マリー・マドレーヌの自叙伝 6
C)箱舟の聖母社


イエズス、死の予告をされる

2006年2月1日(水曜日) (AM0:59〜AM1:19)
イエズス様からマリー・マドレーヌに与えられたメッセージ

愛する子、マリー・マドレーヌ、あなたに話しをする。あなたは恐れてはいけない。死に関して、あなたは恐れてはならない。あなたが行くべき道を私が定めているから、長に信頼して、避雷針となってあなたの進むべき道をこれからも歩むように、あなたに命じる。イエズスがいつも支えていて、あなたの弱さの中で絶えず道を示していくので、あなたは恐れてはならない。あなたが弱さを知れば知るほど、あなたの全存在がイエズスの望むとおりになるので、あなたの弱さを認識していくことの恵みを心に納めていくように、あなたに言う。愛しているから、私の願いに耳を傾けてほしい。ヨゼファの本を土台にして、あなたは歩むように、私はあなたに言う。
 多くこれからの男性の柱が起こされていく。彼らを支えるのは、避雷針の役目を負った人たちなので、あなた方は決してそこから外れないようにしてほしい。
 今までリトル・ペブルのために身を捧げるようにと願った人々が拒否してしまい、彼から離れてしまった。日本のこれから立てられる幻視者、神秘家、恵みの霊魂は彼に捧げられたものとして、私が選んだものだから、あなたは彼らに対して祈り、一つひとつの事を記録に残し、全て長の望みのままに事を進めていくように、私はあなたに命じる。
 恐れないで、何でも私に打ち明けなさい。聖体を大切にして、これ以上多くのものが聖体に対して侮辱を加えないように、あなたは司祭とともに祈るように私はあなたに言う。
 全てこれからの人々をあなたは祝福の眼をもって見るように、私は懇願する。絶えず、悔い改めて私の望みにまったく委託していくようにあなたに伝える。祝福を送る。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。

2006年2月1日(水曜日) (AM0:59〜AM1:19)
イエズス様からリトル・ペブルさんへのメッセージ

 愛するリトル・ペブル、あなたを祝福する。恐れないで、あなたの道を歩みなさい。あなたは苦しみを捧げ、つぐのいをこれからも捧げていく。あなたの最高の愛を私は知っている。あなたは全世界のためにつぐのいをしてほしい。わたしが定めたあなたを全世界は受け入れようとしないため、多くの苦しみをあなたは追うけれども、恐れてはならない。力強い主がいて、多くの敵を打ち破るので、あなたは私に身をゆだね、歩み続けるように。あなたのすぐそばに多くの天使、聖人、そしてあなたの淨配マリアがいるから、全てを委ねるようにあなたに心からお願いする。あなたに祝福を送る。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。

マリー・マドレーヌ:(状況説明)
 第1ミサのときです。最近、謙遜になる事、自分をもっと卑下するようにという司祭の説教を聴くようになって、今日も自分の事を振り返って心の中を調べてミサにあずかっていました。反発感を感じたりしながら1週間をすごしていて、イエズス様を傷つけたことを心に悔やんでいました。私はこのときに「イエズス様、マリア様、ヨゼフ様、慰めることを求めているけれど、私、本当に慰めることができるんでしょうか。状態が非常に悪いんです」と祈っていました。
 聖体拝領のあと「おそれるな」という優しい男性の声を聴いたのです。私はこの時に、この声を聴く勇気がありませんでした。「こんな私にどうして声を聴かせてくださるんですか」という感じで心に留めていました。
 ミサが終わって、司祭に告げました。印を求めるように言われ、ひざまずいて印を求めました。印をいただいて、イエズス様が避雷針、生贄になることを望まれていることを話されました。司祭の導きにこれからも信頼していきたいです。
 最後のときに印を求めたら印が在りました。リトル・ペブルさんへのメッセージのときにも印を求め、印が在りました。最後のときにも確認を求めて印をいただいています。


2006年2月3日(金曜日)
 今日は、初金です。今まで1週間以上も何も書くことができませんでした。旅行に出たのが1月21日で、この間にローキューションを三日ほど立て続けに受けました。そのあとから、私にとって、生まれて初めて『インフルエンザ』にかかって高熱を出して寝込んでしまったんです。
 このことが起きる前に避雷針としてリトル・ペブルさんの一刻も早い牢獄からの救出を願って、『いますぐにでも私の命をお取りください』という「命の奉献」を捧げました。それから、ジャン・マリー司祭の後継者となるメンバーが誰一人として悪魔に倒されないため、そして、使命を120%果たすことができるように「彼らが負っているありとあらゆる苦しみをどうか私たち3人におっかぶせてください」という祈りをしていました。その命の奉献がこのような形で聞かれるとは思ってもいなかったです。
 今回の旅行は大変犠牲を要求された旅行になりました。けれど、とても実りの多い旅行になったんです。1月22日の夜に名古屋に着いてからしばらくして熱がでて、二日ほど食欲がなく、意識が朦朧状態だった感じです。

 今週になってだいぶ体は回復したものの、ミサになるととっても苦しみが多くなり、オルガンを弾くことや鈴を鳴らすことなどが辛くなって何度も拒否をしたんです。けれど、司祭は十字架から降りようとする私に対して、決してゆるさなかったです。辛さの中で、体の具合の悪さの中で捧げる、これは私にとって、とっても弱い部分でいつもイエズス様に対してブレーキをかけてしまっています。
 今回もまさにそうで、仕事が遅れてしまう状態が続きました。それに加えて、やる気のなさや反発心のような感情も起きてしまって、今週月曜日は「なにもしたくない」という心の状態でいっぱいでした。
 司祭が愛の不足に関して、説教をした後から私の心は本当に刺されてこのままではどうにもならないことを思って、イエズス様に助けを願い始めました。それに加えて1月31日(火曜日)、ドン・ボスコの祝日のミサのとき、『謙遜』の徳を一番得るのは、難しいといわれました。傲慢について説教で言われたとき、本当に私の今の弱さが前面に出ているなあと思って、イエズス様、マリア様、ヨゼフ様に助けを願いました。
 幻視者、神秘家、恵みの霊魂に対して、厳しい内容の説教だったと記憶しています。本当に愛の不足から来るイエズス様に対する冒涜をどれほど瞬時に犯しているか、私は2月1日、深夜ミサで泣きました。「マリア様、あなたを慰めたい、そう思っているけれど、私にできるんでしょうか。慰めることが本当にできるんでしょうか。なにも知らないし、恵みを受けるに値しないのにたくさん貰って・・・。それなのに、私は自分の体のだるさとかを理由になにもしてないです。人に対しても、イエズス様に対しても、愛してるなんていえません。」って祈ったんです。「一番材料が悪い。そして幻視者、神秘家としての性格の強さは持ち合わせていない。信仰も人一倍ぐらつきやすい。」と自分の弱さを列挙していたんです。
 そのあと、思いがけなくイエズス様がローキューションの中で、「自分自身の弱さの認識をすることに対して、この恵みを心に納めるように」と言ってくださったんです。私自身の心の中にあった「死」に対する恐れも全部知ってくださっていたんだと判って、またイエズス様の愛の深さ、優しさを改めて知らされました。

 そう、幻視者、神秘家は何でも知っている、これははなはだしい傲慢です。みんなに支えてもらわないと生きていけない存在です。イエズス様やマリア様、ヨゼフ様など天の方々の言葉を直接聞き、取り次ぐ役割を負った幻視者、神秘家、恵みの霊魂はこの手段でしか救いをゲットできないから、神様の哀れみによってこの賜物をいただいたにすぎないんです。ですから、神様の道具として働く、このことに対して意識を持つことが大切です。恵みを受ければ受けるほど、とっても重要な事柄を担うことに導かれます。そして、『生贄の使命』として、働くように要求されます。霊魂の救いのためです。全世界でこのままでいると滅びてしまう霊魂への愛情を増やして、1日も早い救霊を願って自分の身を捧げる。これが私たちに与えられた使命です。
 何のために生まれたのか、何のために生きるのか、このことをずうっと探していた私にとって、まったく知らない人々の救いのために祈る、このことにすごい価値があるんだと知らされて本当に感謝しかありません。
 毎日毎回繰り返されるミサ。自分の体の具合の悪さを理由に犠牲を捧げない私がそこにいました。本当に弱い私はあの後悔い改めました。ミサにあずかりたくてもあずかることもできないで生きている人たちがなんと多くいるか・・・。幸せを味わった私は、一人でも多くの人がイエズス様、マリア様、ヨゼフ様の愛のもとに帰ってくることを願ってやみません。

 賜物を貰うということについてですが、ぜったい執着しないでください。メッセージを貰いたい、この思いを剥ぎ取ってください。
 天の御旨ならば御出現が在るので、そのときに『僕は聞きます。お話し下さい』と言ってください。以前書いたように、印を大切に扱ってください。けれど、天からの印と下から来るものとは別です。純粋に天からのものであればメッセージには共通のものがあります。けれど、下からのものであるなら良いものに見えても、必ず攻撃の内容がもりこまれます。純粋に天からのものとして受け取るのに識別が必要です。識別の難しさを私は以前体験しました。今でもガードを上げて司祭の導きの下で対処しています。

 霊的なことで、何か人とは違う力を得ることを望んでいろんな集会や儀式など参加したら、本当に気をつけてください。気功を経験した人はいち早くこのことから身を引き、全て捨て去ってください。人に手を置いて体の癒しをすることはだめです。キリスト教の中にも按手をするグループがあります。信者がする行為ではありません。司祭だけが唯一秘蹟を授けることができます。信者がこのことをすると悪霊の影響を他の人に及ぼします。

 以前、一緒にいた前の母親が気功やヨガをしていました。それから、霊能者のところに行って助言を受けているんだと言った人も何人もいたんです。
 今のミッションで起こっている幻視者、神秘家に何かを尋ねることをする、このことを最初聞いたとき、私はカトリックでもこんなことがあるのかと驚きました。でも、日本人、誰もが持つ『神様に近い人』として特別の賜物を貰った人たちに対して取る態度があるんだなと思ったら、本当にこのことはよくないから絶対にやめてほしい、そうおもいます。自然にみんな行動にだします。気がついていなくても、幻視者を間近に見たら話し方が変わる、そんなことを1度、目の当たりに経験した私は、司祭が何度も言っていたことは本当だったんだと思って『特別な眼』を向けさせないために思いっきり恥と思うことをしてきました。この『自分を辱める』ことはとっても自分のプライドを剥ぎ取るのに役立ちました。

 それから勇敢さについても、司祭の指導のもとで勇敢な態度を取ることが試されてきています。まだまだこの『勇敢さ』については課題がいっぱいです。人一倍恐れに囚われやすい私は、ただ司祭が言う一言に「はい」と言って従う以外に進めません。意志を奮い起こして進むだけです。
 司祭がそばにいて助言をもらえる環境の中で私はただたくさん貰う恵みにたいして、感謝すべきことがいっぱいです。私にしか経験できないところをイエズス様は通らせているけれど、みんなイエズス様の生贄に一致することに呼ばれているんだなと思う今日この頃です。

 司祭が最近よく私にいいます。「明日死ぬんだから、体の心配をするのはやめなさい」って。それと、ねたみが湧き上がる状態になったら「明日死ぬんだと思ったら妬む心は起きなくなるよ」と教えてくれました。死んでしまう、もしこのことが目の前に現実として避けられない状況になったらどうなるでしょう。いろいろと整理して死に対して準備しますよね。執着も捨てるんです。物に対しての執着、これは現代に生きる私たちにとって、拭い取るのにとっても難しいとおもいます。けれど、何かに対する執着を剥ぎ取る決心をして努力したら何度転んでも執着することをやめられる、そう私はおもっています。
 自分の意志を持って決めたことに対して、マリア様、イエズス様、ヨゼフ様にお話しながら進めばいいかなと思っているわたしです。

 小さい子だから、赤ちゃんの道を歩く、このことをイエズス様が言われたときがあって、今でもマリア様やヨゼフ様も変わらず私に望まれているのを知るんです。一生追った傷に対して、この傷を抱えながら最後を迎えてもおかしくないって司祭によく言われます。
 変われる自分とコントロールできない自分があることも教えられています。変わることのできる部分に対しては寛徳の道を歩むように高いところを目指して日々努力する。変われない部分は「聖なる諦め」をもって、全てイエズス様に明け渡す。そして「自分の欠点を笑えるまでに自分を下げられたらいいよね」って話しをしています。
 謙る、このことが一番習得しにくい部分なんだと言われているので、最後まで戦っていくんです。イエズス様は弱さを問題にはされていないということを、ヨゼファ・メネンデスの本で学びました。どんなに弱く、転んでもマリア様が抱き起こしてやり直させてくれる。それにたくさんの聖人の取次ぎに支えられて1歩ずつ歩むことができます。
 自分の事を作ってくれた神様が神様の望まれるようになるまで、荒い部分を削りながら良いものに作り変えてくれます。

 私にとって1番大きな喜びは『告解』です。神様の哀れみを一番そこで知ることができる場所だからです。プロテスタントを信じていたときにはこの慰めはありませんでした。告解をして、罪の許しをそこで得ることができる。こんなに大きな喜びはありません。私は罪が本当に許されたのか判らず、何度も罪責感に悩まされました。プロテスタントにいたときは神様と自分という関係だけで、とっても遠い感じを持ち続けていました。マリア様や諸聖人の交わりもなかったですから、とっても厳しい信仰生活でした。
 今はとっても慰められています。許しを得ることは完全なので、洗礼を受けたときの真っ白な霊魂の状態になることができるなんて考えもしなかったことです。
 罪を告白することに抵抗を感じる人、怖いなぁって思う人がもしいたら、そうではないと私は言いたいです。確かに司祭に向かって言わなければならないと思うかも知れないけれど、司祭は『神様に祈るんですよ』と教えてくれています。罪を許したくて待っているんだという神様の愛を毎度経験すると、「本当にカトリックの信仰に変わってよかったなぁ」って思います。


2006年2月7日(火曜日)
 昨日、26聖人のミサを第1ミサでしました。このときに左の肩に激痛がくるようになりました。何か打ち込まれるかのようです。司祭は『初穂』になることを説教で話してくれました。日本のために26聖人が初穂として神様に捧げられたように、リトル・ペブルさんのために命を捧げる。私たちがそれをしようという内容のものでした。

※ニューエイジの危険
 私自身、聖霊派の教会にいた経験からはなします。人の幸せを願って健康を祈る。これはみんな誰もが持つ『善意』の心です。それから経済的に豊かになることの幸せ、職業にも恵まれ、人との関係も豊かに恵まれる。全ての生活において「幸せ」を求めている。何も不足しない世の中になることを願う。これがいろんな宗教の祈願として捧げられています。
 けれど、それで人の本質はよくなるんでしょうか。夢物語で世界が救われる。そんな考えをいだくのは非常によくありません。人を助ける心はみんなにあるのはわかっています。でも、何か違いませんか?人は苦しむことによって霊魂の救いを得るんです。自分を神とする。これがニューエイジの人たちの生き方になってます。何か念ずることとか超能力で人に癒しをもたらして、自分をビッグな人間にするのは危険です。自分を神として人から敬われることを無意識で求めているんです。人が目の前で癒されたら喜びがわくのはごく自然です。私自身、教会で癒しの集会に何度も行った経験から、癒しを貰ったときとっても喜びました。教会の祈り会で人に按手をしたとき、その人が癒されたときがあって本当にびっくりしたのと同時に、「こんな私でも神様が働いてくださった」という喜びに圧倒された経験をしました。何度か集会に行って、本当はみんな喜びのはずなのに、開放される人たちを目前に見て私の心はいつしかねたみのような感じを覚えるようになった記憶があります。だんだん空しくなったんです。眼を癒してもらいたい、そういう思いが何年もあって集会に行った私は、いつどのようにして癒されるときを知るんだろうって思うようになっていきました。毎週、礼拝に行って、悪霊追い出しをして、毎週のように霊的開放を求める。罪の悔い改めを言われ、罪が残っていたら神様の賜物は働かないといって何度も叱責されたのを覚えています。傲慢と高慢もいっぱい言われました。キリスト教で、プロテスタントですから、イエス・キリストを中心においています。でも『十字架の価値』はどこかに行ってしまっていたんです。ある牧師さんは『私たちを十字架の影に隠してください』という祈りはしていました。けれど、カトリックのミサの中心であるイエズスの受難の道とは違って、蘇られたイエス・キリストを強調していました。彼らの福音の捕らえ方は『病気は持つな。経済的な貧しさは神の御旨ではない。」というのを言っていました。『勝利の主』という言葉を頻繁に使っていました。環境を変えるには『勝利の主』を前面に信じて、病を持たない、経済的にも幸せで家族間、人間関係も豊かであるように祈り、福音に生きなければならないと言われていました。讃美歌もゴスペルで、新しい流れでギターやドラム、電子楽器を用いてにぎやかにしていました。古い聖歌集も使っていたけれど、ほとんど若い人たちが喜ぶ音楽を使って礼拝を捧げていました。踊ったり手を叩きながら、また手をみんなでつないで歌ったりもしました。聖霊派と言われる教会にもいろいろ教えがあって、ひとが告白する内容によって、人生が変わるという教えをしていた教会もありました。『可能思考』というのを取り入れていて、聖書の言葉を普段の生活で告白する事をするように進められた本も読んだことがあります。つまり、プラスの事を言えば、出来事はプラスへ動く。マイナスの事を告白しているならばその人の考えはマイナスのほうに傾いていき、環境も変わるんだと。言葉一つで神様に対して、信仰を言い表しているか、不信仰を言っているかが判ると。本当に私はこわかったです。薬を用いるのも不安になったほど、心が恐れでいっぱいになった経験をしました。ジャン・マリー司祭と出会う前、メールでやりとりをしていたとき、また初めてであったときにすぐに「薬を飲んでも大丈夫ですよね?」って聞いたのをはっきり覚えています。何をするにも不安が絡みついていたわたしでした。それから癒しの集会のあと、教会から家に帰ったら癒されたという感覚は瞬く間に消えたんです。これをある人たちに相談したら「信仰を持って癒されるのを待つように」って私に勧めました。でも、疑問が生じ続けて神様に対して、いつしか「助けてください」という祈りを日記に書き綴るようになっていったんです。
 なにかを念じれば幸せになるとか、病気が治るとか、世界の幸せを念ずることで救われるんだといった考えは全部ニューエイジです。気功やヨーガ、瞑想といった類は全部ニューエイジと絡んでいます。人は生まれてから原罪を持っているので、その罪を許してもらわなければ本当の幸せは得られません。イエズス様の十字架の下に行かなければ救われないんです。イエズス様のところに直接行くのには自分の罪が前面に出るので、恐れが生じてすぐにはいけません。けれど、マリア様がイエズス様のところに連れて行ってくれます。なぜなら「お母さん」だからです。
 カトリックでは『聖人の取次ぎ』と天使の取次ぎをお願いします。イエズス様は、自分の悪さを認める人にはとっても優しいです。人として生きてくださったので、弱さを十分に判ってくださる優しい方です。マリア様と一緒になったら、自分が犯してしまう罪について「私、こんなことをして悪かった」という痛悔の恵みをくださいます。マリア様とイエズス様は切っても切れない関係なのです。

 ニューエイジには『罪』と言う言葉は存在しません。『人間は生まれたときから善の存在なんだ』と教えます。キリスト教とはまったく考えが違います。逆なんです。
 人間は悪いもので、私という存在は悪の塊なんだというのがカトリックの根本的な教えです。
 神様に対して反逆する。そういう存在なんだと。ニューエイジには死後にまで幸せが待っているといいます。死は存在しないとも言います。輪廻転生という思想を強調することもしていると聞いています。
 カトリックはそれとはぜんぜん違います。カトリックではこの世で償いきれなかった罪の償いを受けるため、煉獄という場所があることを教えています。罪からの清めです。それと、地獄もあります。今は死んだ人の90%が地獄に行っています。10%の中でわずかの人が、煉獄を通って救われる人たちがいます。残りのわずかの人が天国にまっすぐ上るんです。カトリック信者が救われるのも、とっても大変になってます。
 それから、今あまり言われなくなったことがあります。リンボウという場所があって洗礼を受けていない赤ちゃん、堕胎された赤ちゃん、精神的に負った障害を抱えて無垢なままで大人になった霊魂がそこにいます。彼らは自然的な幸せを得ているけれど、神様を見ることはできません。マリア様の功徳によって、天国に行くことができます。
 それから、理性が確立していなくて、まだ罪を犯すことを知らないで幼児洗礼を受けて亡くなった子は天国に行くといいます。彼らは天使のような存在です。
 煉獄に行った人たちは、神様を選んだ人たちなので、イエズス様を救い主として信じています。カトリック信者でも罪のつぐのいをしなければならない人たちが煉獄に行きます。人は苦しむことによって、聖化と救霊を得ます。

 ニューエイジは『十字架』を否定します。張り付けにされたイエズスの十字架は、昔の御伽噺のようにあつかわれるのです。今でも贖いをイエズス様は一人ひとりにしてくださいます。私たちは今でも罪からの贖いを必要としている存在なんです。

 聖霊派の教会にいたときは、張り付け十字架は否定されました。私たちは洗礼を受けて、罪から救われたのだからと言っていたんです。十字架の苦しみを、イエスが私たちの身代わりに負ってくださった。イエスが死から蘇られたことによって、私たちは解放をイエスによって得た。そのことによって病を追う必要はなくなった。だから、十字架に張り付けにされたままのイエスを伝えるのではなくて、蘇られたイエスを伝える。
 「本当の福音(「喜びの訪れ)」を伝えなければならない。カトリックは死んだままのイエスを伝えているといって、十字架から降りられないイエスを宣教してるんだという批判を牧師さんはしていました。
 イエズス様の両手が広げられて張り付けにされたままの姿は、人類全てを愛していることをあらわしているということを、カトリックの信者になって本で読んだとき、私は感動しました。誰をも十字架の下に招いているイエズス様を知ったからです。ここにくれば愛を知ることができる。そうイエズス様が招いてくださっていると思うんです。

 自分を振り返って、毎日どのくらい神様に対して罪を犯しているか、数えたらあまりにも多くて私は神様とお話しができません。でも、神様の哀れみ深さをカトリックの信仰を持つようになってだんだん知り始めました。一人ひとりの存在を大事にしてくださるイエズス様、マリア様、ヨゼフ様に導かれて多くのことを学んでいます。
 私は、初心に帰らなければならないことを最近感じています。それは苦しみを熱望すること、痛みが体にきたとき、それを交わすのではなくて積極的に「もっとちょ」と言う。具合の悪さも全部良いものとして受け入れ、イエズス様がしてくださることに対して喜んで担う。十字架を嫌がらず、イエズス様に全部委託する。自分の苦手なことを進んでしていく。この心の状態で毎日過ごせるようにしたいです。それと、1時間に1度、聖櫃のところに行っていた時機が会ったけれど、最近ちょっと少なくなってしまっています。イエズス様の望まれることにブレーキをかけてはいけないなぁと反省するわたしです。


2006年2月8日(水曜日)
 7日の日、第1ミサのときとっても寒くて私、大丈夫かなと思ったほどでした。最近、気温が上がって少し部屋で炊いているストーブが熱く感じるのだけれど、私はなんだかかじかんでいるようです。神秘家は気候に対して感覚が人とずれるので、いつもどうなってるんだろうって思ってしまいます。「神秘家のいうことはあてにならないよ」って笑われます。

 1月23日の第2ミサから毎日の第2ミサでは葬式のミサを捧げるようになりました。最近亡くなった全世界の霊魂のための葬儀のミサです。私はこの時から『レクイエム』の曲を新しく覚え始めたんです。司祭が歌うのを聴きながら、旋律をオルガンで弾いていくんです。グレゴリオ聖歌は昔から好きだったけれど、今になってこの時期にこのようなことをするなんて思ってもみなかったです。
 まだミサの時間は長くかかっているけれど、毎日煉獄やリンボウの霊魂の事を考え、愛していける時間を持てるのは本当に幸せです。私自身もいつしか来る『死』に向かって1歩ずつ近づいていることを意識するようになっています。イエズス様、マリア様、ヨゼフ様に早く会いたいです。そして、私のことを支えて守ってくれたたくさんの天使の皆さんと聖人の皆さんに会いたいし、取次ぎをしてくれた多くのすばらしい仲間に早く会いたいです。煉獄から天国に上げられた霊魂は私たちの強力な援けてなんです。今もこれを書きながら煉獄の霊魂に対しての愛が深まっています。私たちはリンボウと煉獄の聖なる霊魂に『日本の大改心とリトル・ペブルさんの大勝利のために、ネットと紙媒体で宣教をお願いします』と毎食後の祈りで祈っています。

 残念なことにいまは煉獄の霊魂のために祈ることがほとんどなされなくなりました。これも現代主義の影響から教会が言わなくなったんです。私が以前、あるシスターに会った時「昔は言っていたけれど、今は祈ることはしない」と言われたことがあります。「死んだ人たちはみんな天国に行って聖人なのよ。」と言っていたシスターもいました。
 とっても悲しいです。「リンボウ、煉獄、地獄の事を言うのは昔の事を信じていて、今は言わないのだからおかしい」と言われたことがありました。本当に悲しいし、マリア様の悲しみを深く感じさせられている今日この頃です。

 私自身には、知識はまったくありません。でも、私は煉獄の霊魂に会った経験があります。昨年のことですが、煉獄の霊魂の訪問を受けたときがあって、本当に苦しんでいるんだなと思ったら「愛します。祈ります」って言ったのを覚えています。そうして日々毎回捧げられるミサの中で煉獄のことやリンボウのことを司祭から聞いていくうちに、彼らとの結びつきを感じるようになっていきました。私の心の中にいつしか「リンボウと煉獄の皆さん、私を助けてください」って祈るようになっていきました。全世界、全リンボウ、全煉獄のために祈りを捧げるミサは私の生活の中心になっています。ミサを中心に生活するようになってきました。天使や聖人、隣人との繋がり、そしてリンボウと煉獄の霊魂とのつながりを持つようになって私は本当に幸せです。
 そして、まだ見知らぬ人々のために祈る恵みはなんと言ったらいいか判らないほど、心の奥深くまで浸透しています。

 一時、自殺まで追い詰められた時を過ごした私にとって、この修道会に来てから今が一番幸せな時をすごしています。みんなリトル・ペブルさんを知ったことから人生が変わりました。全てリトル・ペブルさんを通しての恵みだとつくづく思います。
 愛することのすばらしさ、愛されることのすばらしさをここで知りました。そして、深い神様のご計画の下で勧められる1日、1日はとっても充実していて、いろいろと苦しみがあっても1日の終わりに「感謝と讃美です」って言えるようになってきました。
 本当に生きていて良かった、そう思います。


2006年2月9日(木曜日)
 昨日の第1ミサのとき、避雷針としての命の奉献を新たにしました。「神様に敵対して罪を犯している人たちに下される罰を、代わりに私に負わせてください。彼らがそれを負わないように。」という祈りをしました。
 今回、イエズス様の生贄と一致するのにはまだまだ不十分だという内容の説教を司祭から言われました。具合の悪さをまだ会話に出したり、嫌がるような行動を出してしまう私は、本当にまだまだイエズス様と一致ができていないことを痛感させられました。
 私はこの日初めて神様の正義にたいして、全世界の罪びとのために下そうとする罰を彼らが負うのではなくて、私が身代わりに引き受けたいという思いになりました。神様の哀れみをお願いしました。「神様、彼らを救ってください」と祈りました。
 ヨゼファ・メネンデスの『愛の招き』という本の中で『生贄の使命』に呼ばれた人の寛大さによって罪を犯している人たちの救霊が、一人ではなくて数多く救われるんだということを知りました。『生贄の使命』を負った人の「はい」の一言によって何倍もの救いが実現される。神様によって、彼らにチャンスが与えられ、痛悔に導かれる。チャンスを神様はありとあらゆる方法でその人に与え、いろんな出来事を通してその人が行いを悔い改めることができるようにしてくださる。死ぬ瞬間まで神様の哀れみがあることを知らされています。最後の最後にいたってイエズス様を救い主として受け入れることができるように、神様は導いてくださっているんだと思います。人は死の瞬間に神様を認めるかそうでないかを選ぶ自由が与えられてるんだ、と司祭に会ってから知るようになりました。自由意志を尊重される神様を知ったんです。

 神様を知らない人が犯す罪は軽いです。でも、イエズス様に一番近い人たちが犯す罪は一番イエズス様を傷つけます。彼らが改心するならイエズス様は本当に慰められます。たくさん愛された人たちのイエズス様の要求は大きいんだと思います。イエズス様を愛して、十字架を愛して、苦しみを負ってほしいという願いを持たれているのを本で知りました。
 だから、私も毎瞬イエズス様の御心を傷つけていないか、心に引っかかります。
 人と話したある言葉がその人を傷つけたとします。それが私の心に引っかかってイエズス様を傷つけたといって苦しむんです。私は罪責間の傷のせいで異常に気にしてしまいます。あとでひとに聞いてみると、その人はぜんぜん気にしていないことを知るんです。
 私は、小罪と大罪というのがあることをカトリックの信者になって学んでいます。告解の時には本当にイエズス様を一番に愛したか、人をねたまなかったかとか振り返ってそのつど引っかかることを告白しています。たくさん罪があって少ししか告白できないけれど、思い出せない罪も神様は許してくださるので、また新たに前へ進めることができます。
 修道者の方たちの徳の高さには私は足元にも及びません。そのことはジャン・マリー司祭を間近に見て修道者の精神のすごさを知らされるばかりなんです。このところ、私と修道者とのあまりにもの違いを感じていて、本当に修道者のことが頭から離れないでいるんです。
 私は本当に傷がいっぱいで、誰よりも材料が悪くて生涯の最後までこの傷を負ったまますごすと思います。でも、私はこれを謙遜のよすがにしたいと思っています。


2006年2月10日(金曜日)
 9日の第2ミサの途中、久々に悪魔のアタックがありました。悪臭があったんです。それから、ロザリオを祈る前、右眼に違和感を覚えました。司祭が『大天使聖ミカエルに向かう祈り』をしている途中にです。すぐにベネディクトの十字架を取って、眼にあてました。祈っている途中『お前にはローキューションはないんだ。罪を犯しているだろう?』っていう囁きを聞きました。すぐさま私は「イエズスの御名によって命じる。サタン、出て行け!」と言いました。
 ミサの途中ですが、左のわき腹に激痛を感じるようになり、時々息を吸うのが苦しくなってきました。「全世界に対して下そうとしている罰をどうか神様、哀れんでください。
代わりに私が引き受けます」という祈りを、また捧げた直後からこの痛みが始まりました。

使命を果たす重み
 神様によって、幻視者、神秘家に呼ばれた人たちが果たすべき使命は本当に大きく、一般の人たちが受けない恵みでいっぱいです。直接、天からの幻視や掲示を受けた私たちは従順に従う。これが要求されます。幻視者、神秘家、恵みの霊魂に呼ばれた人たちはみな神様の命令として、リトル・ペブルさんを証するようにと一人ひとり強く受けたはずですし、経験したと思います。神様のみせつりに対して、「はい」と言って従うなら大きな苦しみを通らなければならないとその時に感じたとしても、信仰と意志で進んでいけるはずです。祈りと忍耐が必要であっても、希望を持って進むはずです。
 リトル・ペブルさんを愛しているなら同じ運命にあずかりたい、苦しんでいるリトル・ペブルさんのためなら命を投げ出して従いたい、そういう思いになるはずです。
 『花嫁の愛』は日々増やすものです。でも、人は最初熱かったリトル・ペブルさんに対する愛がいつの間にか冷えてしまう弱さがあります。環境によって、いろいろな人の影響によって、信仰が試され、揺らぐことが在るのを私自身、経験しましたし、知っています。チームで一緒に歩く、これが今の私たちに与えられた神様の恵みだと私は思うんです。私は仲間と一致してリトル・ペブルさんのために立ち上がってほしい、そう皆さんに呼びかけたいです。一人では立つことのできない幻視者、神秘家、恵みの霊魂はみんなで一致して初めてリトル・ペブルさんへの『花嫁の愛』を燃え上がらせることができると思います。励ましあい、助け合ってお互いの良いものを持ち合って進むなら、信仰は強まりますし、みんなと繋がっているという喜びでいっぱいになるはずです。信者が少ない日本の状況では、なおさら一人でいると倒れてしまいます。
 勇敢にリトル・ペブルさんを支持し、リトル・ペブルさんのために働き、マリア様のメッセージを多くの人に伝える。これが私たちに与えられた仕事です。そして、イエズス様と一致しているリトル・ペブルさんと同じ運命にあずかるなら『生贄』としての使命の道に行きます。

 私のこれからは何が起こるかと考えたらたちまち不安になってしまいます。でも、みんなと一緒に戦っていくなら1歩ずつイエズス様のお望みにしっかりとしたがっていけると思います。全部神様がしてくださる出来事は瞬間瞬間、その人に一番良いものを与えてくださっている。だから、体の具合の悪さも、痛みも苦しみもみんな捧げていく。これが私の分野だし、誰も身代わりになる人がいないから、しっかりイエズス様に繋がっていくことができるように自分を明け渡して生活するんです。神様のご計画に対して『御旨のままになりますように』というフィアットを毎日捧げていくのです。それに加えて、『熱望のフィアット』を捧げるようにと毎日司祭に感化されます。『これから起こることに対して、感受ではなくて、熱望して自分からその苦しみを望む』ということをミサのときに捧げ、嘆願しています。

 皆さんにお願いがあります。どうか神様から受けた恵みを投げ捨てないで下さい。弱いものとして、信仰1本で歩むのに欠点を抱えた幻視者、神秘家、恵みの霊魂は神様の直接の働きかけにより、イエズス様、マリア様、ヨゼフ様の声を聴いたり、天使や何かの現象を見たりして神様の御旨を知るように恵みを受けました。天からのメッセージには100%完全なものはありえないけれど、それでも何も感じない、何も見ないで信じている人たちとは違った恵みを受けているのだから、どうか神様の望みに耳を傾け「こんな私に話してくださるんですか?」という謙りの思いを持って毎日歩んでいってほしいです。
 私はここではっきりと言います。賜物が多く与えられたから徳が高いと思っていたら今すぐにでもその思いを捨ててください。何も感じない、何も見ないで何十年も信仰1本ですごしている信者さん、修道者がはるかに多く、はるかに彼らのほうが優れています。私自身は本当に彼らの神様に対する従順、敬虔な信仰には頭が下がります。修道者として歩いている司祭をはじめ、徳のある人は決して人を裁きません。噂話もしないです。人を見下すこともしません。愛すること、許すこと、何よりも「祝福の眼」で人を見ているんです。
 どうかお願いです。いがみ合ったりしないで、互いに相手を自分より優れている人としてみてください。その人に欠点があっても許し、忍耐してください。

 それから現代は一人ひとり心に傷を負っています。その人が追った傷は治るまでに時間がかかります。精神的に強い人、健全な家庭で過ごすことができた人がいたとしても、今の時代は不足分が多く、リハビリが必要です。
 信仰以前のリハビリとよく司祭が言います。抑圧を受けないで育った人は本当にまれだとおもいます。だから、心の傷があっても怖がらないで下さい。先ほど書いたように、一人ではなくて『チーム』で働ける場があります。一人ではできないこともチームでするなら何でもできると思うんです。

※初めてミサにあずかったら
 日本人と、欧米の人々とは精神的の強さの違いがあまりにもたくさんあります。日本人は日本人独特の環境で育ちました。基礎体力が欧米人とは比較になりません。だから、たくさんの祈りをこなすとしたら集中できる時間が短いです。
 マリア様、イエズス様には自分の言葉でお話して、ロザリオ1連を捧げていく。信じた最初の段階ではこれで十分ですし、一緒の共同生活をしていって少しずつミサの雰囲気に慣れればいいです。あまりにも膨大な祈りと典礼の聖歌があるので、今から覚えるのは不可能と言っていいほどです。だから、ミサの時間は自分の言葉でマリア様にお話したり、ミサでしている司祭の動きを見るとかしていってほしいです。

 マリア様の絵を見たり、イエズス様が十字架にかかるまでを聖書で読むなどしてみてください。初めはなにも判らないんですから。そして、雰囲気に慣れていったら自然に歌を覚えるとかできます。それに歌えなくてもぜんぜん恥ずかしいことないです。ミサにあずかることの偉大さを考えたら、歌えないとか何も祈れないとか問題ではありません。一言でも世界の人たちや自分の周りの人たちの救いをお願いしたら、神様の恵みはものすごいです。
 カトリックの信者になったら小さい子の取次ぎの力がすごい大きいと言っていいほどです。神様は一番その人の祈りを聞いてくださるんです。「イエズス様を捧げるからどうかこの人のことを救って」と言ったら神様は喜んで聞いてくださいます。このことを通して、悪魔によって苦しめられていたその人を悪魔の手から奪い返すことができます。
 だから、その場にいる初めての人、まだ来て間もない人は恐れないでミサにあずかってください。その人の存在によって私たちは恵みを受けるのですから。そして、茶話会にどんどん参加して、いっぱいお友達を作ってください。いろんなことを話して、自分を知ってイエズス様、マリア様の優しさに触れていってください。どんな人でも大歓迎してくれる人たちが待っていますよ。

 霊的に悪い影響下にあった人たちへ書きます。信仰宗教を信じて、ま光や叙霊の祈りに携わった人、そして超能力や占いを信じた人、みんな悪魔との契約の下にいます。気功やヨーガ、瞑想の類にどっぷり浸かった人でカトリックの教えに改宗した人は、必ず今までしていた事柄から完全に身を退いてください。完全にその教えを捨て去るのです。少しでも執着していたら悪魔はそれを利用してきます。
 洗礼を受けたら最後まで神様と悪魔との戦いに身をおかなければならないのです。ですから、苦しみを捧げなければならないことをしっかり心に留めて周りに証をしていってください。イエズス様の十字架の苦しみが一番の救いであること。命を身代わりにして死んでくださった方のために私は生きるんだと。苦しみを捧げて、自分の罪の償いをしていくんだと。
 今まで自分の手の中にあった霊魂が離れると知ったら悪魔はその人の魂を苦しめます。「契約があるじゃないか」と言って。このことで苦しまなければならないので、神様をもっと求めてください。マリア様を求めてください。死の瞬間まで大変苦しまねばなりません。悪魔は絶望を入れようとします。「彼はこのように契約した」と神様に訴えてしまうのです。そうして「私に権利がある」と言うことができるんです。
 けれど「マリアさま、希望します」とその人が言ったらマリア様は取り次いでくれます。司祭の指導をいち早く受けてください。そして、信仰の友を作って助言を受けながら生活してください。ここでも『チーム』としての役割の重要さがわかります。互いに励ましあって支えあうことをしていってください。


2006年2月11日(土曜日)
ルルドの聖母の祝日

 10日のミサでは途中まで体のだるさで睡魔に襲われ、説教が始まって突然起きました。そのあといつものように奉献と『熱望のフィアット』と嘆願を捧げました。そして、今回はオルガンがあまりたくさん弾けない状態で最後まで過ごしました。
 聖体降福式を終えて、ロザリオの祈りをしたんです。1連を唱えている最中、目の前に風のような感覚があったので、印を求めました。けれど、ありません。すぐにサタンを追い出しました。
 10日の夜から11日の深夜にかけて、第2ミサをしました。だんだん、曲の流れに慣れてきたけれど、まだ難しい曲があってなかなか覚えるのに四苦八苦してます。
 リンボウと煉獄の霊魂に対して、愛情が深まっていっています。それと、毎日最近亡くなった霊魂のために捧げるミサなので、彼らの永遠の安息を願い、地獄に行かないようにとの嘆願をミサの中の祈りに会わせています。全世界、全リンボウ、全煉獄の霊魂をもっともっと愛していけるようにこれからもしていきたいです。
 生贄については『踏み台になること』と『ありとあらゆる讒言に対しても、拒まないで受ける』、そして何よりも『リトル・ペブルさんへの花嫁の愛』を燃やすんです。小さい子の私には巨大なことなんだけれど「私にやらせて。」ってイエズス様に祈っているんです。


「リトル・ペブルさんの本に出会って」
 私は2年ほど前、リトル・ペブルさんの事をネットで検索したのがきっかけでシャーベル修道会を知り、すばらしい仲間に加えてもらって今を過ごしてます。
 リトル・ペブルさんの本が最近出版されました。私はまだ家にいたとき、この本のいちぶを読むことができて、ちょっと読みました。何よりも私が未熟児で生まれたこととリトル・ペブルさんも未熟児であったことが、私にとってとっても親近感をいだくほどでした。それいらい、リトル・ペブルさんに対する思いが少しずつ膨らんでいきました。この本の中で、リトル・ペブルさんの養父に対する態度が私の心を打ちました。養父は実にリトル・ペブルさんを殺そうという思いでいっぱいになってリトル・ペブルさんに対して行動したんです。それでリトル・ペブルさんは彼のその行動に対して神様のみせつりに信頼しきって、殺されるのをあえて知って養父に対して許しますと言ったんです。普通ならば刃物とかを目の前に持った人を目の当たりにしたら逃げると思うし、自ら進んでお墓まではいかないです。それに対して、リトル・ペブルさんは自分の命を顧みず、養父のしたい事をそのままさせたんです。結局養父は泣いて誤って2度とリトル・ペブルさんに会わなかったそうです。殺されるのを知っていて、その人の救霊のためにその人に自分の命を与えるまでに愛を示した。リトル・ペブルさんの勇敢さと愛がとってもすばらしいと思います。絶対に天の永遠の父である神様を信頼しきっていた姿を、私はこの本で読んでリトル・ペブルさんは本当に真実な人で、真理に生きる人なんだと知らされました。
 その当時、迫害が私を苦しめていたんです。この本によって、私の人生はまったく変えられました。励まされましたし、なんと強い信仰なんだろうって思ったんです。私はリトル・ペブルさんを愛したい、とその本を読んで思いました。
 9月15日に前の親から家を追い出されて、今までしていたことを全部捨てました。リトル・ペブルさんのために自分の命を捧げる思いでいっぱいにして、新たな生活へと旅立ったんです。リトル・ペブルさんの神様に対する愛の祈りには心が震える思いです。まっすぐにイエズス様に向かうリトル・ペブルさんの行動はこの本全体でよくわかると思います。いろんな出来事の中で首尾一貫して変わらないのは、天のご計画に対して信頼するリトル・ペブルさんです。神様がリトル・ペブルさんをどれほど愛されているかをこの本から読み取れると思います。私の全てはリトル・ペブルさんのゆえに恵みを受けます。だから、もっとリトル・ペブルさんのために祈って、苦しんでいるリトル・ペブルさんの重荷を一緒に担いたいという思いで、日々自分の心を燃やしていきたいと思っています。


2006年2月11日(土曜日)
『ルルドの聖母の祝日』

○犬っこ祭り
 午後になって、とっても雪が多く降っていました。今日は『犬っこ祭り』を湯沢市でしているから、皆で見に行こうって言ってたんです。午後4時ごろ、4人で見に行ったんです。でもでも、マリー・マドレーヌはとっても睡眠不足で「行きたくないよ」ってだだっここねちゃいました(キャー、小さい子だからジャン・マリーを困らせちゃった。犬を見る前にわんわん泣いちゃったさ)。今回ほど行く気持ちになれなかったのはなかったなぁ。ってなわけで、さむぅい外に出て犬っこを見に行ったよ。ものすごいいっぱいいぬっこがいたぁ!!寒いのに、手袋忘れちゃった。犬っこを触ったんだけれど、新しい雪がうえに載ってて、もう手がかじかんじゃった。たくさんの作品が並んでいたの。中学生からある会社の人たちに至るまで、湯沢市全体をあげてお祭りの雰囲気を盛り上げてるかんじだった。それにしてもたくさん雪で作った『犬っこ』がいたなぁ。雪でよく作るよなっておもった。屋台もたくさん在ったし、いっぱい食べ物を並べて試食コーナーもあったから司祭と一緒に食べたんだよ。帰りにはしっかり『犬っこ』のストラップを買っちゃったマリー・マドレーヌでしたぁ。

 夕方、帰ったらすぐに私は布団に入っちゃったの。この日の夜は『ルルドの聖母の祝日』だったからお祝いをしたんだよ。でもね、マリー・マドレーヌは昨晩からの書き物の仕事であまり寝てなくて、みんなと一緒に食事できなかった。
 夜の第2ミサの前にようやく食事をしたんだ。本当にマリー・マドレーヌは寒さのおかげで起きるのが辛くて、ジャン・マリー司祭に起こされちゃったよ。冬生まれの私はなんと寒さに弱くて困っちゃってるんだ。秋田に来てからやっぱり前に済んでたところの寒さとはずいぶん違って大変なの。「なんとしてでもミサにあずからせるため、ジャン・マリー司祭は無理やりにでもマリー・マドレーヌを起こして布団の外に出したんだよ」って言いたいけれど、今日は自分で頑張って起きたよ。
 今日はスイスロールと鶏の胸肉の料理だった。それと、プリンもあったかな。

今日の苦しみ
 第1ミサは大変な睡魔でオルガンを弾くのも苦しみました。ぜんぜん寝られないで、朝まで頑張って仕事していたから、第1ミサはとっても眠気が強くて、オルガンを弾くのも辛くてほとんど弾けない状態だったんです。そのときに悪魔が笑うかのように私を攻撃して、もっともっと睡眠のほうへ引きずりこむようにしていったんだ。なんとも辛い状態だった。 けれど、聖体降福式になってだいぶ力が戻ってきて、最後までオルガンを弾くことができました。
 聖体に対して、本当に愛を捧げて聖櫃の中で大切に敬われなくなった聖体を心から敬って罪を償おうと司祭の呼びかけに私の心は「そうです」って言って眠さと戦ったんです。最近、私は祈るときになると、あくびが出て眠気に襲われるというアタックを受け始めたんです。酸素不足でよく生あくびが出るような現象かなって思っていたんだけど、違うみたいです。変なアタックでしょ?

 第1ミサのあと、ロザリオをいのりました。このときに誰かいるのかなって思ったから印を求めました。けれど、何もありません。「イエズスの御名によって命じる。サタン、出て行け!」ってすぐに私は心の中で言いました。そうしたら何もなくなりました。

 第2ミサのあと、ロザリオを祈ったんです。そうしたら頬に風が当たる感覚があって印を求めました。けれど、印はなかったです。すぐにサタンを追い出したんです。しばらくしてまた風があるので、印を求めました。けれど、何もないんです。もう1度イエズスの御名によってサタンを追い出しました。紛らわしいということを司祭に話したら「ポーカーフェースで」って言われたんです。何とかして無事にロザリオの祈りを終えました。


※メッセージ
2006年2月13日(月曜日) ((PM8:35〜8:54)
イエズス様からの公的メッセージ
(償いの日、秋田県湯沢において)

 愛する私の子らよ、あなた方を祝福する。あなた方は聖体を愛し、もっと崇敬してほしい。世界中の子らに言う。なぜ、聖体を冒涜するのか。あなた方は、なぜ、イエズスをいためるのか。あなた方は軽くパンのようにあしらい、何もなかったかのようにイエズスの受難を軽く見ている。手で聖体を拝領するのをやめなさい。あなた方は、なぜ、イエズスをいためるのか。あなた方はイエズスの苦しみをなぜ、軽く見るのか。あなた方はこの冒涜により、心が乱され、多くの罪が犯されている。あなた方は愛するリトル・ペブルの声になぜ、耳を傾けないのか。私が送った預言者に対して、あなた方は多くの侮辱を加えている。私、イエズスがどれほどに苦しみ、心が痛んでいるかを知りなさい。あなた方は、あなた方に神が与えた恵みを投げ捨てている。あなた方は神に立ち返りなさい。私は、あなた方を愛している。私のもとに帰ってくるものを決して拒むことはない。あなた方を愛している。あなた方を許すイエズスの声に耳を傾けなさい。愛する子らよ、私はあなた方の罪を許す。恐れないで、立ち返りなさい。あなた方の愛を私に、もう1度あなた方の愛を注いでほしい。愛する子らよ、あなた方を祝福する。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。


2006年2月13日(月曜日) (PM8:35〜8:54)
イエズス様からリトル・ペブルさんへのメッセージ
(償いの日、湯沢において)

 愛するリトル・ペブル、あなたを祝福する。あなたは聖体の冒涜のゆえに苦しんでおり、全世界の罪のつぐのいのために非常に苦しめられているのを私は知っている。あなたは勇敢でありなさい。最後まで勇敢に戦うあなたに与えられた天の計画にあなたは従ってほしい。天はあなたを豊かに祝福する。あなたは勇気を出し、あなたのために計らう人を私は送っているので、安心して私に身を任せなさい。あなたを祝福する。愛している。恐れないで歩みなさい。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。

マリー・マドレーヌ:(状況説明)
 聖体行列をする前から、私の右足の甲が痛くなってきました。司祭が聖体行列を始めるまえ、冒涜されている聖体の事を話してくれました。このことを黙想しながら聖体行列に参加しました。途中で悲しみがこみ上げてきて、私は涙をしながらロザリオの祈りをしていました。そうしているうちに「聖体を大切にしなさい」と言う声を聴いた感じでした。印を求めましたが、何もなかったので、サタンを追い出しました。聖体行列を終えて、帰ってきたらもう1度同じ言葉「聖体を大切にしなさい」と言われたので、印を求めたいと司祭に話しました。ひざまずいて印を求めたら印をいただきました。「しもべは聞きます。お話し下さい」と祈りました。イエズス様のメッセージの後、印を求め、確認をしました。印をいただいています。今回のメッセージはイエズス様の嘆きで、このような語調のメッセージは初めてです。聖体を大切にすることの重要さをもっと深く知らされています。
 リトル・ペブルさんに宛てて伝言を求めたときに印を求めましたら印がありました。このときにも「しもべは聞きます。お話し下さい」と言っています。途中久々に耳に聴こえる言葉とは違い、口に置かれるような話し方になったので、すぐに打ち切って、十字を切り、サタンを追い出しました。再度印を求めて再開しました。
 一番最後に「このメッセージは本当でしょうか?」と尋ね、確認の意味で「印をください」と求めました。そうしたら印がありました。


2006年2月15日(水曜日)
 最近、自分の気がつかないところで悪魔のアタックを受けていたことを、司祭から昨日指摘されました。それはなんと自分のやるべきしごとを忘れる。乗る気にならない。この間の聖体行列も「行かない」などと言ったんです。具合が悪く、睡眠不足もあったのです。その弱さを突いて、悪魔はアタックをかけてきていました。整理すべきものを整理しなかった仕事があって、今日ようやく終わらせることができたんです。


2006年2月16日(木曜日)
 今日の第1ミサは、久々に眠気があって、大変でした。オルガンもなかなかたいへんだったんです。これが第2ミサの途中にも起こりました。第2ミサの始まるまえ、『悪魔祓いの一般的祝福の祈り』を司祭が始めてまもなくです。突然『お前には聖痕はできないんだ』という悪魔の声を聴いたんです。司祭に後で話したら、「お前、長かっていってやれ」と私に言いました。何度も聖痕はないとかローキューションはないんだとか悪魔の声を聴いたり、インスピレーションの形でアタックをかけてきています。疲れのためか、ちょっと睡魔に襲われたミサになってしまいました。

司祭から教えられたこと
 1日の生活はミサだということを以前、司祭が言いました。ヨゼファ・メネンデスの『愛の招き』の中でも、イエズス様が一瞬一瞬を霊魂の救いのために捧げるようにと言っていたのを思い出しました。何をするにも、心臓の鼓動一つ一つをイエズス様に捧げるようにってヨゼファは言われていたんです。呼吸一つもです。
 私たちが捧げる一つひとつの仕事は全部イエズス様に、罪の償いとして苦しみながら捧げるんです。苦しみがきたときに、喜び楽しむようにと最近司祭に言われています。
生贄の使命を果たすために最低限、必要なのは全世界の罪に対して正義を下す神様に「私が身代わりに罰を負います。だから、彼らを哀れんで救ってください」という祈りです。そして、本物として日々、毎回のミサで深めながら捧げるんです。
 司祭はそれだけでなくて、リンボウと煉獄の霊魂のためにも生贄になることを言われています。リンボウでは超自然的に幸せを得ているけれど、神様を見られないでいます。原罪を持った霊魂であるため、彼らに対して「払うべき物を私が代わりにはらいます」という心を捧げるんです。煉獄の霊魂の中には、罪の償い、清めを何百年にも渡って受けなければならない霊魂がいます。彼らは誰も祈ってもらえないため、激しく苦しみ、清めを受けているんです。だから、彼らが1日も早く天国に上げられるように、私たち生きている人たちが祈り、償うんです。
 「この激しい苦しみを代わりに私に負わせてください」という祈りが最低の生贄としての祈りなんだとここ数日司祭から言われている事です。この世の1日の苦しみは煉獄では何十年、あるいは何百年の苦しみになるんだそうです。とっても長く感じられるとか・・・。忘れられた霊魂に対して、私たちは祈りを捧げています。

※ローキューション
2006年2月18日(土曜日) (PM11:47〜11:57)
『聖ベルナデッタの祝日』
(名古屋共同体にて)
大天使・ガブリエルからのローキューション

 第2ミサを終えて、ロザリオを祈りました。このとき、私は横になって祈っていました。私はベルナデッタの事を考えていました。
 私はこの祈りのときに「謙らせてください」と願いました。3珠目か、4珠目にきたときです。「マリア・ベルナデッタ」と言う名前が聴こえて彼女のために祈るように強い促しを感じました。このとき、○○さんのことが思い出されました。声はとっても澄んでいて聴こえた感じは女性のようで、でも女性ではなく、男性の声でした。区別がはっきりつかなかった感じでした。澄んだ声が印象的でした。この声を聴いたのは初めてで、もしかして天使ではと私は思い、司祭に告げました。しっかり印を求めるようにと司祭に言われ、印をひざまずいて求めました。そうしたら印が在りました。
 この後「『リトル・ペブルさんに伝言がありますか?』と尋ねるように」と司祭から言われ、私は尋ねました。そうしたところ、一言「リトル・ペブルのために祈るように」とだけ言われました。「長の望みで名前を教えてくださいと言うように」との司祭の指示があったので、私はそのように尋ねました。そうしたら「ガブリエル」と答えてくださいました。「印がありますか?」と尋ねましたら確認の印をいただきました。。


※メッセージ
2006年2月21日(火曜日) (AM0:53〜1:10)
イエズス様からマリー・マドレーヌに与えられた公的メッセージ
(名古屋共同体にて)

 愛する子、あなたを祝福する。イエズスがあなたに話しをする。あなたは恐れないで、これからの道を歩みなさい。日本はまもなく大きな転機を迎える。
 あなたは希望を持って歩みなさい。愛するリトル・ペブルを支持して、彼のために身を捧げるようにあなたに強く命じる。あなたの守護の天使、ガブリエルがあなたを支えて、これから行くべき道を守り、導いていく。
 死に関しても、恐れてはならない。あなたはリトル・ペブルの教皇職の真実性を証するために、私が選び、一番弱いものとしてはっきりと判る形で多くの人に知られる。あなたは多く苦しみ、涙した。けれども、あなたの報いは大きく、あなたに与えられているものはイエズスが全て用意したものであって、あなたが絶えず謙る時に、導かれてはっきりとしたものになる。
 だから、愛する子、恐れてはいけない。愛されていて、小さな子であるから、あなたを一人にはしない。愛する息子(ジャン・マリー神父)とともに歩み、あなたの心をもっと信頼へと広げていくように。もっと信頼してほしい。勇敢でありなさい。あなたのなすべきことは用意されている。だから、弱さも、体の具合の悪さも全部捧げていくように。愛し、祝福を送る。勇敢でありなさい。あなたの罪を許す。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。


2006年2月21日(火曜日) (AM0:53〜1:10)
イエズス様からリトル・ペブルさんへのメッセージ
(名古屋共同体にて)

 愛するリトル・ペブル、あなたを愛している。あなたはこれからも勇敢に戦い続けていくように。あなたはすでに大きな恵みを得ている。恐れないで歩みなさい。あなたの淨配である聖母マリアがいつもそばにいて、あなたを離れず、敵を踏み砕くので、恐れないで歩みなさい。あなたの勝利は間近であるから、勇気を出して歩みなさい。あなたを天は豊かに祝福し、恵みに恵みを加える。挨拶を送る。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。

マリー・マドレーヌ
 私自身、このメッセージを頂くまえ、心の打撃を受けていて、ショック状態で昨日は思い出さないようにしていても3度ほど泣き出してしまうほど悲しんでいました。大阪の集会であった出来事は私にとって、大変ショックなものでした。ジャン・マリー司祭の意向である『リトル・ペブルさんを堂々と支持して、勇敢に立ち上がること」には「No」を言い、完全に否定されてしまったのです。ジャン・マリー司祭も、コルベ・マリーも、私も全力を尽くしたけれど、だめでした。私はこのことが自分の罪責感を刺激されてしまい、不信頼に陥ってしまいました。20日のミサは何にもできず、ふさぎこむ状態になったのです。
 夜、リトル・ペブルさんのメッセージを読んでもらって元気が少し出てきて、ようやく第2ミサでは聖歌のオルガンを弾くことができました。第2ミサを全て終えて、ロザリオを祈り始めたときです。右耳の後ろのほうで風が吹いたのを感じて、印を求めにひざまずき台まで行ってひざまずいて印を求めました。そうしたら印があり、イエズス様からのローキューションが始まりました。
 今回、私の死のことに関して2度目の予告がありました。今月の一日に入って、イエズス様が死に関して予告を始められて、今日が2度目です。1月の中旬ごろから司祭が私に対して「死の準備をするように」と言っていました。そして、遺言を残す意味で書き物をするようにといわれました。そして、大天使ガブリエルの助けを願うようにと司祭は私に指導してくれていました。今日、はっきりとイエズス様自ら、守護の天使の事を教えてくれました。
 日本のこれからのことを教えてくださり、リトル・ペブルさんを支持して身を捧げるようにというもので、大変内容が深く、これから全てを私は委ねていきたいと思います。
 メッセージの最後に確認の印を求めました。識別のための印がありました。
 リトル・ペブルさんに伝言があるかを尋ねました。時間がかかってなかなか印がなく、もう1度尋ねました。そうしたら印があり、「愛するリトル・ペブル」と呼ばれる声が聞こえたので、私は「しもべは聴きます。お話し下さい」といのりました。最後にこれは本当でしょうかと尋ね、印を求めました。そうしたところ、識別のための印を頂きました。


2006年2月22日(水曜日)
煉獄の事

 煉獄は13段階あります。1段階目から7段階目までは守護の天使がその霊魂と一緒に行きますが、8段階目から下のほうでは守護の天使はいけないのだということを聞いています。
煉獄の最初の段階から天国に上がるのにいまとっても長い時間をすごしている霊魂がいることを司祭から聞いています。
 この煉獄の第1段階にいる霊魂は「執着」したことの罪の清めのために留まっているのだそうです。これは「神様を一番愛すべきなのに愛さなかった。この世でもっとも愛すべき方を愛さなかった」罪の清めが1段階目にいる霊魂の償いの場所なんだということ。物に対して執着があったり、好きなことから離れられないで執着していたことに清めを受ける場所なんだということを聞いて、私は大変衝撃を受けたのを覚えています。


2006年2月23日(木曜日)
 悪魔のアタックを記します。今日の朝、パンを食べていたらなんと不思議な味がしたんです。それはイチゴの味でした。なんだかおかしいなぁと思ったので印を求めました。けれど、印は在りませんでした。すぐにサタンに出て行くように命じました。これがまたしばらくしてもう1度あったんです。印を求めました。同じようにイチゴの味がしたんです。フルーツケーキをたべているようなあの香ばしさにも似ていました。印を求めたけれど、ありません。サタンにイエズスの御名によって出て行くように命じました。こんな紛らわしいアタックは久々です。

 今日私は誕生日を迎えました。今から私の今までを整理する意味で、自分の弱さ、罪深さ、傾きを書けるだけ書いていきたいと思います。
 今までいろいろと私なりに強く言った文章を書いてきました。けれど、私には人を指導する立場ではないことをもう1度記しておきます。私は口で説明できる言葉を持ち合わせていません。昔からの傷で言葉の話し方が主語と述語がきちっと言えないでいるんです。「主語はなに」っていつも言われるほど、一番言いたい事を抜いて自分の中で飲み込んでしまうしゃべり方をしてしまう癖があります。それから論理立てて話しをするのがとっても苦手です。ディスカッションするほどの力は持っていません。それと、言葉の調子をものすごい気にする性格で、言葉によって人を判断したりして育ったためかこれがよく誤解を招きました。今は本当に率直に心に引っかかったことを仲間に話すことができるようになるまで、自分の心を開いて言えるようになりました。なんとも言えない感覚的な人間で、ある人は「感受性が強いのね」などと言って、私を褒めたことがあります。
 私はこの修道会に来るまで、音楽科の端くれとして生活をしていました。そのため、芸術こそ人の心の癒しには欠かせないものだと思っていました。小さい頃から音楽の環境で育ち、「絶対音感」というものも与えられていました。幸いにも教会に行っていたことから神様を讃美することに喜びを感じていました。合唱をよくしていて、音楽をする喜びを知っていきました。「美声」と言われることが小さい頃からあって、歌うのが自然と好きでした。盲学校の小学部から音楽発表会などあって舞台に立ったりする経験をしたためか、人前で歌う喜びを知っていったのは事実です。でも、人より音感がいいとか音楽をやっているからとかで、音楽ができない人たちのことは思いやらなかったように私はおもいます。いつの間にか音の狂いにとっても敏感になって一緒に歌う人たちの音が下がるのを嫌うことが増えてきたと思います。
 ここの修道会に来て、一番最初に矯めなおされたのは、なんと音楽の好みを捨てることでした。自分が正しい音を出していることに対する傲慢を捨てる。これからはじまったんです。先ず人に強制しない、ここから私の心を砕き始めました。しばらくミサにあずかっていても、歌うことから自分を遠ざけました。つまり「声楽家」と言われた私から「人に聴いてもらうための声ではなく、聴かせる心を砕いて、祈りをするための手段として歌を用いる」という考えに心を変えていったのです。自分は音が正確に出せるから、というある意味傲慢な思いが私の中にありました。音楽家と言われる生活では自分の歌を人に聴いてもらってお金を貰う、これが仕事になっていましたから、最初は本当に喜んでしていました。けれど、徐々にむなしさを感じるようになっていったのです。
 このとき神様のみせつりは、なんと言ったらいいか判らないほど私の心を整えてくれていたと思います。よりどころとしていた自分の声を人に聴いてもらって「プロとして歌う」事から「プロの道を捨てる」事を決心して、自分の声の汚さとか発声の悪さとか声楽家としての能力の少なさを、この修道会に来る前に思いっきり嫌と言うほど見せられたんです。この修道会での私の最初の修練は、「芸術家」と呼ばれることのおごりから自分を見下げることでした。


※メッセージ
2006年2月24日(金曜日) (AM1:41〜2:06)
聖母マリア様からマリー・マドレーヌに与えられた公的メッセージ
(名古屋共同体にて)

 愛する子(マリー・マドレーヌ)あなたを祝福します。あなたは幼子であってください。それが天に喜ばれるからです。自分の傷をみないで、イエズスが良いと思って与えたものを喜んでいれば十分です。誰が何を言おうともあなたは小さな子どもです。
 あなたは自分を低く見ることによって、過去誰も自分を低くみなかった、また書かないと思うことまでもあなたは自分をさらけ出して書いてください。あなたはそれが一番良い守られ方になります。あなたは知識も何もありません。私は知識を持つ人を辱めるためにあなたを使います。この共同体に属する人たちはみな知識を持っていません。全て神から賜った知恵、知識をただみなは使っているにすぎないのです。多くの人たちはこのことを忘れています。
 ベルナデッタを見てください。彼女は純真で何もわからず、ただ私が伝えるままを司祭に話し、多くの苦しみを負いました。
 あなたはいま知識のある人たちに眼を向けようと心が揺れました。あなたは彼らに対して、恐れてはなりません。あなたは自分をもっともっと見下げることで十分に恵みを得ます。本当の謙遜を聖母に求めてください。私はこれをあなたに伝えます。勇敢であってください。あなたは全てをイエズスに預けて全てを委ねきってください。あなたの優しい母、マリアがあなたを強く抱きしめて全てを導きます。あなたは恥じないでください。全部神に栄光を帰してください。
 全ての共同体のメンバーを祝福いたします。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。

聖母マリア様からリトル・ペブルさんへのメッセージ
(名古屋共同体にて)

 愛するリトル・ペブル、あなたを祝福します。多くの子らがあなたのもとに帰ってきます。あなたは大きな愛の心を持って多くの子らを祝福し、導いていってください。あなたの大いなる、大いなる天の計画はまもなく成就されます。喜びに喜びなさい。全てを豊かに導く神があなたを祝福します。あなたに愛の挨拶を送ります。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。

マリー・マドレーヌ:(状況説明)
 いま、深夜の1時53分になっています。マリア様の言葉は、本当にひさびさです。メッセージをいただく前の状況です。ミサ中にこれから私が書き残すことについて一つひとつインスピレーションが与えられていきました。けれど、いま、信者の方々の中で、混乱状態にある人たちのことが私の心のなかに引っかかってしまったんです。『彼らがとっても知識があることと幻視者として名高い人がいるし、神様はそのかたがたにも恵みを与えていらっしゃるんだろうから私がなんにも言う資格はない。彼らを祝福してください。いえ、わたしのことをなんと見ようと私は彼らのことを祝福したいんです』と私は祈りをしていました。『自分を踏み砕いて、自分を見下げて書こう』って決心をした後、私の悪い癖がでました。それは自分にない「大人」の人たちへの「憧れ」を心に抱いたことです。マリア様はこのことをはっきり指摘されました。『自分に背伸びするようなことをしてはいけない』という戒めを受けたと今回のメッセージで思いました。
 ロザリオの祈りの最初は布団のところで祈っていました。5珠目の頭にきたときだったとおもいます。右手になにか触れる感覚を覚えたので、祈りを留めました。聖櫃のところにきて、ひざまずいて印を求めました。けれど、印は在りませんでした。サタンに対して「イエズスの御名によって命じる。出て行け!」と私は命じました。すぐに司祭に祈りを再開してもらいました。終わりのところまでいって『めでたし』の10回目まできたときに再度風が動くような感じがしました。祈りを留めてもらって、印を求めたら印がありました。「しもべは聞きます。お話下さい」と私は祈りました。そうしたところ、「愛する子」と呼ばれてローキューションが始まりました。マリア様の優しさが伝わったのと「恐れないで」と私を押し出してくれる力強さを本当に感じました。
 最後に確認の意味で印を求めました。そうしたところ、識別のための秘密の印をいただきました。

 リトル・ペブルさんの伝言があるかを尋ねました。「印を下さい」と祈ったら印がありました。最初「愛する」と言う言葉が聴こえたとき、私がそれを言うタイミングを逃してしまって一瞬とまどいました。そうしたらもう1度「愛するリトル・ペブル」と聴こえたので、そのままマリア様の言われるままに話しました。
 最後に印を求めました。確認の意味で「これは本当でしょうか?印を下さい」と求めたところ、印がありました。


2006年2月25日(土曜日)
 今までたくさん、じぶんの弱さとか醜さを知っていった生活ですが、本当にうんざりするほど私はよく人と自分を比べて自分の弱さばかりが目立つので、気持ちが失せそうでたまらなかったときをすごしたこともあります。女性特有の「比較する」という行動は、男性にはないことが、ここの生活をしていて発見したことです。私自身、幼いときから比較されて育ちました。だから、私も誰かと自分を比較することをみにつけてしまいました。相手の良い性格、また相手が祝福されるなどといった出来事に出会うと、私の心の中でなんと「自分も祝福されたい」などという衝動に駆られ、何か自分より良いものをもつ相手に変なねたみ心を起し、かってな思いを相手にいだくといった汚さをみることが、この修道会でよく経験するようになってきたんです。
 男性とはそんなに衝突しないのに、女性とはなぜかわからないほど心の衝突を感じてしまう私なんです。めちゃくちゃ醜い姿の私です。司祭に指摘されて初めて自分のおろかさを知らされて、何度も泣いてマリア様にごめんなさいと言うことが多いです。何度も何度もマリア様に「謙遜になってください」って言われるほど私の心は傲慢になりやすいんです。ある人が豊かに恵まれるのを自分が一緒に喜べないんだと知ったとき、なんて愛する心がなくて氷のような冷えた心なんだろうって思わされました。だから私には愛の心一つもないんです。自分から人を愛していると思ってたことが、この1年以上の生活によってまったくの偽りだと知らされてショックでした。人のために親切にしていると思ったことがまったくの思い違いなんだと知らされて、自分の醜さが浮き彫りになって言ったので、口がきけなくなるほどのショックを受けたんです。何か人に良い事をしたと思っていたら、それはお門違いなんだって共同生活をして思わされる毎日です。
 「みんなに支えてもらわないと生きていけない」このことは修道会に入って、ものすごい強く感じています。それから、ちょっと皆さんには衝撃的なことですが、私にとって書きにくい事を書きます。
 私は、家族間で兄弟ともあまり話せず、幼い頃から厳しく育てられ、寂しさをどこかで抱えていたとおもいます。自分の心の寂しさを自分で溜め込んでいつから始めたのか判らないんですが、オナニーの罪をしていました。それと、幼い頃、土壁を食べる「異食」という行動をしていました。私の生涯には「一人ぼっち」という心の空虚が生活の土台になったとおもいます。誰かと一緒にいて作業をするなどできない性格の持ち主になっていました。今でも一緒に連帯感を持って事にあたるのがまだできません。特に司祭と一緒にする仕事は、まだまだどこかで一人でやらなきゃと思ってしまう。
 それから、自尊心がまったくありません。何をするにも怯えてしまうこの癖もなかなか取れないでいます。発言することもです。間違ったらどうしようという思いが先にたって何も言えなくておろおろする。そんなわたしです。

「一つの失敗、丹念さの重要性」
 第2ミサのときです。静岡の集会のとき、一つ失敗したことがあります。ロザリオを祈っていたら右腕が熱くなったんです。1度祈りをやめて印を求めました。けれど、印はなかったので、サタンを追い出したんです。ここまでは良かったんだけれど、次からの行動がよくありませんでした。祈りを再開したらすぐに同じ場所が熱くなったんです。けれど「今さっきサタンを追い出したんだから印は求めない」って私はかってに判断して印を求めず最後まで祈りをし続けてしまいました。これは丹念さの欠如です。自分でかってに判断しないでもう1度印を求めるのが正しいことでした。勝手な判断で事をすませないでください。2度目に天からのものであることがよくあります。
 以前、聖ヨゼフ様のローキューションの時、1度香の匂いがして印を求めたらなくて、2度目にさらに強くにおいを感じたので印を求めたら天からの印があった。このことを経験していた私でした。ですから、丹念に忠実に印を求めてください。人が普通感じないことを感じたら、即に印を求めてください。ヴィジョンやローキューションが始まる前、なにか神秘的な感覚を覚えたら絶対にしてください。それが天からのものか、下からのものであってもです。99%下からのものを受ける私たちは自分で判断することを極力避けなければいけないんです。甘く見ないでください。霊戦です。悪魔は弱い部分を突いてきますから。


※メッセージ
2006年2月26日(日曜日) (AM1:32〜1:49)
聖ヨゼフ様からのメッセージ
(名古屋共同体にて)

 愛する子らよ、あなた方を祝福する。あなた方の保護者、ヨゼフがあなた方に伝える。あなた方は勇気を持って、これからの道を歩み、多くの若者のために宣教してほしい。あなた方は一人ひとり愛されていて、全て喜びを持って神に仕えるものは神は豊かに祝福してくださる。恐れてはならない。あなた方は全てにわたって神の力を受けるので、体も心も全てにおいて健康になり、全ての仕事をこなしていくことができるようになる。だから、勇気を持って進みなさい。何でもヨゼフに打ち明けてほしい。あなた方の奉仕は多くの実りを結ぶので、神に全てを委ね、喜びに喜んで仕えてほしい。ヨゼフがあなた方を包み、行くべき道を指し示していく。勇敢でありなさい。あなた方を愛し、祝福する。恐れないで歩みなさい。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。


2006年2月26日(日曜日) (AM1:32〜1:49)
聖母マリア様からリトル・ペブルさんへのメッセージ
(名古屋共同体にて)

 愛するリトル・ペブルにお話しします。聖母・マリアがあなたを強め、豊かに用います。あなたは多くの苦しみを捧げてきました。あなたは全て神を信頼しました。聖母があなたを豊かに祝福します。勇敢であってください。あなたは信頼を全生涯に渡って学んできました。いつもあなたは信頼を忘れず、多くの困難が押し寄せてもあなたは信頼し続けました。神はあなたをひと時も忘れず、あなたは困難にふさがれてどうしようもない状態に置かれても、あなたは神を呼び求め、望みをおき続けてきたので、神は揺らぐことのない岩としてあなたを立てています。誰もあなたに立ち向かう人はいません。あなたは敵を踏み砕くからです。聖母と一緒にこれからも歩み続けなさい。愛されている子、リトル・ペブルに豊かに祝福を注ぎます。愛しています。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。

マリー・マドレーヌ:(状況説明)
 ロザリオの祈りの最後『大天使聖ミカエルに向かう祈り』が終わりになったころに、右手になにか触れる感覚を覚えました。祈りを留めて前に行ってひざまずいて印を求めました。そうしたら印が在ったので、そのことを司祭に話しました。「しもべは聞きます。お話し下さい」と私は祈りました。そうしたらはっきりと男性の声が聞こえてヨゼフ様だとわかりました。
 名古屋共同体は祝福されていること、愛され、守られていることを伝えたいヨゼフ様の思いが私に伝わってきました。優しいお父さんのようにです。これからの名古屋共同体の活動の事をミサ中私は祈っていました。
 最後に確認を取るために印を求めました。そうしたら印をくださいました。

 「リトル・ペブルさんに伝言がありますか?」と尋ねたら印がありました。ヨゼフ様が続いて話されるかと思ったらマリア様が話されていることが判りました。印を求めて、いただいた後でしたので、最後まで聴こえることを話していきました。一番最後に「これは本当でしょうか?印を下さい」と求めました。そうしたら、識別のための印がありました。


※メッセージ
2006年2月26日(日曜日) (PM16:11〜16:25)
聖母マリア様からのメッセージ
(大倉山の集会にて)

 愛する子らよ、あなた方を祝福します。あなた方は互いに愛し合ってください。あなた方のなすべきことは愛することです。あなた方の行くべき道は多くの困難が待っています。ただ、希望を持って進んでいってください。聖母があなた方を包み、これからの道をともに歩みます。決してセンセーショナルな行動に走らないよう、注意してください。日本の大改心は神がなさることです。人間の技ではありません。あなた方を愛し、祝福いたします。司祭の祝福をお願いします。

聖母マリア様からリトル・ペブルさんへのメッセージ
(大倉山の集会にて)

 愛するリトル・ペブル、あなたを豊かに祝福します。あなたは愛を知っています。あなたが無実であり、多く愛を捧げたことが全世界に知られます。あなたは愛においては、まったく落度がありません。あなたのこれからの歩みは大変重要で大いなるものです。反キリストと戦うためにあなたは立ち上がります。恐れないで前に進んでください。聖母が絶えずあなたのうえに恵みを注ぎます。勇気を持って歩いていってください。あなたに祝福を送ります。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。


マリー・マドレーヌ:(状況説明)
 ロザリオの祈りの途中です。2珠目か3珠目のときに私の右手に何か触れられる感じを覚えたので、祈りをとめさせてもらって印を求めました。このとき、緊迫した状態が伝わってきました。印を求めましたが、ありませんでした。サタンに向かって「イエズスの御名によって命じる。出て行け!」と私は命じました。そして、祈りを司祭に再会してもらったら、すぐにまた風が右手に触れるのを感じたので、司祭に合図して印を求めました。そうしたら識別のための印があったので「しもべは聞きます。お話し下さい」と私は祈りました。マリア様の今回のメッセージは愛することに言及されていました。
 最後にメッセージが終わって印を求めました。確認を求めたところ、識別のための印をいただきました。
 「リトル・ペブルさんに伝言がありますか?」と尋ねたら印があってメッセージがありました。最後に「このメッセージは本当でしょうか?印はありますか?」と尋ねましたら、識別のための印をいただきました。


※メッセージ
2006年2月27日(月曜日) PM11:40〜2月28日(火曜日)AM0:10
聖母マリア様からの公的メッセージ
(秋田県湯沢において)

 愛する子(マリー・マドレーヌ)あなたを祝福します。全世界のためにあなた方は、つぐのいをしてください。彼らは多くの罪を犯しています。イエズスの御心は侮辱され、侮られています。毎年くるこの時機に、多くの子どもたちが罪におぼれて多くの恵みを失っています。悲しみの聖母はどれほどに涙を流したら子どもたちは帰ってくるのでしょうか。なぜ、あなた方は多くの罪をイエズスにかぶせるのですか。あなた方をどれほどに愛しているかしれないイエズスがどれほどに傷つけられ、苦しめられているのを、あなた方はなぜわからないのですか。子どもたちよ、悲しみの聖母の声になぜ耳をふさぐのですか。愛してやまない神の愛にこんな形であなた方は答えるのですか。お願いですから、神のもとに立ち返ってください。あなた方の母がこのような嘆きをあなた方に言わなければならないほどに、あなた方の罪が神の御前にかぶせられています。神の御前に罪が叫びをもって立ちのぼっているので、神はあなた方を罰せずにはいられないのです。
 愛する子どもたち、特にキリスト教国の中に生まれ、生き、今もすぐ教会があって聖体をすぐにもらえる環境の中にある子どもたちよ、あなた方は神のもとに立ち返り、これ以上イエズスを悲しませないで下さい。痛めないでください。あなた方を愛する母が懇願します。リトル・ペブルの苦しみは増しています。彼のために自ら犠牲を捧げようとする人は少ないです。「リトル・ペブルきちがい」と言われるのがなぜそんなに嫌なのですか。
 愛する浄配があなた方に訴えます。彼の身になってください。彼はイエズスと同じ運命をたどっています。神は侮辱され、侮られている彼をほおってはおきません。
 愛する子どもたち、あなた方を愛する天の母の声に耳をふさがないで下さい。愛しています。あなた方のうえに罰がくだらないように聖母はとりなしています。神は帰ってくるあなた方を待ち望んでいます。『神よ、私を助けてください』この一言がどれほどに神の御旨を喜ばせるか、あなた方が知ることができたらどんなにいいでしょう。
 あなたの優しい母、あなた方を愛してやまない母があなた方を祝福し、これからの道をともに歩みます。あなた方を許す母がいることを覚えてください。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。

聖母マリア様からリトル・ペブルさんへのメッセージ
(秋田県湯沢において)
 愛するリトル・ペブル、あなたにお話しします。愛してやまない聖母があなたを豊かに祝福し、あなたの勝利を宣言します。あなたはこれからの道が全て神によって用意された道であると知っていますし、本当にそうであるとますます認識するようになります。恐れないで進んでください。イエズスが『あなたの信仰があなたを救った』と言われた言葉を、私はあなたに思い起こさせ、いまこの言葉をあなたに伝えます。あなたを祝福します。父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。


マリー・マドレーヌ:(状況説明)
 このメッセージをいただくまでの状況です。ロザリオの祈りを始めて、まず第1珠目の時、冷たい風が私の右手に触れる感じを受けました。祈りを留めさせてもらって印を求めました。けれど、印はありませんでした。私はサタンに「イエズスの御名によって命じる。出て行け!」と命じました。祈りを司祭に再会してもらったら3珠目のところにきたとき、また風が私の右手に触れました。今度は先ほどよりも強くなりました。祈りをまた留めさせてもらい、印を求めました。けれども、印はありませんでした。サタンを追い出して祈りを再開してもらいました。5珠目になった頃だと思います。3度目にまた風が右手に触れました。前よりもまた強く吹いたのです。このときに声も聴こえました。「つぐのいなさい」という声でした。女性の声が聴こえました。このことが間をおかずにあったので、すぐに印を求めるため、祈りを留めました。そうしたら識別のための印がありました。
 マリア様のローキューションは大変重みがあって、悲しみが伝わるだけでなくて言葉もゆっくりだったので、いっそう悲しみがこみ上げてきました。イエズスを愛してやまない母の思い、そしてリトル・ペブルさんに対しての愛の情熱さが伝わったのと、言葉にならない深い嘆きを私は感じました。
 最後に確認の意味で印を求めました。そうしたら、識別のための印をいただきました。

 「リトル・ペブルさんに関して、伝言がありますか?」と尋ねたら印がありました。リトル・ペブルさんに対して話されるマリア様は本当に愛情深く、ゆっくりと優しい口調でした。最後に「このメッセージは本当でしょうか?印はありますか?」と確認をしました。そう尋ねたところ、識別のための印をいただきました。


2006年2月28日
 私に悪い癖があります。知ったかぶりをするような悪い癖があります。自分の知らないことを話していて、自分に質問されたとします。特に外来語などの言葉に戸惑う私なんです。「この○○についてどう思います?」これで質問されるとうまく答えられないし、自分の知らない単語を言われて「私、知らないんです。その言葉はなんて言う意味でしたっけ?」と素直に聞けないで隠して知ったように話してしまう。悪い癖です。「知らないっていわれたらどうしよう。恥ずかしい。こんなのも知らないのって言われちゃう。」こういうような恐れ、不安にすぐとらわれる性格の私はいつも失敗ばかりです。自分で後で恥をかいてしまうんです。あとで言いなおして、「さっき知ってるっていう感じで話したけれど、じつわね」って・・・。今回も旅行中このような出来事に遭遇しました。ネガティブとポジティブの意味がわからなくて、それでも話についていきたくて質問されたことに答えてしまったらあとで違っていました。「私、馬鹿なの」ってひょうひょうとしていたベルナデッタがとっても私にはない性格でうらやましいくらいです。自分の弱さをぜんぜん恥じていないベルナデッタ。記憶の悪さを抱えていたけれど、それをマイナスとはとらえていなかった。


2006年3月1日(水曜日)
 私は何もかも人より劣っているといわれて、それがもとでコンプレックスを抱えてすごしてきました。勉強ができない、英語の能力がない。話し方も考え方も幼い。なんだか小さい子のまま、大人になった。そんな感じです。それから、視覚障害者独特のゼスチャーもあります。なぜか判りませんが、眼のほうによく左手を持っていって抑えてしまう癖です。これはなかなか癖が取れないで今に至っています。あと、お箸が十分に仕えないんです。練習をいくらしてもぜんぜんできませんでした。持ち方がうまくいかなくて、指に力が入らないようです。あとは、起きるときに時間がかかって小さい子がするように、「ネムーイ」と言いながらだだっこしてしまう。これは発達段階で、嫌だと言うべきときに無理やり抑えられてしまったのがうっ積したために、いまここにきて抑圧から開放されてからしている行動です。ちょっと今になって恥ずかしいですが。やはりまだとれません。幼い頃はおねしょもなかなか取れませんでした。
 司祭はこんな私を笑いながら楽しんでくれています。ものすごい人の眼を気にしてしまう私には「罪責感」というのが戦いになります。愛着形成ができずに育った私は神様に対しても、人に対しても、愛着を持つのに少ししか進めないでいます。
 それと、幼い頃、言われた事をおうむ返しに言うことが小学生になっても直らず、自分で文章を考えて自分の言葉で話せませんでした。反響言語と言うそうです。ですから、知能が低いといわれ続けたのです。もう、小さい子さながらの行動をよくすると思いますよ。見た目ははっきりしているとか、物言いはしっかりしてるなどとよくみられます。でもでも、違います。悪い傾きの塊なんです。
 人がいないとやるべき仕事があってもそれをあとにして別の事をしていて、いざ人が戻ってきたりすると、もといた場所に戻ってやりだすとかしていました。今でも「2重人格」てきな行動が起こることがあるとおもいます。


2006年3月2日(木曜日)
 私は修道会に入って、非常に苦しんだことがあります。私に取って、女性という存在について自分が女で在るにも関わらず、何度も何度も男性と女性の違いに苦しみました。特にアダムとエバからずうっと続いている「罪」について、女性のほうがはるかに罪深い存在であることがわかったからです。すぐに人をうらやむ心が起きるのは、男性よりも女性のほうがはるかに多いです。妬む心はまるで女性の標語であるかのよう。私自身、男性のさっぱりした考え方、行動の仕方にとっても心が打たれました。それに、男性は純粋なのです。神様に対して、マリア様に対して、子どもであるのが男性です。女性はなにか飾りがないと満足しないのです。「人の眼」をいつも気にするのが女性なんです。私はその中で育ってきましたから、女性らしさということをいつも気にしなければならなかったのです。女性はこうあるべきだと言われ、すごしてきた私です。ぜんぜん、女性らしくできなかった私は自分でコンプレックスを抱え、自分で攻めました。

 私の「自己中心的」なもののみかた、言い方、行動の仕方はものすごいです。自分が満たされること、自分の求めることがかなえられるならそれでいい。全部「自分が、自分が・・・」なんです。よくも司祭や周りの人は私のことを忍耐してくれているなぁ、そんなことを思っています。
 毎日毎日、自我からくる心の葛藤は大変です。自分がはるかに妬み心があること。自分のおごり、高ぶりにうんざりして、昨日は何をするかわからなかったほどです。前にも書いたように誰かが恵まれたとします。それだけでもうなんです。
 悪党で神様に対してなんとも言えないはなはだしい侮辱を加え続けているのは、実にこの私なんです。人を愛せない、許すことがすぐにできない、何でも望みのままにならないと自分がまるで捨てられたかのようにふさぎこむ・・・。なんてばかなんでしょう。それに加えて自分の言葉のはしばしには、これをして貰えて嬉しかったということがすぐにでもあると自慢するんです。何もかもですよ。私は、聖体拝領のとき、順番を一番最後にしてもらっています。それから司祭による祝福もです。自分を一番卑しいものとしてみるためです。そうでないと私はすぐ高ぶってしまいます。集会のときにも席は一番後ろです。ただでさえ、「幻視者・神秘家」は「特別な人」として見られ、目立つ存在です。
 リトル・ペブルさんを信じる日本の状況で、自分の事を最低最悪なものとしてみる。これは一番私にとって最高のプレゼントです。

 自分は今までにないほど心が汚れ腐っていて、子どもの性格のまま、大人になったとしかいえないわがままなものなんです。本当に利己的です。いつも人の手を借りないと生きていけない私なのに。自分より相手が優れているのがすぐにでもわかると比較して、「どうせわたしだめなの」など心のなかで言うんです。「あの人は私よりすごい・・・」という心の傾きに本当に苦しみ、いつも毎日戦っています。自分の惨めさ、おろかさは世界でも一番です。
 それから比較したくないと思いながら比較してしまった経験を昨日しました。自分が何をしているのか判らなくて、怖かったです。自分に妬み心があるのが判ると、どうしようもないほど激しい心の痛みが私を襲います。怖いのは相手の良さではなくて、自分にある悪さを棚に上げて相手に対して悪い事を思う心の悪さです。あまりにも自分の高ぶりに気が動転して、昨日はどうしようもなかったほど泣き崩れました。
 どうして、人のことを良く見れないんでしょう。こんな私は、最低のなかでの一番最低です。

 それから自分を隠して自分をごまかす態度とかあります。非常に汚いです。陰口もよく言ってしまうんです。生活していてこの悪徳はよく顔を覗かせます。しょっちゅうです。自分にとって都合の悪いことが起きるとそこから逃げる姿勢を見せます。いままでずうっとそうでした。 怠け癖もよくあります。だから、自分そのものにはけっして徳はないんです。
 聖体拝領のとき、とっても私の心は震えます。「よくもこんな最低の私の中にイエズス様が食べ物となって入ってくださいますね。」もうそんな思いでいっぱいでした。一日の第2ミサのとき本当に心がそう思っていました。
 神様は私のこの材料の悪さにも関わらず、私にいつも哀れみを注いでくださっています。今の今に至るまで、神様の最高最善の導きに感謝せずにはいられないです。


2006年3月3日(金曜日)
 昨日の第1ミサはぜんぜん祈ることができなかったです。何もいえないし、重い心の状態でした。これをあとで司祭に話したら「意志力が大切だよ。感覚で祈るんじゃないんだ。何も感じない、何も感情が動かないとしてもただね、『捧げます』っていう意志を起すことなんだ」と。そう、無味感想の状態が一番いいんだ。暗夜のときにこそ、神様を肉迫で求めるんだよね。私はいま、そう思ってる。
 昨日あまりにも勢いよく自分を徹底的にけなし始めたから、心が破れはじめちゃった。そう、「生贄になります」っていうのがおこがましいなぁって思うようになっちゃったマリー・マドレーヌ。あまりにも自分の汚さ、弱さがどんどん出てくるから、もう何か心のなかから血が流れ出したみたいになって昨日1日『ハァ』ってため息ばかりついてね。そしたらね、司祭から『イエズスに涙全部あげるから、なにくれるの?って言ってごらん。私のこの心を交換してって頼んでごらん」って言ってくれたの。
 お昼休みで寝ていたら自然に涙が流れてきちゃって、楽しもうとしても心の痛みでメランコリックになっちゃってね、涙が止まらなくなったんだ。それで、言われたとおりに祈ったよ。『マリア様、助けて。イエズス、涙全部あげる。何くれるの?」ってね。『私、いま、心がめちゃくちゃ破れちゃった。交換して。イエズスのものと交換して」って。そう祈ったら気持ちが楽になった。

 でもね、まだまだ書き足りないから、書くけれどね、女性が『生贄になる』ことに対して『神の御旨に服します』っていう「フィアット」がなかなかいえなかったの。男女の差別みたいだって変な思いがあったから。でも、違うの。男性と女性の、そもそもの役割が違うんだ。いま、男女平等って叫ばれてるから女性が社会進出って言って、自分の働きたいところに就職できるようになったけれど、男性の持つ発想と体力には女性はなれない。女性が家庭に留まらなくなったためにバランスが崩れたって司祭から聞いたよ。男性並みにこなす人がいるかも知れないけれど、でも女性はやっぱり女性なんだよね。
 男性は戦うことにいつもさらされてる。権力とか自分の能力など、絶えず絶えず戦って勝ち取る頭を持ってるのが男性。女性は違う。弱い器として作られていて、社会でも男性によって守られるんだ。それに対して、男性は大黒柱として一家を支えなきゃいけない立場におかれる。社会でいつも戦うから誰からも守ってもらえない。
 女性は精神的に細かいものを持っていて、神様のほうに近づき祈れる時間を持てる。戦う男性を精神的に支えるのが女性の役割になるからね、それでうまくいくんだ。

 だから、女性は生贄になる使命を負った人が本当にたくさんいる。私は男女、そのものの生き方が違うことをこの修道会ではっきり学んだよ。そして、男女の役割を神様が定めているっていうことも知った。女性はどんなに頑張っても男性にはなれないし、男性並みのものは持ち合わせてはいないんだ。
 大胆に書いたけれど、事実なの。事務的な頭を持っているのは男性。哲学的に処理するのが男性。いつも論理的に考える頭を持っているのは男性。ということで、女性は命を神様に捧げることが喜ばれる。本当に葛藤が多かったけれど、今では男性の柱がたって多くの神様の事業が起されて、それを通してたくさんの霊魂が救われるようにって祈りをしている私です。毎日大天使ガブリエルが材料をくれて感謝してます。

 そう、私は臆病者で卑怯者です。いつもなにか違うことを言って、1回言った事は確信がないと否定して後で言いなおしたり、それもごまかしになったりして、昔『2枚舌』と言われるほどふらつくくせがありました。自信がなければ言わなきゃいいものを。言ったがために失敗をいっぱいしてきたんです。言い訳も多かった。弁解の言葉を捜してしまうのが小さいときからとれなくて、いまも言ってると思う。そんな私です。
 罪びとの中では最たるもので、自分を認めてもらいたいっていう衝動がおきるのはやっぱり小さい頃から歌を人前で歌って目立ってたからだと思うんです。
 本当にギャップの大きい人生だった。じっさい、外見で判断した人は私のことを「ま、しっかりした人」ってすぐに見るけれど、内面はぼろぼろで汚れ腐ってるもの。
 自分の弱さは全部イエズスに預けて今を過ごしているんです。神様は弱いとか罪が多いとかを気にされないんだって。ただ、望まれてるのは『絶対的な信頼』なんだよ。いつも、いつも司祭は『信頼すること』って私に言ってくれるんだ。人が信じられないで育った私にはいつも「一人」っていうのが頭にあって、いつの間にか「一人」を選んでしまうんだね。一緒にやるって言われてもなの。徐々にしか愛着できない私を司祭は忍耐してくれてます。どんなに欠点が多くても楽しんで忍耐してくれてるんです。今までにこういう人に出会ったことはなかった。

 それから私ってよく「ごうじょっぱりっ」って言われたの。プライドが高いんだね。あることを指摘されたときに、なんと反発心がわいてくるのを何度も経験した。何でも自分でやることが私の生き方になってて、人に「これやってほしい」ってすぐに頼めないことがある。昔、パソコン教室でインストラクターをしたことが、結構自分でやりたい思いを刺激したんだね。今でもなかなか直らない。

 先週の土曜日、まだ名古屋にいた時からまた体の痛みが強くなってきました。今週月曜日、火曜日はキリスト教国を中心にカーニバルの時機だったこともあって、償いをしなければならないため、激しい激痛が私を襲いました。
 そして、3月1日に『はいの水曜日』になって『しじゅんせつ』が始まったので、精神的にも肉体的にも激しい試練にあい始めました。今日も夜は痛みの中でミサにあずかったんです。


2006年3月4日(土曜日)
「私、マリア様が苦手」

 私はなぜだかマリア様が苦手なの。みんなはとっても驚いたかも知れないね。なぜって、みんなは優しいお母さんであるマリア様にあこがれるのが普通だもの。でも、私は『母親恐怖症』って言われてもいいくらい実母との関係が良くなかった。そのため、イエズスにはお話ししやすいのに、マリア様にはまだだめ。イエズスとか他の聖人よりお話しがしにくくて・・・。女性恐怖症だねって司祭に言われているのもあるんだけど、お母さんって甘えられなかったから、私にとっては近づきたくてもやっぱり何か違うイメージを持っちゃうんだね。とくにね、マリア様が罪を犯す私たちに対して嘆かれてるメッセージなど聞いたら、『ごめんなさい』って言うんだけどね、『厳しいお母さん』っていうイメージになっちゃう。それにマリア様の御出現を受けた人たちは、マリア様の気高さとか見たりしてるでしょ?女性の中でも一番麗しい方、天の女王なんだからっていうイメージでマリア様を捕らえてしまっていた。一緒に祈ってくれるマリア様のお話も聞いたりして竹れど、マリー・マドレーヌはとってもびっくりなんだよ。
 マリア様が私のことを愛してくれているのに、私がマリア様に近づけないでいるのが一番苦しいんだって司祭から聞いたとき、なんて言ったらいいか判らなかった。『悲しみの聖母』を歌っていると涙が止まらないんだけど、私のこの『マリア様苦手』というのがマリア様にとって、一番親としてこたえるんだって言われてね、どうしたらいいかわからなかった。「マリア様、助けて!」っていっつも言うんだけど、もっともっと甘えていいんだよね。マリア様が今回自分の事をものすごく低く見るようにって言われたときにはとっても心が緊張して固まっていたんだ。マリア様に「本当の謙遜を求める」事をしてるんだけど、とっても私には遠くて遠くて・・・。マリア様、私、謙遜になれるかな。謙遜を求める私だけど、いっつも失敗して、すぐに傲慢になっちゃうし、すぐに人を見下すような思いが心にわきあがっちゃうんだよ。私って1日に7回罪を犯す義人の何百万倍もの罪を犯してしまってる。神様にいくら謝っても足りないくらい。つぐのいは、とてつもないほどだね。
 でも、ロザリオのときもそうだけど、人の悲しみに共感して泣いてくれるのがマリア様だって聞いたときにね、少しマリア様に対する「気高くて近づきがたい」というイメージは消えたよ。
 神様に対してもそうなんだけど、私ってとっても厳しい天の方々のイメージが強くて、カトリックの信者さんにはないほど全然違う認識を持っていたんです。
 実は大天使「ガブリエル」に大してもそうだったんです。聖書でザカリアが神様の約束の言葉が信じられなかったとき、ガブリエルが言った言葉とそのあとに起こったザカリアが洗礼者聖ヨハネが誕生するまで口が聞けなくなった箇所を読んでガブリエルは「怖い!」って思ってた。
 ところがね、司祭とかコルベ・マリーとかに聞いたらぜんぜん違うんだ。受胎告知をされたガブリエルはとっても美しくてものすごい素敵なんだって。わたし、マリア・ワルトルタの本を最初読んだかも知れないけれど「マリアの歌」の中にでてくるんだって。あまり記憶がなくて・・・。でも、私のことを優しく助けてくれているのが大天使ガブリエルなんです。神様の優しさに感謝したいです。


○リンボウのお話し
 第2ミサのとき、こんな話しがありました。リンボウのことです。途中、悪魔のアタックがあって、悪臭がしたんです。悪魔にとって知られたくない事柄だったようです。リンボウのことについて知られてないことが、司祭からどんどん知らされている私です。リンボウ(こせい所)にいった赤ちゃん、理性がまだ未発達で4歳から5歳にかけてなくなった小さい子達は、洗礼を受けていないでなくなったらそのままリンボウに行かなければならない。
 日本を始め、未開の国の子どもたちにいたるまで、またカトリックのようじ洗礼を受けていないプロテスタントの子どもたちも多くリンボウにいるのだと司祭から聞きました。そう、確かにそうなんです。リンボウはまた赤ちゃんとして着床せずに自然に亡くなってしまった霊魂がいっぱいいます。それと、流産した子達も。お母さんのおなかで赤ちゃんとして生まれる6人のうち5人は着床できずに失敗するんだそうです。気がつかないでたくさんの霊魂をお母さんたちはリンボウに送っていることをきいたんです。子だくさんとして産むお母さんは大変多くリンボウに霊魂を送っているんですね。
 いま、妊娠中絶も行われているから、なんと殺された赤ちゃんもそこにいるんですよ。彼らは原罪を持っていて、神様を見る幸せは得られないでいるんです。超自然的な幸せは得ているんですけど、神様を自分の所有として楽しめないんです。神様を目の当たりに見ることができないんです。
 こういうことはいま、ぜんぜん言われなくなりました。彼らは愛されていません。誰も、彼らのことを祈らないから。また、特に殺された赤ちゃんはなおさら愛されないで生まれることを妨げられました。
 赤ちゃんたちはマリア様、ヨゼフ様に愛されています。地上にいる私たちは彼らに助けを求め、取次ぎをお願いすることは今までしていなかったです。煉獄の霊魂のために祈ることはしていましたし、煉獄の霊魂に助けてもらいたいと私たちは今も祈っています。リンボウの霊魂のためには祈りをしています。でも、彼ら(リンボウの霊魂)の助けを求めてはいなかったと思います。リンボウの霊魂にも、煉獄の霊魂にも助けを願うよう、マリア様は私に新しい掲示をくださいました。特にリンボウの霊魂に助けを願うよう言われたのは今まで聞いたことはないし、だれからも教えられなかったと司祭が言っています。新しいことです。取次ぎ者を新たに紹介します。
 リンボウの無垢な霊魂と赤ちゃんたちです。無垢な霊魂とは、理性がないまま大人になって亡くなった霊魂たちです。彼らは天国に行きやすい霊魂たちです。でも、原罪があるから、そのままでは天国にいけないのです。マリア様の功徳によって、取次ぎによって御意志によって天国に上げられるよう私たちは祈り、洗礼が司祭によって授けられたら天国に行くことができる霊魂です。彼らは天国に行ったら「神様の哀れみは永遠」と称えることができます。彼らは功徳は積んでいません。この世で生きて戦って功徳を積むことはしていないんです。理性において罪がないから、そのまま神様の哀れみに対して称えることだけできます。とっても独特な存在なんです。リンボウの霊魂を兄弟姉妹として皆さんに紹介します。皆さんに取次ぎをお願いしてほしいですし、誰からも愛されなかった霊魂たちをどうか愛してあげてください。天国へ行ったらとってもすばらしい仲間として繋がれます。それと、彼らには一人の聖人と1位の天使がそれぞれ一緒にいるんです。友情を持つすばらしい交わりになります。どうか諸聖人の通功を大切にしてください。天使や聖人の交わりは理解しやすいけれど、リンボウと煉獄は耳慣れていないかもしれないです。でも、彼らは助けてもらえるすばらしい霊魂です。それぞれの血筋のつながりがあるからです。皆さんの家族の中で、もしかしたら彼らは先祖だったり子どもだったりしてるかも知れないですよ。


☆☆☆マリー・マドレーヌの秘密!
新たなことがあかされる。

 実はまじめと思われたマリー・マドレーヌはちょうてんねんボケで、もう何をやらかすかわからんよお!!マリー・マドレーヌは小さい子がしゃべるみたいに話しているの。
 実はニャンコが大好きだっていうことを、今の今までみんなには紹介してなかったけど、終わりの言葉に「・・・だからニャーン」ってはなすんよ。ちょっと猫語で話してる人たちって見たことある?何から何まで「ニャン、ニャン」って言ってない?
 「猫は死刑!」なぁん、てみんなに言われちゃってる!特に司祭を困らせてる言葉の言い方なんよね。私はまだ言葉の全部にうまく猫語は混ざってないけど、無意識に「ニャン」って言っちゃってるときあってね、
 2月23日のときにこんなことあったの。映画(ベルナデッタの歌)を見ているときに映像を説明してもらっているのをテープに取りたくて録音したのね。そうしたらさ、もうニャンコ語がでちゃってるんよ。ひゃぁ、どうしよう。
 それといわゆる「幼児語」って言うのをはしゃいでいるとき、なにげなぁくはなしちゃうんよね。「オヤプミナパイ!」ってなかんじでね。
 わっはっはぁ!!みんなこんなマリー・マドレーヌを笑ってやってね!どうせ、小さい子の道だからさ・・・。ひたすら幼子になるべし。






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マリー・マドレーヌの自叙伝 

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2008年6月28日UP

著 者 マリー・マドレーヌ杉浦律子

発行所 箱舟の聖母社
 〒012−0106
 秋田県湯沢市三梨町字清水小屋14
 電話・FAX: 0183−42−2762
 Eメール: charbeljapan@nifty.ne.jp
 



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