日本カトリック教会」という名であり、中央協議会というお役所です。自分たちを実際に監視することができる人たちであって、本当の最高の権威者であるヨハネ・パウロ2世ではないという道理に合わないことをやっています。彼ら独自の権威者の言うことと合わないなら、教皇が言おうが、御父が言おうが、イエズスが言おうが、マリア様が言おうが全く耳を貸しません。全面拒否です。自分で正しいか「識別」し、判断しようとは全くしないで、ただ身の安全が保たれるようにと行動します。実に権威主義者は臆病者であり、とんでもない卑怯者です。

 この悪い日本の文化と国民性のために、幻視者も、幻視者以外の皆さんも、神の望みと逆のことをやっています。「識別」の大切さ自体、ちっともわかっていません。というよりも「識別」してはいけないという意識が心の底にあるのです。権威者の言うことは100%全面信用しなければ排除されるという文化の中で身につけた保身の本能です。日本の社会をそうやって安全に渡ってはいけるでしょうが、マリア様のミッションでは、この保身の本能が日本人たちを危険にし、落とすのです。
 今から書く指示は、幻視者、神秘家、恵みの霊魂に与えられているものです。この指示に従うかどうかに、彼らの永遠がかかっています。皆さんは今死ぬ人の90%が地獄に行っていることを知っているでしょう? カトリック国に生まれ、赤ちゃんの時に洗礼を授けられたおかげで国民の100%がカトリックの国では、100%皆が天国に行くなどと思いますか? いいえ、カトリック信者になるという偉大な恵みを受けた彼らは、その恵みに応えれば天国の高いところに行き、その恵みを投げ捨てれば地獄の深いところに行くのです。「多く与えられたものは、多く要求される」からです。プロテスタントのほとんどが自分の教団に入れば100%天国に行くと言うのですが、これは間違いです。カトリック信者もたぶん90%が今は地獄に行っていると思います。同様に幻視者、神秘家、恵みの霊魂に選ばれたからといって、100%天国に行くわけがありません。特別多くの偉大な恵みを受けている彼らは、恵みに応えれば天国のとても高いところに行きますが、その恵みを投げ捨てるなら、地獄のとても深いところに行きます。彼らも多分今は90%が地獄に行っているかもしれません。本当に多くの幻視者たちが落ちました。使命を忠実に果たし、恵みに応える人は100人に1人もいません。ほとんどの人が落ちたけれども、改心して救霊を得るチャンスは生きている限りまだまだあります。どうか祈ってあげてください。彼らは落ちた後も、たいてい超自然的体験がずっと続きます。もう天からのものは一切ないのにです。悪魔からのものを天からのものと信じて受け続けるのです。こうしてかれらは反キリストの幻視者になってしまうのです。ルシフェルであるロード・マイトレーヤのものとなって、真のマリア様のミッションとリトル・ペブルさんを攻撃する役目を果たす悪魔の道具となってしまうのです。あなたが幻視者、神秘家、恵みの霊魂だったら、これを真剣に受け止めて下さい。これは天国か地獄かの大問題なのですから。極端な言い方をすれば、「識別」しないということは、滅びを選ぶことだとわきまえてください。ただし改心は、どんな人にも最後の一瞬まで可能です。皆さんは落ちたすべての人のために祈ってあげてくださいね。地獄に行けば最も苦しい永遠を受け取る彼らなのですから、あわれんであげてください!



 それでは、リトル・ペブルさんからの指示を書きます。

印を求め、霊を試して(識別)してください!
親愛なる神の寵愛を受けた子供たちへ

 最後に私は、皆さんに事態の重大性について理解していただきたいと思います。だからこそ、皆様すべてが聖母に − 次の天のご出現の際に − 天から訪れる方々が、ご出現のたびに携えて来る秘密の印を与えてくださるよう頼んでほしいのです。サタンはそれを真似しうるので、いかなる方法によっても、誰にもこのしるしについて知らせてはなりません。あなたの霊的指導者である司祭は例外です、というのも彼の司祭職に対する神の約束によって、あなた方は保護されているからです。幻視者は、可能な立場にあるならば、その霊的指導者の識別と助言を常に求めなければなりません。同様に司祭は印を確かめ、幻視者を助けなければなりません。

 天からどなたがあなたに現れようとも、その時は、そのしるしを見せてくれるよう願わなくてはなりません。もしその秘密の印が示されなければ、その出現が天からのものではないと知れます。聖母は、幻視者がそのしるしを聖母に願うとき、それを与えることを約束なさいました。しかしながら、常に慎重かつ見識を働かせなければなりません。また、幻視者というものは、このしるしを与えられてさえ、決して間違わないというものではないことは覚えておかねばなりません。サタンは依然として奸智(かんち)にたけた狡猾(こうかつ)な狐であり、賢く、強力であるからです。共に祈りましょう、わが兄弟姉妹よ。
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 リトル・ペブルさんが、この印を与えられてさえ、幻視者は間違えると言っていることに注目してください。まず不注意からこの印を悪魔に見破られてしまったとき、悪魔はその幻視者を完全に信用させてだましたい放題にだませます。幻視者自身は印を見破られたことに気がつきません。見破った印を携えて悪魔は天からのものに化けるのです。他の典型的なケースは、脱魂中の出現ではなく、普通の状態にいる幻視者に知人に化けて現れるケースです。この場合、幻視者はそれが出現だとは思っていません。本当に知人がそこにいると思うので、「印」を求めません。このケースでは幻視者はまず100%だまされます。他には睡眠中の夢では、印を求めることはできませんから、やはりだまされます。

 幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちが守られるための手段として、天はリトル・ペブルさんに「識別」の賜物を与えたのです。リトル・ペブルさんに一致することを彼らすべてが求められています。彼の指示に完全に従い、彼を支え、彼と一致して働くようにと求められています。秘密の印を求めなさい、という彼の指示に従うことをも含めて、彼との一致は彼らを守ります。そして受けたものをリトル・ペブルさんに「識別」をしてもらうことによって、強力な悪魔の罠にはまっても、だまされていることに気がつくことになります。この方法で彼らは、自分自身を守らなくてはならないのです。

 あなたが幻視者、神秘家、恵みの霊魂でしたら、リトル・ペブルさんとの一致によってしか、悪魔の罠を避けることができないことを理解して、自分のために、そして他の幻視者、神秘家、恵みの霊魂全員のために一致を祈り求めてください。ひとつの祈りを紹介します。毎日この祈りを祈ってくださいね。

聖母、
「わが愛のリトル・ペブルに知ってほしいのです。そうです、この祈りは私の霊感によってリトル・ペブルに与えられたものです。私はこの祈りを祝福し、わがすべての恵みの子供、そして神秘家の子供たちが、真の信心を持ってこの祈りを唱えるとき、そのすべてのものに堅忍の聖寵を与えます」

祈り

 ああ、使徒の元后、預言者の元后、全ての幻視者、恵みの霊魂の母よ、
われら全てのものが、至高なる神の御旨への従順にとどまり、
全ての御身の恵みの霊魂が一致のうちにとどまらんがため、
御身の僕らのために、とりなし給わんことを御身に請い願い奉る。
邪悪なる者の力により、分裂と滅びの大いなる危機に瀕する人類のため、
御身の勝利の速やかに達せられんことを、われら御身により頼み奉る。
ああ、天主の汚れなき浄配、マリア、われらの母よ。
(一致のために天使祝詞9回)

【 第140章 】

 幻視者は身びいきの罠に非常に頻繁にかかるものなのです。彼らは善意あふれる人たちですが、公平ではありません。公平に愛する修練もしていませんし、公平に愛するように導く人もまわりにいません。公平に愛することが大切な徳であり、使命が公的な場合、この徳は使命を果たすために不可欠だということを知りません。むしろ逆に、愛については身近な人をより深く愛することを選びます。そうすれば愛が深まった錯覚におちいります。この自己満足が得られるので、ますます身近な人への愛に集中してゆき、ますます身びいきがひどくなってゆきます。彼らのこの身びいきな自我が影響するので、彼らの受けるものは自分の好きな人、お世話になっている人、家族、友人、ワーカーなど身内と言える人については甘いものを受け、それ以外の人について厳しいものを受けがちです。ですから霊を、この観点から試さなくてはなりません。普段でさえこの身びいきな自我が影響しているので、身内と言える人にそれ以外の人との問題が起こったときは、身内と言える人に有利なメッセージを受けます。身内といえる人の中で問題が起こった時は、より好きな人、よりお世話になっている人に有利なメッセージを受けます。ですから皆さんは、幻視者のメッセージによって問題を解決しようと考えたりしては絶対ダメですよ。たちまち悪魔にめちゃくちゃにかき回されてしまいます。そのうえ、幻視者のメッセージによって問題を解決したいという思いは、悪い権威主義が土台となっているので、余計に悪魔から利用されてしまいます。つまり、そう思う人はたいてい天の権威をかさにきたいのです。そうして話し合いをせずに決着させようと考えているのです。友情を大切にする人はそんな考えは持ちません。相手より上位に位置したい人の考え方です。一致をそのカリスマとして持っている聖シャーベル修道会では、問題が起こったときは、双方の話を公平に長上がまず別々に聞き、次に長上と双方が同じ席で話し合いをし、すべてを明らかにすることによって問題を解決するように規定しています。幻視者のメッセージで問題を解決することなどをしません。「雨降って地固まる」と言う通り、友情、話し合い、公平な愛の3つの徳の実践というプロセスを会憲に従いつつ進めて行けば、問題が起こったことは一致が強まるという結果に終わります。誤解や無理解が積もっていたのが、全て消え去り、互いの理解の深まりとともに親密さが生まれます。幻視者のメッセージで問題を解決しようとすれば、友情は否定されており、話し合いもなされず、身びいきな自我に影響されたメッセージで混乱が持ち込まれるのです。結果はさらに激しい分裂です。皆さん日本人が持っている悪い権威主義による天の権威をかさにきたいという望みと、幻視者の持っている身びいきという弱点が結びついてしまうと、本当に恐ろしいことになってしまいます。そうならないように厳重に警戒してください。そしてこれらの欠点を、幻視者も皆さんも克服するように努力してください。権威主義者は臆病者、卑怯者です。つまり権威主義とは恐れの上に築かれているのです。もし何も恐れないなら、権威を盾に自分を守る必要も感じませんし、権威者におもねる保身の必要も感じないでしょう。ですから根本的な欠点の克服とは、希望の徳を強めて、超楽観主義者になり、何をも誰をも恐れなくなることです。そこから始めてくださいね。この聖ヨゼフの霊性に従い、一致の基礎の自然徳である友情、話し合い、公平な愛という徳を身につけるよう務めるのですよ。

 さて、話をもとに戻しましょう。幻視者の身びいきがもっと大きなスケールになり、しかも傲慢という悪徳に結びつくと、メッセージにナショナリズムが出てきます。神もマリア様も人類を公平に愛していると聞いたことがあるはずなのに、悪魔によって同時に多くの幻視者がだまされてしまうのです。このナショナリズムに気をつけてください。注意深く「識別」しなければ、あなたも日本人ですから、いい気になってしまって罠に落ちますよ。日本はすごい、日本人はすばらしい。日本は世界の中心だ。日本人は特別に愛され、選ばれているというメッセージがあったら、悪い気はしないでしょう? この内心のうれしさと喜びによってチェックが甘くなってしまうのです。しかしナショナリズムは神学的に完全な誤りですから、そんなメッセージを真に受けてはいけません。神にとって一人一人が皆、重要な存在であるように、一つ一つの民族、国が皆、重要です。一人一人に唯一独特な尊い使命が与えられて、この世に存在させられているように、一つ一つの民族、国にも唯一独特な尊い使命が与えられています。それぞれに違いがありますが、貴さは同じです。確かに日本は世界中が、真理であるローマ・カトリックに立ち返るための起爆剤の役割という使命に召されていますが、堕胎の罪や、物質主義、利己主義の罪を思うなら、世界最低の国、罪と悪徳に満ちた民族、世界で最も心の卑しい国民です。いったい何を誇れるでしょう? 神から現時点では、世界で最も遠く離れているというのに。

 過去、日本が世界の中心だと日本のミッション全体が思い込んだ時期がありました。何人もの幻視者が同様のメッセージやビジョンを受けたからです。しかし日本でこのことが起こる前に、同じことがアフリカで起こり、次にアメリカで起こり、次にヨーロッパで起こり、幻視者たちがそろって間違えていたのに、リトル・ペブルさんからのためなおしを受け入れず、ほとんどの幻視者が落ちるということがあったのです。もちろんそれに引きずられた多くの人を巻き込んでです。たとえが、アフリカは世界の中心になる。アフリカの幻視者たちは何でも知っている。というような内容のメッセージを幻視者たちがそろって受けたのです。悪魔は高慢と身びいきを増幅させ、皆がそろって受けているのだから正しいのだと確信させ、「識別」の賜物を受けているのはリトル・ペブルさんだけなのに、「リトル・ペブルさんは知らないのだ」という傲慢な結論に幻視者たちを導いたのです。本来、幻視者たちは、聖パウロが自分を神の僕の中で小さいもののうち最も小さいものだと考えたように、自分も自分の国も小さいもののうち最も小さいと考えるべきなのです。自分の民族、国が最も偉大だということは、その国民である私も最も偉大だということです。だからナショナリズムは人にとって快いもので、いい気持ちになれるものなのです。日本で、他の地域で起こったことと同じことが起こったとき、リトル・ペブルさんとの世界的一致の輪にいた人は、日本が悪魔の次のターゲットになったとすぐにわかりました。しかし視野が非常に狭い日本人ですから、世界で起こったことを知らず、皆、悪魔の罠に落ちてしまいました。

 ここからも皆さんは教訓を引き出してください。複数の幻視者がそろって同じ内容のメッセージやヴィジョンを受けても、それは確認とはなりません。最終的な確認は、神から「識別」の賜物が与えられ、その役目を任されている唯一の人であるリトル・ペブルさんによってなされなければならないのです。そして悪魔は、神がお許しになるなら、壮大なスケールで強力な罠をかけるということも知っておいてください。リトル・ペブルさんと一致した幻視者の世界的な輪に加わる必要性がここにあります。ローカルな一致が強くても、リトル・ペブルさんとの、そして外国の幻視者たちのとの横のつながりがなければ、だまされてしまうのです。この点で日本人は「一致」を間違ってとらえています。リトル・ペブルさんとの一致を、リトル・ペブルさんと代表者を通して一致することによって組織の一員となることと考えています。それで日本の幻視者はリトル・ペブルさんに対して特別な愛を持ちません。同じ運命にあずかり、生死さえも共にしたいという友情の崇高な形としての愛をまったく持ちません。また、世界中の幻視者仲間に対する兄弟愛も持ちません。自分を忘れて彼らに尽くそうという親身な愛、自己犠牲の愛を持ちません。一致とは愛しあうこと、尽くしあうことを言っているのがわかっていません。この内的で、本質的な一致の側面が欠落し、形だけの、つまり組織の上での一致しか実行しないので、実際的には一致しているとは言えません。それでいとも簡単にリトル・ペブルさんを裏切るのです。それはたいてい別の権威に乗り換えるという形をとります。幻視者の身びいきの弱点、つまり身近にない人への愛が非常に薄いという愛の狭さがここにも、もろにあらわれているのです。

 これは日本人である皆さん全員の弱点でもあります。そして皆さんもリトル・ペブルさんと一致し、世界中のミッションの仲間と一致するように神から求められているのですが、会ったこともなく、今後も会わないだろうその人々への兄弟愛、親身な愛、自己犠牲の愛を持っていますか? 彼らのために祈っていますか? リトル・ペブルさんへの友情の崇高な形としての愛を持っていますか? 彼のために祈っていますか? 多分答えはすべて「いいえ」でしょう。ではあなたは一致は実際的にはしておらず、いつ悪魔に倒されてもおかしくない状態にいるのです。それなのにあなたが安心していられるのは、権威主義者として保身に必要なことはやったと思うからなのです。神にあなたの権威主義が通用すると思いますか? 神はあなたの心の中の愛を見ていらっしゃるのです。日本の幻視者たちが神の求めた一致のための愛をもっていなかったので、皆落ちてしまったことを反面教師にしてくださいね。





【 第141章 】

 私はイエズスから、天使から、聖人から、直接指導されているから、一人でやっていけますという、思いっきり傲慢でばかげた思い上がりに、あまりにも多くの幻視者、神秘家、恵みの霊魂がおちいるので、書きにくいことも含めて、今どれほど悪魔がすさまじい力を発揮しているかを書きましょう。悪魔は何十年も先のことを許された範囲で知っています。そして先回りして混乱の種をまきます。世界中でカルトの問題があっちでもこっちでも噴出した時期がありました。ちょうど天の選ばれた共同体を、リトル・ペブルさんに一致したミッションにおいて設立するようにと天から指示が与えられる前でした。これによって人々は、天の選ばれた共同体をカルトと同一視しました。このため世界中で共同体の設立は困難を極めています。いまだにこの偏見は続いています。マリア様はこれが悪魔の先回りによる妨害だと教えてくださいました。このように悪魔はこの終わりの時、時間的にも地域的にも壮大なスケールで働くことを許されているのです。これは個人を攻撃することにおいても同様で、しかもとんでもない手段を使うことまで許されています。皆さんは、リトル・ペブルさんに与えられた「聖なるもの」から、聖霊が「聖なる種」を奇跡的に運び、それによって平和の統治の世代の子供たちが生まれてくることを知っているでしょう? 平和の統治では人間に性欲はなく、夫婦は性行為をしません。そしてその子供たちがもうすでに生まれ始めています。そうです。女性が男性の協力なしに奇跡的に妊娠しているのです。私の友人たちにも聖霊によるその奇跡が行われました。一人は10代の少女で、カナダでその奇跡が行われました。いま起こっていることを前もって知ることを許された悪魔は、人々を混乱させるための種をまくために、40年ほど前にその猿まねをしました。カナダで起こった事件で、「アグネス」という映画まで、この事件をもとにドキュメンタリーとして制作され、世界中に広められたので、多くの人がこの事件を知っています。「識別」が全くできない修道院長とシスターたち、老神父のもとで事件は起こります。修道院長の姪が修練女として修道院にいます。彼女はアルコール中毒の母親から性的なものまで含めて虐待を受けて育ったので、嘘をつく癖があります。悪魔は神に化けて、彼女の上にのしかかり妊娠させたのです。どこからか男性の精子を手に入れ、運んだのですね。彼女は赤ちゃんを産みますが、産声を上げないうちに絞め殺して、ごみ箱に捨ててしまいます。司法の依頼で女性精神科医が調査しますが、その過程で今度は聖痕を悪魔が彼女につくり、出血させます。事件にかかわった人たちは混乱の中に残されます。映画ではそこまでです。このよく知られた事件の及ぼす混乱のためにも、また、それ以後も同様に猛威を振るい続ける悪魔のだましのためにも、いま起こっている女性の奇跡的妊娠に関して、厳密な「識別」が重要になっていますし、それに類することに関してもたくさんの混乱が起きています。例えば悪魔による妊娠を神によるものだと勘違いさせるのと逆に、聖霊による「聖なるもの」からの「聖なる種」での妊娠と同時期に、悪魔がその女性にそれが男性との性行為によるものだと勘違いさせることもあり得ます。女性は感覚的な体験を好み、求めます。そこに悪魔につけいられる弱さがあるのです。幻視者や神秘家や恵みの霊魂の多くは女性です。ある幻視者に、悪魔は赤ちゃんのイエズスに化けて現れていて、毎日、その女性のおっぱいを吸っていました。ある幻視者には大人のイエズスに化けて現れ、その女性を抱き、彼女にイエズスの子を妊娠したと信じ込ませました。だまされた幻視者たちは傲慢になって落ちてしまいました。悪魔はまた他の男性に化けて性行為をすることもあります。もちろんその女性がそれを本当に当の男性だと思い込むことで、大混乱や大問題、大分裂が起こるような男性に化けるのです。悪魔が人間に化けた場合、見破ることがほとんどできないのです。そしてどこからか手にいれた精子を運んで妊娠させることさえできるのです。女性が男性に抱かれることや、赤ちゃんを抱くこと、そういう感覚的な体験に非常にひかれるというところに、その望みをかなえるような体験を与えることで大きな喜びを感じさせ、その喜びで盲目にさせ、「識別」できなくさせるのです。そして悪魔はその人間をよく知っていて、その人間の一番弱いところを狙います。この時代は、これほどまでに悪魔がその能力をだますために使うことが許されている時なのです。悪魔にとって幻視者をだますことなど、赤子の手をひねるようなものです。いったい誰がこんな強力な悪魔に対抗できるでしょうか?

 しかし神は、従順で忠実で謙遜な幻視者、神秘家、恵みの霊魂が悪魔にだまされることのないようにと、リトル・ペブルさんを「岩」として与えてくださっています。大嵐の中の小舟は、この岩に自らをゆわいつけることによって難破せずに済むのです。リトル・ペブルさんと固く一致し、彼に与えられた「識別」の賜物によって「識別」を助けてもらい、彼と、そして彼と一致した仲間と、愛しあい、支えあい、尽くしあうならば最後まで堅忍できます。自分一人でやれるという人や、愛も祈りも弱い名ばかりの一致しかしない人は、天の求めに不従順、不忠実で、しかも傲慢なので、神はそういう人を守りたくても守ることができません。

 これだけ書けば、皆さんは傲慢な自信を捨ててくれるだろうと私は期待します。聖人たちは聖徳が深まれば深まるほど、自分が罪深く、弱く、貧しい、悪いものだという意識を強めました。天からの直接の指導を受けることで、なぜ傲慢になっていくのかよく考えてみてくださいね。



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【 第142章 】

 幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちは、傲慢におちいりやすいのです。それはなぜかをこれから説明しましょう。まず彼らはもともと謙遜になることが難しいタイプの人たち、つまり感覚的な人たちだからです。謙遜になるためには、自己の認識が必要です。自分が日々たくさん犯している罪、持っている悪徳の数々、弱点と欠点、自分について認識すべきことは山ほどあるのですが、彼らの祈りは感情的、感覚的な祈りであって「認識の祈り」ではありません。認識のための努力を祈りのうちにしようとしないのです。また、自己の悪さ、罪深さは、聖なる善い人と自己を比較することで、よりはっきりと認識できます。最も聖なる善い方とは神なので、神の聖なる本性、全き善さ、あわれみを認識すればするほど、より自分の悪さ、罪深さをはっきり認識できます。しかし、やはり彼らの祈りが感情的、感覚的な祈りであり、「認識の祈り」ではないため、神の聖なる本性、全き善さ、あわれみについても祈りのうちに認識する努力をしていません。神の聖なる本質、本性に対して無知な彼らは、そのため余計に自分の悪く、罪深い本質、本性が認識できません。だから自分が良い人間に思えるのです。彼らはこの「無知による傲慢」におちいるのです。「自分のことは棚にあげて」という日本語がありますね。「認識の祈り」をしない彼らはいつも自分のことが棚にあがりっぱなしの状態です。自分の本当の悪さを見つめていないのです。これは感覚的な人間であればあるほどそうなります。日本人である皆さんも、自分に思いあたることがあるはずですよ。人ごとではありませんね。

 この謙遜になりにくい土台の上に彼らには「知識による傲慢」が生じるのです。聖パウロが知識は人を高ぶらせ、愛は徳をたてると言っています。この知識は、今述べた自己の悪い本質、本性、神の聖なる本質、本性の知識以外の知識です。まず彼らは与えられた賜物により、皆が体験しないことを体験し、皆が持っていない知識を持ちます。そのこと自体が自尊心を刺激し、自分を人より優れていると考えさせます。しかし、それだけではありません。神が彼らに徳のことを説明するなら、その意図は彼らにその徳を実践させるためです。つまり彼らがその徳を実践していないか、実践が不十分なのです。神が彼らに罪や悪徳について説明するなら、その意図は彼らにその罪や悪徳を克服させるためです。つまり彼らがその罪や悪徳を克服していないのです。しかし彼らは神から説明されて、その知識を持ったことにより、徳に関しては自分が実践している気になり、罪や悪徳に関しては自分がもうそれを克服してしまった気になるのです。これが知っていることによって傲慢になるもうひとつの理由です。このことは彼らだけでなく皆さんにも起こります。経験があるはずですが、メッセージや、マリア・ワルトルタの著作や、信心書、聖人伝を読んで自分が聖人になったような気になってしまう、また、かなり自分が進歩しているように思ってしまう錯覚を起こします。これも、知ったことで実践している気になるからです。天がこれらの本を読むように勧めるのは、逆に聖なる模範と自分を比較し、自分の足りなさ、罪深さ、悪さをもっとよく認識することができるようになるためです。それなのに読んだ分、人よりよく知っていることで、皆さんもそれを誇るという傲慢におちいります。ですから2つの理由での「知識による傲慢」に皆さんもおちいるのですから、やはり人ごとではありませんよ。

 さて、幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちは天から直接、そして皆さんは読むことによって徳や罪に関して教わります。それでもう知った気になるのですが、実は知るべきことをほとんど何も知らないのです。これを例を用いて説明しましょう。例えば「人を裁くな!」とイエズスに言われたとしましょう。これで人を裁いてはいけないということが分かったのです。しかしそれだけでは何も知らないのとほとんど変わらないのです。「人を裁くな!」と言われ、そのことに気をつけて自分を改善しようと真剣に努力しても、自分だけで改善できるのは、自分が犯しているこの罪の全体の1%にも満たないでしょう。まず何気なく犯してしまっているこの罪には気がつくことができません。一日に何度か、明らかに心の悪意を意識しつつ悪口を言ってしまうことに気がつくだけではありませんか? 人を裁くという罪がどれほど多様な側面を持っているかが分かっていないでしょう? 「人のおこないは、ことごとく神の御旨のあらわれである」と受け止めていますか? それ以外の受けとめ方はすべて人を裁くことになり、罪なのです。隣人のおこなうことのすべてを喜び、隣人の意向についてすべて善意に受けとめるところまでいかない限り、あなたは人を裁いていますし、この罪は克服できていません。まさに人が意識できるのは犯しているこの罪のほんのわずかだけで、それは氷山の一角よりもわずかであり、水面下には巨大な量の罪が意識されないままになっているのです。そのうえ人間というものは、自分自身を裁くにあたっては甘く、砂糖のように甘く判断してしまうものなのです。だからなおさら多くの罪が見逃されてしまいます。この罪は日常のささいな思い、感情、判断に至るまで入り込んでいる罪です。もしかして一日中絶え間なくこの罪を犯し続ける日だってあります。それをイエズスがいちいちそのたびに、厳しく注意し、とがめ、やめさせて下さいますか? そんなことはありませんね。聖ジェンマ・ガルガーニという聖人には、その役目の厳しい天使が遣わされていました。恐ろしいまでに厳しく、些細なことまでとがめる役目の天使です。こんなケースは他にありません。彼女はこんな厳しい天使が他の人に与えられたら大変だと思っていました。それでも彼女はこの天使のほかに、これまた徹底的に厳しく欠点を指摘する指導司祭についていたのですよ。このような指導者にいろいろと細かく厳しい指摘を受けない限り、人は誰も自分の犯している罪を十分認識できないものなのです。

 そしてさらに決定的なことを書きます。天から直接指導されようが、本で読もうが、だれでも徳に関してや、罪を避けることに関しては、実際の聖なる模範を見ない限り、知っていると思っていても、本当は知ってなどいないのです。私は、人を裁かないという徳においては完全なある修道士と同じ修道院で一緒に暮らしたことがあります。彼を見て、初めて人を裁かないということはどういうことかを知りました。このようにたとえ何千回、何万回、人を裁くなと聞いても、それについて読んでも、黙想しても、聖なる完全な模範を見ない限り、この徳がどんなものかを知ることはできないでしょう。

 幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちが、自分は天から直接指導されているから一人でやっていけるという時、それは、私は指導者がいなくても、自分のあらゆる罪と欠点に自分で気がつくことができます。私は聖なる完全な模範を見なくても、徳と罪のあらゆる側面を自分で悟ることができます。と宣言しているのと同じです。これはひどい思い上がりです。彼らはこのようにひどい傲慢におちいるのですよ。皆さんもよく覚えておいてください。実は、これほど傲慢におちいりやすい彼らを、なおさら傲慢にするのがまわりの人々なのです。皆さんが、彼らは天から直接指導されているのだから徳が高いだろうとか、ぐんぐん徳の道に進んでいけるだろうとか、徳と罪に関して深い洞察を持っているだろうとか思って、彼らに接するなら、彼らは皆さんの影響のせいで自分を高く評価します。そうしてますます傲慢になって落ちてしまうのです。指導者が彼らをいくら謙遜になるように導こうと、あらゆる努力を払っていても、そんな努力が皆さんの影響によってあっという間に吹っ飛んでしまうほど、まわりの人によって彼らは高ぶらされてしまうのです。多くの幻視者、神秘家、恵みの霊魂は、まわりの人に落とされてしまったのだと言えます。どうか皆さんが天の選んだ大切な人を落とさないようにと私はお願いします。そのためにも彼らについて、そして彼らとのかかわり方についてよく知っておいてください。









【 第143章 】

 日本人は幻視者を「巫女」のように思い、天にお伺いをたててもらおうとしますが、幻視者は「巫女」とは全く違います。彼らの使命は天にお伺いをたてることでも、天からのメッセージを伝えることでもありません。幻視者の使命とは、聖なる完全な模範となることです。彼らが注目される存在としてたてられているのはそのためです。人間とは徳、悪徳、罪、罪を避けることに関しては、いくら聞いたり、読んだり、黙想したりしても、聖なる完全な模範を見ない限り、だれも本当に知ること、悟ることができないものなのです。知っているつもりにはいくらでもなれます。そしていくらでも思い上がることができます。しかし、本当に徳を英雄的に実践している人の、聖なる完全な模範を見るとき、それらの空しい自信と誇り、甚だしい思い上がりはガラガラとくずれ去り、自分の無知、徳のなさ、本質的な悪さ、罪深さを痛感させられます。これほど聖なる完全な模範は強力で、重要で、それの代わりになるものなど何もないほど貴重なものなのです。そして徳を実際に、しかも英雄的に実践している人だけが、この聖なる完全な模範を示すことができるのです。そういう人がどれほどこの世界には少ないことか! 皆に徳、悪徳、罪、罪を避けることに関して理解させ、徳に進ませ、完成させるためには、絶対に必要なこういう人になるという使命は、どれほど重大な使命でしょう! 幻視者たちは全力を尽くして、そして持てる力をすべて集中させて、この困難な使命にあたらなければならないのです。力を分散させればさせるほど、この使命を果たすのが難しくなります。

 皆さんが幻視者に、天にお伺いをたてさせようとすることは、幻視者が本来の使命に向けるべき力を分散させ、本来の使命に注がれる力をそぎ、使命を果たせなくさせることです。彼らはひたすら愛と善徳に進むことを目指すべきなのです。特に、注目される存在としてたてられた彼らは、攻撃と迫害の矢面に立つようにも召されていて、徳の英雄性を、つまり完徳のレベルまで行くことを必然的に求められています。例えば「敵を愛する」という徳を誰よりも完全に、英雄的に実践しているのはリトル・ペブルさんです。彼は世界中が敵になっているに等しい状態にいます。彼はこの徳を長年にわたり、完全に実践しています。彼を見ることによって「敵を愛する」徳を完全に実行するためには、ゆるしはもちろんのこと、敵のために祈り、祝福し、彼らの善のために働くこと、自分のものを彼らに与えること、これらもすべて求められていることを知ることができます。徳は試練によって練り鍛えられ、完成されてゆくものです。試練のさなかで徳の完全性、英雄性はより輝き、皆によく見えるものとなります。他の人々には課せられないほど大きな試練を耐え忍ぶことと、すべての人々の目に見える英雄的な徳の実践の模範となることは、結びあわされたひとつの使命です。だから彼らに求められている愛と善徳のレベルは完徳のレベルなのです。皆さんは彼らのこの第一の、そして困難さゆえに力を結集しなければ達成できない使命を、天にお伺いをたてさせることで邪魔しないでください。主要な使命を果たせないということは落ちることでもあるのです。天はその人にかえて他の人を立てざるを得なくなるからです。あなたのエゴイスティックな望みで幻視者を落とすことは決してやってはいけませんよ。

 幻視者に、天にお伺いをたてさせてはいけない理由は他にもあります。それらを説明しましょう。幻視者は傲慢になりやすいということをすでに説明しましたね。彼らが落ちずに使命を果たしぬくには、絶対的に謙遜を守らなければならないのです。傲慢になればたちまち落ちてしまいます。彼らにとって尊敬の目で見られること、上位のもののように接せられること、感謝されること、頼られること、称賛を受けること、特別なもののように扱われることは毒を飲まされることに等しいのです。皆さんが幻視者に、天にお伺いをたてさせる時、誰にも言わないような秘密を打ち明け、特別扱いをします。「お願いします」「ありがとうございました」と「巫女」のようにたてまつります。個人的に話をすることがあるなら、彼らに称賛、尊敬の言葉を浴びせます。こうして皆さんは幻視者に毒を、これでもかこれでもかと飲ませるのです。こんなことをやられて傲慢にならずにすむ人がどこにいるでしょうか。天からこの質問を取り次ぐ役目を与えられているのがリトル・ペブルさんだけだということが、この使命がいかに危険なものかを物語っています。この点でも、天にお伺いをたてさせることは幻視者を落とすことだといえます。

 また、別の理由ですが、皆さんが「天にお伺いをたててください」と頼んでしまったら、幻視者は天から答えのメッセージをもらわなくてはと、どうしても思ってしまいます。幻視者の霊的指導者が、彼らに対してまず初めにすべきことは、彼らから感覚的なものごとに対する好み、超自然的体験に対する好みと望み、賜物として彼らに与えられている感覚的なもの・超自然的体験に対する執着をことごとくはぎとることです。それなのに皆さんが幻視者に、天にお伺いをたてさせることは彼らに超自然的体験を求めさせ、執着させてしまうのです。彼らは本当は、自分の受けるもの、体験するものを受け流さなくてはならないのです。それらを軽んじ、愛と善徳に進むことだけを重んじなくてはならないのです。しかし皆さんがそれらをありがたがるので、逆にそれらを重んじてしまうのです。賜物としての感覚的なものや超自然的な体験によっては、どんな幻視者も聖徳には一歩も進めません。徳は試練の中で長い期間、繰り返し実践し続けることによってのみ身につくのですから。そのようなものは本質的に何の価値もなく、むしろ悪魔が誤りを中に入れることができる領域です。それによって悪魔にだまされてしまうばかりとさえ言える危険なものです。ですから重要視せずに受け流さなければいけません。そのかわり、ただ愛と善徳にのみ価値を置き、ひたすらそれを獲得しようと努力しなければなりません。このようにしない限り、幻視者はすぐに悪魔のえじきになって落ちてしまいます。ですからこの点でも幻視者に、天にお伺いをたてさせることは彼らを落とすことといえるのです。

 さらにまた、別の理由があります。悪魔は幻視者が受け取る天からのメッセージに入り込み、悪魔からの、自我からの、隣人からの影響を与えて誤りを入れ、混乱させようと全力を尽くしていますし、そのためにあらゆる機会を利用します。幻視者とは善意にあふれてはいても、公平な愛は持っておらず、非常に身びいきだということを説明しましたね。幻視者の知人が、幻視者に、天にお伺いをたてさせるとき、この身びいきな自我と隣人からの影響は最大限にメッセージに影響しやすい状況が生まれます。これを避けることはほとんど不可能です。そのうえ幻視者のメッセージは公的で重要なものは神によって強力に守られますが、私的なものはほとんど守られていません。ですから悪魔にやりたい放題に誤りを入れられてしまいます。これを天からの答えとして受け取る人はもちろん、取り次ぐ幻視者も巻き込んで混乱させることを悪魔はもくろみ、そういう結果になるような誤りを入れますから、幻視者に天にお伺いをたてさせて損害を受けるのは皆さんだけではすまず、その幻視者にも混乱がおよびます。ですから、この点でも幻視者に天にお伺いをたてさせることは、皆さんが幻視者を落とすことになるのです。

 幻視者を皆さんが落とすことのないように、彼らに天にお伺いをたてさせてはいけないということがよくわかりましたか? これが幻視者とかかわるうえで、皆さんが第一に気をつけるべきことです。皆さんは彼らから徳の実践の模範だけを期待してください。聖なる完全な徳の模範を皆さんに見せることが、公的な人としての彼らの使命なのですから。そして彼らのために祈ってあげてくださいね。



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【 第144章 】

 皆さんが、幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちと係わるときに注意すべき点は、彼らを決して特別扱いしてはいけないということです。例えば共同体においてなら、彼らは修道者、修道信徒に過ぎません。共同生活に身を沈め、同じように祈り、働き、皆と付き合うのです。彼らが共同体に住んでいない場合も同じです。そしてあなたが幻視者、神秘家、恵みの霊魂であるのなら、あなた自身が特別扱いを拒否してください。あなたが自ら進んでへりくだってそうしない限り、日本人たちはあなたを特別扱いします。そうなるとあなたは傲慢の罠にかかり、落ちるでしょう。

 幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちが、神にではなく、愛と善徳にでもなく、受けた賜物に執着しているとき、彼らの頭の中は、それ一色に塗りつぶされています。だからその話を聞いてくれる人には、幻視やら幻聴やらの体験したこと、受けた特別な賜物のこと、それに対する自分なりの解釈など、そんなことばかり話しまくります。その時彼らは非常に危険な悪い状態にあるのです。皆さんが超自然的なことに強い好奇心を持っているのはわかります。しかし皆さんが身を乗り出して聞くので、彼らはその有害無益、百害あって一利なしの話を自分で止めることができません。そういうとき、皆さんから断固としてその話をやめさせない限り、両者ともが大損害を霊魂に被ります。皆さんは彼らの賜物に対する執着に巻き込まれ、同じ執着を持たされます。それ自体大変悪いことなのですが、さらに悪いことには、皆さんには特別な賜物が与えられていないので、うらやましさからねたみの心がわきます。彼らは皆さんの心がこうして害されてゆくことに気づかず、逆に皆さんに有益なことを話していると思い込んで話し続けます。ですから皆さん自身と彼らのために、彼らのそういう話題には決してのってはいけません。興味深げな態度も示してはいけません。嫌悪感をあらわにしなければいけません。皆さんは彼らに「そういう話はやめてください。あなたにも私にも有害無益です」と言ってください。あなたが指導者であって、彼らがそういう話を人にしているのを見聞きしたら、しかりつけてやめさせてください。それは彼らを守る役目を負っているあなたの義務です。

 皆さんが幻視者と係わるうえで大切なのは、彼らに何ができ、何ができないかをしっかりと把握していることです。彼らにできることでこの世的なことはほとんど何もありません。ある幻視者に「共同体をつくる賜物が与えられている」ということについて、特に皆さんはひどい思い違いに必ずおちいるので、これをはっきりさせておきます。皆さんはこの意味を日本人独特の間違った解釈でとらえます。天から直接指導されている幻視者は何でも神から教えられているのだから、共同体建設についてもすべて幻視者に聞きながら進め、幻視者トップダウン(幻視者をトップにすえた上意下達)のシステムのもと、幻視者の指示通りに動けば共同体ができるという意味にとるのです。幻視者自身もまた、傲慢にもそのような考えを持ちます。いいえ。皆さん、「共同体をつくる賜物」とはこれではありません。共同体は幻視者がつくるのではなく、会則会憲に一から十まで従いつつ、聖シャーベル修道会の霊性と、カリスマにのっとって、修道信徒や修道者になろうとする人々がつくるのです。皆さんには会則会憲が与えられています。しかも日本語になっています。そして聖シャーベル修道会の共同体生活の教科書であるこの本が与えられています。そしてオーストラリアのナウラの母院で長期に共同体生活を体験することができます。聖シャーベル修道会の霊性、そのカリスマについても、こうして知ることができるのです。「共同体をつくる賜物」とは、幻視者が、共同体建設に伴うさまざまの困難や障害を、神に取り除いていただけるだけの功徳を積むことを意味しているのです。幻視者の使命とは、聖なる完全な徳の模範となることだと説明しましたね。この使命は霊的な努力と戦いを英雄的に長期間、試練の中でささげなければ達成できません。その過程において彼らはたくさんの功徳をつみます。実は、共同体は功徳によって建設されるのです。表面上は人間的努力によって建設されているように見えますが、悪魔の強力な妨害を突破してゆくのは、実は、ただただ共同体建設にかかわる人がつんだ功徳によるのです。幻視者はその功徳を、悪魔の多方面にわたるあらゆる妨害をすべて突破しつくすのに必要なだけささげる役割を受け持っているのです。彼らは特に犠牲の霊魂であれば、超自然的苦しみ、自然的苦しみを全て、イエズスの受難にマリア様を通して一致させ、豊かな功徳を得ます。共同体建設に必要な功徳の大半を積むという賜物を幻視者は得るのです。これが「共同体をつくる賜物を与えられる」という意味です。わかりましたね。日本のミッションの人々がやったこと、今もやっていることは、幻視者の使命の邪魔をし、幻視者に功徳をたてさせないようにすることなのです。つまり、幻視者を組織のトップにすえたてまつり、いちいち指示を仰ぎ、天にお伺いをたてさせることです。皆さんは絶対にこの間違いを繰り返してはいけませんよ。

 話を元に戻しましょう。幻視者にはできないことがあります。識別ができません。一致することができません。一致をもたらすこと、一致を築き上げることができません。まず幻視者は識別ができないということは説明しましたね。思い出してください。彼らが感覚的なものごと、超自然的な体験への好み、望みを持ち、それらに魅力を感じ、執着しているうちは、まったく識別ができないということなどを書きましたよ。

 一人一人の幻視者はジグソーパズルの1ピースです。同じピースがないのと同様、彼らが天から全く同じものを受けることはありません。それが当たり前なのです。天はその幻視者の霊魂の性質と能力、そして限界にそって語ります。幻視者一人一人が違うのですから、天が与えるものが全く同じになることはありません。将来のシナリオについては、天は同時にいくつものシナリオを別々の幻視者に示します。これを絶対忘れてはいけません。人々が百通りの反応する可能性があるなら、天は百通りのシナリオを用意して啓示することができるのです。ですから幻視者一人一人の受けるシナリオが違って当然です。また、受ける日時が新しければ、状況も変化していて、シナリオもそれにそって変わってゆきます。しかし幻視者は自分の受けたものをこのように正しくとらえることができません。自分の受けたものが100%実現する最も正確なものだと思いたいのです。これも賜物に対する執着と彼らの傲慢さゆえです。彼らは自分が他の幻視者と等しくジグソーパズルの1ピースにすぎないとは納得できないのです。謙遜が足りないからです。彼らはそして、自分の受けたものと他の幻視者が受けたものが違っているから一致したくないと言い張るのです。なんと愚かなことでしょう! なぜそんな張り合いをする必要があるのですか? このように彼らは他の幻視者と一致することができません。そればかりか、まわりの人にも自分の受けたものを一番重んじてほしい。自分という幻視者を一番重んじてほしい。自分に一番関心を持ってほしい。頼ってほしい。と考えるのです。そうして一番大きなグループのリーダーになりたいなどと自愛心に満ちて考えるので、まわりの人に「公平な判断をし、すべての人と一致しなさい」とは決して勧めません。逆にまわりの人を自分の自愛心に仕えさせようと行動し、発言するのです。他の幻視者とその受けたものについて批判し、自分と自分の受けたものを正当化しようとします。ですから彼らは一致をもたらすことも、一致を築きあげることもできません。傲慢から「自分ひとりでやれるから一致する必要はない」と考える幻視者に至っては、一致の壊し屋と呼ぶべきでしょう。

 皆さんは幻視者のこれらの弱さと限界、彼らにできないことを頭に刻み込んだうえで、彼らにかかわってくださいね。そうしないなら皆さんは彼らを落とし、彼らは皆さんを落とします。



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【 第145章 】

 指導者へ書きます。しかし、すべての読者も、幻視者本人もこれを役立ててください。指導者がいないケースがほとんどなのがこのミッションの現状なのですから。

 指導者は幻視者を甘く取り扱ってはいけません。彼らが女性であっても子供であってもです。特に女性の場合はなおのこと厳しくしなければなりません。彼らは両側が深い谷の、尾根を登山しているようなものです。登山のリーダーなら、初心者が右によっても左によっても大声でしかりつけて転落を防ぐでしょう? 雪山だと思ってください。雪のひさしに乗ったりしたらどうなりますか? 「高いところから落ちるほど、壊れかたはひどい」という言葉を、このミッションでは特別の賜物を与えられて、特別な使命の道を行く人々に当てはめています。彼らがコースを踏み外したとき、そのあと滑落するまでが、他の人々とは違ってとても速いのです。あっという間です。危ないと感じた瞬間、大声でしかりつけないと手遅れになります。「ほえない犬は災い」と、そうあなたが神から言われ、責任を果たさなかったことをとがめられないようにしてください。幻視者を厳しい目で見つめ、間違いはことごとく指摘し、危険な間違いを犯した時、間違いに執着している時はしかりつけてください。彼らが落ちたら、それはそれはひどいことになります。多くの人を道連れにし、彼ら自身は反キリストのロード・マイトレーヤに仕える幻視者に、つまり悪魔の道具になりさえするのですよ! なんとなく閉鎖的になっていくとか、一致のモチベーションが落ちてきたようだとか、神ご自身から導かれることで前進できると考えているのをほんの少し臭わせるとか、そういうわずかな兆候も見逃さずに、すかさず吠えてください。オオカミがあなたに任された羊に近寄っているのを放っておいてはいけません。羊は愚かで無防備です。

 彼らから信仰上と道徳上の誤りを取り去ってください。そして教義と修徳上の知識を彼らに注いでください。これらのことをしっかりとやることが大切です。あなたが司祭なら聞きますが、伝統的な正しい神学を学びましたか? 第二バチカン教会会議以後の神学校で学んだ人は、自分自身が学び直す必要があります。大神学校の図書室で第二バチカン教会会議以前の古い神学の教科書を探し出すとかして、まず自分の信仰を正してください。そして司祭であろうがなかろうが、せめて十字架の聖ヨハネの「カルメル山登はん」の第二部、第三部。シエナの聖カタリナの「対話」を読まなければいけません。これを読まないで、自分の経験と素養だけで指導できると考えるのは甚だしい思い上がりです。神に任された責任を果たすために必ず読んでくださいね。

 日本のミッションにおいて、神は幻視者を、キリスト教以外の信仰もって育った人の中からたいてい選んでいます。あなたに任せられた幻視者もそうでしょう? しかしたとえカトリックの幼児洗礼を受けている人であっても、現代主義のカトリック教育を受けているのですから気をつけてください。彼らに残る日本の宗教の名残、ニューエイジ思想、現代主義のカトリックの異端に厳重な警戒が必要です。神を降ろすとか、霊がつくとか表現する幻視者に対して厳密に識別してください。パワーとかコンタクトとか異次元とか宇宙とか、そういったたぐいの言葉を使う幻視者に対して厳密に識別してください。聖霊に関するカリスマティックなとらえ方や、カリスマティックな動作をするもの、カリスマティックな歌を好む幻視者に対して厳密に識別してください。カルマ、因果応報、輪廻転生の思想はかけらさえ許してはいけません。カトリック信仰とほんの少しでもそぐわないものは、天からのものではあり得ません。悪魔は巧妙に、そして強力にこれらの影響に乗じてきます。

 あなたが識別の前に、まず幻視者に対して命じなくてはならないことは、書くことと、黙ることです。彼らが天から受けた?と思うことを書かせなくてはいけません。そしてそのひとつひとつのメッセージや体験に関して、識別が完了するまで人に話すことを禁じなければなりません。メッセージに関しては、リトル・ペブルさんのサインをもらうまではだまらせるのです。サインをもらったメッセージに関しても、悪魔から、人から、本人の自我からの影響が入っているのですから、あなたは幻視者がそれらの影響を脱することができるように識別し、彼らを導かなければいけません。とにかく識別を厳しくおこなってください。

 あなたは決して幻視者をかこったり、孤立させてはいけません。孤立したがる傾向が幻視者にある場合、それを許してはいけません。あなたがいくら全力を尽くしても、リトル・ペブルさんと一致した世界的な幻視者の輪に、あなたに任せられた幻視者が入らない限り、その幻視者は天から与えられた使命を果たせずに落ちます。これは終わりの時の神の絶対命令なのですから。この一致が皮相的なものにとどまるのが日本人の特徴ですから、あなたは必ず助言してください。リトル・ペブルさんを強く愛するようにと。長上に対しての愛と服従を彼にささげるようにと。そして一致の輪に入っている仲間たちと愛しあい、助けあい、励ましあい、支えあい、祈りあい、交流するようにと。私はリトル・ペブルさんと一致していますと口で言うだけではダメだと。内的な愛が一致には不可欠だと。他の幻視者たちとの交流をアレンジし、彼らに仲間同士の盛んな交流を実行させてください。友情を育てさせてください。修道会の兄弟的交わりをイメージすれば、どういう状態であるべきかわかりますね。一致の輪は大きな本当の家族であって、皆が父親であるリトル・ペブルさんに孝愛を持ち、家族それ自体とメンバー一人一人を愛するのです。その使命の達成のために祈りをささげるのです。もちろん自分のこと以上にですよ。すなわち、イエズスが私が愛したように愛しなさいと命じた通りにです。あなたはあなたに任せられた幻視者にこれを要求し、実行させてください。

 あなたが幻視者に目指させるべき最良のモデルは聖ベルナデッタです。彼女についてはすでに書きましたね。あなたは聖ベルナデッタを超えるところまで連れて行くことを目指してください。

 あなたは気づいていないでしょうが、日本人は悪魔的悲観主義を霊的土台として持っています。この土台を打ち壊し、捨てさせない限り、徳に進歩させることはできません。見かけだけの進歩では、逆にファリサイ主義におちいってしまいます。ですから聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの霊性にならわしてください。希望の徳を強め、神の全き善さを確信させるところから始めるのです。こうして悪魔的悲観主義とそこから起こる恐れ、憶病、不信頼、不信仰を克服させ、超楽観主義者に彼らを変え、何をも、誰をも恐れないものにならせ、信頼の小道を巨人のように走らせてください。

 あなたは指導者として、聖ジェンマ・ガルガーニを担当した天使と霊的指導司祭の厳しさを持つようにしてください。コルベ神父様のように母のようであることと、チマッチ神父様のように太陽のようであることと、その厳しさは両立できます。言うべきことを全部言い、そして愛すればよいのです。単純です。

 では今までこの本に書いた以外のことを書きます。脱魂中の幻視者にはさわらない、さわらせない、これを守ってください。理由は2つあります。ひとつは脱魂中にさわられると激痛を感じる幻視者がいるからです。もうひとつは識別のためです。幻視者がうしろざまに倒れてもいいのです。神はけがをさせません。不思議ですが、本当です。聖パードレ・ピオがあざだらけになったように、悪魔からのものはたんこぶやあざや傷を負うことが多いです。それでも神のお許しになる範囲でそうなるのです。とにかく倒れそうになっても、そのままバタンと倒れさせて放っておくことです。支えないでください。そのまま床にぶったおれていようが、どうなっていようが脱魂が終わるまで放っておいてください。祈りが終わって皆が出ていくときは、後に一人だけ見張りをつけてください。他の人々を幻視者のペースに合わせてはいけません。他の人々はプログラムどおりに動くべきです。特に共同体の場合、幻視者にペースを合わせることは決してしてはいけません。悪魔はたくさんの仕事を果たすべき人々を邪魔し、プログラムをくるわせ、肉体的にも精神的にも疲れさせ、睡眠や休息の時間を奪い、消耗させるために幻視者を使うからです。祈りの時間の前になると悪魔は激しくアタックし、彼らを遅刻させます。食事の時間の前になるとまた、そうします。団体行動の妨げになるようになるようにと悪魔は幻視者にアタックをかけます。ですからさっさとプログラム通りに始め、さっさとプログラム通りに終わってください。幻視者を中心にしたり、重要視してはいけません。むしろ無視してください。

 幻視者には共同体生活に完全に身を沈めるようにと命じ、皆と違うことが起きないようにと願わせてください。というのは、彼らにはよく、目立ちたい、関心を持ってほしい、同情してほしい、大変さを分かってほしいなどの心の隠れた望みがあるのです。悪魔はそこにつけ込んで、共同体の中で幻視者が特別扱いされ、それによって幻視者が傲慢になり、皆は幻視者に引きずり回されて、肉体的にも精神的にも消耗するようにと、さまざまな現象を起こさせます。共同体に住んでいない幻視者への指導も同じです。家庭で、職場で、彼らが皆の負担になるような特別なことをせず、調和して生きるように銘じ、皆に特別視してほしいというたぐいの隠れた望みを捨てさせ、ただ徳の高さ、愛の深さで秀でた存在になるように目指させてください。
 幻視者が既婚女性の場合、夫婦のつとめを拒否しようとするケースが多いです。結果として夫が浮気をし、その女性幻視者は、同情を寄せてくれる男性のワーカーに心を動かしてしまうというようなことが起こってきました。既婚女性のこの望みを厳しく識別してください。修道者の召命と同じく、結婚も召命です。夫婦のつとめの義務も、神の御前での召命の義務です。聖パウロの言うような短期間の特別なケース以外、この望みは天からのものではないはずです。彼女たちの、他の女性幻視者よりイエズスに愛されたいというよくない競争心がその原因です。その自我に悪魔がつけ込みます。この種のよくない競争心には常に目を光らせていてください。

 幻視者は女性の場合、年齢にかかわらず、小さな女の子に至るまで、ねたみ、そねみ、よくない競争心の罪が霊魂を毒しています。重要な使命にノミネートされても、女性たちが次々に落ち、交替しているのは、これらの罪を霊魂から捨て去ろうとしないからです。あなたに任せられた幻視者が、自分と人、特に他の女性幻視者とを比べるような言動を少しでもしたら、すかさず厳しい注意を与えてください。女性同士の張り合いを始めようものなら、あなたは真剣に叱責してください。もう落ちつつあると考えて間違いありません。すぐにそうしないと手遅れになりますよ。本当に幻視者が落ちるのは、あっという間なのですから。

 「他の人よりも!」という考え方。そして「選ばれたい!」という望み、これには高い評価を得たいという望みと、愛や、注目や、関心を独占したいという望みの2つの側面がありますが、これらはエバの罪です。ねたみと傲慢と貪欲です。これらの罪を厳しく指摘し、ためなおし、捨てさせない限り、あなたに任せられた女性は、悪魔につけ込まれ、問題を起こし続けます。あなたが司祭なら「小教区で女性たちを治めることができるなら、司祭は一人前だ」とか司祭同士で言っているでしょう? あなたに任せられた女性幻視者にたとえ表面的にエバの罪があらわれていなくても、必ずこのエバの罪を持っています。ですから兆候が見えなくても治療してください。しかも根本治療を施して下さい。ルシフェルである蛇から、エバが最初に吹きこまれたのは、「神は自分に最高最善のものを与えてくれていない」という悪魔的悲観主義です。これはまさに不信頼、不信仰です。そこから悪魔と同じねたみと傲慢と貪欲に染まっていったのです。ですから聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの霊性にならって完徳を目指させるのです。希望の徳を強め、超楽観主義者にし、「神は私にあらゆる瞬間、全てのことについて、最高最善のもの与えてくださっている」と確信させるところから始めるのです。いいですか? 病巣を取り除かない限り、病気は治りませんよ!

 さて、話題を変えます。あなたが将来、幻視者を通して天に何かを質問することが許されることがあるかもしれません。今は個人的な質問を取り次ぐ役目はリトル・ペブルさんだけが負っています。ですから将来、もしかしてですが、その場合、同じ質問を複数の幻視者を通してしてはいけません。これは天から禁じられています。必ず悪魔がつけ込み、幻視者同士食い違った、対立する答えを受け、混乱させられます。リトル・ペブルさんの場合は、何人ものその時点で最も状態の良い幻視者に同じ質問を取り次いでもらいますが、それは彼に天がそう求めているからで、彼だけの例外です。

 これと同様、やってはいけないのは、第三者のことを聞くことです。特にあなたが長上の立場にあるときは、会員のことを天に幻視者を通して質問してはいけません。なぜなら悪魔が必ずつけ込み、長上に、会員のことを悪く思わせるような内容の答えが与えられるからです。その結果としては会員が長上から不当に裁かれ、召命を断念するケースばかりなのです。過去にこうして尊い召命がたくさん失われました。そのニセの答えが命にかかわるようなものであることもあります。誰かが死んだり、誰かの召命が失われたりしたら、あなたは神のみ前に責任が重いのですよ。

 また、将来、個人の質問をあなたに任せられた幻視者が天に取り次ぐ役目を受けるようなことがもしあったなら、あなたはその幻視者にとっては特別な人であるあなた自身からの影響を与えないため、そして質問にかかわるすべての人の影響が及ばないため、そして幻視者の自我が入らないために、幻視者に予備知識を与えないように気をつけてください。状況を説明してはいけません。Aという人の名を言うとき、あなたが眉をひそめ、Bという人の名前を言うとき、あなたが微笑むなら、それだけでもう影響が出るのですよ。予備知識があなた以外の人からも伝わらないようにしてください。個人が直接幻視者に依頼することを禁じ、あなたが受け付けてください。そしてその個人が天に質問をかけたことを、あなたからも、その個人からも、それ以外の人からも幻視者が聞かないように、知らないようにしてください。そして脱魂してから初めて質問が書かれた紙を渡し、読ませ、取りつがせるのです。このようにしなければ悪魔から、まわりの人から、自我からの影響は避けることができません。

 幻視者はあなたに対して赤裸々な自分を見せようとはしません。良い面ばかりを見せようとします。しかし、どれほど彼らが悪いものを持っていて、教義的にも道徳的にも、修徳的にも間違った考え、思想、知識を持っていて、逆に真理についてほとんど無知であるかを私は説明してきました。あなたの目にはそれらのうちの1%も見えないというのが、あなたと幻視者とのかかわり合いの現実です。あなたは愚かな「かかし」であってはいけません。「ほえない犬」であってはいけません。目をこらし、鼻を聞かせ、耳をそばだて、神の良い番犬であってくださいね。


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【 第146章 】

 幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちへ書きます。読者の皆さんも参考にしてください。幻視者たちは直接天から私的啓示を受けるので、そうでない人より自分の方が神についてよく知っていると思いあがるものです。だからあなたたちへの忠告は、幻視者ではない人の口を通して神がお与えになるのです。それはあなたたちを謙遜にとどまらせるためです。過去、日本のリトル・ペブルさんと一致したミッションで、幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちは傲慢にもリトル・ペブルさんのためなおしを受け入れずに落ちましたが、しかしそうなる前に、彼らは落ちて当然の傲慢をすでに持っていました。「自分の方がよく知っている」と考える傲慢です。「神のことなら、私の方がよく知っています」 これが彼らに幻視者でないものが忠告すると、必ず返ってくる言葉です。あなたたちはそうであってはなりません。天から直接私的啓示を受けない人をあなたたちが見下すので、神はわざわざあなたたちが見下す人の口を通してあなたたちに忠告するのです。そうして与えられた忠告を聞かないなら、あなたたちも彼らの二の舞いになるでしょう。神があなたたちを選んだのは無知、無学だからです。「これは私の知識ではありません。私は無知、無学です。神をほめたたえてください」と言える人、知っていると思いあがることのできない人を選び、ご自分の働きが誰の目にも明らかになるようになさりたいからです。あなたが「私は無知、無学だ」と思わなくなったら、神はあなたから恵みと使命を取り去り、「私は誰よりも無知、無学だ」と心から考えるもっと小さな人にお与えになるでしょう。あなたたちがあまりにも知識における傲慢におちいるので、あえて言いますが、あなたたちは自分がほとんど何も知らないということさえ知らないので、それで自分は知っていると思いあがるのです。この傲慢ゆえに、あなたたちが「私は天から直接指導されているのだから、自分一人でやっていける」と必ず考えることは、経験上もうわかっています。悪魔が必ずこの考えを吹き込むからです。悪魔はあなたたちを思い上がらせようと全力を尽くしています。あなたたちの霊魂に直接この思いを吹き込むだけでなく、あなたたちの隣人の尊敬の目、言葉、態度を通しても、あなたたちにこの思い上がりを持たせようと必死です。誰もこの悪魔の攻撃から逃れられません。それであなたたちが思いあがることはないように、この本に私が今まで書いたものを、よく利用してください。私はあなたたちの徳の家は岩の上ではなく、砂の上に建てられていると書きました。あなたたちは皆、悪魔的悲観主義の土台の上に立っているからです。徳の修行を最初からやり直さなければダメだと書きました。聖ヨゼフと幼きイエズスの聖テレジアの霊性にならって希望の徳を強めるところから始めない限り、あなたたちの徳は張りぼて、張り子のトラです。まわりの人はあなたたちの徳を本物とみているでしょうが、実際は中身のない見かけ倒し、こけおどしです。あなたたちは一人でやっていけると思い孤立していますが、聖ルチア、聖アガタ、聖アグネス、聖フィロメナのように、たった一人で残虐な殉教の苦しみを何度も何度も忍べるほどの強い気持ちを持っているのですか? いいえ。あなたたちはそんな気持ちの強さを持っていないし、一人では決して持つことができないでしょう。励まされ、支えられ、祈ってもらい、神に従順の報いとしての奇跡による助けを与えられ、やっと殉教できるでしょう。だから一致の輪に入るようにと命じている神に従順でなければならないのです。もしリトル・ペブルさんと一致している他の幻視者たちと知りあおうともせず、交流しようともせず、友情を育てようともせず、それができるようにとまわりの人の援助を願おうともしないならば、あなたたちはもう落ちることを選んだようなものです。あなたたちは、天から直接指導されるから一人でやれると思っていますが、本当に誰の指導もいらないと言うのですか? ではあなたたちは聖ベルナデッタと同じ、完全な幻視者としての態度を自分もとらなくてはいけないということを前から知っていたのですか? 本当は彼女のようにならなければならないということさえわかっていなかったでしょう? 自分と聖ベルナデッタの完全さとは天と地の隔たりがあるというのに、自分はもうかなり神の望まれるレベルに達していると、とんでもない自己満足に浸っていたのではありませんか? それどころかどこを目指していくべきかさえわかっていなかったのではありませんか? あなたたちは聖ジェンマ・ガルガーニが導かれていた、どんな些細な罪もことごとく、厳しく指摘する天使や、洞察力に富む、特別厳格な指導司祭を持っていません。なのに自分の犯している罪や、おちいっている誤り、悪い傾き、持っている欠点、弱点が皆わかっているし、自分ですべて分かるというのですか? あなたたちは聖なる、完全な、徳の実践の模範を見ないでも、徳の本当の意味、対立する悪徳、罪、罪を避けることのあらゆる側面を悟ることができるというのですか? このように自分に問いただし、少しでも真の自分の有り様に気づいて、どうか悪魔が直接、または隣人を通して吹き込む思い上がりにおちいらないようにしてください。

 あなたたちは愛のフィーリングは豊かなようですね。あなたたちは感覚的、感情的な日本人の中でも特にその傾向が強い人間です。しかし、愛はフィーリングでも、感覚でも、感情でもありません。本当の愛とは何かを今考えてみてください。あなたたちが自分自身を愛深いと思い込んでいることを知っています。その愛はフィーリングであって、本当の愛ではないのですよ。感情としてとらえられる側面としてならば、愛は悲しみとしてとらえられます。なぜなら本当の愛と悲しみは正比例するからです。あなたの本当の愛が大きくなればなるほど、あなたの悲しみも大きくなるのです。人間の持っている愛の中で、神の愛に最も近いのは同情心です。あなたが、霊魂たちが罪によって自分自身をどれほど惨めな状態にしているかを嘆き悲しむ度合が、あなたの本当の愛の大きさのバロメーターにはなりえます。本当の愛の大きさのバロメーターは、あなたの喜びでも情熱の高まりでも決してありません。ただしかし、嘆き悲しむだけでは愛したとは言えません。嘆き悲しみ、彼らの救いを望み、その願いをささげて取り次いだなら愛したと言えます。つまり、あなたが愛したと言えるのは、他者の十字架を一緒にになった時なのです。ですからリトル・ペブルさんも、マザー・テレサも言うように愛はおこないなのです。愛している人とは、他者の十字架を一緒にになっている人のことを言います。そして本当の愛を持っている人は、他者の十字架を一緒ににないたいと熱望しているはずなのです。もしビジョンの中でイエズスが、重い十字架をになって、恐ろしい苦しみのあまり、あなたの目の前で、あなたの足元に倒れたとしたら、あなたは同じ十字架をにないたい! 同じ苦しみを受けたい! 同じ運命にあずかりたい! と望みますか? これを望むことは「意志」であって、心の「おこない」です。「おお!かわいそうに!」で終わるならば、それがどんなに激烈で、気が狂ってしまいそうなほどの感情であっても、感情にすぎないのです。愛してはいません。これが「一緒に十字架をになわせてください。一緒に苦しみを受けさせてください。一緒の運命にあずからせてください」と望むなら、心は望むというおこないをもって本当に愛したのです。フィーリング、感情、感覚と、心のおこないである望むこととは全く違うことがわかりましたか? 心のおこないである十字架を共有したいという望みが強ければ強いほど、実際に神が十字架を送って下さった時に、それを受け取ることがたやすくできます。つまり本当の愛を心に強く持てば持つほど、実際の十字架をより多くになえるのです。マリア様のこのリトル・ペブルさんと一致したミッションでは、初期の時代から何度も何度も、イエズスとともに十字架にはりつけられているリトル・ペブルさんとヨハネ・パウロ2世のビジョンが与えられ、この2人がイエズスとともに全人類のために十字架をになっており、世界で最も苦しんでいると繰り返し知らされてきています。同情の愛が神の愛に最も近いと書きましたね。本当の愛を持っている人は他者の十字架を一緒ににないたいと熱望しているとも書きましたね。あなたたちは神から長年、繰り返し啓示されてきているこの事実を前にしています。イエズスの十字架をになって世界で最も苦しんでいる2人を前にしているのです。ビジョンの中でイエズスがあなたの目の前で重い十字架の下に押しつぶされて苦しむのを見るのと何ら変わりません。イエズスの苦しみが現実であるのと同様、2人の苦しみも現実なのですよ。あなたはこの2人と同じ十字架をにないたい、同じ苦しみを受けたい、同じ運命にあずかりたいと望みますか? この啓示されてきている事実を以前から知っていて、このように望んでこなかったのなら、あなたには本当の愛はありません。今、初めてこれを聞き知って、その瞬間に、この2人の十字架を共有したいという望みが燃えあがらないなら、あなたにも本当の愛はありません。「同じ十字架をにないたい。同じ苦しみを受けたい。同じ運命にあずかりたい」と望む愛を「花嫁の愛」と私は名付けています。花婿であるイエズスが神秘体の頭として受けている受難と死に、花嫁である神秘体=教会の一員は、この愛によってあずかるからです。忠実な花嫁にとって最高の幸せとは、花婿と運命を共にすることであって、その運命がどんなに苛酷なものであろうともそれは変わりません。愛の使徒聖ヨハネは、師である洗者聖ヨハネがイエズスのことを「神の小羊」と呼んだ時、この人(イエズス)が全人類の罪を背負っている「いけにえの小羊」であることを知り、その瞬間「花嫁の愛」をイエズスに対して持ったのです。他の人たちは、この「花嫁の愛」を持っていませんでした。愛の使徒聖ヨハネはこの「花嫁の愛」のおかげでイエズスの運命にあずかれたのです。彼だけがイエズスとともにカルワリオの処刑場に行き、十字架の下に最後までずっととどまることができたのです。他の使徒たちは逃げ、イエズスと運命をともにしようとはしませんでした。過去の日本のミッションにおいてたてられた幻視者で、「花嫁の愛」をリトル・ペブルさんに対して持った人は一人もいません。皆、並の愛のまま始め、しかも自分のミッションが発展すると、自分の身内たちの方に愛の比重を移し、リトル・ペブルさんへの愛をどんどん減らしてゆきました。愛の使徒聖ヨハネが今、生きていて日本のミッションにおいて幻視者にたてられたなら、彼は全人類のために最も苦しんでいるリトル・ペブルさんに対して「花嫁の愛」を絶対持つことでしょう。そして何があってもリトル・ペブルさんと運命をともにし、死ぬまでその横を離れず戦い抜くことでしょう。このことは、今、御父があなたたちに命じていることです! 特別な賜物をいただいたあなたたち全員に対する御父のこの絶対命令を果たせるかどうか、その鍵は、リトル・ペブルさんに対して「花嫁の愛」を持つかどうかです。愛は強制されて持つものではありませんから、私はあなたたちに忠告するだけです。ただ私は、あなたたちがリトル・ペブルさんに対する「花嫁の愛」を持たずに、彼がイエズスと共にいるカルワリオまで行き、かつ、そこにとどまれるとは思いません。

 幻視者たちの「私は知っている」という思い上がりについてと、「私は愛している」という思い上がりについて書きましたから、次は「私は仕えている」という思い上がりについて書きましょう。あなたたちが自分は神に仕えている、しかも他の人よりもずっと神に仕えていると考えていることを知っています。では、ある司教が、寝食を忘れるほどすべての時間と体力をささげて教区民のために働き、自分の財産もすべて彼らのために費やしながら、ヨハネ・パウロ2世に従わなかったとしたら、その司教は神に仕えていると言えるでしょうか? 従うようにと神がおたてになった神の代理者に従うことを拒んでいるとしたら、その司教は神には仕えていません。神がおたてになった長上に従わないことは、神に従わないことです。神に従わないことは、神に仕えないことです。神はもう随分前から、世界中のすべての幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちに、リトル・ペブルさんと一致した幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちの世界的な一致の輪に入り、リトル・ペブルさんを自分の長上として受け入れるようにと命じています。このイエズスの再臨間近の「終わりの時」にたてられたすべての幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちへの御父からの絶対命令です。先の例でわかるように、あなたがリトル・ペブルさんに長上に対する従順をつくすとき、あなたは神に従順をつくしており、神に仕えていると言えます。まず、一致の輪にも入らず、リトル・ペブルさんを自分の長上として受け入れずに御父の命令を拒むなら、あなたが何をしようが神に仕えているとは言えません。次に、一致の輪に見かけ上は入っているけれども、リトル・ペブルさんを長上として受け入れていないなら、これも神に仕えているとは言えません。今の世界中の司教たちが「私はヨハネ・パウロ2世に従っている」と言っていても、神の目から見て、ヨハネ・パウロ2世に今、本当に従っている司教はほんのわずかです。なぜならほとんどの司教は長上にささげるべき愛と従順をヨハネ・パウロ2世にささげていないからです。これと同じことがあなたたちにも当てはまります。「私はリトル・ペブルさんに従っている」と口で言っている人のうち、長上にささげるべき愛と従順をリトル・ペブルさんにささげている人はわずかしかいません。神の目からあなたたちのほとんどはリトル・ペブルさんに従っているとは見えていません。あなたたちは神にも従っておらず、仕えてもいないのです。「長上にささげるべき愛と従順」。これは修道者の中に模範を見ることができます。しかしあなたたちには修道生活の経験がなく、修道者を見たことすらないでしょうから、できるだけ詳しく説明しなければいけませんね。神は長上に目下の者に対する強い慈父的愛を賜物として豊かにお与えになります。長上は自然的にも、自分にその世話を任されている目下を愛しており、それに加えて神からいただいたこの超自然的愛でさらに強く目下を愛しています。長上が目下のものに持つ愛は非常に大きいのです。あなたたちはリトル・ペブルさんが世界中の幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちに、どれほど大きな愛を注いでいるか想像もできないでしょう。イエズスの新しい掟を覚えていますか? 「互いに愛しあいなさい」という掟です。長上は目下のために愛と祈りをささげつつ大いに奉仕します。ですから目下も長上のために愛と祈りをささげつつ大いに奉仕しなければ、「互いに愛しあいなさい」という掟に背くことになるのです。このように長上にささげるべき愛とは、長上が注いでくれている非常に大きな愛にみあった「祈りと奉仕をともなった非常に大きな愛」でなくてはならないのです。これをささげて初めて、「互いに愛しあいなさい」という掟にあなたたちは従ったことになるのです。また、修道者が長上にささげるべき従順は、この愛と奉仕に満ちたものです。あなたたちは従順とは指示された通りに動くことだと思っているでしょうが、そうではありません。それは最低限の、そして最低の従順です。修道者の理想とする従順とは、長上の言いあらわさない意向までもくみ、先回りをして望みを果たす、そういった従順です。長上の意志を先取りするほど自分の意志に死に、長上の意志を自分の意志とし、愛と奉仕に満ちた従順をささげるのです。長上が命令することはそう多くはなく、特に、従順の名のもとに命令することはほとんどありません。けれども善い修道者はこのようにして絶えず従順を実践し、自分の意志を神にささげものとしてささげるのです。自分の持ち物ではなく、意志をささげることほど大きなささげものはありません。ですから従順をこのようにしてささげる善い修道者は、それによって日々、莫大な功徳を積むことができるのです。では、あなたたちはどうでしょう。自分の意志に死ぬことなどさらさらない勝手気ままな生き方をしていませんか? たまにリトル・ペブルさんからの指示や依頼があるとき、それに従うだけ、また、天からのメッセージを受けたら、リトル・ペブルさんに確認してもらうだけ、そうではありませんか? 例えばあなたたちはリトル・ペブルさんが一致の輪に皆が入るように願っているのを知っています。あなたたちはリトル・ペブルさんのこの意向をくんで、その実現のために祈り、奉仕をしていますか? 違いを乗り越えて一致しようと仲間に一生懸命に呼びかけていますか? 善い修道者は、長上からストップがかかるまで自発的に長上の意向をくんで奉仕をし続けます。あなたたちはそういうおこないをしていますか? 今の説明で分かったと思いますが、あなたたちもリトル・ペブルさんに「長上にささげるべき愛と従順」はささげていません。ましてや迫害を避けて隠れていたり、リトル・ペブルさんとの一致を明白に打ち出さないなら、どうして仕えているなどと言えるでしょうか。彼と同じ戦線で、彼の横を決して離れず、彼とともに迫害の矢面に立って戦い続けている人だけが彼に仕えているのです。リトル・ペブルさんはそうする人をどんなに望んでいるでしょう! そして今、この終わりの時に、御父はそうするようにとすべての幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちに命じているのです! イエズスの掟にも、御父の命令にも従わない人は、神に仕えてなどいません。勝手気ままなやり方で自分のまわりの人たちに仕えていることで、神に仕えていると思い込んでいるだけです。

 次に、あなたたちが共通して持っているもうひとつの思い上がりを指摘します。それは神に選ばれたことからくる思い上がりです。幻視者に選ばれたのは自分が他の人々より良い人間だからと考える思い上がりです。これは大変危険なことです。ほとんどの幻視者は落ちてしまいますが、彼らがあっさりと落ちてしまうこと、何が何でも神に「ハイ」と言い続けるぞ!と考えずに、平気で「いいえ、お断りします」と言ってしまうことをなぜなのか考えたことがありますか。それは彼らが「幻視者に選ばれた自分は天国に近いのだから、使命を拒んでも良い信者として生きていけるから、天国へは確実に入れる」と考えているからです。そうして現実にどうなったかというと、彼らの多くが今、反キリストのロード・マイトレーヤの霊力に支配されて、偽りの幻視者として働いています。反キリストの幻視者として、神の真のミッションとリトル・ペブルさんを攻撃し、破壊する道具となっています。彼らは最後まで「ハイ」と神に言い続ける人、つまり最後まで堅忍する人だけが救われるという真理が、自分の思い上がりによって見えなくなってしまったので、あっさりと「いいえ」と言ったのです。そしてその「いいえ」は、実は悪魔への「ハイ」なのです。「私に向かって、"主よ、主よ"、と言う人が皆、天の国に入るのではない、天にまします父の御旨を果たした人が入る。その日多くの人が私に向かって"主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか"と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、"私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行うものよ、私を離れ去れ"」(マテオ7・21−23) このイエズスの御言葉があなたたちの上に実現することのないように、選ばれたことで思いあがるのはやめてください。ひどい家庭に生まれ育ち、極悪人になり、死刑囚になり、そこでカトリックの教えを知り、天国に入った人が何人もいます。神がそのように彼らを救おうと定めておられ、神に呼びかけられた日から、死刑の時まで、彼らが「ハイ」と言い続けたから天国に入ったのです。全ての人に神は呼びかけ、「ハイ」と言い続ければ救いが得られるように、永遠の昔から全ての人、一人一人に救われる道を定めています。あなたたちには死刑囚になって救われるという過酷な召命ではなく、特別な賜物で満たされる道を神は永遠の昔から定めておられたのです。つまり神はあなたたちを幻視者、神秘家、恵みの霊魂にすることで救おうと定めておられます。「ハイ」と言い続け、御父の御旨を果たしたなら、天国に入るのです。あなたは他の方法で自分が救われると思いますか? 例えば自分が死刑囚になったとき、カトリックの教えをそこで受け入れることができると自信を持って言えますか? あなたを救うには、特別の賜物を与えるしかないので、神はあなたにこの道をお定めになったと、そう考えるべきです。他の人々は、特別な賜物は必要なく、見ないで信じ、救いを得ることができるのに、自分は聖トマのように見ないと信じ続けることができないから、こうして神が特別の賜物までも与えて救おうとしてくださっているのだと、そう考えるべきです。この道は他の人々より悪い私を救おうとして、神が投げて下さった唯一の救いの綱なのだと考えるべきです。そうすればこの道を行くのをあっさりとやめようとは思わないはずです。多くの幻視者が神に「いいえ」と言った後で、反キリストのロード・マイトレーヤの幻視者になってしまっていますが、もうなぜそうなるのかわかりましたね。神は悪いあなたを救おうとして幻視者にたてたのです。神の救いの計画を拒まないでください。死刑になって救われる人より、あなたのこの召命が過酷だなんて言えますか? もし選ばれたことで思いあがるのをやめていたなら、そして今、私が書いたように謙遜に考えていたなら、ほとんどの幻視者は落ちなかったでしょうに! 滅びたくない一心で、たとえ血の涙を流すようなつらい道を歩けと言われても、「ハイ」と言って喜んで苦しんだはずです。

 すでに書きましたが、自分の使命に忠実であり続ける幻視者は100人に1人もいません。神がどんな人にも公平なお方であることを考えると、今死ぬ人の90%が地獄に行っているというこの終わりの時、特別な賜物を与えられた人も90%は地獄に行っているのではないかと私は思います。しかし、これはあなたたちが自由意志で選ぶことで、神は常に限りないあわれみそのものです。私がカナダにいる間に、アメリカ合衆国で最も有名な幻視者が、リトル・ペブルさんとの一致を拒んだまま死にました。しかし彼女は神のあわれみにより、煉獄の一番下、最も苦しい煉獄ですが、そこに入ることができたのです。彼女に苦しめられたリトル・ペブルさんが、彼女の生前に、彼女の救いのために祈ったからに間違いありません。そしてリトル・ペブルさんの依頼により、私たちは彼女の煉獄からの解放を熱心に連日祈りました。そして彼女の煉獄は、この世の日数では短くてすんだのです。

 最後にあなたたちに指摘したいことは、あなたたちが落ちた仲間の救霊のために祈っていないということです。そうです。世界中のすべての幻視者、神秘家、恵みの霊魂はあなたたちの仲間なのです。その仲間が地獄に向かいつつあるのに何とも思わないのですか? 確かにかつての仲間であり、今は多くが敵になってはいますが、あなたがもし彼らの立場になったなら、かつての仲間が愛してくれない、祈ってくれないということで、どれほど自分を滅びから救うのが難しくなるかを考えてみてください。恵みの内にとどまっていて、大きな取り次ぎの力を持っている人が取り次ぐなら、救いの可能性はぐんと増えます。なのにその人たちが祈らないのです。リトル・ペブルさんはあなたたちに落ちた人のために祈るようにと命じています。この命令にあなたたちは従っていません。落ちた仲間のことをすみやかに忘れ去ってしまいます。あなたたちは、命の最後の瞬間にまでも、落ちた彼らが滅びないようにと、あらゆる手段を尽くす神に協力していません。神のあわれみの心がわかっていません。神の愛がわかっていません。あなたたちには本当の愛がないことが、これによってもはっきりとわかります。「愛さないものは神を知りません。神は愛だからです」と聖ヨハネが言っています。神を知っていると思いあがるあなたたちに、ぜひ黙想してもらいたい御言葉です。

 あなたたちもすべての人と同様、神を知り、愛し、仕え、救霊を得るために生まれてきたのです。自分は神を知っている。神を愛している。神に仕えている。自分の救霊は確実だと思いあがっているあなたたちのことを、どうにかして一人でも多く救いたいとこれを書きました。あなたたちよりも下の、そして幻視者でもない、何の権威も持っていない者の口を通しての忠告です。傲慢を捨てて耳を傾けて下さい。どうかお願いします。



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【 第147章 】

 天からのメッセージを読む日本人の皆さんへ書きます。皆さんはメッセージの中で預言されている戦争、天災、飢餓、疫病などを恐れますが、それは大間違いです。これらのものは恐れてはいけないのです。体を滅ぼすものを恐れてはいけません。逆に皆さんは、メッセージがいま死ぬ人の90%は地獄に行っていると教えているのに、このことは恐れず、その意味がちっとものみこめていません。これは皆と同じにしていれば滅びます、地獄に行きます、と教えているのです。日本人である皆さんは、これをこそ恐れるべきです。皆さんには世間に従うという強固な意志があります。皆と同じにしていれば安全だという、信仰に似た確信があります。だからこそ、世間に従い、皆と同じにしていれば滅びるという警告が重要なのです。ある宣教師が来日早々、修道院の近くの5人の子に一人一人違うご絵をあげたら、子供たちに同じご絵でなければイヤだと言われた思い出を語ってくれました。最初のカルチャーショックだったのです。子供からして皆と同じであることを強烈に指向するのが日本人です。皆さんがメッセージを読むときは、意志と行動は世間に合わせるという無意識の断固たる決意のもとに読んでいます。それが欧米人と全然違うところです。そして感覚的な民族である皆さんは、いくら読んでも感覚的にとらえるのみで、読む楽しみを味わって終わりです。表面的な知識が増えただけで「ためになった」と満足してポイッです。人格的な変化は起こりません。良くて「小手先の変化」があるくらいです。それは世間に逆らわない範囲でという、世間に従い、皆と同じにするという決まりを守りつつの、メッセージの瑣末的部分の採用です。コルベ神父様はポーランド人です。文書伝道を日本で繰り広げましたが、日本のことをコルベ神父様は「読みふける国」と言いました。ふけるという行為は感覚的な楽しみだけを追求するという行為です。いくら真理を教える良い本を読んでも、「ああよかった。涙が出た。感動した。心が洗われた。こんな考えもあるのですね。新しい知識が身につきました」と人格的変化は全く起こすことなく、「では、次のものを」と読む。そうしていつまでも読むだけで変わろうとしない国、これが日本です。しかしメッセージの本質は、世間に従い、皆と同じにしていたら地獄に行きますという訴えです。意志と行動は世間に合わせると最初から決めている皆さんには、滅びの宣告のようなものです。なぜこのことを恐れて、怖がらないのですか? 聖ヨゼフの霊性の説明で、超楽観主義者となって誰をも何をも恐れてはいけないと書きましたが、これだけは例外です。なぜなら意志と行動は世間に合わせるという皆さん自身の無意識の決意は、皆さんの霊魂を滅ぼすからです。霊魂を永遠の滅びである地獄に連れて行くものだからです。日本人は和魂洋才と言っていますが、和魂が「世」と和することであってはなりません。イエズスは「私はこの世に勝った」(ヨハネ16・33)とおっしゃいました。次の御言葉を聞いてください。「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちよりも先に私を憎んだことを忘れてはならぬ。あなたたちがこの世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。しかしあなたたちはこの世のものではない。私があなたたちを選んでこの世から取り去った。だからこの世はあなたたちを憎む」(ヨハネ15・18−19)「私は彼らにあなたの御言葉を与え、そしてこの世は彼らを憎みました。私がこの世のものでないのと同様に、彼らもこの世のものではないからです。私は彼らをこの世から取り去ってくださいと言うのではなく、悪から守ってくださいと願います。私がこの世のものでないのと同様に、彼らもこの世のものではありません。彼らを真理において聖別してください。あなたの御言葉は真理であります。あなたが私をこの世に送られたように、私も彼らを世に送ります」(ヨハネ17・14−18) この世のものであり続ける人は、イエズスのものにはなれません。この世のものではなくなるとは、メッセージによって天からの御言葉を与えられ、イエズスによって選ばれ、聖別されることによってこの世から取り去られるときそうなりますが、それはまさにこの世と闘い始めることです。あなたたちはこの世に逆らい、立ち向かい、勝たなければならないのです。例えばローマ人たちはオリンポスの神々を信じる根っからの異教徒で、退廃した享楽主義者でした。しかし彼らは福音を告げられると、直ちにこの世に立ち向かい、闘いました。財産を貧しい人に施し、奴隷を酷使するのをやめ、特に同じ信仰を持つ奴隷には、主人の立場を捨て、兄弟として扱いました。イエズスのために命を捨てることに常に備え、イエズスのためだけに生きました。女性は衣食の道楽をやめ、夫に尽くし、子をキリストの英雄になるように諭しつつ育てました。当時の世の母親たちが立身出世とかを望む、世に迎合する生き方を子に教え、衣食の道楽を極めていたのとは正反対の生き方をしました。娘たちは夢のように純潔でした。彼女たちの生き方は、当時の一般の娘たちの享楽的で退廃した生き方の逆でした。しかし異教徒の男性たちは、キリスト教徒の娘たちに大変にひかれたのです。それで若い乙女たちの殉教が、邪悪な求婚者からもたらされたと同時に、聖セシリアのように異教徒の男性をキリスト教徒にする力を彼女たちは発揮したのです。彼ら、ローマ人たちは闘う精神に満ち溢れていました。騎士の国、ポーランドのコルベ神父様も闘いの精神を常に修道士たちに求めていました。400年前の日本のキリシタンたちは、主君でありながら家臣や僕のために自ら十字架のはりつけの刑を受けた神、イエズスの話を聞くと非常に感動し、こんなお方のために生き、闘い、死にたいと望んだのです。こんな主君のために死ぬ、つまり殉教することは最高の栄誉で、理想の生き方だと憧れたのです。あなたたちは同じ日本人ですが、今はそのように誰も考えませんね。闘いの精神をこれぽっちも持っていないからです。「和魂」はこの闘いの精神であるべきです。あなたたちは、あらゆる面で世間にだまされています。家でも、学校でも、社会でも。芸能人、マスコミ、先生、親、誰一人として正しいことを言っていません。皆があなたたちを世間のために生きる世間の奴隷になるように導いています。そしてあなたたち自身が世間に逆らいたくない、世間と同じでありたいと強烈に願っているのです。だから皆さんは世間の否定と自己否定と自分の宗教の否定から始めなければなりませんよ。自分は無宗教だという人には、日本人としてあなたは「世間様」を自分の神としているのだと指摘します。マリア・ワルトルタへの啓示の中で、イエズスはローマ人たちに、神殿をまず壊して新しいものを建てるようにと、つまり、根本から何もかも、宗教も思想も、主義も、精神も、生活も、意志も、行動も変えるように教えています。全く同じことを日本人である皆さんはしなければいけません。皆と同じにしていれば滅びます。このことを真剣にどうか考えてください。

 さて、400年前のキリシタンたちは、イエズスの愛に感じ、愛のために、イエズスのために生き、闘い、死ぬことを知っていました。彼らの善い精神をあなたたちは今は持っていませんが、400年前の日本人が持っていた悪い面は、まったく変わらず今もあなたたちは持っています。それは何かというと「曖昧さ」です。フロイス神父という宣教師が書き残しています。「ヨーロッパでは、言葉において明瞭さが求められ、曖昧さは避けられる。日本では曖昧なのが一番よい言葉であり、最も重んぜられる」(フロイスの日本覚書、中公新書) 欧米で日本語を使わずに生活すると、彼らが話し合いを非常に重んじることと、話し合いが全てを明確にするために行われることがよくわかります。最も明確になるのが、自分が何を確かに知っていて、何をあやふやに知っていて、何を知らないかということと、責任をだれが負うかということです。

 曖昧さをよしとする国民性を持った日本人は、すぐ「知っているつもり」になります。知らないと認めなくてもよいのですから。そのため、たいへん傲慢になります。曖昧なままに物事が進んでしまうので、末端の現場がすべて尻ぬぐいすることで社会がまわっています。そして責任の所在も曖昧にできるので、問題が起こっても、皆が無責任に対応します。誰も自ら進んで責任をとろうとしません。皆が皆、知っているつもりになっていて、ほとんど何も知らず、皆が皆、無責任であって、責任が生じる立場になることを恐れて避けながら、それでも修道会である共同体が設立できると思い込んでいるのが、このミッションの日本人です。共同体は一つの事業です。その設立の方法は一つの会社を設立するのと完全に同じなのです。最初から法的、事務的なことをぬかりなくこなしていかなければなりません。日本人はこのことを全く理解しておらず、皆がとんでもない思い違いにおちいっています。共同体は法人格を持ち、日本国憲法にのっとって権利を行使し、義務を履行しなければならないのです。税金も払うし、種々の保険にまでも入り、保険金も払うのです。あらゆることが法律と契約とに従って行われるための書類が最初から作成され、整えられなければなりません。今に至るまで日本では共同体の設立の試みにおいて、法的なこと、事務的なことが常に全く無視されてきました。一回も正しい共同体の設立の仕方が行われたためしがありません。これではいつまでたっても100%失敗します。建物ひとつ建てるにも、さまざまな法律、規制、税等の知識が必要なのです。誰かが共同体を設立しようと思えば、法人のこと、国や地方の法律、規制、行政、税等のことを研究しなければなりませんし、共同体を設立したい人はもちろん、共同体に入りたい人も皆、聖シャーベル修道会の会則会憲を熟知するよう努めなければなりません。知っているつもりなのか、必要がないと考えてなのか、その両方でしょうが、日本人は会則会憲を読もうとはしませんが、会則会憲を読まずに修道会の支部である共同体の設立者になったり、会員になったりすることなど絶対にありえません。修道会の会員は皆、会則会憲を所持して、折りにふれて読み返すものなのです。それに加えて、聖シャーベル修道会の精神とカリスマ、一般的な修道者的精神、人々の中で隣人を介して愛と善徳を身につける方法も熟知しなければなりません。たとえ幼児洗礼の信者で、メッセージを長年読んでいる人でも、これらの知識はゼロなのですよ。自分が知っているなどと決して思ってはいけません。自分が全くこれらのことを知らないということは、知っている人を交えて話し合えばわかります。そして何もないところから、一から会社を立ち上げていくときに、どれほど話し合いを積み重ねますか? 細かいところまで詰めていかなければならないのです。法人法、商法、市場調査、研究、開発、話し合い、識者への相談etc、曖昧さが許される部分などどこにもありません。共同体を立ち上げていくときも、まったく同じなのですよ。共同体の設立者や会員になる人以外の人も「私はそのことについて無知です」と人に言える謙遜と責任逃れをしない強い責任感を身につけるために、日本人の伝統である「曖昧さ」を自分に許さないように努めて下さい。この曖昧さのゆえに日本人は、見かけは謙虚であるかもしれませんが、実はひどく傲慢です。責任感が強いといわれていますが、それは組織の中の歯車として働いている場面だけでのことです。本当は無責任で、責任を追及されると男らしくない、見苦しい逃げばかり打ちます。

 さて、共同体の設立の法方は一つの会社を設立する方法と完全に同じなのですが、その精神が全く違います。日本人が日本人の持っている概念の中で思い描く共同体は、聖シャーベル修道会の共同体とはかけ離れたものに必ずなってしまいます。日本人が思い描き、作ろうとするものは、全て中央集権の上意下達のものになってしまいます。それは日本人の頭には権威主義と官僚主義しかないからです。まず、聖シャーベル修道会は地方分権です。中央集権を考えてはいけません。中央集権は、中央の意に沿わないものは異分子として排除します。中央が決める色に皆が染まるように強制します。これは一致ではなく排他的な孤立主義です。聖シャーベル修道会のカリスマである一致と逆行する考えです。

 次に、上意下達ですが、これも聖シャーベル修道会のやり方ではありません。共同体では全体においても各部所においても上意下達のやり方は決してあってはなりません。すべての部所において、話し合いでことを決めるのです。下の意見が上に達していくのです。権威主義については前に多く書きましたが、もう一度、共同体内の一致と愛と平和の最大の敵、「告げ口」の行為に関して考えてみてください。話し合わないで命令するのは、上に立つ人の権威主義ですが、相手と話し合わずに相手のことを告げ口するのは下にいる人の権威主義です。権威者を味方につけて、話し合わずに相手を従わせようとするのですから、自分が権威者になるのと同じです。権威を持つ人の取り巻きになるのもまた、同じ権威主義の行為です。上の人にはへいこらして、下の人には横柄なのも権威主義です。日本人はすべからくこれをやっています。アメリカでは「日本人は上の人の靴をなめ、下の人の頭の上にあぐらをかく」と言っています。これが権威主義の醜さです。これが共同体の会員だったら、どんな共同体になることでしょうね。

 聖シャーベル修道会のカリスマは「一致」ですから、会員は一致を目指し、一致のために恥も外聞もなくへりくだって尽くさなければなりません。官僚主義については、日本の中央集権的官僚制度を決して真似してはいけません。あれは一致の正反対の動きです。官僚が中央にいて、地方の人に出向かせ、接待させたり、殿様のようにふんぞりかえって服従させる、このようなことはいけません。このミッションに置き換えるなら、組織に加入して、ある幻視者とか、ある共同体に協力する人以外は相手にしないとか、助けを願っても無視するとか、上に立つ人のそのような行為です。官僚主義は支配欲という罪深い内面の欲望がその源です。また、官僚制度は、上に位置すればするほど甘い汁が吸える制度です。だからこの制度は人を出世欲の虜にします。この制度は絶対にダメです。真の共同体の姿とは全く違うのです。

 上の者が下のものを完全に支配する組織しか考えられないこと、共同体をただの共住する村のように曖昧にとらえること、皆が同じであらねばならないとすること、命をかけて宣教しようとする闘いの精神がないことなどの日本人の特異性に、悪魔的悲観主義からくる恐れ、憶病、不信頼が合わさって、今では日本のミッションに参加している人たちのつくろうとしている共同体のイメージは、忍者の隠れ里のようなものにまでなってしまっています。身の安全のためには鉄の掟で互いに縛りあい、秘密を守るつもりでしょうが、もしそういうものをつくっても、誰か一人でも退会して、しゃべってしまったら安全は保てませんね。忍者のように抜けたものを口封じに殺すなら別ですが……。

 共同体とは修道会です。修道会とは公のものです。隠れないのですよ。ナウラの母院が隠れていますか? リトル・ペブルさんが隠れていますか? 共同体は全く逆に、この世と全教会の光となるために、すべての人の目に自らをさらし、模範によって教え導きます。また、修道会ですから、開かれているものであり、決して閉鎖的なものではありません。入会したい人は、志願者として自由に試すことができ、自由に去って行くことができます。教えを受けたい人は自由に訪ねてきて教わることができます。共同体同士は愛しあい、助けあい、仕えあい、互いによく知りあって仲良くなることで一致すればするほど、神から保護されます。これは地下組織Aと地下組織Bが互いに全く交流せず、知りあわない方が安全が保たれるという常識の完全に逆をゆく、信仰の世界のみの安全保障です。あなたが生命と財産の安全のために隠れたいのなら、あなたは聖シャーベル修道会に召されていません。灯台のように皆の前に輝くことで、闇を照らし、暗闇に座す多くのあわれな霊魂を救いたいと熱望するなら、あなたは聖シャーベル修道会に召されている可能性があります。身をさらしても、自分がどうなっても、多くの同胞を導く方がいいと願う人だけが来ることができます。命までもささげたいのならですよ。命までもという意味は、他の一切はもちろんのことという意味ですよ。それが修道会の会員の奉献のレベルなのです。ボランティアのレベルとは全く違います。神は永遠の生命、永遠の至福をもって報いて下さいますから、この世では何も取っておいてはいけないし、何の報いも望んではいけないのです。恩義を感じてくれること、感謝を示してくれること、ほめたり、ねぎらったりしてくれることさえ望んではいけません。何をささげても、それは先に命を捨ててくださったイエズスに対して、当然の恩返しですし、その大恩に比べれば一体なんでしょう。日本語で「手弁当で」という言葉がありますね。弁当も自前で奉仕することですね。共同体での部所が建築だったら、工具一切を自分で買います。手袋、靴、保護眼鏡など、何も支給されません。全部自腹を切ってそろえ、働き、しかも給料なしです。一切のものをささげるとはこういうことなのです。もしあなたが宣教のために印刷事業をするのなら、あなたが印刷機などの設備一切を買って備えつけ、そして働くのです。もちろん給料なしにです。誰も会から何も引き出しません。逆に常に会の財産に加えていくのです。既存の修道会を経験した人は面食らうと思いますが、本部からの送金など一切なしに自分たちだけで何もないところから共同体を立ち上げ、大きくするとはこういうことなのです。

 世間の会社ではお金のために働きますが、共同体では神のために働きます。意向が全く違います。神のためにというこの意向の純粋さゆえに、神から恵みと保護を受けます。世間の人は欲とか憎しみとか怒りとかを原動力に頑張りますが、共同体の労働の士気の高さは神と隣人への愛を原動力にして保ちます。例えば同胞の霊魂を一人でも多く救いたい!と頑張るのです。共同体は意向、士気、奉献の面で世間の会社と違うから、事業が成功するのです。

 このミッションに参加している今の日本人たちの間では、祈りの多さ、断食、食事の少なさ、不眠不休などの信心業や苦業を誇ります。ばかげたことです。体質が強い人にとってそれらは時がたつにつれ体が順応し、たやすくなります。時がたつにつれ、最初の情熱が冷めていくので、保つのが難しくなるのが意向の純粋さ、士気の高さ、奉献の完全さです。特に日本人がこれらを保てないことは実証されています。日本人は他の民族に比べると、明らかに召命に忠実であり続けることができません。自分が神に誓った誓願に忠実でありません。気が変わってしまいやすく、修道生活を途中で放棄する人が非常に多いです。これでわかるように、信念をもって戦い抜くことができないのです。あなたたちは生まれた時からずっと、世間に従うようにと仕向けられ、まわりを見まわして自分の意志を決定し、行動するようにつくられてきました。カトリックの信仰のように世と対立する信念を生まれた時から植えつけられ、それを自分の生き方の骨格とし、まわりを見まわさずに、自分の内にある信念を頼りに意志を決め、行動するようには育てられていません。いわば骨格のない、なびき、流される人間です。もし信念を幼い時から持っていたら、幼い時から世間に対して闘います。こうして闘いの精神も身につけます。信念を持たず、闘いの精神を持たないことが日本人の特徴で、そのため日本のマリア様のミッションはへなへなで、首尾一貫してリトル・ペブルさんに従うことができず、幻視者もそれ以外の人も次々に落ちて消えてゆくのです。

 日本人特有の欠点で、このミッションで悪影響が甚だしいものをもう少し書くと、手段にすぎないものを目的にしまうことがそのひとつです。先ほど書いた日本人が誇る祈りの多さや、断食、食事の少なさ、不眠不休などの信心業と苦業は手段に過ぎません。目的は神と隣人を愛することです。信心業や苦業ができる人が、できない人を心の中ででも裁くなら、裁くなと命じていらっしゃる神に背きますから、神を愛していません。人を裁くので隣人をも愛していません。信心業や苦業を重視し、誇る人ほど、こうして神と隣人への愛を無視します。手段が目的になるとは、こういうことを言います。神と隣人への愛徳に背いて、心の中で、または言葉で、隣人を裁きつつ、見くだしつつ、けなしつつ信心業や苦業をする人をファリサイ主義者と言います。マリア様の望まれる苦業とは、ファリサイ主義者になることのない苦業です。それは、心の中ですら人を裁かないこと、口が裂けても陰口を言わないこと、ほめるのでなければその場にいない人の話は絶対にしないことなどです。聖ヨゼフの霊性の説明でも書きましたね。心は反感をいるいかなる人に対しても抱かない。頭は批判をいかなる人についても考えない。口はその場にいない人の話をしない。これらの徳の実践をすることです。

 最後にもうひとつあげます。日本人が結果のみを大切にし、プロセスを無視することです。神の価値観は逆です。プロセスこそが大切で、結果は無意味です。共同体の設立に例をとれば、設立を目指し、踏んでゆくプロセスにおいてどれほど徳を実行するかが神にとっては大切なのです。それができれば、時間切れで、または一部の人の裏切りで共同体ができなくともちっとも構わないのです。神の御旨にそって一日 一日をささげていくことがすべてです。結果だけを求めて、神の御旨ではなく、人間的な考えや計略で踏んでいくプロセスで恵みは得られません。救霊にもつながりません。嘘とか方便を用いるなら、恵みを失います。仮に結果が出たとしても、何の価値もありません。

 あなたは今、これを読んで「ああ、私は変わらなければ! 自分を変える努力をしよう! 自分を良くしていこう!」、こういう意志が起こりましたか? 日本人が改心できないのは、意志を働かせて読まずに、感覚でもって、読む味わいにふけり、理性でもって知識をあさるだけの読み方をするからです。意志を働かせて読めば、愛と行動につながります。神を愛し、神のために自分を根本的に変える行動を起こすものなのです。あなたがこの本を意志を働かせつつ読むことで、初めて私が書いたことはあなたのうちで生きるのです。どうかそういう読み方をしてくださいね。



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【 第148章 】

 これまでかなりのページをさいて日本人特有の思い違い、自己流の解釈の問題について書いてきました。さて、あなたは天からのメッセージというものを、どのように解釈し、どのように適用するかは、そのメッセージを受けた幻視者に聞くのが一番だと思いませんか? ところがそうではないのです。逆に天からのメッセージを受けた当人は、どのように解釈し、どのように適用するかについてはたいてい間違ってしまうのです。この事実については十字架の聖ヨハネが「カルメル山登はん」の中で説明しています。世界中の神秘的教会が、このことについて無知なために混乱しています。日本も全く同様です。十字架の聖ヨハネの「カルメル山登はん」は、読める人はどうか読んでくださいね。第二部と第三部だけでもいいですから。それが読めなくても、公的啓示である聖書の解釈と適用を、パパ様に一致した教会権威だけがおこなうことになっていることからも、自由解釈の危険がわかると思います。プロテスタント教会は自由解釈のために小さく小さく、たくさんの派に分裂しています。分裂は悪い実りで悪魔の働きによるものです。聖書はすべて神が与えてくださったメッセージです。しかし解釈と適用の仕方で、律法主義の偽善者のファリサイ人のようにもなってしまいます。今、日々、世界中で多くの幻視者たちに神がお与えになる私的啓示も、解釈と適用の仕方ひとつで分裂を生み、異端を生み、混乱をまき散らします。この危険をあなたが避けるために、神秘的教会の頭であるリトル・ペブルさん、次の、そして最後の教皇となり、その時にはヒエラルキーの教会の頭ともなるリトル・ペブルさんがどう解釈し、適用するかに習うのが、間違えることなく進む方法です。書かれた文字をうのみにすることと、それを受けた幻視者の指導を求めるのはやめてください。(リトル・ペブルさん以外のですよ) ある特定の幻視者のメッセージを偏重し、その幻視者に特に従おうとする人々は、世界中で不一致の原因となっています。そういう人々はリトル・ペブルさんがどのように解釈し、適用し、おこなっているかを知ろうとはしません。独自路線を突っ走ります。どうかあなたたちはそのようにしないでくださいね。リトル・ペブルさんとの一致が強ければ強いほど、あなたたちは恵みのラインの中央に位置し、多くの恵みを受けることができるのですから。前に、共同体は隠れないし、そのメンバーも隠れないと書きましたね。今の日本のミッションの参加者にとって、このことは信じられないはずです。彼らは、共同体は隠れるものだと考えていますし、個人的にも隠れようと努めていますから。あなたたちは聖シャーベル修道会と創立者のリトル・ペブルさんたち、この最も敵が抹殺しようと躍起になっている共同体とそのメンバーが、激しい迫害の中でどのようにおこなっているかを見習ってください。今は公然と、堂々と共同体を設立していくときです。持っているお金もまだ使え、移動も自由です。神が共同体設立のために時間を延ばし与えてくださっています。一致し、力を結集して、そのために働く時です。共同体の中で生きることによって、あなたたちは短期間で徳の道を進み、偉大な成聖にまで達することができるのです。共同体に住まなければ、偉大な成聖に達することは非常に難しいのです。不可能ではありませんが……。完徳というゴールに向かって、共同体の中に住んで修徳に励む人は、目的地まで客船に乗って荒海を渡ってゆく人にたとえられます。共同体に住まないでそうしようとする人は、一人で泳いでいく人にたとえられます。神が共同体の中に住む人から、これまでの偉大な聖人たちをはるかにしのぐ、人類史上最高の聖性を持つ聖人たちをたくさんお作りになろうとしています。生命と財産の保護しか頭にないのなら、このようなことに興味はないでしょうが、あなたたちは天国で最もマリア様のそば近くで永遠に生きる可能性が与えられており、この至福を自分でつかみ取るよう呼ばれています。それが共同体を設立し、共同体の中で生き、修徳に励むという召命なのです。天国で最もマリア様のそば近くに、マリア様とともに永遠に過ごせるなら、反キリストとの戦いで殉教しようが、財産を何もかもなくそうがちっとも構わないではありませんか? 歴史上最高の成聖に達したなら、あなたの霊魂は獲得したすべての徳の輝きに飾られ、美しくよそおわれるのですよ。それに比べれば地上の泥のような財産を、そして肉の生命を守って平和の統治に入ることは小さなことでしょう? いずれ公審判があり、殉教した人ももちろん体を取り戻します。そればかりか殉教者には、殉教者にしか与えられない特別な報いも与えられるのです。しかし報いはそれだけではありません。終わりの時の殉教者の多くは、平和の統治に生き返って、平和の統治の喜びまでも享受する特権を受けるのです。日本のリトル・ペブルさんと一致したミッションの原点は、レオ・スタインバック神父様です。リトル・ペブルさんを支持し抜き、大変に迫害され、日本を追放され、死ぬ前に正式に聖シャーベル修道会に入会し、亡くなりました。レオ・スタインバック神父様は天国の特別な場所、幼きイエズスの聖テレジアもいらっしゃる場所である「十字架の王国」に入りました。そして生き返って、平和の統治を享受するのですよ。これほどいく重もの報いを神が用意して呼んでくださっているのに、なぜ公然と、堂々と共同体を設立しないのですか? 最も困難な時であり、最も信仰が必要とされている今、そのために働く人が最も多く報いを得るのですよ!

 レオ・スタインバック神父様は宣教師魂に満ち溢れた方でした。今、神父様は十字架の王国で報われています。宣教したからこそ迫害され、得た報いです。神父様は「初代教会では、洗礼を望んでいる人と洗礼を受けたばかりの人が最もよく働きました」と言っていたものです。この言葉はあなたたちの励みになる言葉ですね。洗礼を受けたいと望んだまま宣教し、働き、殉教し、天国で高い席を獲得した人々が、天国にたくさんいるのです。レオ・スタインバック神父様は、自分自身が宣教に熱烈だっただけでなく、信じた人にも一人一人が宣教に励むようにと促しました。私にもそうでした。「あなたは日本人で、日本語ができるのですから、私よりも宣教が簡単でしょう?」と言いました。それはあなたたちも同じです。今は宣教に全力をあげるべき時です。迫害の逆風の中、リトル・ペブルさんとナウラの母院は、インターネットを用いて一人でも多くの人に天のメッセージを伝えようと宣教しています。インターネットは、黙らせようとするどんな圧力にも対抗して、どんな人にもメッセージを伝えることができる唯一の手段です。インターネットに関してもリトル・ペブルさんとナウラの母院に習ってください。今はインターネットを宣教と救霊のためにフル活用すべき時です。あなたたちもインターネットを用いて一人一人が宣教すべき時なのですよ。いつかインターネットが使えなくなりますが、その時もリトル・ペブルさんとナウラの母院に合わせればよいのです。現在でもニューエイジの宣伝、勧誘が花盛りで、インターネットにかかわる人々、特に若い人々が反キリストのロード・マイトレーヤの支配下にどんどん入っていっています。この悪魔の猟場のような場所でマリア様のために霊魂を取り返す働きを展開するのは価値あることです。最終的にはインターネットを用いて反キリストのロード・マイトレーヤが大警告後(日本は海の底に沈んでいますが)総支配を行います。その時にはインターネットを私達は使いませんが、今は違います。敵の道具を用いて、敵の手から獲物を奪い返します。これはコルベ神父様と全く同じ考えとやり方です。コルベ神父様の時代は、映画、ラジオ、出版が大発展している時代で、不道徳、罪、異端、カトリック教会への攻撃が、それらを用いて広められ、霊魂たちを悪魔のもとに集めていました。コルベ神父様はこの同じ道具で、マリア様のために霊魂たちを悪魔の手から奪い返す事を計画し実行したのです。まわりからは非難されました。他の人々は悪魔の道具であるそれらを使ってはいけないと主張したのです。今のミッションも全く同じことが起こっています。インターネットは悪魔の道具だから使ってはいけないと主張する人がほとんどです。しかし、天のメッセージでいろいろな幻視者が、いろいろなことをインターネットについて受けても、あなたたちは解釈と適用をそれらの幻視者に任せるのではなく、また、あなたたちの独自の判断で書いているとおりうのみにするのでもなく、繰り返しますが、今、何が神の御旨かを、リトル・ペブルさんの解釈と適用の仕方を見て理解するようにしてください。そうでないとせっかく神が時を与えてくださっているのに、なすべきことをなさずに無駄にしてしまいます。リトル・ペブルさんからストップがかかるまでは、インターネットを最大限に用いて宣教してください。今はその時です。すでに非常に多くの人がインターネットでマリア様のメッセージを知りました。あなたもその一人ならよく分かると思いますが、改心する可能性は皆にあるのです。誰かが宣べ伝えれば、必ず救われる人が出てきます。宣べ伝えなければ一人も出てきません。あなたが受けた恵みは、危うく滅びるところだったあなたにとって、どれほどの尊い、すばらしい恵みか実感しているはずです。まだこの恵みを受けていない人に分け与えないでいられないはずです。そうでしょう? 真理を知らずに滅びに向かっている人に、真理を教えることは、愛徳のわざの中でも最高の愛徳のわざです。その人に永遠の幸福をあげるのですから。あなたの一切の持ち物を与えることよりもずっと価値あるわざなのです。ですから神からの報いも大きいです。あなたによって真理を知り、救われた人々は、天国においてあなたの冠です。そしてその人々とあなたとは、永遠に特別な愛の絆で結ばれ、互いの至福を味わいます。素晴らしいでしょう? 報いは永遠に続く幸福です。さあ命をかけて宣教しましょう!



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【 第149章 】

 「洗礼を望んでいる人、洗礼を受けたばかりの人が最もよく働きます」 スタインバック神父様はこう言っていました。よく働くとは闘いの精神を発揮して宣教することです。このようにこのミッションでは何をなすにも常に悪魔と世間と自我に対して激しく戦わなければなりません。悪魔が何とかしてこのミッションからあなたたちを連れ去ろうと、あらゆる面で攻撃をかけているからです。あなたたちが戦い抜くには大変な戦闘力が必要です。あなたたちはまだ功徳も積んでいません、徳も身につけていません。一人で戦っても勝てません。現にこの20年間を振り返ると、戦い抜いてリトル・ペブルさんに忠実に従ってこれている人は百人に一人もいません。千人に一人くらいかもしれません。それであなたたちが落ちないように、秘訣を教えましょう。ひとつはすでに幻視者、神秘家、恵みの霊魂たちに、彼らが落ちないようにと書きました。リトル・ペブルさんに対して、愛の使徒聖ヨハネがイエズスに対して持ったような「花嫁の愛」を持つことです。No.146を読んで理解してください。「花嫁の愛」という愛をもってリトル・ペブルさんと一致することです。そしていろいろな幻視者のいろいろなメッセージの解釈と適用という点でも、リトル・ペブルさんに合わせることで、リトル・ペブルさんとの一致を強く保つことも大切な秘訣です。No.148で書きましたね。こうしてリトル・ペブルさんとの一致を強くすればするほど、彼を通して恵みを与えていらっしゃる神によって定められた「恵みのライン」のより中央に位置することになります。そうしてよりたくさんの恵みを受けることができるのです。

 次にまだ書いていない秘訣を書きます。神はあなたたちのように弱く、戦闘力をほとんど持たない人のために、史上最強の修道会である聖シャーベル修道会を起こし、あなたたちがこれにつながることによって、莫大な戦闘力を持つようにしてくださっています。この修道会全体を愛し、この修道会のすべてのメンバーを愛し、この愛による一致でこの修道会の持つ戦闘力を共有し、この修道会のすべてのメンバーがつんだ功徳を共有することができます。あなたたちは、神が、マリア様が最愛の子供であるかのようにこの修道会を愛しているように、この会の発展、勝利、召命、霊的実りなどを祈り求めてください。そしてメンバーの一人一人を、もちろん地球の裏側の人に至るまでをも特別な友愛をもって愛してください。そうすれば愛によって聖シャーベル修道会に一致できるのです。あなたたちが今後、いつ洗礼を受けるチャンスがあるのか私にはわかりません。また、準備して受けるだけの時間があるかどうかもわかりません。おそらくあなたたちのほとんどの人は、実際に司祭から額に水を注がれて洗礼を授かることはなく、洗礼を受ける希望を抱いたまま最期を迎えることでしょう。しかし、それでも有効な洗礼です。「望みの洗礼」という名の洗礼であり、殉教する人は「血の洗礼」といい、原罪と自罪は許され、天国に入ることができます。儀式を伴う「水の洗礼」を受けなくとも、いつの時代も洗礼を望んでいる人が最もよく働くのです。気にしないでください。そのため正式に聖シャーベル修道会会員にはなることがなくとも、愛によってこの会に一致することで、会員と同じ戦闘力を得、同じ功徳にあずかります。

 聖シャーベル修道会は死につつある古い教会を新しい教会に生まれ変わらせるための唯一、特別な修道会です。生まれつつある新しい教会の生命力です。教会フリーメーソンを筆頭とする反キリストのロード・マイトレーヤの指揮下にある者ども、その影響を受けてしまった人々からのどんな迫害と妨害にも負けず、発展し続ける修道会です。悪魔とその陣営にとっては恐ろしい戦闘力を持った無敵の軍隊です。マリア様の謙遜なかかとであり、蛇であるルシフェルを必ず踏み砕く修道会です。第一部門、第二部門は独身を貫く司祭・修道士・修道女のための部門です。既婚者と家族たちのための第三部門までが共同体内で生活し、これに加えて共同体に所属しながら世間で生きる第四部門があります。皆、正式の修道会会員です。あなたたちはまずこの第四部門に受洗後入会することをめざしてゆけばよいでしょう。今はとにかく創立者のリトル・ペブルさんと、この修道会全体と修道会のすべてのメンバーとの愛による一致で戦闘力と功徳を共有し、自分を強めてください。

 もしあなたが洗礼を司祭から受けることができ、聖シャーベル修道会の第四部に入会できたなら、あなたには所属する共同体ができ、従うべき上長が与えられます。毎年、従順、清貧、(独身、既婚それぞれの身分に応じての)貞潔の三つの誓約を更新するのですが、第一、第二、第三部門と同様、死ぬまで堅忍すべき召命です。この堅忍のためにも秘訣があります。それを教えましょう。聖シャーベル修道会自体は大木にたとえられます。そして会員一人一人は一枚 一枚の葉にたとえられます。葉は木から樹液を与えられて生命を保つでしょう? そして葉は光合成で木にエネルギーと養分を与えるでしょう? こうして木は実をつけますよね。聖シャーベル修道会の豊かな実りは、人々の聖化と救霊です。それは第一に会員たちの聖化と救霊です。この会がなければ、そして他のすべての会員がいなければ、この豊かな実りを一人一人の会員は受け取ることができません。そればかりか多くの人がこの世で世間的に生き続け、滅びに飛び込んでいる90%の人の中の一人となってしまうことでしょう。ですから会員にとって会とすべての会員に対して感謝を込めた愛を持つことは当然なのです。さて、修道会の会員が召命に堅忍するための秘訣ですが、それは上長たちと会全体のために特に祈る習慣を身につけることなのです。普通、目下や同僚のためには各自、祈ります。自分の共同体のためにも祈ります。ところが上長たちのためには祈らないのです。世界中の自分の修道会全体のためには祈らないのです。これが人間の姿です。ですから特に上長たちと会全体のために意識的に熱心に祈ることが鍵なのです。イエズスが互いに愛しあいなさいと命じました。これは掟であり、命令です。上長たちは目下のために愛と祈りをささげつつ、日夜おおいに奉仕しています。目下が上長のために愛も祈りもささげなければ、互いに愛しあうのではなく、一方的に上長が目下を愛しているだけです。これは神に対する目下の命令違反です。上長が目下から愛と祈りを受けることができないと、恵みの不足によって会と目下とをふさわしく導いていくことができません。また、互いに愛しあっていない会には祝福が与えられませんから、会は衰退します。会にとってもこれほど大きな痛手となる、神に対する命令違反なのです。それから修道会全体は大きな家族です。会員は肉における自分の家族以上に、この霊における家族を愛さなければならないのです。修道会は会員に、永遠の生命のための霊的な宝を、大木が一枚の葉にも樹液を通わすように与えています。会員は全会員の功徳にあずかることによって強められ、支えられています。会全体と全会員のために、会員が愛と祈りをささげなければ、これもまた互いに愛しあえという神の命令に背くことになります。互いに愛しあえという神の命令に背く会員は、個人として恵みと祝福が受けられません。その中には堅忍の恵みも含まれていますから、その会員は召命に堅忍できなくなってしまうのです。

 以上のことを、正式な会員ではなく、愛による一致で聖シャーベル修道会の戦闘力と功徳にあずかる人もよく覚えて、この秘訣を用いてください。特定の上長はいなくても、聖シャーベル修道会の長たち全員のために祈りと愛をささげればいいのですから。


【 第150章 】

 終わりの時とは迫害の時代です。特に、リトル・ペブルさんと一致したこのミッションは、悪魔の憎しみの的です。悪魔はこのミッションが自分たちを永遠に、決定的に地獄に投げ込むものだと知っているからです。それであなたたちに、迫害の中でやっていくための秘訣を教えます。最も重要な秘訣は「逆用」です。悪魔はあなたたちのまわりの人を通してあなたたちを攻撃します。隣人の悪さと弱さであなたたちを倒そうとするのです。このことをよく頭にたたき込んでいてください。これに対してあなたたちは、隣人の悪さと弱さを「逆用」し、自分自身の聖徳を磨くのです。裁く人、侮辱する人、憎む人、怒る人など積極的にあなたたちを攻撃する人。不親切な人、頼みを聞いてくれない人、協力してくれない人など消極的にあなたたちを攻撃する人。これらの人々に対して、あなたは愛してくれないというその本質にひどく傷つきかねません。神に従い、神に奉仕したいあなたたちにとって、彼らの積極的、消極的攻撃による妨害は、本当に悲しく辛いことでしょう。また、隣人愛によっても、その隣人の悪さ、弱さはあなたたちを大いに悲しませます。特にあなたたちが彼らを深く愛している場合、そうです。例えば共同体において100%のハイを言わない人を見るのは本当につらいことです。彼らがそれによって、日々どんなに恵みを失っているか、そして使命までも失なっているかがわかるからです。そして救霊までも危うくなることを考えると、本当に気の毒です。悪魔の意図は、彼らを用いてあなたたちを絶望させ、神に仕えることをやめさせることです。そしてあなたたちやミッションや共同体の良い仕事を遅らせ、縮小させ、やめさせてしまうことです。人間的に見ると、彼らのおこないによってそれらの悪魔の意図は実現しています。このミッションの中でもずっとそうでしたし、あなたたちのまわりでもこれからもそうでしょう。しかしもし、あなたたちがそれらの悪い人、弱い人に対し、ゆるし、柔和と謙遜を実行し、愛し、祈り、祝福するなら、あなたたちは聖化されてゆきます。あなたたちは大きな功徳をつみます。このミッションも共同体も、前進はすべて功徳によってなされるのですから、あなたたちが大きな功徳をつめば、あなたたちが見えないところで神の計画は進み、それが地球の裏側の人かもしれませんが救霊という実りはつくのです。神はこうして悪魔の意図をくじくことがおできになります。ただし、もしあなたたちが隣人の悪さ、弱さを「逆用」して聖徳を磨けばですよ。これを忘れないでください。例えば共同体のなかで不親切な人は、自愛心に満ちて神と隣人への愛は持たない人です。彼らは共同体内の愛と喜びを減らします。そのままでは共同体は愛の不足のために恵みと祝福を失います。それであなたたちは、その隣人の悪さと弱さを「逆用」し、聖徳を磨き、愛しにくい彼らを愛することによって彼らの悪さと弱さ、愛のなさにもかかわらず、共同体の中の愛を全体としては逆に増やし、自らも愛徳に富むように努めて下さい。もしそうすれば彼らの存在と行為にかかわらず、共同体全体としての愛は増え、与えられる恵みと祝福も増えます。あなたたちが神に協力して「逆用」という秘訣を用いれば、こうしてすべての悪魔の意図をくじくことができます。しかしここで書いておかなければならないことがあります。他人の聖徳を磨く役割を果たす人、日本的に言えば「他山の石」として宝石を磨く砥石として使われる人、つまりミッションでは、100%のハイを行って神と隣人に、自己愛を踏みにじって仕えようとしない人を神は無理に従わせることはありません。自由に任せます。その人が与えるものだけを神は受けとります。神は先に、その人をあふれんばかりの恵みと祝福で満たし、その人が100%のハイを言って神の呼びかけに応えられるようにしました。その上でその人の応え方を神は尊重します。100%のハイを言わなくてもある時点まで神は待ちます。待ってもダメだったら他の人が選ばれ、その人が受けるはずだったものを代わりに受けるのです。「多く与えられたものは、多く要求される」 この御言葉を忘れないでください。神は公平な方です。ユダ・イスカリオテやユダのような高位聖職者が数え切れないほどたくさん地獄の最も深いところにいます。最も重い罰を永遠に受けています。自分がそうならないようにしなさい。そうなりそうな人のために祈ってあげなさい。これだけ言えば十分ですね?

 イエズスの迫害者たちはイエズスのご生涯中、絶えずイエズスにぬれぎぬを着せようとスキャンダルを捏造し続けました。マリア・ワルトルタに天から与えられた啓示を読めばよくわかります。お金のスキャンダルとセックスのスキャンダルです。そして異端者として非難し、サタンと呼びました。ご受難の間中も、敵たちはイエズスをサタンと呼び、異端、お金、セックスのぬれぎぬを着せ、十字架のふもとにおいてでさえ、散々にののしりました。このミッションではリトル・ペブルさんが絶えずそれと同じ目にあわされています。これらは悪魔の常套手段です。私もサタンと呼ばれていますし、異端者扱いを受けます。お金のスキャンダルもセックスのスキャンダルも捏造されます。何も驚くことはありません。イエズスがそうされたのですから、弟子の私たちもそうされるべきです。これが迫害の普通の姿です。迫害の中でやっていくための次の秘訣は、ぬれぎぬを平然と着ることです。不当に裁かれた時、言い返さないことほど霊魂を清めることはありません。そのうえ、この行動はあなたたちを守ります。サタンの意図はあなたたちが平然とぬれぎぬを着ないで、動揺し、心に苦々しいものを抱き、愛徳を損なう行動に出、あなたたちとあなたたちのまわりの平和と愛と一致までも壊すことです。その手に乗ってはいけません。例えば教会へ行ってサタンと呼ばれたら喜んでください。イエズスもそうされました。リトル・ペブルさんもそうされています。同じ運命にあずかれたのですよ。「花嫁の愛」をあなたたちがイエズスとリトル・ペブルさんに対して持っているならば、同じ運命にあずかれることは無上の喜びのはずです。花嫁の幸福とは、花婿と運命を共にすることだからです。喜びおどってください。セックススキャンダルを捏造されても、お金のスキャンダルを捏造されても、異端者として秘蹟を拒まれたり、教会から締め出されたりしても、喜びに喜んでください。実は、こうして喜ぶことはイエズスの命令です。「私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである。喜びに喜べ。あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう。先人の預言者たちも同じように迫害された」(マタイ5・11−12) この命令を守れば、あなたたちはとても謙遜になります。そしてまわりに平和と一致と愛ばかりか喜びまでも広げることができ、悪魔の意図は裏目に出、神とあなたたちが利益を得るのです。悪いことは何も起きません。ぬれぎぬを聖ヨゼフが、傲慢に対しての安全策として与えてくださったと考えるなら、さらに喜んで甘んじていられます。聖ヨゼフもご生涯の間、身近な人からぬれぎぬばかり着せられましたが、弁解しませんでした。これはイエズスとマリアの保護となりました。全ての人の前にへりくだり、ぬれぎぬを死ぬまで着ぬいた聖ヨゼフは神の奥義の上の天の封印となって二人を守ったのです。ぬれぎぬによって守られることがあります。とにかくありがたく頂戴して、着ていることにしましょうね。
 迫害の中でやっていくための3つ目の秘訣は、逃げず、かわさず、まっすぐぶち当たって闘うことです。リトル・ペブルさんを支持しているなら支持していることを堂々と態度で表明し、何もゆずらずに戦ってください。聖徳を磨く道は、日本人の常識とは正反対です。人格に裏表があってはなりません。話すことと考えていることが違っていてはいけません。このため聖徳に進んだしるしは、人格の強さとしてあらわれます。逃げ腰は絶対ダメです。たちまち迫害に飲み込まれ、逃亡者、卑怯者になります。かわそうとするのもダメです。うまくやって勝ちをおさめようとしてもダメです。これらは悪魔的悲観主義です。正面からぶつかったら負けるに決まっていると心の中で決めてかかっているからです。神に対するはなはだしい不信頼です。加えて人間的こざかしさにうぬぼれた傲慢です。単純な話しではありませんか? 迫害のおおもとはルシフェルと悪魔たちですよ。小手先の手段でかわせると考えるなんて、どうかしています。勝つ方法はただひとつ。神に絶対的信頼を置き、人間的常識も人間的論理も脇に置き、堂々と正面突破をはかる方法です。これが神の観点からは最高に功徳がつめる行為なのです。私たちの闘いは全て功徳によってなされます。ですからこの方法で勝てるのです。過去の聖人たちも皆、人格の強さとこの戦い方で迫害に打ち勝ちました。あなたたちはこれらの秘訣で迫害に対抗できますから、あとはこの秘訣を実践し、実地で腕を磨いていくださいね。



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【 第151章 】

 「隣人愛を最優先する人が成功します。隣人愛を最優先する共同体が成功します。神の御旨とは、愛を行うことだからです」 親切の徳がとても大切です。親切の徳を実践して、毎日兄弟たちの求めに喜び勇んで答えること、兄弟たちの願いを先回りして果たして喜ばせること、これを第一にし、自分の義務、仕事を後回しにするのが、正しいプロセスです。自分の仕事をきちんとやることを優先し、兄弟たちの要求を後回しにする人は、結果だけを重んじる典型的日本人であり、神様の仕事では失敗する人です。親切な見かけのうちに見返りの計算がある人はあさましい人で、失敗することはもちろん、裏切りものにさえなる人です。これは隣人愛ではなく、その反対の功利主義です。愛を感情、感覚だと思い違いしている人は、愛を行わない人です。自分の感情、感覚を殺し、嫌悪感に打ち勝って愛さなければならないとき、感情、感覚で生きているようなその人は、愛を行うことはできません。今、挙げた「プロセス無視、結果重視の人」、「功利主義者」、「感情、感覚に支配されている人」の三つのタイプの人が、自分は愛に満ち溢れていて愛をおこなっていると自己満足しつつ、隣人愛を実はおこなっておらず、親切の徳も持たず、神の仕事において成功しない人です。忙しい。仕事に押しつぶされている。病気等のハンディキャップがある。誰にも自分のことだけにかかりきりになりたい状況があります。でも隣人愛を最優先にし、自分の義務、仕事を後回しにすることを絶対にくずしてはいけません。プロセスにこそ、意味と価値があるのです。神はそこを見ています。「自分の仕事はきちんとできた」とあなたが満足しても、神はあなたを良しとしません。あなたは本当は大失敗をしていて、功徳を何も積まずにむなしく労苦したのです。冷害の年の稲穂のように実入りがないのです。次のように考えてください。あなたが隣人の頼みに耳をかしたら、神もあなたの頼みに耳をかして下さいます。あなたが隣人の頼みに直ちに応えるなら、神もあなたの頼みに直ちに応えて下さいます。あなたが隣人の頼みを第一にし、精一杯つくしたら、神もあなたの頼みを第一にし、精一杯あなたに尽くして下さいます。では、あなたがそうしなかったら? これで成功する理由、失敗する理由がはっきりわかったと思います。マリア様の教えにも耳を傾けて下さい。マリア様がエリザベトを訪問したことについてです。
「マリアが言われる。『隣人愛は、まず隣人に対して行うべきです。これは、言葉の遊びと思わないで。愛徳は、神に対して、また隣人に対して行われます。隣人に対しての愛徳には、自分自身に対する愛も含まれています。けれども自分を隣人よりも愛するならば、これはもう愛徳ではなく、利己心となります。おこなって良いことの場合でも、隣人の必要とすることを先におこなうほど聖なるものであるべきです。子らよ、神が寛大な人々に対しての必要なことを、ご自分の力と愛とをもって補うのです。私は、このように考えていたので、その状態になった親せきの婦人の手伝いをするために、ヘブロンまで行きました。人間としての援助を与えたかった私の思いやりの上に、神はいつもの通り、すべての量りを超えて、想像もできなかった超自然の援助を与えてくださったのです。私は、物質的な援助を与えるために行ったのですが、神は私の善意を祝福して、その訪問によって、エリザベトの子を聖別し、これによって洗礼者は生まれる前に聖とされ、同時に異常な高齢で懐胎していたエバの娘の肉体的な苦しみを和らげられたのです。……神がくださる贈り物は、私たちをよりよいものにするはずです。私たちは神からもらえばもらうほど、多くささげるべきです。私たちが多くもらうとすれば、神は私たちと一緒におられ、私たちは神と一緒にいるしるしだからです。それなら、神が私たちの中におられればおられるほど、私たちはその完全さに達するための努力を多くすべきです。私が自分の仕事を後にしてエリザベトのために働いた理由はここにあります。私はひまがなくなるという恐れにとらわれることはありません。神は、時の主人です。普段のことに関しても、神に希望する人には、神が万事、計らって下さいます。利己心は成功を早めるのではなく、遅らせるのです。愛は成功を遅らせることはなく、早めます。これをよくよく考えなさい』……」(聖母マリアの詩(上)マリア・ワルトルタ著、あかし書房 P149〜151)

 では実際的な助言を、特に共同体の中で生きる人に与えましょう。

●愛する兄弟よ、共同体では自分のことより、隣人からの頼まれごとや、隣人が必要としている助けを与えることを先におこなうものなのです。兄弟姉妹の願いや必要を無視する人は神が同じようにその人を扱われても文句は言えませんね。隣人の望みを快くかなえてあげる人に神も同じようになさって下さいます。共同体の保護者、聖ヨゼフに実際的な愛徳をおこなう人間にしていただきましょう。聖ヨゼフを見てください。マリア様に仕えるものになり、いつも自分のことより先に、マリア様のことをしてさしあげていました。修道的精神とは仕えるものになることです。仕え尽くすことで最も小さなものになり、完徳に至るのです。

●愛する兄弟よ、修道者はイエズスとマリア様に尽くしたい、仕えたいという炎を心に抱いているものです。そしてイエズスとマリア様に仕えるために隣人に仕えぬくのです。隣人に仕えない人は、いくら祈ったとしてもイエズスとマリア様に仕えてはいないのです。

●愛する兄弟よ、修道者は、自分のことは自分で完璧にこなし、余った力を隣人への奉仕にすべてささげるものです。奉仕を受けるのではなく奉仕するのが修道者で、自分をなくすまでに仕えぬくのが、修道者のあるべき姿です。

●愛する兄弟よ、修道者は神に対して「花嫁の愛」を持っていなければなりません。神にあますところなくすべてをささげ尽くしたいという望みに燃えあがる愛。神を喜ばせるためなら自分はどうなっても構わないという愛。神の望みのままになることしか望まない愛。花婿であるイエズスの運命にともにあずかることを最高の幸福と考える愛。この「花嫁の愛」を男であれ女であれ、神に身をささげた身分の人間は、強烈に持っていなければならないのです。

●愛する兄弟よ、共同体では愛を示しあうことが、あなたの喜びのはずです。実際、愛を示しあうことに熱心な共同体は喜びにあふれています。あなたは共同体全体の喜びのために仕える義務があります。自分の中に閉じこもることは、その義務に対する違反です。喜びをもって愛を示し、愛を示しあうことで喜びを味わい、共同体を喜びに満ちたものにしてください。

●愛する兄弟よ、聖シャーベル修道会では司祭、修道者は家族に奉仕をし、家族の聖化を上からではなく下から持ち上げるように、そしてソフトにささえるようにして手伝うのです。もし共同体内に幻視者が与えられたなら、その人も同じ目的のために同じように奉仕してください。奉仕されるために存在してはなりません。

●愛する兄弟よ、聖シャーベル修道会の主役は家族です。司祭、ブラザー、シスターは脇役です。家族の下に位置し、家族を支え、聖化を手伝うために第一部門、第二部門は存在するのです。家族たちを足台にして、外に宣教しようというなら、それは全くの間違いです。第一部門、第二部門が第三部門の聖化のために可能な限り尽くし、それによって聖化された家族が、福音化のための最も強い証しを与えるのが聖シャーベル修道会の使徒職のあり方です。一人の司祭、一人のブラザー、一人のシスターが与えることができる証しよりも、聖化された一つの家族が与える証しの方が、ずっと強いのだと確信してください。

●愛する兄弟よ、聖なる家族になれば、証しの力はとても強くなります。聖化された家族の証しの力でこのように福音を再びもたらすのが聖シャーベル修道会です。

●愛する兄弟よ、今、世間に、家族全員がまことの神への愛に完全に身をささげ、かつ家族同士が愛しあい、一致している、そんな家族が存在しますか? 修道会という環境は、神への愛の火が燃えつきやすく、燃えさかりやすいのです。そこで修道者は、神の意のままになりたいと、「花嫁の愛」で燃えあがります。神のために生き、神のために死に、神の喜びしか求めるものが何もない生きる炎と化すのです。世間ではブスブスとしか燃えない人も、このようになります。神は聖シャーベル修道会という花園に、世間では燃えることができない家族を移植します。この環境と、第一部門、第二部門の司祭、修道者の支援で、家族は神の愛の炎が燃えつき、燃えさかり、愛しあい、一致し、ひとつの愛の炎となります。これが聖シャーベル修道会がこの世に示す独自の、そして最高の証しなのです。

●愛する兄弟よ、男同士の友情が日本人の間に育たない理由は、肩書で人を見、年代を超えてはつきあわず、人格を深く触れ合わせることもしないからです。これによって日本の共同体固有の問題が生じます。愛する兄弟よ、男同士の友情は、この世の中で最も美しいものです。どんなことがあっても相手を疑わず、支え、喜んで自己を犠牲にします。共同体を支える自然徳でもありますから、男であれ、女であれ、男らしい友情についてよく考え、皆と男らしい友情を結んでください。

●愛する兄弟よ、日本人は羊や鹿のように憶病で怖がりです。日本の共同体に日本だからこそ不可欠なものがあります。それは大きな安心感です。母の胸のやすらぎと同じものです。相手にあなたもそれらを与え、だれもが安らかさの中で暮らせるようにしてください。共同体が家、ホーム、安らぎの場と感じられなければ、日本人会員は召命の道を続けることができません。

●愛する兄弟よ、修道会において感覚の鋭い人は、絶えず平和をぶち壊す人です。その人を使って悪魔が自由に働きます。誤解、ざん言、デマ、その人のインスピレーションは悪魔のおもちゃです。ですから感覚的な人は、自分をその罪から引き離しなさい。まず、自分の感覚的なところを肯定的に評価するのをやめ、それを否定的に評価しなさい。それは本当に罪の一種なのですから。

●愛する兄弟よ、遊びとは自分も楽しみ、同時に人も楽しませるものです。自分だけの楽しみに限定されるものは捨てなさい。テレビゲームは日本では共同体でしないでください。他人を楽しませる遊び方を日本人はわかっていませんし、実行していませんから、害が非常に深刻に出ます。はっきり言いますが、テレビゲームでの楽しみは徳に反するもので、まるでオナニーのような利己的なものです。

●愛する兄弟よ、何かにふける人がいますね。アルコール、薬、たばこ、テレビゲーム、セックス、オナニー、メイキャップ、ブランド品、ファッションなどです。意を決してスパッとやめてしまうのがよいのです。少しでも「ちょっとだけ」と手を出すと、限度を超えてふけってしまうでしょう。もうひとつ。徳に進んだ人とできるだけ共に過ごしてください。共同体生活は何かにふける人にとって大きな守りとなりますから。

●愛する兄弟よ、告げ口は罪です。男らしくないことです。卑怯なことです。共同体内で行われてはいけません。密告者は、愛と平和と一致の破壊者です。互いの信頼こそ、愛と平和と一致の基礎なのですよ。共同体に相互監視システムを作りたいのですか? そうしたなら地獄のような共同体ができることうけあいですよ。

●愛する兄弟よ、女性のメンバーは会話によって罪を犯すのをやめなさい。かげで人の悪口を言うのは今すぐやめなさい。口が裂けてもかげで人の悪口を言わないと決心して実行するのが最も功徳のある断食です。人を裁くなというのは、勧めではなく、主イエズスの命令なのですよ。命令とは命を賭して守るものです。

●愛する兄弟よ、「あの人はああなのよ。その人はこうなのよ」というあなたの習慣を捨てなさい。もしあなたが「神父様があなたのことをこう言っていたよ」と第三者から聞かされたら、それがあなたを裁くような内容だったら、あなたはその神父様の教会にもう行かないのではありませんか? 誰かが共同体を去り、実はその原因が「あの人はああなのよ。その人はこうなのよ」と言ったあなたの言葉だったら、あなたは神の御前に公審判の時、どう申し開きをするのですか?

●愛する兄弟よ、共同体の中で子供が親以外の大人と交流するようにおぜん立てをするようにしてください。

●愛する兄弟よ、子供から老人に至るまで、すべてのメンバーが交際し得るように工夫し、おぜん立てをしなさい。名前と顔を覚えるのは、年をとった人には難しいものです。細かい配慮が必要です。

●愛する兄弟よ、共同体ではストレスコントロールが重要です。特に子供を養育中の父親、母親のストレスコントロールが重要です。ベビーシッター制度をつくってください。健全な楽しみを味わえるようにおぜん立てをしてください。彼らに祈りに没頭できる時間をおぜん立てしてください。ミサ中も、ミサに深く集中できる機会をおぜん立てしてください。

●愛する兄弟よ、共同体内の事故に対して予見して防いでください。敷地内では車は徐行させてください。水の事故、高所からの墜落事故、遊具の事故等も要注意です。遊び時間は子供の安全を見張るシッターがいるようにしてください。迫害下では、誘拐の危険をも考慮してください。

●愛する兄弟よ、子供の首にいつもかけていられる安全なロザリオを見つけて、子供に皆、着用させてください。子供の安全は身体的にも霊的にもマリア様の保護が不可欠です。

●愛する兄弟よ、修道生活の経験もなく、大家族での生活の経験もなく、愛と善徳を追求する生活の経験もない人が集まっているのが共同体です。一番弱い人がついていけるように思いやりなさい。そういう人を基準にペースを設定しなさい。外からどう見えるかなどを考えてはいけません。思いやりと慈しみにあふれているところに神がおられ、恵みがあふれるのです。

●愛する兄弟よ、ロザリオ七環毎日祈れば絶対落ちない。ぶっ続けでひざまずいてロザリオを三環毎日祈れば何でもかなう。断食を週4日ささげれば……、一日一食だけで暮らせば……、このように考え、主張していた人たちが落ち、失敗し、リトル・ペブルさんの敵になり、反キリストの陣営にたくさん入って行きました。聖徳が本物か偽物かは、バランスが良いか、賢明か、現実に即しているか、時にかなっているか、地道かでわかります。共同体でこれらのことは最も大切です。創立期、不慣れな素人集団でのバランスは、最も弱い人に合わせたものですよ。もし共同体内に多くの病人や老人、子供がいたら、当然共同体の生活はその状況に即して変わらなければなりません。貧者と病者たちの世話がこの修道会の目的があることを知らないのですか? まずあなたの思いこみを捨ててください。

●愛する兄弟よ、「違いを乗り越えて一緒にやりましょう」と言葉でも、態度においても、行動によってもいつも呼びかけてください。一致を目指す度合いによって恵みを受けます。相手が拒否するなら、恵みを失うのは相手であって、一致を目指したものは、そのプロセスに報いが与えられ、恵みを受けます。一致を目指すものは祝福を受け、一致を目指さないものは祝福を失います。共同体は祝福によって発展しますから、共同体の発展はメンバーたちが一致を真剣に目指し、そのために尽くすかどうかにかかっています。

●愛する兄弟よ、創立期は共同の祈りの時間を多くは持てません。各自の仕事を祈りに変えなければ、祈りの不足のために霊性が下がります。内的生活が大切です。やることなすことにすべて、できる限りの愛を込めてやるのです。

●愛する兄弟よ、何をやるにもゆっくりと、そして愛しながらやってください。心を愛でうるおわしながらやるのです。イライラせず、疲れず、すり減らず、神と隣人を強く愛することができるゆとりを保つためです。

●愛する兄弟よ、聖ヨゼフからの、聖ヨゼフの鍵を授けます。それは優しさと謙遜です。兄弟に対してソフトであってください。自分は兄弟からいかなる奉仕も受ける値打ちのない人間だと考えてください。新設事業は、意見が対立したり、兄弟にこれくらいやってほしいと不満を持つことがままあります。聖ヨゼフの鍵を使わなければ、内部分裂を起こします。

●愛する兄弟よ、聖ヨゼフへのささげものとして、そして聖ヨゼフへの愛を養うために、「父と」では御父を思い浮かべて愛し、「子と」で御子を思い浮かべて愛し、「聖霊との」のでは聖霊を思い浮かべて愛し、「御名によって」ではマリア様を思い浮かべて愛し、「アーメン」では聖ヨゼフを思い浮かべ愛することにしましょう。



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【 第152章 】

 これを読むあなたが、幸いにもカトリック教会に行き、ミサにあずかることができるようなことがあるかもしれません。神主さんやお坊さんの、神仏の前に威儀を正し、畏んだ、敬虔な姿が、日本人の持つ礼拝のイメージです。日本では神仏の礼拝にあずかる人も沈黙を守り、心を集中させます。子供でも祈りなさいと言われれば手を合わせて目を閉じて、心の中で神仏に語りかけます。日本人の抱いている礼拝に対するイメージ、礼拝の感覚、神仏を前にしての振る舞いは、神の望みと合致しています。正しいものです。あなたたちがミサの様子を見るなら、礼拝には見えないはずです。神の目からも嘆かわしく映っていますから当然です。しかし、ふさわしくない外観は見ずに、ただひたすらミサの本質に意識を向けてください。約40年間、一時的に神の御旨に反するささげ方、あずかり方が続いていますが、ミサの本質はちっとも損なわれてはいません。ミサの度ごとにイエズスは、もう一度カルワリオでのご自分の流血のいけにえを、神秘的に繰り返して下さっており、全人類の罪がゆるされるようにと、ご自身を御父にささげてくださっています。ミサには無限の功徳があり、私たちはミサから莫大な恵みをいただけます。しかし、あなたたちが目にするようなあずかり方をする人は、ほとんど恵みを受けることができません。内的にも外的にもふさわしくないあずかり方をしているからです。内的生活について前にかなり説明しましたね。ミサは内的生活の頂点です。イエズスとの一致も、愛も、最高に高まらなくてはならないはずです。意識はこの世を離れ、潜心と集中をもって、宇宙で最高の行為であるイエズスがご自身をいけにえにするドラマについていかなければならないはずです。心と霊魂がそうでなければならないように、動作や姿勢においても礼拝の動作、姿勢でなければならないはずです。あなたたちにとって、私語でざわついた中、司会者の音頭で立ったり座ったりといった環境で、それはとても難しいことでしょう。それでそういう時の助けになるように、ミサと同時に神秘的に進行しているイエズスの受難といけにえがわかるようにと書きます。

 ミサはゲッセマニの園のイエズスの苦しみから神秘的に繰り返されます。司祭入堂はイエズスがゲッセマニの園に入るところです。告白の祈り、つまり「全能の神と兄弟の皆さんに告白します……」の終わりまでがゲッセマニの園です。特に告白の祈りは、イエズスが、アダムとエバから始まって未来の最後の一人の人間に至るまでの全人類のすべての罪をご覧になり、その罪の責任をすべてご自分に負わせ、血の汗を流して苦しんだところです。それからイエズスは捕らえられ、アンナ、そしてカイファの裁判を受けます。その間に使徒の頭のペトロは3度イエズスを知らないと否みます。「主よあわれみたまえ。キリストあわれみたまえ。主よあわれみたまえ」がそのところで、イエズスにとって、友に見捨てられる恐ろしい苦しみの出来事です。集会祈願と聖書朗読は、イエズスが翌朝ピラトのもとに引いてゆかれ、ピラトの尋問を受けるところです。アレルヤ唱または詠唱と聖福音の朗読はイエズスがヘロデのもとに引いてゆかれ、そこで狂人扱いされるところです。奉納の歌が始まり、司祭が祭壇に、また戻るところが、イエズスがヘロデのもとからピラトのもとへ送り返されるところです。祭壇に戻るとまず司祭はカリスの覆いを取りのけます。イエズスが鞭打ちのために服をはぎとられるところです。次に司祭はパンを奉献し、小さく上にあげますね。イエズスが鞭打ちの柱に手首を縛られ、高くつるし上げられたところです。イエズスは伸びきってつま先でかろうじて立っていました。続いて司祭はブドウ酒に少量の水を入れたカリスを奉献し、小さく上にあげます。イエズスが鞭打ちによって大出血するところです。司祭はカリスをおろすと、その上にパラという正方形の固い布をかぶせます。茨の冠をイエズスに押しかぶらせたところです。そして司祭は手を洗います。ピラトがイエズスの無罪を宣言したところです。「皆さん、このささげものを全能の神である父が、……」と司祭が信者たちに呼びかけるところが、ピラトが民に向かって「見よ、この人を!」と呼びかけたところです。イエズスは茨の冠、からかいのためのボロボロの緋色のマント、笏のかわりのよしたけを持たされ、全身傷だらけで頭から足の先まで血に染まって、王のいでたちで立っています。わずか5日前の日曜日にホザンナ!と叫んだ民が、今度は「殺せ!殺せ!十字架につけろ!」と叫んだところが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな……」のところです。皆さんは「聖なるかな」が始まる前にひざまずかなければなりません。こうして民はイエズスの十字架刑を勝ち取り、極悪人のバラバがかわって許され、釈放されます。限りなく愛と恵みを注いだご自分の民から死刑を求められ、極悪人のバラバよりもおとしめられたイエズスの深い苦しみのときです。イエズスは十字架をになってカルワリオにたどり着きます。司祭がパンとぶどう酒の上に両手をのべます。カルワリオで獄吏たちがイエズスを十字架の上に押さえつけたところです。司祭は続いて大きな十字を、パンとぶどう酒の上に水平にきります。イエズスの両手両足を釘で十字架に打ち付けたところです。司祭がパンを聖変化させ、ホスチアを高く上げます。イエズスの十字架が高々と押し立てられたところです。次に司祭はブドウ酒を聖変化させ、カリスを高く上げます。十字架の根本が穴の中に落とし込まれ、ドシンというショックでイエズスの両手両足の釘穴が大きく引き裂け、ずれた茨の冠が新たに頭を傷つけ、その五つの御傷から大量の血が流れ出したところです。イエズスの果てしない苦しみは刻々と増してゆきます。「天にまします」の祈りは7つの祈願でできていますが、十字架上の7つのお言葉がこれに対応しています。「わが神、わが神、なんぞ我を捨てたもうや」とおっしゃられた時、お苦しみは頂点に達しています。「天にまします」の時も、神はあなたたちがひざまずいたまま、両手を合わせて唱えるよう求められておられます。立って手を広げて唱えるのは唯一人、司祭のみです。信者が手を広げたり、手をつないだりしては絶対にいけません。平和のあいさつはしてはいけません。平和のあいさつを神は汚聖の行為として禁じています。そのままひざまずいて手を合わせたままでいてください。ミサ中のこの時、神秘的に進行しているイエズスのご受難といけにえは、クライマックスを迎えています。つまり御父からも、マリア様からも、聖霊からも見捨てられたと実感するという、受難の中でも最も残酷な苦しみをイエズスは受けておられ、あらゆる慰めを失って、無限の苦しみの縁に沈められ、絶叫し、心臓が破裂し、息を引き取るところです。自分の罪深さを思って泣くべき時です。笑ってあいさつなど絶対にすべき時ではありません。あなたたちの心も、最も強く、深く、ご受難に一致し、集中していなければならない時です。その一致と集中をやめてはいけません。この平和のあいさつは、イエズスを冒涜するために、悪魔の介入によってここに入れられています。本当に嘆かわしいことですが、信者が平和のあいさつをして、ご受難、ご死去、いけにえから完全に心を切り離している、まさにその最中に司祭は大きなホスチアを2つに割ります。この瞬間がイエズスのご死去の瞬間です。いけにえが全うされた最も尊い厳粛な瞬間! イエズスを愛する者にとって最も苦痛に満ちた瞬間です。続いて司祭が小さくホスチアを割りとって、その小片をカリスの中に落とします。イエズスのご霊魂がおん体を離れ、古聖所に下ったところです。それから「神の子羊……」と唱えるのですが、神は信者に、ひざまずいたまま頭をたれ、「あわれみたまえ」「あわれみたまえ」「平安を与えたまえ」の言葉の時、自分の胸を一回ずつ軽く打つように求めています。ローマ軍の百人隊長、聖ロンジーノと部下のローマ兵たちが胸を打ちつつ「まことにこの人は神の子であった」と信仰宣言したところだからです。痛悔の心と信仰をふるい起こすべき時です。それから司祭が聖体拝領をします。イエズスをお墓におさめるところです。信者の聖体拝領が終わると、司祭はカリスをすすぎ、布でふきます。イエズスが香料を塗られ、布で巻かれているところです。司祭が祭器を全てもとどおりにした時がイエズスのご復活です。拝領後の祈りはイエズスの40日間の教えと活動。「主は皆さんとともに」はイエズスのオリーブ山からの別れの祝福とご昇天。派遣の祝福は聖霊の降臨にそれぞれ対応しています。この派遣の祝福を受け終わったら、ひざまずいていたあなたたちは立ちあがるのです。こうしてイエズスはすべてのミサで、そのミサごとに、ご受難、ご死去を神秘的に繰り返し、そのたびごとにカルワリオでの流血のいけにえと全く同じ効果を私たちにもたらしてくださるのです。イエズスのいけにえに心を合わせ、一致するその度合いに従って各人は恵みを受けます。一致が完全になるほど多くの恵みを受けるのです。また、受けた恵みはおもに最後の祝福の時に霊魂に注がれますが、ひざまずいていない人には注がれません。派遣の祝福の時には必ずひざまずいてください。この時に恵みが各人に注がれるのですから、信者の聖体拝領の時に未信者が祝福を受けにいくのは間違っています。神の御旨ではありません。行かないでください。また、「聖なるかな」と「神の小羊」の時にも特別な祝福が神から与えられますが、これもひざまずいている人だけが受けることができます。日曜日は聖なる日です。日曜日にミサにあずかる人に神は特別な恵みを与えます。たとえ土曜日に、日曜日の典礼のミサにあずかっても、この日曜日だけの特別な恵みは与えられません。やむを得ない理由なしに、日曜日には行かずに土曜日にミサに行くのは神の御旨に反しています。

 もし、これを読むあなたが司祭でしたら、信者にふさわしいミサのあずかり方、つまり神が現行のミサ(ノブス・、オルド)にふさわしくあずかるにはどうすべきかを教えてくださった、ここに書いたあずかり方をするように指導してください。何よりもまず大罪を持ったまま聖体拝領しないように指導してください。大罪を犯している人のために、ミサの前に告解場で待って告解させてください。あなたがそれをしないと信者は大罪を持ったまま聖体拝領をします。ミサの後ではなく、ミサの前に告解場で待つのですよ。大罪を持ったまま聖体拝領する信者は、生命ではなく死を受け、大罪に大罪を重ねるということを忘れないでください。しかも現代、小学生にまで広がっているポルノグラフィー、オナニーの習慣、当たり前になっている若者の婚前交渉や避妊行為で、あなたが思いもよらないほど多くの男女の信者が常に大罪の状態にあります。あなたは信者を永遠の滅びから守らねばなりません。牧者なのですから。そしてあなたは、無抵抗な幼子のようなご聖体のイエズスを守れる唯一の人間です。大罪を持った霊魂に拝領される苦しみを、イエズスはある神秘家に、「ああ、なんと恐ろしいこと! 野獣の餌食となる方が、どれほどましだろう!」(現代の神秘家アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタにおけるイエズスのご受難、ウムベルト・M・パスクワレ神父編、ドンボスコ社 P52) 「私は、恐ろしさにおののいた。多くのユダが、汚れた舌で、ふさわしくもないのに、私を食べたり飲んだりするのを、私は見た。恐怖は、さらにひどくなっていった。それは、私にふさわしくない手と悪魔の心で、パンとぶどう酒の私を配る人たちのいることだ。死ぬほどの恐怖、私は、ひどい苦しみを感じた。私は、苦しみと恐怖のあまり、私の魂がひきさかれ、心臓が粉々に打ち砕かれるのではないかと思うほどだった」(同本 P68)と打ち明けておられます。そして多くの神秘家、幻視者が、司祭が信者の手にホスチアを置くたびにイエズスが信者から、御顔を激しく殴りつけられ、体は倒れんばかりによろけ、紫色にはれあがった悲しい顔になるのを見せられています。信者はひざまずいて舌で聖体拝領しなければなりません。それ以外のやり方はすべてやめさせてください。どんなことがあっても信者に手で聖体拝領させてはなりません。あなたは聖体拝領台を置き、信者用のパテナで、ホスチアのかけらを一片も床に落とさないようにし、信者に聖寵の状態を保って、ひざまずいて舌で聖体拝領するように命じなさい。それから、個別に司祭に罪を言いあらわさない共同告解は違法かつ無効です。罪のゆるしは得られません。秘蹟として成立しませんから。

 信者にも、洗礼を受けてない人にも共通の指示ですが、その教会の司祭が、はっきりと、ご聖体はイエズスではないと言っているのなら、その教会に行かないで他の教会を探してください。司祭がパンとぶどう酒を、イエズスに聖変化する意志がないなら、聖変化は起こりません。その教会のミサにも聖櫃の中にもイエズスは現存していらっしゃいませんから、信仰のある司祭を探し、そこに行くようにしてください。

 こうしてミサにあずかったつもりでも、ミサにあずかれていなかったという状況が広まっています。信者にとって、それに加えて告解においても、司祭に告白したのにゆるしを神から得られない状況も広まっています。司祭が告解の秘跡を信じず、わざとゆるしの言葉にかえて、「祝福します」と言って祝福だけを与えるのです。これによって秘跡ではなくなります。(司祭は片手を信者に述べて『私は父と子と聖霊の御名によってあなたの罪をゆるします』と言うのが有効な場合です) 秘跡として成立しないということは、告解とは信者の不完全な痛悔を秘跡的に完全な痛悔にする秘跡なのですから、信者の不完全な痛悔は不完全なままにとどまります。そのため罪のゆるしが得られなくなるのです。全教会に広がるこの状況のゆえに、信者が自分で完全な痛悔を起こすことがとても重要になってきています。痛悔が罰への恐れからくるものであれば不完全です。神への愛のみによってなされ、罪ほろぼしをしよう、よくなろうという意志も持っているなら完全です。これらの意志がないなら、まだ罪を愛しているのです。痛悔の「痛」の字を考えてみてください。なぜわざわざ後悔と言わずに痛悔と言うのかを。これは最大の恩人であり、誰よりも愛してくださっていて、命までも捨ててくださった方を罪を犯すことによって侮辱し、苦しめ、恩を仇で返してしまった心の痛みをあらわします。そうしなければよかったという悔やみが愛によるものであれば、この心の痛みがあるのです。あなたたちは自分の罪をただ認めるだけではなく、同時にこの心の痛みを持つようにしてください。洗礼を受けていない人は、この心の痛みをもって、ゆるしを祈り求めてください。「イエズス、あなたを悲しませ、苦しませたので激しく心が痛みます。悔やんでいます。罪ほろぼしをしますから、そして同じ罪を繰り返さないように努め、もうあなたを悲しませ、苦しませないようにしますから、私の罪をゆるしてください」と、このように祈り求めてください。死に際しては「イエズス、あなたを悲しませ、苦しめたので激しく心が痛みます。悔やんでいます。もし時間を与えてくださるなら、時間のある限り罪ほろぼしをします。どうか私のすべての罪をゆるしてください」とこのように祈り求め、「望みの洗礼」をイエズスご自身が授けてくださることを希望し続け、死を迎えてください。こうして完全な痛悔を起こしてください。信者は同じようにして完全な痛悔を起こして告解するのです。そうすれば告解場で不信仰な司祭にだまされても、完全な痛悔を起こした時点で罪がゆるされています。告解は罪のゆるしだけでなく、告白した罪を再び犯さないよう戦う力も授けます。ですから自分の根深い罪を、それが治るまで毎回告白することが大切です。何ヶ月も、何年もひとつの罪とじっくり戦い、告解で同じ罪を告白し続け、神の助けによってその罪に打ち勝つのです。毎回、同じ罪を告白することとか、罪を司祭に打ち明けること自体に苦しみや、恥ずかしさを持つ人のために、告解の秘跡の本質に触れつつ説明を続けましょう。告解は罪を司祭に告げますが、ゆるしてくださるのは神です。神に本当は告げているのですから、司祭の人格は忘れ、司祭をイエズス・キリストとして見るのです。こうすることによって全ての余計な考えを避けなさい。告解は「良心の法廷」です。良心が検事となって自分自身の罪を神に訴えるのです。「こいつは、こんな悪いことをしました」という具合いにです。そして最後に神が判決します。その判決はいつも「その罪をゆるします」です。告解ほど神の愛である聖霊の働きを直接に体験し、実感できるものはありません。「こんな悪い奴!」の罪に、いつも「ゆるします」と判決してくださるのですよ。あなたは罪を厳しく究明し、弁解を一切することなく、率直に言いあらわすほど、より強く神の愛に心を打たれます。また、司祭が告解を聞くとき、慈父的心を強く刺激されるものなのです。そして司祭が尊敬の念を抱くのは、罪をたいして犯していないと思える人、同じ罪は再び犯さないように思える人に対してではなく、自分を厳しく裁き、罪を率直に言いあらわし、何の言訳もせず、よくなる努力を同じ罪の告白によって真剣に行っている人に対してなのです。そういう人に対して、司祭の父としての心は大いに動かされます。慈しみ、あわれみ、尊敬を抱くのです。何も心配しないでくださいね。

 ところであなたたちは、罪を犯すことによって本当にイエズスの愛の聖心を槍で貫きます。あなたたちが犯した罪に対して完全な痛悔を起こすまで、こうしてイエズスは十字架上で苦しみ続けます。イエズスを愛していると口で言いながら、または、感情だけで愛したつもりになりながら、犯した罪に対して完全な痛悔を起こさない人は、イエズスを拷問しながら愛している?というわけです。そんな愛ってあり得るでしょうか? あるはずがありません! 完全な痛悔を起こすことは、あなたがはりつけにしているイエズスを、十字架からおろして差し上げることです。イエズスに対する何よりの愛徳です。そして自分自身の霊魂に対する愛徳です。私は幼児のころ、こんな教わり方をしました。罪を犯すとイエズスの傷の中にとんがったもので犯した自分の罪が書き込まれ、イエズスを苦しめる。告解するとその字が消され、イエズスの苦しみもなくなると。自分の罪が消されると同時にイエズスの苦しみも消えることをよくわからせてくれたたとえでした。また、あなたが信者なら、もうひとつの大きな愛徳を、2週間ごとに告解を受けることで実行することができます。それは煉獄で清めのために大変苦しんでいるかわいそうな霊魂たちに対しての愛徳です。通常の条件、つまり、聖寵の状態を保っていて、罪に全く執着していないこと。そして「パパ様のご意向のために」と祈ること。(天にまします一回、めでたし一回で良いのです)それを満たせば、全免償を受ける準備ができています。告解をした日の前後一週間の間、全免償をこの条件で受けることが可能です。その間、全免償がいただけるわざを毎日果たし、それを煉獄の霊魂に譲ってあげましょう。2週間ごとに告解するなら、毎日この偉大な愛徳を煉獄の霊魂にささげることができるというわけです。全免償が受けられるわざはいろいろありますが、No.138で紹介した「聖ベルナデッタ、全ての若き幻視者と神秘家の保護者への祈り」もそのひとつです。すべての若い幻視者と神秘家への愛徳の実行が同時にできますし、祈ったあなたには聖ベルナデッタが、傍らにいて下さいます。良い告解をいつもしてくださいね。そうすれば聖霊はあなたの中で大いに働き、あなたを清め、強め、作り変え、聖化します。2週間ごとが不可能な人は、せめて月に一度は告解してください。

 最後に、ミサにあずかりに教会に行くときの服装について助言します。あなたたちはこの世で最も敬い愛する方の家に行き、最も聖なる儀式に加わるのです。参列ではありません。司祭と心を合わせて、ともに御父に、イエズスと自分自身をおささげする内的な行為者になるのです。それにふさわしく装うべきです。遊び着、運動着、仕事着はいけません。きちんとした身なりになってください。男性は長ズボンをはいてください。ジーンズはふさわしくありません。それにできれば長袖を着てください。教会の中では帽子をかぶってはいけません。女性はズボンをはいてはいけません。スカートをはいてください。ロングスカートをはいてください。できれば長袖を着てください。肌を見せないようにしてください。教会の中ではその美しい髪の毛をかくしてください。実は白いレースのヴェールは、日本では洗礼を受けた女性のしるしとなっていますから、洗礼を受けていない人はスカーフで髪をかくしてください。どんな巻き方、結び方でも構いません。男性が帽子をとり、女性が美しい髪をかくすのは、神を敬う作法なのです。男性、女性とも体のラインがかくれるように装ってください。そして透けない生地のもの着てください。これは慎みのためです。


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【 第153章 】

 カトリック教会の全歴史を通じて、聖ヨゼフは霊的にも物質的にも、より頼む人に多くの恵みを与えてくださっています。この終わりの時に、聖ヨゼフは私たちにご自分のいと清き御心を信心するように願っていらっしゃいます。そして偉大な霊的恵みのお約束をひとつくださいました。それは、聖ヨゼフのいと清き御心を信心するものは、煉獄を通らず、天国にまっすぐ行けるという恵みのお約束です。天国にまっすぐ行ける人はほとんどいないのですよ。90%の人が今は死ぬと地獄へ行っていますが、救われる方の10%の人も、たいてい煉獄に、まず入るのです。煉獄の清めの火は地獄の火と変わらないほど苦しいものなので、煉獄ですごす一日はこの世の時間の何百年、何千年にも感じるほどなのです。ですから天国に直行できるお恵みとは実に素晴らしいお恵みです。信心と信心業は全く違います。信心とは「従うすみやかさ」の意味です。この本に私が書いた聖ヨゼフの霊性、聖徳、内的生活、聖ヨゼフだったら与えるに違いない忠告、これらにすみやかに従うならば、信心していると言えます。聖ヨゼフに対する信心業をしていても、それだけでは信心しているとは言えません。このことに注意してください。1995年5月13日にリトル・ペブルさんを通して聖ヨゼフが与えてくださったメッセージが、そのお約束の部分です。次に抜粋します。

聖ヨゼフ:
「……しばらく前に私が約束したように、私のいと清き御心への信心を通して人類にたくさんの特別な恩寵が与えられるだろう。このことの理由は、私の甘美な子らよ、お前たち皆が洗礼の時の聖なる無垢を獲得するのを助けるためだ。なぜなら、この特別な恩寵を通して、お前たちがこの世からあの世へ移るとき、お前たちが天国へ直行するからだ。というのは、お前たちの煉獄は地上で果たされるからである! 来たるべき時には、聖にして母なる教会にとって、私のいと清き御心への信心は非常に重要になるだろう。なぜならおまえたちが私の浄配である汚れなきマリアの御心に至るのは私の御心を通してであり、そして私たちの2つの御心を通してお前たちが私の息子 − 神のひとり子の聖心に至るからだ! たくさんの奥義が、私の甘美なる子らよ、私のいと清き御心の中にある。なぜならそれは神の御旨だからだ − というのは、私は常に三位一体の神と、天と地の元后の謙遜な僕であり続けるからだ。ちょうど私が地上の教会である神の母と、彼女の聖なる息子を守ったように、私は今、キリストの神秘体である教会を守っている。悪魔は世界中と教会内で猛り狂って、教会と選ばれたものを滅ぼそうとしている! しかし、私のいと清き御心によって、悪魔はこれを成し遂げることができないだろう。なぜなら悪魔は、いと高きお方の御旨によって人類を誘惑することを許されているにすぎないからだ。しかしながら、すべては人類の、彼らの信心を通しての、そして彼らの献身を通しての、そして彼らの愛を通しての応え方次第である。私を呼び求めよ。なぜなら私はお前たちの保護者であり、守り手だからだ。私はその霊魂に生きる神の御名を持っているすべてのものを守る − そして、まだ神のひとり子を知らない者たちでさえも守る。私の最愛の息子 − 聖にして母なる教会の、私たちの将来の教皇 − お前によって私のいと清き御心への信心は全世界に打ち立てられ、そしてたくさんの恩寵が全世界の教会に、今与えられている以上に、その時、与えられるだろう。……」


 では、皆さんに聖ヨゼフのいと清き御心の信心に役立つ美しい祈りを紹介します。聖シャーベル修道会の会員が毎日祈っている祈りです。

■すべての共同体の保護者、聖ヨゼフのいと清き御心への奉献

 おお、聖ヨゼフのいと清き御心よ、あなたは祝された永遠の処女(おとめ)の貞潔な夫、神であるおん子の養父、そしてお二人を保護し、お二人を見習ったお方です。今、私はイエズスとマリアに倣い、あなたが私の心の忠誠と愛情の主な対象であるようにと、ひたすら願いながら、私の心をあなたにおささげいたします。私はあなたを「おお、恵みに満ち溢れる方」と呼び、「イエズスとマリアがあなたと共におられたように、私とも共にいらしてくださるように祈ってください」と、あなたに懇願します。あなたの勤勉で、犠牲に満ちた、謙遜な内的生活に倣うための恩寵を、私に得させてくださるようにと、私はあなたに懇願します。そしていまだかつて、あなたの御心ほど、すべての人の霊魂をイエズスとマリアが支配することを願って、燃えあがった心はないのですから、あなたが私の心をお二人にささげてください。どうか私の胸がイエズスとマリア、そしてあなたへの愛のうちに最後の息を吐き、私の最後の言葉が「イエズス、マリア、ヨゼフ」の甘美な御名となりますように。アーメン。



 この本の最後に、聖ヨゼフがこれからの艱難の時のために、ひとつの物質的な恵みを約束してくださっていることを皆さんに教えましょう。それはすべての白い百合に与えてくださる恵みです。食料がなくなるとき、白い百合の球根が、奇跡によってパンのように食べ物になります。しかも、イエズスがわずかのパンをたくさん増やしたのと同じ奇跡によって、それも増えます。白い百合は、ヤマユリのように今でも食べられる球根と、テッポウユリのように、にがくてとても食べられない球根がありますが、世界中のすべての白い花をつける種類の百合に、その時聖ヨゼフはこの恵みを与えてくださいます。白い百合はやはり聖ヨゼフの百合なのですね!



【 付録.1 】

 聖ヨゼフにささげられた歌隊の天使たちのいくつかの名前をお教えします。助けを願い求め、愛してください。まず、この本「153本の聖ヨゼフの百合」をあなたに読ませている天使は、聖アレンドゥス(St. Alendus)です。ふさわしく、つまり意志を用いて読めるようにと頼んでください。

 聖ヨゼフの7つの悲しみと喜びの信心の天使は聖ジョゼリウス(St. Joselious)です。この信心の第一の祈りの天使は聖トネクシウス(St. Tonexious)です。まず、聖ヨゼフがマリア様の妊娠の理由が分からず、3日間言語を絶する苦しみを味わい、その後、天使の夢の中でのお告げで理由を知り、疑念を持ったことをマリア様から許され、共に喜びに泣くなどの出来事をテーマに、聖ヨゼフが受けたすべての悲しみ、苦しみと喜びを黙想しつつ、「天にまします」と「めでたし」を一回ずつ唱えます。この祈りの形は7回とも同じです。第二の祈りの天使は聖ヘラカリウス(St. Helacarious)です。ベトレヘムの馬小屋でイエズスが極貧の中で誕生した出来事における聖ヨゼフのすべての悲しみ、苦しみと喜びがテーマです。第三の祈りの天使は聖ペルティウス(St. Pertious)です。生後8日目、割礼で、人類のための最初の御傷、御血、御苦しみを見、イエズスという名をつけた出来事がテーマです。第四の祈りの天使が聖ハジェンチウス(St. Hagencious)です。生後40日目のイエズスを聖殿にささげたとき、シメオンから預言を聞かされた出来事がテーマです。第五の祈りの天使は聖コラソルス(St. Colasorus)です。エジプトへの逃亡の出来事がテーマです。第六の祈りの天使は聖メラベウス(St. Melabeus)です。イスラエルの地に帰ってきますが、いまだに危険があり、ガリラヤの地へと引きこもる出来事がテーマです。第七の祈りの天使は聖ハラテウス(St. Halateus)です。12歳のイエズスがエルサレムで3日間行方が分からなくなったこと。そして3日後に見つけたことがテーマです。マリア・ワルトルタに天から与えられた啓示を読んで、これらの7つのテーマを生き生きと黙想してくださいね。型にはまらずに黙想し、聖ヨゼフと対話すればよいのです。


【 付録.2 】

 3月は聖ヨゼフにささげられた月です。聖ヨゼフの月の天使は聖ヘラパイルス(St. Helapairus)です。3月19日のマリアの浄配である聖ヨゼフの祝日の天使は聖メガドゥス(St. Megadus)です。労働者の保護者聖ヨゼフの天使は聖フラルタリウス(St. flartarious)です。5月1日は労働者聖ヨゼフの祝日で、その祝日の天使は聖オプザイリウス(St. Opusairious)です。聖ヨゼフの守護の天使は聖ロベンティウス(St. Robentious)です。ナウラのゲッセマニ共同体の私立学校「聖ヨゼフスクール」の保護の天使は聖セレファス(St. Celefas)です。

 マリア様のお体は天にあげられ、ご霊魂と再びあわさり、栄光を与えられ、誰よりも先に「完全な報い」を受けました。マリア様のように、聖ヨゼフ、そしてマリア様のご両親の聖ヨアキムと聖アンナが、その後で同じ報いを受けました。この聖ヨゼフの被昇天を祝う祝日があり、それは3月25日です。イエズスの聖心とマリア様の御心が、霊的なものではなく、実際の肉の心臓であるのと同様に、この恵みによって、この世から完全にお二人のみ心に一致していた聖ヨゼフの御心も実際の肉の、しかも栄光を受けた心臓なのです。聖ヨゼフを愛する者にとって何と喜ばしいことでしょう! 私たちのために本当の聖ヨゼフの肉の心臓が、愛に燃え盛って脈打ってくださっていて、しかもイエズスとマリア様のみ心とひとつになっているのです! 聖ヨゼフのいと清き御心に信心を持つ者にとっては、特に聖ヨゼフの被昇天は意味深い祝日です。そして、聖ヨゼフのいと清き御心の祝日は3月31日です! 聖ヨゼフの被昇天の祝日の天使は聖スィビタリウス(St. Sibitarious)、聖ヨゼフのいと清き御心の祝日の天使は聖プレストゥス(St. Purestus)です。






153本の聖ヨゼフの百合  定価3,000円
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2003年5月31日 第1刷発行

著 者 ジャン・マリー
発行者 コルベ・マリー
発行所  箱舟の聖母社
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